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No.706 〔イエス伝〕(6) 「何をしてほしいのか」 2015.7.26

〔イエス伝〕(6)
何をしてほしいのか

 マルコによる福音書第一〇章46~52節を読むと、バルテマイという盲人の乞食の目を、イエス様がいやしておられるところがあります。
 想像をたくましくすると、このバルテマイという男は相当名の売れた、よい家柄の息子だったのではないでしょうか。少なくとも、この男の父親は世間にしられた人であったでしょう。この父親の名は分っています。テマイというのです。なぜといって、この男の名がテマイの子(バル)というのですから。
 バルテマイというのは、ですから名前じゃないのです。テマイの子、大分弁で言うなら、「テマイん方(かた)ん子」という具合でしょう。本人にも、何か本名はああったでしょうが、誰も彼を本名で呼ぶものはありません。昔近在でも人に知られた裕福なテマイ家、その家は今は没落して、そこの盲人の息子が、今は乞食をしている。子供からさえも馬鹿にされて、はやされる。
 「バルテマイ、バルテマイ」
 
 彼は、イエスの一行の通り過ぎるのを聞いて、自分の救われる機会は今を外して無いと思ったようです。一世一代の大声を出して叫びました。
 「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」
 この「あわれんでください」という言葉は一概に悪いとは言えません。他の人にとってはキリストの前における、くだかれた謙遜な心のあらわれであります。
 しかし、このバルテマイにとっては、毎日毎日つかっている、使いなれた乞食商売の常套語であります。
 
 乞食根性というのは、自分は何もしないで、ただあわれんでください、あわれんでください、と泣き言ばかり言っているのです。クリスチャンにもこういう人が多い、イエス・キリストの血によってあがなわれ、その罪を悔い、あわれみを乞い、そしてわずかにその日その日の糧を頂きつつ、豊かな他のクリスチャンを(何も物質的な事を言うのではない、霊的にも豊かに恵まれているクリスチャンを)うらやんで、あるいはもう及びもつかぬ事だとあきらめて見すごしている、そういうクリスチャンが多い。
 
 イエス様は、そういうクリスチャンが、さらに豊かになり、強くなる事を待っておられる。
 このバルテマイに接しておられるイエス様より、私共が信仰の乞食生活をつづける事を望み給わず、私達を助けて下さる、主の御方法を学びましょう。
 
(1)主は、まず私共のあわれな声に耳をとめ、立ち止まって下さる方だ。
(2)次に、主は私共を呼び給う。
私共は、ただすわっていないで、起ち上がって主のもとに行かねばならぬ。そのさい、古い乞食衣は捨てねばならぬ。
成功的人生の秘訣は、これまでの古い考え方をすてて、起ち上がる事です。
(3)主は言われる、「私に何をしてほしいのか」
バルテマイが、目をいやしてほしいのである事は、はた目にもわかります。しかし、本人の口よりはっきりと、「主よ、見えるようにしてください」という告白を、イエスは聞きたいのであります。
この点で、多くの神の子たちは誤っています。
「主よ、わたしをあわれんでください」
と乞食のように毎日泣くようにして求めていますが、しかし何を求めているのか、実は自分でも分かっていないのであります。
こういう人には最低のマナしか上げられません。
(4)「行け、あなたの信仰があなたを救った」
と主は言われる。
信仰を働かせることは、自力ではない。主に委ねます、主に委ねます、と言って、信仰を働かせない人がよくある。信仰が、あなたを現実に救うのです。
 (1977.8.14週報「キリストの福音」より)

※〔イエス伝(1)~(5)は?〕
1976年11月21日号の「キリストの福音」の後記に、今後は週報と、月刊の信徒向け冊子や伝道用冊子に分けて発行すると明記していますが、その後は週報のみ現存、さらに1977年4月より7月ごろの発行物は何も残っていません。当初は連絡事項だけだった週報にだんだんとメッセージを書いていくようになったのが4月までの状況でみてとれますが、はたして別冊子を発行したのかどうかはっきりしません。
ともかく1977年8月7日号の「週報『キリストの福音』」から、週報とメッセージ発行物が統合されたものが現存、このスタイルは後に週報の中ページを「日岡だより」として別紙で独立させるまで続きました。イエス伝(1)~(5)が掲載された印刷物は不明で、いずれにしても紛失しています。


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by hioka-wahaha | 2015-07-30 20:07

No.705 「イエス・キリストは本当に復活されたのである!」 2015.7.19

説教抄録
「イエス・キリストは本当に復活されたのである!」
(一九七七年四月十日イースター礼拝メッセージ)

(つづき)
★そうですね、さきほどの聖書から引用してうまく言い表して下さい。
会衆の一人「死人の復活も又ひとりの人イエス・キリスト様によってこなければならない。イエス・キリスト様にあってすべての人が生かされるのである。」
★アーメン、そうです。イエス様の復活がなければ、私たちの新生はありえません。イエス様にあって、私たちは生かされるのです。……ローマ書六・3~5を黙読して下さい。
会衆「…………………」
★ただいま黙読したローマ書六・3~5のところでパウロ先生は、私たちの受けるバプテスマを、いろいろにその機能を説明しています。何と書いてありますか、気のつく程に言って下さい。
会衆1「キリスト・イエスにあずかるバプテスマです。」
会衆2「イエス様の死にあずかるバプテスマです。」
会衆3「そのバプテスマによって彼と共にほうむられたのです。」
会衆4「そして又、新しい生命に生きるのです。」
会衆5「イエス様の復活の様にひとしくなるのです。」
★そうです。今日のすばらしい復活節の日にバプテスマ(洗礼)を受けるとは、何とすばらしい事でしょう。洗礼式とは、私達の十字架と復活の式なのですよ。
 バプテスマは、本当は水にドブーンと沈められるのです。この教会では洗礼漕がありませんから(略式にして)滴礼といって、水をちょっと頭につけるだけです。しかし、この洗礼を受ける時、洗礼を受ける人も、一緒に見守っている人も、神様の生命の水にドブーンをつけられて、古い生命が一度死に、そして新しい生命によみがえって水の上に顔を出すという光景を心に描いて下さい。
 みなさん、頭まで沈められると、息はどうなりますか。
会衆「息は止まります。」
★人間は息が止まると、死にますか、生きていますか。」
会衆「死んでしまいます。」
★本当に死んでしまった人は、もう一度水の上に顔を上げさせてもらったら息をしますか。」
会衆「息をしません。」
★なぜ息をしないのですか。
会衆「死んでしまっているから。」
★だれからか、新しい息をもらったら生き返るかねえ。
会衆「生き返ります。」
★ヨハネ三・5を読みましょう。
会衆「イエスは答えられた、よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。」
★霊という言葉はギリシャ語で何と言いますか。
会衆の一部「プニューマです。」
★そうですね、プニューマには他にどういう意味がありますか。
会衆の一部「はい、空気、風、息です。」
★よろしい。人は死んでも、イエス様から新しい生命の息をもらいますと生き返って、永遠の生命をもらいます。神の国にはいります。今日、神様を信じて、バプテスマを受ける人は、死んで生き返らぬ人になるのですか?
会衆「いいえ、ちがいます。」
★ちがいますね。今日バプテスマを受ける人は、新しく生れて、神の子供になります。神の国の民になります。今日、神の国の人口がふえます。それでは、今日バプテスマを受けられる方々は、前に出て下さい。
 (1977.4.17週報より)


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by hioka-wahaha | 2015-07-23 08:47

No.704 イエス・キリストは本当に復活されたのである! 2015.7.12

説教抄録
「イエス・キリストは本当に復活されたのである!」
 
(一九七七年四月十日イースター礼拝メッセージ)
★人間はみな死ぬ。死んで生き返る人は一人もいない。しかし、たった一人、本当に死んで、地獄にまで下っていって、生きて帰ってきた人が、ただ一人いる。それは誰ですか。
会衆「はい、それは、イエスキリスト様です。」
★イエス様は、どんな死に方をなさったのですか。
会衆「十字架にかかって死にました。」
★それは死刑の十字架ですね。それは罪人の死ぬ死に方ですね。イエス様は罪人だったのですか。
会衆「いいえ、イエス様は全く罪汚れのない神の子であられました。」
★イエス様は罪人でも悪人でもないのに、どうして、そのようなひどい死に方をなさったのですか。
会衆「イエス様は、私達の罪の為に身代りになられて、神様の罰をうけられ、罪人の様になって十字架にかかられたのです。」
★その通りです。その事を証しする聖書の御言葉を知っていますか。
会衆 答なし
★それでは二、三教えてあげましょう。ルカ二二・37の『』の中を読んでください。
会衆「彼は罪人のひとりに数えられた」
★この旧約聖書の言葉はイエス様の上に成就されました。イエス様が二人の犯罪人と同時に十字架につけられたのは、神様の御言葉にかなった事でした。
★次にガラテヤ三・13の「」の中。
会衆「木にかけられる者は、すべてのろわれる」
★木とは何の事ですか。
会衆「十字架の事でしょうか。」
★そうです。十字架の木の事です。十字架につけられる者は、神にのろわれるのです。私があやまって無実の罪で十字架につけられ、あるいはパウロやペテロのように殉教の十字架につけられる時、果して神にのろわれるでしょうか……。いいえ、そんな事はありません。しかしイエス様は、罪人にかわり、罪人として十字架にかかりますから、イエス様はこのガラテヤ三・13の聖句にあるように……みなさん何と書いてありますか。
会衆「――のろわれる!」
★おお何とひどいことでしょう。神様はその最愛のひとり子、罪も汚れもない、至愛完全のイエス様をのろわれるという。そのわけはコリント第二書五・21を読んでください。
会衆「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」
★この御言葉を、みなさん一人一人にあてはめ、また「彼」という言葉をはっきりと名指ししてもう一度読んで下さい。
会衆「神は〇○○○(各自の名)の罪のために、罪を知らないかた(イエス・キリスト様)を罪とされた。それは、〇○○○(各自の名)が、イエス・キリスト様にあって神の義となるためなのである。」
★アーメン、ハレルヤ。
 さて、みなさん、イエス様は死んで地獄に行ってそのままずっと地獄にいましたか。
会衆「いいえ、地獄に勝って、三日目によみがえりました。」
★それは本当ですか。
会衆「本当だと思います。」
★「思います」では困りますよ。本当なのですね。
会衆「本当です。」
★それでは聖書を開きましょう。ルカ二四・34。
会衆「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」
★そうです。「本当に!」です。次にコリント第一書一五・20。
会衆「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」
★そうです、この冒頭の句に目をとめましょう。「しかし事実――」。イエスの復活は事実であります。みなさん、賛美しましょう。
一同「ハレルヤ」
★只今読んだコリント第一書一五・20の次、21、22をつづけて読みましょう。
会衆「それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」
★私達の罪と死は、生れながらにして私達にそなわっています。それは誰が原因ですか。
会衆「アダムです。」
★私達は、いかにもして、この死の体より救われたいと願いますが、それは誰によって救われますか。
会衆「イエス・キリスト様によってです。」(つづく)
 (1977.4.17週報より)


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by hioka-wahaha | 2015-07-17 15:34 | 日岡だより

No.703 神の国をつくり出す人/石も叫ばん 2015.7.5

神の国をつくり出す人
 
 古い自我を否定するということは、
 新しい我を肯定するということです。
 
 新しい我を肯定する人は、
 来たるべき新しい世界を信じるのです。
 
 その人は、信仰によって生れた新しい我
 信仰によって生れた新しい我を
 絶対肯定して
 大胆不敵に生きるのです。
 
 神の国を待望しつつ…………
 神の国をつくり出すのです。
 (1977.8.14週報「キリストの福音」より)
 
 
説教抄録
  「石も叫ばん」
 
(四月三日、ルカ伝十九章28~40による礼拝説教)
教会暦によると、四月三日は、しゅろの聖日、イエス様のエルサレム入城の日です。この日を記念して、ちょうどその箇所をテキストに取り上げました。
〔28節〕ご苦難と十字架の待っているエルサレムにむけて、イエス様は先頭に立って行かれる。私たち人生の旅において、いかなる苦難多き道であっても、主の先立ち行き給う道を行きたいものである。
〔29節〕もしその先頭の主より先に弟子をつかわし給う時には、そこに既に主の先見の目が行き届いている事に注意したい。そして弟子たちの為すべき業は、すでに準備されている事に安んじたい。
〔30節〕まだ誰も乗った事のないロバの子。労働に供されず、世の塵にそまず、然しつながれて保護し束縛の中にあるロバの子は、この度卒業して就職していくM君などに似ているね。いよいよ解かれた社会に出るわけだが、誰の用にあたるか、そこが問題。せっかく杭から解かれたが、金や世間の悪習に再びつながれてはならぬ。
〔31節〕誰の用に用いられるのか、主の用にあたるのである。どんな小さい仕事でも主の御用と思って忠実に果たそう。
〔32節〕本当に人生を見ると、「果してそのとおりであった」と、聖書を見直すような事ばかりである。特に、最近の世界の終末的様相には……。
〔33節〕ロバの子の持ち主は、おどろいた事であろう。突然二人の者が来て無断で、そのロバの子を連れて行こうとするのであるから。時折、人は健康や富や地位を神様に持って行かれそうになってあわてる。その時、この持ち主たちのようにおとなしく承知するかどうか。
〔34節〕弟子たちは、いろいろと言い訳をしなかった。イエス様の言われた通り(マルコ十一・6)に、「主がお入り用なのです」と、簡潔なる返事をした。これは、時に誤解を生みそうな時の、主の弟子の用うべき返事の模範である。主の言われた通りに言う――、これは伝道トークス(話法)の基本ではなかろうか。
〔35節〕この時の仔ロバの得意を思うべし。彼は値打ちなき小さき愚かなるロバである。(西洋ではロバは愚かさの代名詞)ただ、ただ、上にお乗せしているイエス様の故に尊ばれたのである。主の用にあたるものの有難さを思う。
〔36節〕上着を道にしくのは、王をむかえる態度である。王というにしては、乗る馬のみすぼらしさよ!
〔37・38節〕しかし、弟子達は無邪気に喜んだ。これでもう我が天下来たれりと、本当に王様をむかえる気持で喜んだのであろうか。私は思う、この時、不思議な霊的感動がおこったのであろう。われしらず、内よりこみあげる喜びに賛美の叫びをあげたのであろう。聖霊の迫りである。
〔39節〕純真な信徒の霊的叫びは、いつも職業宗教家の批難をあびる。異言・霊唱が冷眼視されるのもこれに似る。
〔40節〕この弟子達を弁護されるのはイエス様である。真に、口の重い私ですらが、かくも主を賛美するのであれば、もし私が黙れば、あの沈黙の石が叫ぶであろう。然り、石のごとき私すら今かくもハレルヤと声高く叫ぶのであるから。
〔附記〕このロバの子を私達の「心」に例えてみたらどうだろう。「心」を解く者は誰か。「心」を解いて誰につかえさせるか。あやまった類似宗教や集団に「心」をうばわれるな。
 (1977.4.10週報より)

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by hioka-wahaha | 2015-07-09 09:06 | 日岡だより