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No.702 現在に生きる信仰/火よ、燃えよ!/信仰を築き成長させる十則 2015.6.28

現在に生きる信仰
 
 過去を感謝することはすばらしい事であります。
 過去の自分をあわれんで
 後悔したりグチを言ったり
 それは一文の価値もない。
 
 未来に希望をおく事はいい事です。
 男はその故に雄々しくなり
 女はそれで美しくなる。
 
 しかし現在を厭うて
 未来の空想に逃れるなら
 あなたは卑怯者です。
 
 信仰とは、現在の事です。
 現在、起って歩く事です。
 祈って、信じて、前進するのです。
 (1977.8.7週報「キリストの福音」より)
 
 
 
 
火よ、燃えよ!
 
 火を手中におさめて、人間は動物の中で王となったと、学者は言う。その当否はともかく、火とは不思議なものである。
 火は私たちをあたためる。寒さより守ってくれる。
 火は闇黒の中の道しるべである。目あてにもなる。
 火は物をてらす。失せたものを探してくれる。
 しかし、私のきたない手や顔をあらわにしてしまうのも火である。
 火は罪人をあたため、正しい道を示し、失せたる宝をさがし出す。しかし又、火は罪人の罪をえぐり出し、神の前に罪を指摘する。
 その罪を全く焼きつくし、肉を焼きつくすのも火である。聖霊の火よ、下りたまえ。
 (1977.8.7週報「キリストの福音」より)
 
 
 
信仰を築き成長させる十則
 
 一、主日礼拝に必ず出席する。その他、教会の定期的集会にも出来るだけ出席する。これが信仰を築く第一歩である。
 二、日々聖書を読む。神の御言葉は、あなたの足のともしび、また道の光です。
 三、日々祈ること、聖書を食事にたとえれば祈りは、呼吸にたとえられます。祈らぬクリスチャンは息をせぬ人間に似ています。絶えず祈る事は、聖書のすすめ。以上の三点が信仰生活を守る為の基礎です。
 四、肉体の人間も食べて寝ているだけでは、健康な体にはならない。信仰の健康の為には、伝道が大切です。伝道といっても大袈裟に、考えず、日常の生活の中で信仰を告白し、証しすることが伝道の手始めです。そして、教会の集会にさそいましょう。
 五、次に信仰成長のために、是非おすすめしたい事は什一献金(収入の十分の一)の励行です。什一献金は実行してみると分りますが、出来ない事はないが経済的に容易ではない額です。神様はなにも貧しい人をいじめるつもりではなく、持っている物を取り上げてしまうつもりでもありません。「什一献金で私を試してみなさい。私は天の窓をひらいて溢るる、恵みをその人にそそぐ」。と神は言っておられます。(マラキ三・10)。実に什一献金は、クリスチャンの経済的祝福の道であります。
 六、信仰の為の良い指導書や、キリスト教古典を読みましょう。図書の選択は牧師に相談すると良いでしょう。良い読書は、良い食物(聖書にたとえて)のためのよいビタミンであります。
 七、日々賛美を周囲に迷惑なければ、声高らかに歌いましょう。たとえ少人数でも信徒が集まった時は必ず賛美をしましょう。
 八、多くのクリスチャンが精神の強化を忘れているか、無視しています。あるいは律法的なガンバリズムに堕しています。霊の救に重点をおかずして精神強化を忘れるのは、信仰の故に肉体の健康を無視するのに似ています。聖書的精神強化法としての映像思念・御ことばコールを励行しましょう。
 九、教会の係、役目、仕事に奉仕下さい。教会の奉仕には、不思議な喜びがあるものです。そして、一人で黙々とやって人の分までしてしまうというより、少しでも人をさそい、人と共に奉仕し、そして係などの務めは後継者を早く見つけて下さい。
 一〇、互に集いましょう、電話しましょう、手紙をかわしましょう。信徒の交わりこそ信仰を冷さぬ大保温器です。
 (1977.4.10週報より)
 
 


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by hioka-wahaha | 2015-06-30 23:00 | 日岡だより

No.701 聞く耳のある者は聞くがよい 2015.6.21

聞く耳のある者は聞くがよい
 
 イエス様は、群衆にむかって、よく譬話をされました。種まきの譬も有名です。
 「種まく者が、種まきに出ていった。道ばたに落ちた種は人に踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たけれど、日にあたって枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に育って、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って三十倍、六十倍、百倍の実をむすんだ」
 以上のように語ったのち、イエス様は声をあげて(真実心と熱意をこめて、ということです)、こう言われました。
 「聞く耳のある者は聞くがよい」
 
 勿論、だれも肉の耳はもっていましたから聞くだけのことは、みんな聞いていました。然し、イエス様が群衆の一人一人の心に語りかけたい真意は、誰が聞いてくれるでしょうか。
 
 譬という文字の言を土に入れかえれば壁という字になります。譬はたしかに一種の言葉の壁であります。殆どの人が分ってしまったように思う。しかし実はその意味をあいまいに捉えているだけで、つきつめて問いなおされればよく分らない。譬話は、そういう反応をおこします。
 よく考えれば、聖書も、この自然も、私たちの人生も、一種の「譬」であります。おおよそ分っているようで、実はさっぱり分らないのであります。
 
 この時、弟子たちは、「この譬はどういう意味でしょうか」とイエスに質問したと、聖書に出ています。これは弟子たちの素晴らしい態度であります。
 人間はしばしば知ったかぶりをするものであります。それ程でなくとも、この問題が自分には分らぬ、ということが分らぬのであります。それで、愚者であるのに知者のつもりでいたり、あるいは知者の格好をしたりします。人間は、自分の無知を知る事が知識のはじめである(ソクラテス)のであります。
 
 イエス様の言葉は、学者の発表する研究論文や人生の先輩諸氏の経験談・処世訓の比ではないのでして、神のふところより出る生命の言葉なのであります。これを本当に聞けば(心の底に受け入れれば)、聞く人の新しい生命となり、その人を生き返らせます。
 故に、「聞く耳のある者は聞くがよい」―――
 
 人間の二五%は、イエスの言葉を聞いて、聞きません。馬耳東風(こんな言葉ご存知ですか)というやつです。
 次の二五%は、表面意識では受け入れるのですが、底に「頑迷な自己中心」という岩があって、根をおろさせません。それで、信仰の根性がありません。忍耐ができません。ちょっとした試練にも敗退してしまいます。
 次の二五%は、この世の快楽の誘惑によわいのです。あるいは金や生活の心配で、いつしか御言葉の成長をふさぐのです。御言葉の成長とは、私どもの心の中に、キリストの言葉が居住し滞在し増えひろがる事です。初期の頃、少し気をつけて草やいばらを刈り、御言葉の成長を助けてやりさえすれば、あとは御言葉自身の力で、雑草やいばらを圧倒します。
 良き地とは、御言葉(キリストの言)がふさがれていない心です。あらゆる雑草やいばらの思想を御言葉の剣で刈りとりなさい。そして、しっかりと心の深みに御言葉をたくわえなさい。
 三十倍、六十倍、百倍の実をむすぶ生涯とは、何とすばらしい生涯でしょう。
 能力と祝福にみちた人生を望む者は、このイエス様の御約束に来るべきです。
 そういう人は、イエス様の言葉を聞く人の中で二五%しかいない、と主は言われます。勿論この数字は一つの譬ですけれど、具体例としても、同じような数字が出て来そうです。あなたは、どの二五%のグループに属しますか。
 
 ××君は、毎夜、毎朝、私どもを愛し、救い、成功せしめ給う主を見上げて、御約束の言葉を「叫び(コール)」しています。決して、この言葉を不信や不安や怠惰でふさぎません。確実に、日々の人生がかわってきます。消極心がなくなって、遠慮なくどこにでも行けます。確信ある生活になります。
 さあ、みなさん、三十倍、六十倍、百倍の実をむすびましょう。
 (1976.11.21「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-06-23 16:51 | 日岡だより

No.700 あなたのパンを水の上に投げよ/み言葉をたくわえよ 2015.6.14

あなたのパンを水の上に投げよ 
 
 イエス様の生涯に、たびたびその名前を出す美しい湖、それはガリラヤ湖です。この湖は、上流から流れてくるヨルダンの清流によって、養分ゆたかな魚の多い湖であります。この湖から、再び水は流れ出して南に下って行きます。下流には有名な〝死海〟があります。この湖は塩分が多くて生物が一切棲んでいません。それで〝死海〟というわけです。なぜでしょうか。そこから水の流れ出る出口がなく、太古の昔から、上流から流れ込んでくる水を貯めこんでいるだけなのです。そこで、水分は蒸発し、そして塩分が残り、現在のような恐ろしい〝死海〟になってしまったのです。
 かつて、パンディタ・ラマバイという女の人が、インドで孤児院を経営していました。彼女はお米のたくわえが少なくなるたびに、孤児院の少女たちを町に送り出して、手持ちの食糧を、貧しい人達に分けてやりました。パンディタが、こうするたびに、神様はつねに、孤児院の必要をみたす十分なお米を与えて下さったという事です。
 神は喜んで施す人を愛して下さる―――(第二コリント九・7)!
 ある人が、ギデオン聖書協会の寄付を乞いに、ある事業家を訪ねていた時の事です。その事業家は二五〇ドルの小切手を切ろうとしていました。そこに電話がかかってきました。電話をきって彼は言いました。
 「私の事業は大損害をうけたようです。立ち直れるかどうかは、私どもの努力と、神様の御慈愛にかかっています」
 「それは、大変な事になりましたね」
 「ついては、さき程の寄付の話ですが、少々金額を訂正したいのですが」
 「勿論そうでしょうとも。どうぞ、どうぞ」
 そこで、あらためて切りなおしてもらった小切手をみて、客の方はおどろきの声をあげました。
 「何かの間違いじゃないでしょうか。頂いた小切手は一〇〇〇ドルですが」
 「いいえ、間違いじゃありません。あらためて、天国銀行に永遠のつきない預金を振り込ませてもらいました。さァ、次の成功を信じてがんばりますよ」
 これは、アメリカにあった実話ですが、神様にささげ、社会にほどこす、放下の道を知らないと、死海のように、よどんで生命をおし殺してしまう人生になってしまいます。
 あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである(伝道の書一一・1)!
 (1976.11.14「キリストの福音」より)
 
 
 
み言葉をたくわえよ
 
 聖書の言葉には、不思議な力があります。かと言って、呪文のように唱えれば、霊験あらたかな御利益がある―――というような眉つばものの話ではありません。
 「御言葉には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブ一・21)
 「あなたがたが新たに生れたのは、………神の変ることのない生ける御言葉によったのである」(第一ペテロ一・23)
 「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(コロサイ三・16)
 「わたしはあなたにむかって罪をおかすことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」(詩一一九・11)
 聖書があなたに約束する福音の言葉、救いの言葉、はげましやさとしの言葉を、口をひらいて告白しなさい。必ず、それはあなたのうちに実在となり、あなたをみ言葉に似た人にします。
(1976.11.14「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-06-17 16:34 | 日岡だより

No.699 人生に対する神の計画/いのちいのちの人生 2015.6.7

人生に対する神の計画
 
 Q「私たちの人生の目標は何でしょうか」
 A「私たちは神の作品なのです。神様は私たちを、良い行いをして日をすごすようにと、備えて下さったのであります(エペソ二・10)」
 Q「そうでしょうか。生れながら盲人であるというような、悲惨な人生でも、神様の備えて下さった人生と言えるのでしょうか」
 A「今ではまだ分らないこともあります。しかしあとで必ず神様の御心は分ります(ヨハネ一三・7)。神様のご計画に従って召されているものには、すべての事が相働いて益となるのです(ロマ八・28)。私たちにおこり大小の事は一切、神の御わざがあらわれる為でありますから(ヨハネ九・3)」
 Q「神様の私に対するご計画とは一体どんな事ですか」
 A「あなたがたの内側に働きかけて、まず願いをおこさせます。そして、それを実現に至らせます。それは神様の良しとされる良い行いでありますから、あなた方は邪悪な時代のただ中にあって、傷なき神の子となり、いのちの言葉をかたく持って星のように輝くようになるのです(ピリピ二・13~15)」
 Q「そんな素晴らしいことが本当に、私たちの中に実現するものでしょうか」
 A「そうですとも。あなたがたの中に良いわざを始められたかた(神様)が、キリスト・イエス様の再びこの地上に来られる日までに必ず完成して下さるのですよ(ピリピ一・6)」
 (1976.11.7「キリストの福音」より)
 
 
 
いのちいのちの人生
 
 生れかわりたい。すばらしい人間になりたい、とは思いませんか。
 
 あなたの、こうなりたいという、ぜひお望みの御自分の姿は、どんな姿ですか。
 
 お金。けっこうですねえ。あるに越したことはありませんよ。
 ―――お金ができたら、次に何が要りますかなあ。
 
 女。なる程ねえ。奥さん以外に、ですか。それは絶対いけません。聖書では性的罪は他の罪と違って、その人自身の人格を破壊する極度な罪とみています。ほかに、もっと切実にほしいものがありませんか。
 
 健康。なる程、これは尤もですね。健康でなくては、ほかにどんなものが、かなえられても面白くありませんからねえ。
 健康といえば、もっと突っこんで言えば、生命という事になりませんか。
 
 え、生命と言うたかて、そうそう長生きせんでもよい。パッと威勢よく、面白く、派手にやればよい?
 そうですね。生命、生命というても、気息えんえん、貧乏たらしゅう長生きしても、あきまへんねえ。
 
 つまりこうではありませんか。短こうてもよい。生命がはりきっているような、いきいきした人生がよい。
 さんせいです。
 
 自分かってな言葉を使って悪いですけれど私はこれを「いのちいのちした人生」という風に言うのです。
 
 分るでしょう。
 同じ金でも、いのちいのちした金もうけがよいのです。ケチケチした、しみったれた、死に死にの金もうけは、嫌いなんです。
 そして、いのちいのちした金づかいがいいのです。
 御さんせい頂けますか。
 
 仕事でも、勉強でも、趣味でも、信仰(!)でも、いのちいのち、したのがよいですね。
 はっはっはっはははは。
 
 人生百般、仕事でも、家庭でも、あそびでも、労働運動でも、そして信仰でさえも、いのちいのちした人間でありたいですね、おたがい。
 イエス・キリストのいのちが、それです。
 イエス・キリストのいのちを迎え入れませんか。
 そうすると、あなたは生れかわります。すばらしいいのちいのちの人になります。
(1976.11.7「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-06-11 14:45 | 日岡だより