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No.698 キリストに似た人になれるか/「命がけで育てる」 2015.5.31

キリストに似た人になれるか
 
 どんな時にも、動揺することなく、愛と喜びと勇気に満ちた心。そんな心を、持ちたいとは思いませんか。
 積極的で、明朗で、てきぱきして、あたたかい。そういう人物に、なりたくはありませんか。
 患難に処しては、ぐち一つ言わず、英雄的に耐える。八方ふさがりの時にも、口笛を吹いて出口を探っている。突然の破局にも逆上しない。そういう大人物に、もしもなれるものならなってみたい。―――とは思いませんか。
 「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と聖書(ピリピ書二・5文語訳)にあるのですが、もしキリストの心を、私どもの心に移しかえられるものなら、それが出来そうな気もしますね。
         ×
 本誌十月十七日号の三頁(No.696「告白の信仰」)を、もう一度お読みください。ここには、大事なことを書いておきました。聖書の言葉は神の言葉であります。神の言葉は神の心であります。神の心はイエス・キリストの心であります。聖書の言葉をして、あなたの心を占領せしめなさい。そうすれば、あなたの「すべての思いをとりこにし、あなたをキリストに服従せしめ」、あなたの心を、キリストの思いでみたしてしまいます。そして、「心の深みまで新たにされて神にかたどって造られた新しき人を着る」ことができます。それは正しく、私たちの中に、「キリストの形が生れる」という事であります。
(これは一挙にできる事ではありません。人が、罪ゆるされて神の子としての国籍を得るのは、悔改めの時の一瞬の事ですが、神の子らしく成長して、キリストに似た性格と品性を得るのは漸次の事であります。)
 (1976.10.31「キリストの福音」より)



子どものしつけ方教室) (連載おわり)
 
  「命がけで育てる」
 
 最初、子供のためだと言って商売をはじめて、その後商売がいそがしくなると
 「母ちゃんはこんなに忙しいのに。お前あっちに行っときッ」
 そう言って、千円札をポーンとやる人がいます。こんな風に育ったら、ひどい非行に走らぬだけでも、感謝せねばなりません。
 それかと言って、あまり家にだけとじこもっていても、世間知らずの独りよがりな奥さんが出来上がってしまうようですから、家事を第一に考えての上での共稼ぎやパートをされるのがよいかと思います。
 反抗期の頃の子供の育て方は実にむつかしい。その時期をうまく通過しているようでしたら、これは子供の出来がいいのであって、全く神様のおかげ。決して親のこちらが出来がいいのではないのだ、という位の心でいましょう。全く、ありがたい事です。
 もし、子供の様子がおかしかったら、よく祈って対処を考えなさい。対処は恐る恐る、遠慮しいしい、物わかりのよい親の顔をしてやってはいけません。思い切ってやりなさい。子供を育てるのは親の大業、第一の任務です。大人物に育て上げれば他のどんな大事業をしたのにもまさるのですから。
 大体、みんな子育てを片手間にしすぎるのです。テレビを見ていて、子供の問いかけに気づかないなどというのは、親の失格です。子供が悪くなったら(体でも同様ですが、心や行動の時は尚更)、二、三週間断食祈祷してでも、決死の覚悟で子供の心を正しい方向にかえさせて頂く。そのくらいの熱心さがいります。そういう熱心と真実をもってあたれば、それに気づかぬ子供はありません。
 そうです。子育ては、親が生命をかけてやって当然の、又やり甲斐のある事です。
(1976.10.31「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-05-31 23:00 | 日岡だより

No.697 信仰第一歩/キリストの鮮血の力 2015.5.24

信仰第一歩
 
 万人が罪人である。
 あなたも、その一人である。
 あなたの罪こそ、世界最高!
 
 こう言われて腹の立たぬ人はない。
 こう言われて、誰も承知できぬでしょう。
 これが、心底からなっとくできるのは、キリストの愛にふれた時です。
 とは言うものの、御自分の心のみにくさ、弱さ、罪ふかさ、且つ罪ありと自覚しようとせぬ傲慢な罪ぶかさ、―――に目ざめて下さい。
 イエスの十字架は、まずこの万人の罪にかかわります。
 心をひるがえして、イエスの前に来なさい。イエスの十字架の血は、あなたの罪をきよめます。
 イエスは、あなたのかわりに、あなたの罪と病を身におわれた。十字架の死は、あなたの死です。
 これが、キリスト教の第一歩、また中心です。
 (1976.10.24「キリストの福音」より)
 

キリストの鮮血の力
 
        一、

 今日、この原稿を書いてから、大分銀行に行くことになっています(十月二十一日)。大分銀行のロビーで、日本聖書協会主催の聖書展が開かれていますので、その会場係の当番に行くのです。あの広壮たる大銀ビルのロビーで、聖書展を開く事の意義を思います。
 銀行などという処は、表面はきれいでありますが、現代の資本主義社会の中では、白く塗られた墓(マタイ二三・27)のようなものかもしれません。共産主義国家の党とか××委員会よりは、暴力的なものがなくて幸いですが、それだけに表面を美しく糊塗された!という感じはぬぐえません。
 西を見ても、東を見ても、人間のつくる機械の中に巣食うサタンの深み(黙示録二・24)に驚かざるを得ません。人間の住む処、すべてきれいごとではすみません。西であっても東であっても、その社会をきよめるのは、神の力であります。ソ連よりも、中国よりも、アメリカを高く買うのは、アメリカ人がソ連人や中国人よりも出来がよいからでもなく、アメリカにソ連や中国よりも、悪事が少いからでもありません。ただそこに、神の言が聞かれる自由がある、その事だけに望みをおくのであります。
 大分県の「不正の富」(犯罪的不正という意味ではない。ルカ一六・11参照)の中枢ともいうべき大分銀行のロビーで、聖書展の開かれる事の意義は、甚だ大きいのであります。

        二、

 私たちの戦いは、この世の戦いではありません。この世の深みにあって魔手を働かせているサタンと戦うのであります(エペソ六・12)。この戦いの特長は
(1)まず霊的相より見れば、すでに神の子キリストは、既に勝利を得ていられる(ヨハネ一六・33、第一ヨハネ三・8)。故に、悪魔は既に破れたる敵である。
(2)しかし、天を追われ地に支配力をもってうごめいている悪魔の力は、かえって地上では甚だ盛んです。
(3)ひとたび、イエスを信じ、その血の力にあがなわれたクリスチャンの霊は、直接には悪魔の攻撃力には敗れません。
(4)しかし、悪魔のねらうクリスチャンとの戦いの戦場は、肉と、その心であります。まず、五感をもって誘惑し、もっともな知的論理で悪魔の知的世界にひきずり込み、そして、その意思をなえさせます。意思はすぐよろめきます。そして五感よりくる感情の海で、人は悪魔にやぶれるのです。

        三、

 「兄弟たちは
小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって彼(悪魔)にうち勝ち………」(黙一二・11)
 悪魔にうち勝つためには、人間の精神力や熱意には一向に役立ちません。悪魔にうち勝つ力は、
(1)小羊(キリスト)の血
(2)彼ら(クリスチャン)のあかしの言葉
 の二つであります。
 活(い)けるキリストの鮮血の力。これは彼の生命とも言われ、キリストの霊とも呼ばれ、御名ともよばれます。キリストが流された鮮血が、今も私どもの中に復活の血汐として流れて私供を回復せしめてくれる、時々刻々生き返らせてくれる。故に、それは絶えざる潔めであり、そしてダイナミックな勝利なのです。
 この鮮血の力(Blood dynamies)を、霊的内面にだけとじこめ、ひよわなクリスチャン生活を送っているのが、多くのクリスチャンであります。この鮮血の力を、心(魂)の世界に応用し、悪魔と戦いましょう。その武器こそ御霊の剣(御言葉)(エペソ六・17)であります。
 御言葉をあかし(告白)しましょう。御血汐の力を声高く叫んで、悪魔をたたき出しましょう。たたきのめしましょう。
(1976.10.24「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-05-27 15:34 | 日岡だより

No.696 信仰アドベンチャー/告白の信仰 2015.5.17

信仰アドベンチャー 
         
 昨夜(十月十一日)、テレビで映画“ポセンドン・アドベンチャー”を見た。評判の大スペクタクル映画である。主人公が牧師なので、その興味もあった。しかし、見ていて失望した。主人公いわく「坐って祈っていて、何になる。まず努力することだ。それが祈りだ」―――、ひと昔まえの、大松監督式なせばなる、おれについてこい、だ。
 あれが大衆が喜ぶ英雄である。大衆は英雄を待望する。ヒトラー、スターリン、毛沢東。こういう人達の手では、本当の救いは来ない。モーセは、六十万の民をエジプトよりカナンの地に導いた。しかし彼は英雄ではない。事毎に、神に道を聞き、神に従い、神の前にも人の前にも謙遜であった。
 と言うものの、虚弱体質な信仰のはびこる昨今のキリスト教会だ。こういう英雄主義的映画を見て心を励ます事もいい事かもしれない。
 大体、信仰という言葉に、二重の意味がある。罪のゆるしを与えるキリストの十字架と復活への信仰。この信仰は非常に内的なものだ。何ものにもくつがえされぬ強じんな信仰である。ルター的“信仰のみ”の信仰である。
 けれど、この信仰のみに生きているクリスチャンに、多くのひよわなクリスチャンを発見する。それは「からし種一つぶほどの信仰でも、山を移すことができる」という類の、一種の物理的信仰がないからだ。イエス様が十字架にかかられる前に、何度もこの信仰を弟子たちに奨励した。だから又、彼らの不信にたいへん憤られた。「祈ったことはすべてかなえられる」という、このポセイドン物語以上のアドベンチャー(心おどる冒険)に、信仰心をもやそうではないか。
 (1976.10.17「キリストの福音」より)



告白の信仰
         
        一、
 あなたが「私には信仰がありません」と言いはじめる時、その瞬間、疑いが巨人のようにおこって、あなたを圧倒するのです。
 あなたは、自分で少しもきづかないでしょうが、あなたの発する自分の言葉で、大きく支配されるのです。
 旧約聖書の箴言に、「あなたは、あなたの口の言葉によって捕らえられ、あなたの唇の言葉によって、わなにかかる」とあります。箴言六・二私訳。
 あなたが、自分の失敗について語る時、その失敗があなたを捕らえてしまいます。
 あなたが、恐怖の言葉を語るとき、その恐れはあなたを追いつめます。
 恐れていたものが、あなたにのぞみ、あなたの身に及びます(ヨブ三・二五)。

        二、
 心をきめてください。私たちは「神の言葉」で、私たちの心を満たさなければなりません。神の言葉が、私たちの性格の一部になるまでに告白しなければなりません。勿論、願わしきは、私の性格のすべてが、神の満ちたりたるまでに至ることですが(マタイ五・四八)。
 ここでいう告白とは、いわゆる罪のざんげではありません。「言いあらわす」ことです。告白という言葉の原語は「同じ言葉を言う」ということです。神のみ言葉に対し、それに同意し、承認し、さんびして、同じ言葉で応答するということです。

        三、
 絶えず、聖書のみ言葉を語りましょう。
 クリスチャンの持つ危険なあやまちは、聖書を通常の本と同一視することです。聖書は神の霊感によって書かれた「唯一の書」であって、そのみ言葉は神の心であります。
 もし今も尚、残っているとすれば、キリストの用いられたハンカチや、スプーンでもあれば大したものでしょう。しかし、最もかぐわしいキリストの遺品は、その心であります。そして、その心は聖書のみ言葉に、ありのままに残されています。
 ですから、「キリストの心を心としなさい」(ピリピ人への手紙二・五)との聖書の訓えを、まっとうにうけ入れるには、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせる」(コロサイ三・一六)訓練が最も大切であります。
 正直に言って、聖書のみ言葉は、かたい人間の心には、バンヤンが言ったように「棒をのむが如く、砂をかむが如く」味気のないものであります。しかし、落胆せずに、くりかせし、大声で、聖書の言葉を叫びなさい。必ず、み言葉はあなたの中に沈潜し、あなたの心の中にとどまり(ヨハネ一五・七)、あなたのすべての思いをとりこにし、遂にはあなたをキリストに服従せしめ(コリント第二書一〇・五)、心の深みまで新たにされて、神にかたどって造られた新しき人(エペソ四・二三、二四)、即ちキリストの形があなたがたの中に生れる(ガラテヤ四・一九)のであります。
 たとえ、熱い心で信じているみ言葉でも、そのみ言葉を我が身において実現させようとせっかく意志してみても、我が肉に他の法則が宿っていて、その善なる意志を無力にし、私を絶望せしめることがしばしばです(ローマ書七・一八)。心に信じても、口に言い表さないと、内なる義が、現象世界に実現しません(ローマ書一〇・八)。心の義は、必ずこの罪の世に実現され、そして全き肉体の救をもって再臨の主をむかえたい、この願いを全うする為に、圧倒的勝利を得る為に、この告白の真理を実行して下さい。
 (1976.10.17「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-05-22 10:08 | 日岡だより

No.695 祈りの手帖 2015.5.10

祈りの手帖
 
 むかし小さなパンフレットで読んだ話ですが、ある人がつかつかと街かどの小さな文房具店にはいっていきました。
 「ごめんください。ポケットに入るくらいの、丈夫な手帖があるでしょうか」
 「はい、ありますよ。こういうのはどうでしょうか、三つ四つ、種類をお見せしましょう」
 「そうですね、この中でこの赤表紙のが一番よさそうです。気に入りました。これをください。おいくらですか」
 「一〇セントです」
 「ではこれを。………いえ、いえ、包装はけっこうです。すぐ使いますから、えーと、ちょっと失礼、今書きこむことがあるんです」
 「………………?」
 「さて、ご主人、私はこのお店で頂いた手帖をどんな事に使うか興味はないでしょうか」
 「はあてね?」
 「これが、これまで使っていた手帖です。さき程、最後のページまで使ってしまったので、今お宅に来て新しいものを求めたしだいです。ほれ、これまでの手帖を一寸お見せしましょう。見開きにして使うのです。左側の頁をはじめに使います。左側の頁に神様にお願いした事を箇条書きにするのです。」
 「神様ですって」
 「はい、全智全能の神様にです。あなたは、神様を信じていますか」
 「いや、そこんとこは、どうもね」
 「私は神様を信じています。信じていますから、いろいろお願い事もあるし、それを神様にそのままお祈りして、その事をこの手帖に書きこむのです」
 「へェ。それで、そのお祈りとやらは聞かれるのですかい」
 「勿論ですとも。これを見て下さい。左頁に祈った日付と、その願いの題目。右頁の同じ行に、その願いのかなえられた日付とその感謝が書いてあります」
 「おどろいたね。そんな話は初めて聞くね。不信心のわしだって、時には教会に行って牧師さんのありがたいお説教は聞くがね、しかし、そんな話ははじめてだよ。あんた牧師さんかね」
 「いや、私は牧師先生じゃありません。単なる商人ですよ。それで、よく旅行するのです。その旅行の間も、いつもこの手帖をもっています。ほれ、このように、その日に答えられた祈りもありますし、時間がかかって、二、三冊目の手帖にくりこされても実現していない事もあります。しかし、私は信じています。必ず、いつかはこの手帖の右頁も全く埋められてしまうでしょう」
 「お客さん、このあっしだって、そういう神様を信じたいね。好きこのんで苦労しているわけじゃないからね」
 「よろしい、あなたの御信心にお手伝いしましょう。一寸、腰かけさせて下さい。あなたも腰をおろして下さい。さて、神様はですね―――」
 一時間程もして、その人は文房具屋さんの主人に別れを告げた。店の主人は、すっかり、イエス様に心を明けわたしてしまって信仰の喜びにひたっていた。その人は、新しいノートの左頁を見た。さき程、店頭で買ってすぐ書き込んだ文字である。
 「×月×日、この手帖の店の主人に救を」
 彼は感動をもって右頁をうめた。
 「同月同日、主の恵みによって、感謝」
         ×
 私はこの物語を頭のすみに覚えていました(その小冊子はすでに失っていまして、右の文章も正確な引用ではありません)。九月中旬の礼拝説教でこの挿話を紹介したのですが、単なる紹介では気がすまなくて、早速実行してみました。
 九月十八日から十月二日まで、左頁にかかれた祈りの項目が五三、その中に既にかなえられた事項二四、たしかにこの物語りの主張は正しいのであります。その中の一つの例。
 九月二十一日、救の確信について、更に徹底した指導をする為、特別講師を招きたい、目下秋の特伝シーズンでして、講師の先生方多忙の時で、急に言ってもどなたも無理でしょうが、この事を祈りました。処が、九月二十四日に、大牟田で沖縄の田中先生にお会いして、田中先生の方よりお申出あり、十月末日、大分に伺いたいが………と言われる。更に、十月四日には、アメリカの島田先生が今月中旬に大分にお見えになるというニュース。何たる神の応答、そのすばらしいお導きに驚かずにはいられないのです。
 その他、R子のいやし、F姉の確信、M婦人の家出解決等々、多くの体験をわずか半ヶ月の間にしたわけです。勿論、まだ多くの答えられぬ求めもあり、又、多分かなえられぬ事の方が神の前に正しい、誤った求めも多い事でしょう。御利益宗教のように、何でも祈って求めてかなえられる事がよいのではない。こうした実地訓練の中で、具体的に実世間的に神様の御旨が示され、又従順を教えられる事がうれしいのであります。
(1976.10.10「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-05-13 15:06 | 日岡だより

No.694 救いをうけよ/天国と地獄/成長の道 2015.5.3

救いをうけよ
 
 「キリスト教、うん、キリスト教はよい宗教ですよ」
 こう言ってくださる方は多いのです。そう言いつつも、なかなかキリストを信じることをなさいません。
 キリスト教は、外見上、文化的で倫理的でかっこよい宗教であります。昔のように、古い土地柄や老人達の白い目も気にする必要もなくなったようであります。しかし、キリスト教は不人気であります。
 
 キリスト・イエス罪人を救わん為に世に来たり給えりとは信ずべく正しく受くべき言なり。(Ⅰテモテ一・15)
 
 このパウロの言葉は、聖書中でもなかなか大事な言葉であると思います。イエスの誕生の目的は「罪人の救」にあるのだと言います。しかるに多くの人にとって、結婚式とか、聖画とか、聖歌の美しさは魅力であっても、「罪人の救い」というイエスの招待状には、目をつぶるのではないでしょうか。しかし、ここで(上掲の聖句のすぐあとに出てくることばなのですが)パウロは「私は罪人の頭」であると言いました。自分が罪人の親玉であるという無残な自覚と、その状況から救われたいという飢えかわきのみが、「罪人よ、我にきたれ」というイエスの招待状を受け取らせてくれます。
 あなたが、もしキリスト教を好いていてもキリスト・イエスの救を拒否なさるなら、それはあなたの自分を知らぬ無知な、傲慢さから来ます。
 「すべて労するものよ、我に来たれ」
 とイエスは言われます。
 あなたに、対してです。
 (1976.9.19「キリストの福音」より)

 
天国と地獄
 
 先週の日曜日の礼拝説教は、題して「天国と地獄」。かつて同じ題名の映画がありましたが、今回はそんなモダンなテーマではない。ごく古い古い信心の話。
 「人間には、一度だけ死んで、その後さばきを受けることが定められている……」
 と聖書(ヘブル九・27)にありますが、人間の死は、会社の仮決算のようなもので、死後に最終の決算事務をとるとどうなりますか。あなたの人生の結果はどうなりますか。天国ですか、地獄ですか。
 天国も地獄もあるものか、そんなことは迷信だと、頑固に人生を押しわたる人もいるけれど、そういう人の面かげや家庭や事業に、早くも生きている時から地獄の陰惨な影がつきまといます。本当の人生の平安は、天国をかなたに約束されている人でなければ、心底から持てぬものです。
 人間には二つの道があります。天国に行きますか、地獄に行きますか。その天国行きの道の説教を先週しましたら、案外はっきりしていない人が多くてびっくりしました。自分は救われているのか、救われていないのか、果たして天国に行くのか、天国に行けないのか、釈然としていないのです。それでは困ります。
(1976.9.26「キリストの福音」より)
 

成長の道
 
 鳥は群れて飛ぶ。
 人間にも同じ法則が働く。
 いきのよい人間は、いきのよい人間とつきあい、怠けものは怠け者どうしつきあう。
 マラソンでも、トップ集団から落ちると、ずるずると次の集団まで遅れてしまう。なるべく、信仰の人、愛の人、行動の人、瞑想の人に近づきなさい。大物といわれる人、賢者といわれる人につきあいなさい。そういう人達のふん囲気になじんでおく事は、あなたの人間性をつちかうのに大きな力がある。
        ×
 困難をさけてはいけない。
 患難がおこっても、それを遠ざけずにその中で一苦労しなさい。
 人間はやわらかいベッドにねていたのでは、考える事はできない。かたい椅子こそ、よい考えを浮かばせる。
 ホームラン王は、しばしば三振王でもある。人生の智恵者は、失敗に意気阻喪せず、更に次の成功への道を学ぶ。
        ×
 神様は人間を補助者としてお求めである。人間は神様の御業に協力することができる。祈りというのも、実は神様の御心への協力であって、何もあれこれ祈願するのみが第一義ではない。神様の人類への計画、世界計画に少しでも協力させてくださいといって、献身する、その心ばせこそ祈りである。
 才能がない、金がないとなげくことはない。この無にひとしいものを有用に用い給う神様の手にこの身をゆだねよ。才能がない、金がないままで、どんな御用が果せますか、どういう御協力ができますかと問うて見よ。そこに、あなたの人生フル回転の秘訣がある。(1976.10.3「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-05-08 11:02 | 日岡だより