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No.693 賛美の力/子供には真剣に接せよ 2015.4.26

賛美の力
 
 大いなる会衆の中で、
 わたしの賛美はあなたから出るのです。(詩篇二二・25)
 
 先日訪問しました韓国の純福音中央教会では日曜礼拝を一日四回行いまして、一回の礼拝出席者は約一万人です。あのドーム型の大会堂で、一万人の会衆が集って、そこでいとなむ礼拝は実に壮観です。すばらしいよりぬきの管弦楽団と七十名程の聖歌隊で奉仕される賛美の声は、私たちを圧倒しました。
 ところで、前日私ども日本からの参加者に礼拝の中で賛美をうたってくれないかという話がありました。みんなウカツに了承して、礼拝に出席しましたが、実際に出席してみるとかよわい日本人の声では(さんびでも祈祷でも韓国人の声は堂々としていて厚みがあります)とてもではないが恥ずかしくて顔を上げられないだろうという気がしました。幸い時間の関係で、歌わないですみましたので、ホッとしました。
 しかし、これは人間の智恵で「せっかくすすめられているのだから歌おう」とか「韓国に来て、一度くらい、公衆の前で歌っておこう」とかシャバ気で考えているから、逆にきおくれもするわけです。
 最近の、私どものはしゃぎすぎの賛美の声に批判もかなり多いのですが、勿論、人間の思いつきや気分高揚策にうたっているのであれば下の下の下劣な事です。どうか、神の側より与えられる賛美の声でありたいと思います。大会衆の中で、たった一人のかぼそい声でも堂々と歌える賛美は、そういう神よりの歌であります。
 (1976.9.19キリストの福音」より)



子どものしつけ方教室) (10)
 子供には真剣に接せよ
 
 教会学校は、むかしでいう日曜学校です。正直言って、私どもは教会学校については、ほとんど素人でした。牧師だけは、戦前の教会に連れて行かれて、むかしの日曜学校を経験していました。しかし牧師である私(釘宮)は、日曜学校についてあまりよい印象をもっていませんでした。
 猫なで声で子供を扱う教師がいやでした。信仰が形式的で、本当には信仰をもっていないらしい教師がいやでした。(おそろしい事に子供の目にはそれが分ります。口先だけの祈りが、本当の祈りでない事ぐらいすぐ判ります)。教会学校は余程気をつけないと小型の偽善者を作ります。又、最近の親御さんも御自分は偽善者をにくみながら(クリスチャンがしばしば偽善者と言うて批難の対象になります)、拝自分の子供だけは偽善者でも何でもいい、見てくれだけでも、まとまりのついたヨイ子にしあげたいと思っています(言いすぎかもしれませんが私をも含めての反省です。私も四人の子供の親でした、誰おとらずそう願っていましたね)。
 けれど、本当に子供たちを「教育」しようと思えばイノチがけの事になります。猫なで声や、きれいな演技ではすまされません。そこで、今考えて、やっている事は
 1.祈りと信仰をもって指導する。
 2.少々へたでもよい。子供の分らない大人の言葉を使う事もあるだろう。ただ真剣にやれ。大人が、こんなに真剣に語り迫って来たことはないという、真実心を示せ。
 3.自分の生きた体験を語れ。人のお話しではない。生きた体験を語れ。
 正義と愛と祈りの生活が、平々凡々たる人間我々に可能である事、それが歓喜と自信と平和の生活の基盤であること、その証言を子供の前にも真実こめて語る事。
 みなさん。子供の前で茶化した生煮えの態度はいけません。真剣な姿を見せる事です。(1976.9.19「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-04-30 08:18 | 日岡だより

No.692 祝福をうけよ/心の王座/桜美林のうた 2015.4.19

祝福をうけよ
 
 「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国は
  その人のものなり。」(マタイ五・3)
 右の聖句は、いわゆる山上の垂訓といわれるイエス様の説教の冒頭の一句。文語訳であげましたが、世間でも有名な言葉ですね。
 少し僭越ですが、私なりにもっと原意に忠実でありたいと願って訳しなおしてみました。
 「祝福されたる霊の貧窮者たちよ。
  彼らの所有は諸天の王国である。」
 貧窮とはつらい事であります。何も無い事であります。人間の一番かんじんかなめの霊において貧窮という事は救いようのない事であります。「ぼろは着てても、心のにしき」というように、人間は外っ面(つら)はどうでも内面は豊かでありたいものであります。その内面が貧窮ではどうしようもありません。
 しかし、大事な事は、このどうしようもない貧窮者を、イエスは「祝福」して下さるという事です。
 イエスが祝福なさった時、五つのパンと二匹の魚は、五千人分の食糧に増殖されました。イエスが祝福なさった時、エマオ途上の二人の目はひらけました。イエスの祝福は、無にひとしいものを、大なるものとして変化せしめるのであります。
 人間は、神様の前に出ると、自分がいかに無にひとしい貧窮者かが分ります。骨身にしみて分ります。その時、この祝福の御言葉をきくと、天国にある私に目ざめます。何も持たぬ筈の私の中に、諸天の王国がある事が分ります。
 (イエス様の祝福がなければ、人間は義のために責められた時、天国どころか怨念の地獄におちざるを得ない、という恐ろしい事にもなります。)(1976.9.12「キリストの福音」より)


心の王座
 
 教会学校で歌う、こどもの「聖歌」に
  「まことの神さま、ただひとり
   みなさん、早く信じましょう」
 というのがあります。昔から、一部の教会にはよく歌われた歌です。私の育った教会は上品な教会で、こういうスローガンをむきだしにしたような、むくつけき歌は使いませんでした。そこで、私もそういう育ちによるのか、この歌にちょっと抵抗を感じていました。けれど、今こっそり歌ってみると、ずばり信仰の中心テーマを率直に歌っていて、いいなァと思います。
 日本人の考えている神は、八百万の神々、狐も蛇もみんな神様。こういう神様群拠のさなかに、キリスト教の目に見えぬ唯一の神が伝えられてきても、日本人の頭にはなかなかなじめぬわけです。
 人間の心には、その奥の方に一つの王座があります。この王座に何かを据えてたてまつっておかないと、バランスのくずれる本性があります。偶像や、お金や、人気や、人の愛や、地位―――、そういうものを王座にすえて、やっとバランスを保っています。しかし、本当は「人は神につくられたので、神に帰らなければ平和を得ない」(アウグスチヌス)のであります。
 あるユダヤ人の学者が「ユダヤ人に偉い学者がたくさん出るのは子供の時から、目に見えぬ唯一の神、真実の神について教えられて目に見えぬ真理に思いをこらす習慣がついているからだと思う」などと言っていますが、なる程そうかもしれません。物をはなれて、目に見えぬ存在を、永遠や無限を想う精神は将来のすぐれた人物を生み出すのであります。
 それはともあれ、あなたの心の王座に今神様をお迎えしていますか。神様以外のものは、必ずあなたを失望させあなたの人格を破壊しますぞ。(釘宮)
(1976.9.12「キリストの福音」より)


桜美林のうた
 
 私は、戦時中北京の聖者と謳われた清水安三氏の本が好きだった。彼は崇貞学園という学校をつくるのに、その敷地としてほしい地面に棒のようなもので線をひき、
 「神様、この土地を下さい」
 と祈った由。
 この痛快無類な男、戦後引揚げて来て、東京の近郊に貧乏な学校をつくった。この学校が、今夏、全国高校野球で優勝した桜美林高校である。
 甲子園で五回も歌われた、その校歌
 「・・・・・・
  もろ手をあげて
  イエス、イエス、イエスと
  イエス、イエス、イエスと
  叫ぼうよ」
 この歌がテレビやラジオで全国に流れた。死に至るまでイエス様に忠実な清水安三先生の作詞である。
(1976.9.12「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2015-04-23 20:39 | 日岡だより

No.691 山岳的風土に育つ信仰 2015.4.12

山岳的風土に育つ信仰
 
 戦前、私たちは朝鮮の山には木が植わっていない、みんなはげ山だ、日本内地は至るところ緑の山ですばらしい、朝鮮人は山の木を切ってしまうばかりで、あとの植林をせぬからだめだ、と朝鮮人を軽蔑する教育をうけたものです。
 然るにこのたび、韓国に行ってみましたら山々は至る処、緑でおおわれていました。「山を緑化しよう」という大看板を一度見ましたが、多分政府の強力な政策なのでしょう、植林運動は韓国全土に成功しているものと見ていいのではないかと思いました。
 とはいえ、実は私は韓国の山々を見て、これでは日本のような潤沢な植林はむつかしいのではないかと考えました。何しろ、韓国の山の大半は花崗岩で出来ていて、岩のくぼんだ処や、谷になっている処に背の低い木がやっと生えているという格好です。大統領官邸の裏の広い国道をバスで行く時、その向うに見える、石か骨細工もののように優美に輝いている山を眺めて、これはエルサレムの住民がシオンの山をなつかしむように、韓国の人々の胸裡に忘れられぬ、祖国の象徴だろうなァと思いました。そんなに美しい山ですけれど、表面がすべすべと磨き上げられた骨董品のような山に、客土ひとつもない、そんな処にどうして大木が育つでしょうか。根がはる余地が少しもないのです。
 実に韓国は山岳国家であります。比類なき堅固な花崗岩の山々であります。歴史的にみて、多くの外敵に耐え、且つ文化を守ってきたのも、この山岳のおかげでありますし、根気強い気質、原理に忠実な性格、強健な肉体も、この風土から生れてきたと思われます。韓国の堅い山岳は植林事業を容易に受けつけませんが、しかし、すばらしい堅固な国民性を生み育てました。日本のやわらかい風土は、杉をわずか二十年程で育てあげてしまう速成ぶりですが、そのかわり、人間の心をも甘く安っぽく育て上げてしまうようです。そして日本の教会の信仰も、それに似ていないでしょうか。
 ソウル市内を歩く時、教会の多いのにおどろかされます。一万人も五千人も収容できるような大会堂から、トタン張りマーケットの二階を借りてやっている開拓教会に至るまで大小さまざまの教会が百メートルおきに十字架を挙げて並んでいます。
 韓国では、クリスチャンは十人に一人の割合です。日本では百人に一人です。両国いずれも、プロテスタントの宣教がはじまって約百年、同じような条件下にどうしてこうも違って来たのでしょう。その原因について多くの解明があるでしょうが、私は次の一つをあげたいと思います。韓国では迫害のきびしさに耐えぬいたクリスチャンの種が、今花を開いているのに対して、日本では、迫害的状況下に耐えぬくクリスチャンが、あまりに少なかったという事です。
 このたび韓国を訪れた時も、あたかも板門店事件で緊張して、街角に兵隊が立哨し、空はヘリコプターが警戒している。その中で、信者がたは貧しい生活ときびしい生活条件にたえ、真剣に神を求め、祈り、断食しているのでした。安逸に飽食し、平和の中でただれ切って生きている日本を思って、慄然としたことです。
 「日本人は幸福ですね」
 と、私の民宿した家庭の奥さんが、フトもらしました。それは子供の教育についてのすなおな感想なのでしたが、私はついこう言いたくなりました。
 「それはそうかもしれません、―――然し本当の幸福は、この貧しい韓国のほうにありそうですね」
 もし、私が韓国語が上手でしたら、この気持をもっと十分に言ってあげたかったのでしたが。
 神のいます処、神の求められている処、そこにのみ幸福があります。他の幸福は、すべて幸福そうに見えて実はにせものなのです。
 そんな思いを、かみしめ、かみしめ日本に帰った事です。
 今度、韓国に行ってみて、どう見ても彼の地は日本人のふるさとであると思いました。人種的にはともかく、文化的には(殊に言語の基本(ベース)において)日本人の源泉の国ではないでしょうか。信仰においても、多くの源泉の水を汲むべき井戸が、かの地にあるように見られました。
(1976.9.5「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-04-15 17:56 | 日岡だより

No.690 永遠の射程に、視野を世界に・・・/病床におくる手紙 2015.4.5

永遠の射程に、視野を世界に・・・
 
 坂本竜馬が陸奥宗光に語ったと言います。
「自分は、海が好きだ。なぜなら、自分は陸(おか)のはみ出しものであるから。海は陸のはみ出しものだよ。」
「人間の体は有限なれども、その希望は無限である。有限の体をはみ出した仕事をせよ。」
 一世の快男児坂本竜馬の雄渾な人生を生み出した、その気概がここに出ています。これは、是非現代のクリスチャンにほしい気概であります。植村正久や内村鑑三がもっていた気概であります。我々は、単に永遠の射程に希望をもつのみでない、そこに確実な生命をもつのです。実に「希望は恥を来たらせず」であります。
 海外に出て、世界のクリスチャンたちに会い、彼らが一様に地球住民の運命を案じ、特にアジアにおける日本の特異な地位を思って日毎祈ってくれているのを知る時、私ども日本のクリスチャンは、おのが了見のせまさを恥じざるを得ません。
 今世界中に、地震とききんと戦争の噂を聞きます。これは、聖書にいう終りの時の前兆であります。地球が再生すべき陣痛の前駆症でもあります。まず神の民である私どもが、悔い改めと断食と祈祷に泣き伏すべき時です。ロッキード事件を他人事のように批判しているうちに、訴状はこっちにまわってきましょうぞ。
 視野を世界にひろげて祈りましょう。ヨーロッパの干ばつ、中国の地震、南半球の貧しさのために。世界の政治家、経済人、軍人に平和とあわれみの心を。一般民衆に英智を。先進国の民に質素の心を。人類すべてに高貴な精神と謙虚の徳を。この祈りの為に、この私をお用いつくして下さいと。
(1976.9.5「キリストの福音」より)


病床におくる手紙
 
 I姉へ
 八月二十四日に韓国より帰国しました。次の日、まだ疲れが残っていて、ぼんやりソファーに腰かけている時、伊東市みどり会保養所に入院したとのお手紙が届きました。
 韓国での“断食祈祷”の聖会をすごして来た時だけに、感慨ひとしおでした。韓国の純福音中央教会における断食祈祷の模様は、同教会崔子実牧師の本を別送しましたので、御吟読下さい。韓国人は、
 1.こうときめた原理に忠実である
 2.ねばりづよく、あきらめない
 3.大胆に、体ごと実行する
 という特質があるようです。(逆に言えば頑固で自信過剰)。この特質を活かして、信仰による、生活の悪循環突破、病魔退散やってのけるようです。大いに参考になりました。
 この教会は、今会員数三万五千人、世界一の教会です。僅々十年余で、十五人位の開拓伝道よりここまで成長したのは、主席牧師趙ヨンギ先生、その義母(奥さんの実母)崔子実牧師の並々ならぬ現実的信仰と、愛と、群(むれ)の把握力によると思われます。現実的信仰と私が呼んだものの、その一つは神癒ですね。集会のあと一度に二十人から五十人は癒されているようです。癒された人は、即座に両手をあげて会衆の只中で主をさんびします。症状毎に趙牧師が示されていやしを宣言します。
 ともあれ、最終の癒し主はキリストであります。東洋医学はベターではありますが、ベストではありません(西洋医学と言えども、グッドには違いありません)。主を信じ、主に委ねて、ゆっくりと、今の保養所に、肉体をあずけて下さい。最善のことを、御主がして下さるでしょう。貴姉はただただ今は聖書に埋没しましょう。知的、意志的信仰より、霊的信仰に深透する必要があります。
 日本で静岡県ぐらい、いい処はありません。そこで、じっくり勉強して下さい。
 九州より、心をあわせて祈っています。
 ベッド生活は、人間を怠惰にするおそれあり。貴姉の性格の故に、又保養所の指導によって、そんな事はないと信じていますが、尚も自励されて、特に聖書を学んで下さい。旧・新約の通読をおすすめします。七、八十時間で一冊読めます。聖書は必ず、人に生きる力を与えます。
 (I姉より入院先からの手紙への返事です。)
(1976.9.5「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-04-10 07:52 | 日岡だより