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No.689 わびしさ・むなしさ/ゆるがぬ信仰/にせもの 2015.3.29

わびしさ・むなしさ
 
 「彼女らが金メダルを取って得たものは、わびしさとむなしさだけだ」
 今日(八月十二日)の新聞は、山田監督の言葉をこう伝えています。先日のモントリオール・オリンピックで金メダルを取った女子バレーの選手たちのうち、六人が今度引退するという記事の中においてです。
 今の日本におけるスポーツ行政への不満もあっての発言らしいのですが、要するに「世界一」というあの勝負と栄誉の頂点にたどりついた上での「わびしい、むなしい」という言葉ですから、衝撃をうけます。
 十余年前、大松監督が「今の苦労を後のよい思い出とせよ」といってハード・トレイニングを敢行した頃の精神主義だけでは、もう選手が可哀そうだという事でしょうか。日の丸をあげた時の一時の感激だけではメシは食えぬ、これ以上まごまごしていれば、婚期もおくれる、そういう事でしょうか。
 新聞やテレビがいかに賞賛しようと、たかが金メダルの栄誉ぐらいでは、人生のむなしさは救えぬ、人生のわびしさはあがなえぬということでしょうか。
 人を押しのけて勝ちすすみ、人に先んじて課長になり、家を建て、会社を拡張し、総理大臣になる、あるいはミス・ナントカ、人気歌手、それが成功だと多くの人が思っています。成功のための積極的自己啓発の心理学・行動学・宗教がさかんです。それらが与える人生の果実はすべてニセモノです。外は見るに美しい、食べるにおいしい果実ですが、むなしい幻影です。ほんものは、別の処にあります。
(1976.8.15「キリストの福音」より)


ゆるがぬ信仰
 
 先週のこの頁に書いたのでありますが、「一切他に条件なしという救いの絶対性」、それは徹底して完璧なものであるとの神への傾倒、それが信仰ですね。
 そういう無比な信仰は自分からは出ないものなのでして、神の光に照らされて私の魂で反射するという具合に、神のかたよりもよおされ、神の側より賜わって光るという信仰であります。
 そういう、上より賜わった恩寵としての信仰でなければ、信仰に自信がもてませんよ。
 「われ信ず。信仰なき我を助け給え」という悪霊つきの少年の父親の信仰告白ぐらい、私のありがたく思う信仰告白はありません。ここには、どんな不信仰なものでもくぐり入るすき間のある信仰の門があります。そして、絶対にゆらぐことなき(石や鉄ではなくてゴムや水や有機質のような)つよい信仰があります。こういう、不信という対極をふまえてつねに我が内なる神への不信、反逆を問いなおし見つめつつ、それに逆らって信じ得る信仰の原点は、神より啓(ひら)かれるキリストの意識のみです。
 多くの人は信仰を誤解しています。それを自己暗示風の信念や、天国への入門証のように思っています。幼児が、いつまでも自意識にめざめませんと、未発達人として取り残されてしまいます。人間は心理的自我意識に目ざめた時に似て、もう一度キリストの意識に震われて目ざめる必要があります。そして一を一と知り、赤を赤として事実を認識するように霊的存在である自分とこの神の現実を直観的に認識する必要があります。それが「新生」ですし、又「信仰」です。
(1976.8.15「キリストの福音」より)


にせもの
 
 金持ちの旧家が倒れかけて、代々の書画骨董を売ろうとしたら、にせものが多くて、大して金にならなかった。そういう話を時折聞きます。目のない金のある人は、だまされるのです。宗教界でも金があったり地位があったりして、教祖さんや牧師さんから、チヤホヤされている人は注意を要します。にせものの信仰では、人生の関所はわたれません。ほんものを求めなさい。
(1976.8.15「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-03-31 23:00 | 日岡だより

No.688 生きる術は?/完全なる救 2015.3.22

生きる術は?
 
 一九二三年に、シカゴのエッジウォーター・ビーチ・ホテルで、非常に重要な会合が開かれました。この集まりに参加したのは、世界で最も成功を収めた九人の財界人でした。彼らは、最大の鉄鋼会社社長、最大の公益事業会社社長、最大のガス会社社長、最大の小麦投機師、ニューヨークの証券取引所理事長、国際決済銀行総裁、それに当時の内閣の閣僚でした。
 二五年後に、これらの人々がどうなったかを見てみましょう。最大の鉄鋼会社社長チャールズ・シュワブ氏は破産し、死ぬ五年前から借金で生活していました。最大の公益事業会社社長サムエル・インサル氏は裁判から逃げ出し、外国で無一文のまま死にました。最大のガス会社社長ハワード・ホプソン氏は狂人となり、最大の小麦投機師アーサー・コットン氏は破産者として外国で死にました。ニューヨーク証券取引所理事長リチャード・ウィトニィ氏は、その後ずっと刑務所ぐらしでしたし、内閣の閣僚だったアルバート・フォール氏は赦免されて、やっと自宅で死ぬことができました。ウォール街の最大の「株の売方」としてならしたジェッシー・リバァモァ氏は自殺しました。最大の独占企業の会長イバー・クルーガー氏も自殺しました。国際決済銀行総裁レオン・フレーザー氏も同じく自殺しました。これらの人々は皆、金もうけの術は心得ていましたが、誰一人として生きる術を知らなかったのです。
 それから、また二五年たった今、私共は田中角栄氏の栄光と転落に目をとめているわけです。
(1976.8.8「キリストの福音」より)



完全なる救
 
「イエス・キリストの救贖(きゅうしょく)は、信ずる者にとって絶対に完全である。」
 この教えが、すべてのクリスチャンに貫徹すれば、キリスト教界に大革命がおこります。多くのクリスチャンの失敗は、イエス・キリストの御業の成果を中途半端に受け取っていることにあります。
 キリストは、よろずの事を為しおえ給う方であり、凡ての善き事を完成なさる方であります。その条件は、ただ彼の為し果たし給う御旨と御業に信服するにあります。
 不信仰の者が、さも信仰ありげに、善行をするのをイエスは偽善者とよんでいます。
 不信仰の者が、さも信仰ありげに、行為なくても救われると言って、不倫の中にてんとして恥じずに居すわるのを、ヤコブは「死んだ信仰」といってきびしく叱責しています。
 全き信仰をもってキリストを信じようとするとき、「けれど信じたあと、全く主に従い得るかどうかそれが心配です」と、さきの事を心配して、信仰の第一歩を踏みこめない人が多いのではないでしょうか。
 「信仰のみによりて救われる」と、あれ程高調するガラテヤ書が、その五章後半より何か律法的訓戒をしているように見えて矛盾を感じる事も多いと思います。キリストの全きあがないに救われて、信仰による自由の律法をおのが境地とした時、その矛盾がはじめて氷解します。
 一切他に条件なし、信仰のみにより救われる! 主の御業につけ加えて、あれこれ善事・親切・犠牲・奉仕・伝道をせねばならぬと、やきもきする事はないのです。これをみじんも疑わずキリストを信じなさい。徹底して。
(1976.8.8「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-03-27 09:28 | 日岡だより

No.687 良心/子供のしつけ方教室(8)イメージ・チェンジ/(証し)時にかないて美しい 2015.3.15

良心
 
・・・。私は今日まで、神の前に、全く正しい良心をもって、行動して来た。(使徒行伝二三・1)
 
 むかしから役人には、わいろはつきものと見えます。中国の故事ですが、ある人がひそかに楊震という高級官吏にわいろをおくろうとして、誰も知りませんからと言う。それに対して断固として断った有名な言葉―――、「天知る、神知る、我知る、子(汝)知る。なんぞ知ることなしという。」(別の書では「天知、地知、子知、我知」とある)
 新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。良心という言葉は二十数回用いられていますが、原語の意味は「共に知る」という言葉です。楊震は、汝と我の外、共に知るものが他にある、それが天と神だ、と言っているわけです。
 最近、ある革命派の哲学者が、「良心とは我が内なる他人の声だ。だから良心の言う事など聞くな」と主張しているのを見て驚きました。しかし、良心とは我が内なる他人の声とは正しく名言です。そして多くの人にとって、良心とは要するに、周囲の人々の次元のひくい評判や習慣の声にすぎないのであります。
 しかし、聖書に言う良心とは、まず正しくきよめられた良心です。良心の声が途中でねじまがって、人の物を盗んでも貧乏人に施せば正義であるというような鼠小僧次郎吉の屁理屈になってはいけません。そして、もう一つには、聖書にいう良心は「神の前に」ということです。国や社会や周辺の人々や、そういう人間の前にではなく、神の前において、神と「共に知る」正悪選別の心の声なのです。この心が役人や商売人の心に生れぬ限り、わいろは社会から無くならぬ事でしょう。
(1976.8.1「キリストの福音」より)


子どものしつけ方教室(8)
イメージ・チェンジ
 
 大村はま子という、すぐれた中学校教員がいます。この人の言葉に、教師はとっさの時つい自分の習った先生のまねをするものだ、とあります。ちょっとした、叱ったりほめたり板書したりするしぐさも、自分が習った先生の習い覚えです。つまり、子供の時の先生のイメージが頭の中にやきついているわけです。その行動パターンが、つい表面に出るわけですね。
 先日、新聞のある欄で、青い目の母親が駅の階段を一人でおりようとしない三才ぐらいの金髪の娘をお尻をぶって叱っているのを見た人の話がのっていました。母親はわざわざ一度娘の処に上っていって叱りつけた上、またまた下におりて来て、両手をあげてはげました。幼い娘は泣きながら一人でおりてくる。それをじっと待っていて、おりて来ると手をひろげて抱きあげ、歓喜してほおに何度もキッスしたそうです。
 日本の母親には到底見られない、すぐれた場面ですから、みなさんも多くの事を学び得ると思います。ですから、私はちょっとこれに関連して他の事を書いてみます。
 この外人の母親は、その国で決して傑出した婦人というわけではないでしょう。多分、平均的女性でしょう。思うに彼女は深く考えて教育的しつけを敢行したわけではない。彼女自身、そのようにして育ち、自分がその母親にされた通り、その娘に対してしているのでありましょう。
 ここに、母親の子供に対するしつけの大切なるかくされた重大な面があります。すぐれたしつけも、悪いしつけも、代々子供にうけつがれていくという事です。イメージがきまってしまっているのです。
 水泳選手だった木原光知子は、米国の大学に留学して、そこの激しい練習の中にもまれてテンポ上のイメージ・チェンジをしたそうです。彼女の水泳開眼だったわけです。われわれも、いろんな事に、イメージ・チェンジする必要がありますね。
(1976.8.1「キリストの福音」より)


【あかし】
時にかないて美しい
              A・T姉
 
 金曜日は断食し、出来る限りの時間を主にお返ししました。主の愛にこたえるための、何ものも持っていない事に、あらためて申しわけなさと、おのれの卑小さを感じます。この日は本当に主を喜ぶ事ができました。
         ×
 私たちに出来ることは、主の御業を信じることのみである。分らぬことを分ったつもりで、おろかな事ばかりをする。分らないからこそ主におまかせするのである。
 主の御業は時にかない、美しい(伝道三・11)。喜び、愛、悲しみ、患難等、すべてに時があり、主は私達に全ての事を時にかない為し給う。自分の力で、何をなしても主の計画に及ばず、どんなに素晴らしくても、その時でなければ空しい。
      ×
 「いばらの中に種をまくな」(エレミヤ四・3)この聖句をとても気になって、何度も読み返した。今ちょうど伝道する事を学んでいるせいか、いいかげんに伝道できない事を思わせられる。確実に祈って、鍬をおろし、すきを入れ、よく耕した上でなければ、いくら種をまいても実をむすばない。
(1976.8.1「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-03-20 19:49 | 日岡だより

No.686 口に言いあらわして救われる/きかれる祈り/子どものしつけ方教室(7) 「親子でプールに入ろう」 2015.3.8

口に言いあらわして救われる
 
 信仰とは、神への御言葉への応答(レスポンス)である。
 「あなたは右の道をとりなさい」
 と御言葉をきいたら、右の道に歩をむけるべきである。
 「あなたの怒りっぽい性格は変えられる」
 と御言葉をきいたら、
 「はいッ、私の怒りっぽい性格は変えられます。柔和な人間にかえられます」
 と、言葉で応答しなさい。
 ローマ書一〇・10を聞きましょう、いわく
 「人は心に信じて義とせられ、口に言いあらわして救われる」
 ここで言う「救い」とは、多分に聖潔論的である。聖潔論とは、キリスト教界ではやっかいな論題である。しかし、議論はともかく体験的に言うと、霊感的ムードとか、天使的高揚とか、宗教的英雄主義ないし天才主義(?)は排して、ごく現実的に言うと「聖潔とは聖書の言葉どおりの生活」である。そういう生活は、具体的には、事毎に神の要求が肉体的表現にまで実を結んでいる、「救いの証し」である。
 そんな大変な事、どうして人間にできましょう、と尻ごみする人も多いだろう。しかし、天の父の全きがごとく全くあれ! というのがイエスの教えである。人間にはできそうもないが、人間にできないことを、為しとげらるのが神様である。
 大胆に、神の仰せられる約束の言葉に、信仰を以て応答しなさい。大胆に、確固とした言葉で告白しなさい。告白とは「同じ事を言う」という事です。神の言葉を復唱するんです。言葉は霊です。霊は力です。言葉は必ず、あなたに具体的に実現します。
(1976.7.25「キリストの福音」より)


きかれる祈り
 
 「ただ、お言葉を下さい。」(マタイ八・8……イエスに願った百人隊長の言葉)
 「しかし、お言葉にしたがって……」(ルカ五・5……ペテロの返事)
 何でも祈れば、すべて聞かれる。そう言って信者さんを集める宗教があります。キリスト教は、まず人間の良心を正しくきよめる宗教でありまして、道に外れた求めや、品性をけがす願いには、断じて応じる筈もありません。
 しかし、信仰の道は理性をこえた、神秘な神様の答えを得る道でもあります。人間が誠と熱意と確信をもって願い求めるなら、必ずきかれるのであります。
 そして、聞かれる祈りの秘訣は冒頭の聖句であります。既に得たりと信じて祈る、御名によりて祈る、そういう御言葉はよく知られていますが、更に一つ、御心にかなう祈り、つまり御言葉を頂く祈り、これが大切です。
(1976.7.25「キリストの福音」より)
 
 
子どものしつけ方教室(7)
親子でプールに入ろう
 
 父たちよ。子供をおこらせるな。そうではなくて、主の訓練と訓戒の中で彼らを育てるのだ。(エペソ六・4私訳)
 最近の子供は特にそのようですが、親の前で、ふくれたりおこったりする事が多いものです。親はハレものにでもさわるようにして、甘やかして育てます。すると、子供というものはますます甘えて、ちょっとした事にも腹をたてたり、すねたりするようになります。親はいっそうオロオロして子供のごきげんをとる、悪循環です。子供をおこらせてはなりませんが、かといって甘やかせという事ではありません。
 水に泳げない金づちのお母さんがいるとします。そういうお母さんは、プールに行って子供と一緒に練習したらどうでしょう。
 「とんでもない。そんなみっともない事、今さらできますか。子供についていって、私は上からいつもはげましているんです。ママはここにいるよって―――」
 こういう人を、プールサイド・ママと言うのです。自分は水の中に入らないで、文句ばかり言えば、子供もふくれっ面をするのは当然です。自分も一緒に水の中に入って、顔を水につけ、バタ足の練習でもして
 「あっ、そこのお母さん、ダメダメ。もっと頭を沈めて………」
 とか何とかコーチに叱られていると、子供もいっしょに笑いながら、一生懸命水泳の練習をする事でしょう。
 イスラエル人は、エジプト脱出後、荒野の中で親子共々、苦しい旅や戦争に従い、「主の訓練と訓戒」をうけて四十年すごしました。そして、親は荒野で死に、立派に成長した子供達は約束の地カナンに突入できたわけです。親は子供を、自分以上に育てる義務があります。自分も共々にプールに入ってコーチにつく必要があります。
(1976.7.25「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-03-13 08:05 | 日岡だより

No.685 朽ちぬ冠のために/聖書の力/(証し)われ早天祈祷に救われたり 2015.3.1

朽ちぬ冠のために
 ―モントリオール・オリンピックに因んで―
 
 新約聖書のヨハネの黙示録に、天から下ってくる新しいエルサレムを測ってみると、長さも幅も同じで、一万二千スタディオン(聖書協会訳では丁と訳してある)あった、という記事がある。このスタディオンは当時のギリシャ社会における距離の単位であり、当時の競技会における短距離競走の基準であった。(黙21・16)
 最近の、オリンピアの遺跡の実測で、その一スタディオンは一九一・二七メートルであると分った。競走場は、その一スタディオンのトラックをはさんで階段式の観覧席がある。その競技場をもスタディオンと呼んだ。今日に言う、「スタジアム」である。このスタディオンの中で当時の競技者たちは、きびしい訓練と節制の末、出場して最後の一人である優勝を争ったのである。
「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」(第一コリント9・24、25)
 パウロはオリンピックではないが、当時似たような競技大会が汎ギリシャ地域に四つあった、その一つのコリントのイストミア競技会(紀元五一年四月)の時には、同市に居合わせた事であろうと言われている。パウロの手紙には、しばしば競技のことが出て来るが、身近な例話であったわけ。私たちも、朽ちぬ冠の為、霊の戦場である天的オリンピックをがんばろうではないか。(ピリピ3・14、第二テモテ2・5参照)
(1976.7.18「キリストの福音」より)


聖書の力
 
 新島襄は、明治維新の寸前、日本を密出国して、中国より英国にわたる船中で、漢文の聖書をはじめて手にしました。その冒頭の一句
 「はじめに、神天地を造り給えり」(創世記一・一)
 この言葉が、新島襄の脳天を打ったのです。それまで八百万(やほよろず)の神しか知らなかった彼に、天地の創造者なる唯一の神というのは晴天の啓示でありました。この新島襄が後に同志社はを創立するのですが、一個の言葉がこれほど人間を変化させ、発奮させるとは、と目を見張るものがあります。
 今、ソ連では聖書は一冊十五万円ぐらいの闇値(やみね)がついているそうです。共産国家の地下で多くの魂が真剣に聖書を求めています。ある福音宣教団では、ソ連への旅行者が合法的に許される聖書二冊を持っていって、故意に駅のトイレなどに忘れてくる聖書頒布運動を計画しているそうです。聖書の少ないソ連圏にあっては、聖書は干天の慈雨のごとく、きわめて貴重なものであります。
 むかし、聖アウグスティヌスは隣家の子供の「取って読め、取って読め」という声に、ふと心動いて読んだ聖書の中の一句「今は眠より覚むべき時なり。云々」(ロマ13・11)の言葉に、それまでの放蕩と高慢の生活から離れて、聖者とまで謳われる高潔な人生へと一変させられるわけです。
 聖書の言葉には不思議な力があります。
 (1)神の言葉は生きていて、力がある。両刃の剣よりも鋭く、人の心を刺し貫きその思いをあらわにします。(ヘブル4・12、13)
 (2)神の言葉は、神そのもの、霊であって、人を活かすものです。(ヨハネ1・1、ヨハネ6・63)
 (3)神の言葉こそ、人間の真の日々の糧です。(マタイ4・4、マタイ6・11)
 (4)神の言葉は、神の子が教育・訓戒され、よき働き人として十分に整えられる為に、有益必要です。(第二テモテ3・16、17)
         ×
 今、わたくしたちは新島襄やソ連の人達や聖アウグスティヌスのように、新鮮な思いで聖書の御言葉に接しているでしょうか。御言葉が本当に私達の日常の糧になっているでしょうか。御言葉に生かされているでしょうか。もし、そうでなかったら、実は御言葉の両刃にふれる事をこわがり、それを拒絶しているからかもしれませんよ。
 すなおに祈りなさい。
 「主よ、ただ、お言葉をください。」(マタイ8・8)と。
(1976.7.18「キリストの福音」より)


「あかし」
われ早天祈祷に救われたり
                         H・K兄
 私は早天祈祷を毎日欠かさず行うことによって、主の栄光をいただいております。
 とにかく、他のことはせんでもよろしい。おまえは早天祈祷だけ続けろ、ただそれを、することのみに専念しろ! 主が私に強く言われます。サタンがやって来ます。たくさん、やってきます。けれども私がイエス様より言われた通りに早天祈祷だけ続ければ、サタンどもはふるえて逃げてゆきます。なんと、ゆかいなことでしょう。
 イエス様は早天祈祷一つだけやれと言われました。私はその通りにしています。
 すると、どうでしょう! あとのあらゆること全ては、主の栄光に恵まれ何一つ恐れるでなく自由と平安の中にいることができるのです。ハレルヤ!
 主よ感謝いたします。(一九七六・六・二三)
(1976.7.18「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-03-06 23:38 | 日岡だより