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No.680 喜びの聖徒ビリー・ブレイ/子供のしつけ方教室(3)むち 2015.1.25

喜びの聖徒ビリー・ブレイ
 
 ビリー・ブレイは一七九四年、英国に生れた。幼い時に父は死んだ。彼は炭鉱夫になった。すさんだ、大酒飲みの生活に入った。そして二十九才の時、イエス・キリストの救の御言葉を信じた。彼は生れかわった。
 ビリーは、多くの自称クリスチャンが持っているような、暗くて陰気な、悲痛に満ちた宗教を持っていなかった。彼は喜びと勝利に満ちたクリスチャンとしての経験を持っていたので、ちょうど蜂が蜜にひかれるように、罪人が彼を見て、キリストのもとにひかれた。罪人は、罪に勝つ勝利を与える宗教を望んでいるのであり、そのような福音が説かれる時に、魂は救に導かれる。しかし、暗くて陰気なあかしは、魂をキリストのもとに導かない。
 ある教会で、彼は教会員が多くの困難や試練について語っているのを聞いた。彼は微笑を浮べて立ち上り、手をうって「さて皆さん、私は酢と蜜を飲んで来ました。しかし主をさんびします。私は酢はスプーンで、蜜はひしゃくで飲んだのです。」このように彼のあかしは、いつでも喜びと勝利に満ちたものであった。
 しばしばビリーは、喜びのあまりおどった。ある時、買物から帰る途中楽しくなったので、おどり上って喜んでいたが、そのうちに、手に持っていた買物かごから、幼い娘のために買った子供服を落してしまった。あとでそれは届けられた。ある人々は、彼が大声で賛美したりおどったりすることに反対したが、彼はミリアムやダビデの例を引合に出し、また足なえがおどると予言してあるところを引用して、自分の方が正しいことを証明した。
(1976.6.13「キリストの福音」より)
 


子供のしつけ方教室(3)
むち
 
 欧米の家庭では、(新しがりやの家庭は別として)、今でもむちが現実に生きている事を知っていますか。実は、私もそれを知らず、最近外人宣教師から聞いてびっくりしました。デパートで売っているそうです。
 日本人としては、犬やライオンに芸をさせる時のむちしか連想しませんから、正直言って、むごいような、非人間的な感じがして、受け入れにくいのですね。
 欧米人は、父親のむちで育っていますので、むちには非常な厳粛な畏れを感じるもののようです。それは、父親の権威の象徴であります。(母親はしばしば洋服ブラシを使うようですが)。
 
 「むちを加えない者は、その子を憎むのである」(箴言一三・24)
 
 誰か、人の子の親として、その子を愛さないものがいましょうか。しかし、その子にあてるべきむちを惜しむものは、その子を憎むのと同様であるというのです。
 赤ん坊は、あのように天使のように可愛らしい罪のない顔をしています。然し、二才、三才と年と共に悪習が身につきます。罪の心というべきものの芽も出てきます。これは、早くよりつみ取るべきものであります。
 幼児が、何も知らず危険なナイフを手にしたら、だれでもきびしく取り上げるでありましょう。それと同様に、道徳的悪習に染みかけていたら、自信をもってきびしくむちをあてるのが本当の親ではないでしょうか。
 何も欧米人のする事が何もかもいい事ではありますまい。しかし、子供に対して体罰を恐れず、幼い時より紳士淑女に育てるべく努力している事は、いさぎよく敬服すべきでありましょう。
(1976.6.13「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-01-28 13:44 | 日岡だより

No.679 「生きる」/子供のしつけ方教室(2)体で学ぶ/聖霊を待望せよ 2015.1.18

「生きる」
 
 黒沢監督に「生きる」という映画の名作がある。私が若い時、小説を書きかけて、その題を「生きる」とつけた。私は内心その題名が自慢であった。後年、黒沢監督が名作「生きる」を発表した時、なんだか掌中の珠を取られたような気持ちがして残念であった。
 「生きる」! すばらしい言葉です。生きたものと、死んだものと、どちらがよいか。誰に聞いても答えは明らかです。「あなたは生きていますか」―――こう問われて、すぐに「はい、生きています」と返事できる人は幸いです。「いや、俺はこの通り生きているぞ」と憤慨する人も多いでしょう。その人に、聖書はいいます。「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」(黙示録三・1)、全くきびしいですね。
 生きていても、死んだも同然の人生を生きている人が、この世にはあまりに多いのです。希望のない、意欲のない、喜びのない毎日をすごしている人が多いのです。小学校の子供が、遠足の日や、運動会の日の朝、興奮して早くから起き出して、はしゃいでいる、ああいうふうに、底ぬけに明るい気分で、毎日、目ざめていますか。もし、そうでなければ、あなたもあまり素晴らしい生きかたをしているとは言えません。
 
 「わたしは命のパンである。わたしを食べるものは、いつまでも生きるであろう。」(ヨハネ六・48~51)とイエスは仰せられた。イエスの霊が今も私どもの内に、枝に流れこむぶどうの木の樹液のように、流れこんで来て、私どもを生かしてくれるのです。
(1976.6.6「キリストの福音」より)

 
子供のしつけ方教室(2)
体で学ぶ
 
 戦後、アメリカからとうとうと日本に入ってきた教育学は、いろいろと問題がありました。しかし、「為すことによって学ぶ」という、一つの力点は正しかったように思います。
 「為すことによって学ぶ」(ラーニング・バイ・ドゥーイング)の良い例は、セールスマン教育などでよく使われる、ロール・プレイングです。実際に、扉をあけて他家を訪問する処から、客への接近、商品の展示、説明、販売に至るまでを、実演してみるのです。このロール・プレイングを毎日汗みどろでやっただけで、人間が生れかわったように性格が変化向上した例を聞いています。
 子供のしつけの中で、それ自体それ程善だ悪だとこだわる事はないけれど、社会通念上身につけておいた方が何かと都合のよい言葉づかい、身のこなしがあります。例えば、挨拶用語とか、はきものを揃えるとか。こういう事は、口で言って聞かせるだけでなく、実際に実演させておくことです。挨拶など、自分で感じているより、必ず頭の下げ方が浅いものです。どのくらい上半身をかがめたら、どのくらいの挨拶になっているのか、体で覚えさせておく必要があります。これらの言葉づかいや、動作をハキハキ明るく表現できるようお母さんがニコニコとたのしそうに一緒にやって見せましょう。口さきだけ、やかましく注意して、実際に体をこなし、言葉を使う時、少しも手助けしてやらない、まして練習などさせもしない親御さんが多いのです。
 イエスが、最後の晩餐を、「記念としてこれを行え」と言い残されたのは、パンをさき、ぶどう酒をまわして飲む行為の中に、「為すことによって学ぶ」何ものかがあったのかもしれぬと思います。
(1976.6.6「キリストの福音」より)
  
 
聖霊を待望せよ
 
 あきらめてはなりません。
 人間、所詮これくらいのものだ。自分はこれ以上はどうにもならぬ、と自分に見切りをつけて、あとは成り行きまかせという人が多いのです。
 実際また、人間虫ケラの如きものだと自分を自覚するのが、信仰の入口ではあります。自分の罪におののく所から、信仰ははじまります。しかし、だからといって、キリストにあがなわれた人間の尊さ、神の子とせられたるものの栄光に目ざめない人は、この人生に敗北します。
 この神の子としての確信を与えるのは聖霊です。聖霊の下るとき、人間は一変します。敗北の人から勝利の人にかわります。恐れの人から愛の人にかわります。
 今日は、ペンテコステ(聖霊降臨)の記念日です。聖霊を待ちのぞみましょう。
(1976.6.6「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-01-21 22:34 | 日岡だより

No.678 勇気ある運転/子供のしつけ方教室(1)居ずまいを正す 2015.1.11

勇気ある運転
 
 「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」(第一ペテロ二・13)
 
 ある信仰の厚い兄弟の話。彼はこれまで、彼の町からO市まで車で二時間で来れるのが自慢であった。最近の道路は、どこまで行っても時速制限と追いこし禁止で、とてもじゃないが早く行けない。そこを彼は四〇分短縮して到着する。どうだい、一人で鼻をうごめかして、有頂天である。そういう彼が、右の聖句を読んだ。もろ刃の剣のように、彼の良心を切り裂いた。
 彼は、その日から気をつけて、丹念に順法運転を始めた。そして、多くの事を学んだ。
 (1)時速制限や追いこし禁止を守れないのは後続車に馬鹿正直め! 下手くそめ! と軽蔑されているようで、ついアクセルをふむのが原因。よく考えると自分の弱気、世に対する妥協が一番の敵だ。
 (2)しかし完全に順法運転してみると、心は非常に平安である。あくせくしない、世間ばなれした精神の安定がある。
 (3)毎日つづけていると、世間と争ったり人の軽蔑をおそれたりする精神(スピリット)が消えて他の生活の分野でも平安と勇気が湧いてくる。
 これは、決して長いものに巻かれろと言う弱者の宗教ではない。多くのドライバー族の風潮に抗して、交通規則に従う事こそ、多大の勇気を必要とするのである。彼に、その勇気を与え給いし神に感謝する。
(1976.5.30「キリストの福音」より)
 
 
 

子供のしつけ方教室(1)
居ずまいを正す
 
 運動部のキャプテンは、練習の前後はみんなと一緒にわいわいがやがや、あるいはニコニコニタニタしているかもしれぬ。しかし、いったん練習がはじまったら、白い歯は見せられぬ。狎れた、だらけた態度は一人も許されぬ。間違ったら、どなられる、どやされる。そうでなければ、スポーツは体得できぬし、又爽快さも無い。
 今の親御さん、子供の前で、居ずまいを正すということがあるか。
 「三郎ちゃん、ちょっといらっしゃい。」
 「はーい。」
 とお母さんのところにいってみると、お母さんは、キチンとすわって、三郎ちゃんをまじまじと見つめている。
「三郎ちゃん、あなたは今さっき、お向いの健ちゃんをビッコ、ビッコとはやしていましたね。あなたがもし健ちゃんだったらどんな気持がする?」
 こういう、いわゆるお説教はおこって言うのではない、又軽く言ってもいけない。人生における最も大事なことなのである。親御さんは居ずまいを正し、キチンとして、いささか他人行儀な言い振りでかまわぬ、理解できるよう言ってきかせる事だ。つまり厳粛さが必要なのです。なぜなら、これは厳粛なことなのですから。ですから、くどいのはいけない。子供は、その厳粛な雰囲気の中で人生の大事なことを感じとって行くのです。(性の問題を話してあげる時など、特にこの注意が必要です。)
 クリスチャンホームでは、家庭礼拝や、祈祷の場が、最もこれにふさわしい処です。
(1976.5.30「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-01-14 21:20 | 日岡だより

No.677 祈りとは/祈祷会 2015.1.4

祈りとは
 
 キリスト教でいう祈りとは、神社に行って、交通安全祈願とやらをやる、ああいう空虚な、そして自分本位の礼拝擬似行為ではない。また街の祈祷師の前に行って、病気なおしや、失せものをさがしてもらう他人まかせの事でもない。キリスト教でいう祈りとは、神官や祈祷師でないと出来ないという、高等技術ではない。だれでも出来る平凡なことである。しかし又、それは、永遠の神、天地の創造主なる神に、一人一人が交わるという、高等な神秘的な事でもある。
 誤解しないでほしい、多くの場合、それは、決していわゆる神秘体験ではない。入神とか交神とかいう宗教体験のことではない。もっと平明な、常識的な「ことば」の世界である。祈りとは、私どもの「ことば」が、イエスの御名に托せられて、神に達し、神の「ことば」が、イエスの霊によって私どもの中にとどまるという体験である。
 
 私の長男は、長い間、信仰など明確な自覚体験としてはもっていなかったろう。信仰をもちたいと思っても、理知的につかめることではないから、何の事かよく判らなかったろう。その彼が、ある時、私どもと一緒に祈った。多分、何を祈っていいかも判らず、口ごもった事であろう。そして一声、「神さま」と、祈りはじめた時、ワッと心がわれ、涙がボロボロ目からふき出し、祈りの「ことば」が口をついてあとからあとから出てきた。そこに、目に見えぬ神の臨在があり、聖なる世界への扉がひらかれている事は、そこにいるものの誰にも分った。これが、祈りである。
(1976.5.23「キリストの福音」より)
 
 
祈祷会
 
 先月二十六日より、毎朝六時より七時半まで、早天祈祷会がもたれています。各自の、毎朝の生活リズムが異なりますので、六時より七時半まで(時には八時まで)の間、自由に途中で参入し、又退出する(その際挨拶不要)ことにしています。目下、毎朝平均四名という少人数です。遠くの方々も、今後一週間の中一日だけでも、出勤前に早天祈祷会に出席するというようにして、生活の中に教会のリズムを出来るだけ深く喰いこませる努力をしたらいかがでしょうか。必ずや、すばらしい恵みを体験されることと信じます。
 尚、先週より、金曜日の徹夜祈祷会がはじまりました。徹夜祈祷会といっても、まだ完全徹夜は無理のようですので、とにかく「二時間以上祈りぬく事。夜の十二時をすぎる事」を条件に徹夜祈祷会と称したいと思っています。一人では五分も祈れない人も、祈祷会で祈ると、さほど努力せずに三十分や一時間の祈祷ができるようになります。又、異言の祈祷もできるようになります。人間は決して、「行」で救われるのではありません。何時間祈ったなどと言って、祈祷の時間を誇り顔にするようでは困りますが、然し、又長い忍耐の祈りが、人を信仰の深みに導くのも事実であります。是非、こうした祈祷会に御出席下さい。
 今、もう一つ正午祈祷会というのが、もくろまれつつあります。サラリーマンやOLの人達が、ランチタイムに教会に集って、共に祈ろうという事です。こうした集会は、凡て誰か一人の必要に応じて生み出され、そして継続されていくのですが、今後もずっと栄えるよう、願っています。
 現在、水曜日夜の祈祷会はしばしば十名となり、以前に比べれば盛況です。十人で盛況というのは悲しいですが、日曜礼拝の出席が二十名をこすと、今日は盛会だったと喜ぶ現状ですから、大いに喜びたいと思います。東京のある大教会は、会員数一五〇〇名、日曜礼拝一五〇名、祈祷会一五名―――これでは情けないですね。
 当大分教会の目標は、本年末、礼拝出席五〇名、祈祷会二〇名、早天祈祷一〇名、としたいですが、会員諸兄姉よ、御賛意いただけますか。この事を主に祈っています。
(1976.5.23「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-01-07 15:33 | 日岡だより