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No.676 母の祈り 2014.12.28

母の祈り
 
 賀川豊彦は、日本人のクリスチャンとしては最も世界にその名を知られた人であったでしょう。彼は、四国の徳島県の有名な政治家の妾腹に生れた。戦前、彼が荷揚町の旧教育会館で講演した時、あまりに芸者や淪落の女の話をするので、一人の壮士風の男が立って、彼が高尚な宗教道徳の話でなく、くだらぬ酒や女の話ばかりするとなじったことがある。すると、彼は涙で頬をぬらしながら、
 「私は、私の母を愛します。
  私の母は可哀そうな職業の人で、一生男の喰いものにされ、
  人にさげすまれてくらしました。
  私は母を思うとき、同じような境遇の婦人方のために語り、
  弁護し、また運動する事をやめるわけにはいきません。」
 その時、会場は一瞬シュンとして、しわぶき一つ聞こえなかった事を覚えています。
 賀川豊彦は、神の別名が旧約聖書で「乳房をもつ神」と呼ばれている事を発見して、喜んで「永遠の乳房」という言語を造語して、詩にしました。彼は、日本最初のストライキ指導や、非戦活動の為にしばしば投獄されましたが、その獄中で「ひざの中に頭をつっこんで祈った」経験を語っています。獄の壁にむかって、背を曲げ、ひざの中に頭をつっこんで祈る時、彼は永遠の乳房の神にふれたのであります。
 
 祈りとは上品な宗教行事ではなくて、しばしば神と相撲をとり、また神の前に打ち伏し、あるいは、ひざの中に頭をつっこむ(例・ヤボクの渡りのヤコブ、ゲッセマネのイエス、ホレプの山のエリヤ)はげしい戦いでありますが、賀川豊彦はそこで永遠の母なる神にふれたと言えます。
 
 先週の日曜日は母の日でありました。説教もそれにちなんだのか、ユダヤ民族の始祖アブラハムの妻サラについて、大牟田教会溝口牧師の説教を拝聴しました。サラとは多くの国民の母という意味であります。母は、子を生み、子を育て、多くの国民の母となるものです。
 世界最大の教派となったメソジスト教会の創立者ジョン・ウェスレーの母スザンナ・ウェスレーは、十人の子供を育て、毎日六時間の教育を家事と共に行った。この多忙な主婦の生活の秘訣は祈りにあった。母スザンナが一時間の密室祈祷に入る時、幼い子供らはみな袖をひきあって
 「お母さんのお祈りの時間だよ」
 と言って静かにしたそうである。この祈りにこそ、スザンナの子女教育の秘訣があったと言って過言であるまい。のちに、スザンナが、メソジストの母とよばれたのも無理はない。彼女もまた、多くの国民の母であったのであります。
 
 日本における教会音楽の泰斗中田羽後師は人も知る大正期のホーリネス運動第一人者中田重治師の長男です。父君の重治師が、表面だって活躍し、その妻のお母さんは家事雑用(神学生の世話)におわれて、いわゆる熱心な信徒らには俗っぽい女に見えたらしい。そういう批難も数々加えられたらしい。それに対して、中田羽後師は言う。
 「わたしは覚えている。毎晩、母がわたしの枕元(まくらもと)に来て祈りを捧げてくれたのを。わたしの最初の祈りは、母から教えてもらった祈りである。わたしが今でも、夜ねる時に祈る祈りは、小さい時に母に教えてもらった祈りと、その型は大体同じである。わたしが今、いささかなりとも神に仕えていられるのは、母の祈りが応(こた)えられたのである。母がわたしに口真似(まね)させて祈った祈りはこうである。
 『天の神様。
  今日も一日守って下さいまして有難うございます。
  今日、もしお心にかなわない事をしましたら、お許し下さい。
  今晩、もし死んでも、おそばに行けるようにして下さい。
  大きくなってから、あなたの御用をする者として下さい。
  イエス様の御名を通してお願い致します。
   アーメン』
 わたしは、大分「大きくなって」からもこの祈りを捧げ、あとでおかしくなった事がある。読者の中で、祈る母をもっていた人は何人ありますか。もしなければ、自分こそ、祈る母、祈る父となろうと決心して頂きたい。わたしは、この証詞(あかし)を、アメリカで何十遍したか分からない。そして、ほとんど例外なく、聴衆が涙を流すのを見た。(聖歌の友一九七六・四号より)」
 
(1976.5.16「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-12-31 15:29 | 日岡だより

No.675 最もいやな言葉 2014.12.21

最もいやな言葉
 
 「罪(つみ)」――――
 これは、世界中にある言葉の中で、最もいやな言葉ではないでしょうか。
 あなたに、まっすぐ人さし指をむけて、
 「あなたは、罪人です!」
 という人があったら、あなたは激昂しないでしょうか。顔には出さずとも、あなたは、心の中で、さぞ憤慨する事でしょう。
 けれども、聖書は告げます。
 「あなたは、罪人です!」と。
 
 あなたは、勿論、人殺しなぞしてはいないでしょう。どろぼうもしていない、サギもしていない、ワイロも取っていない。しかし、もっと大きい罪をおかしています。
 ダンテは、神曲のなかで、あらゆる罪の中で高慢が最高の罪だとしました。聖書の中で、イエスは、人を「バカタレ」とののしるのは殺人罪と同じだといいました。実は、みんな同一の基礎罪をおかしているのです。
 「神無視、神反逆」の罪です。
 
 なあんだ、という人がありそうです。しかし、この神無視、神反逆の罪が、人間のあらゆる不道徳、混乱、不和、戦争、を招いています。神を無視する事は、車軸をはずして車を走らせるようなものです。すべてを自己中心に考え、人をおしのけ、常に憤慨し、人を傷つける、こういう人間行動の底に神への反逆がひそんでいます。
 聖書はすべての人に言います。
 「悔いあらためよ。神に立ち帰れ!」と。
 神の子キリストは、「罪」より人間を奪還する力です。
  (1976.5.9「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-12-24 10:30 | 日岡だより

No.674 人の目にかくされた信仰 2014.12.14

人の目にかくされた信仰
 
 むかしは、写真の原板を「種板(たねいた)」と呼んだものです。この種という言葉に、心をひかれます。
 
 「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、抜け出して海に植われ、と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」(ルカ17・6)
 
 とイエスは言われましたが、なる程、信仰は種(たね)に似ています。
 種を、土の中にまいたら、あとはその発芽を信じるのみです。途中で、土を掘りおこして、のぞいて見たりしていると、種はついに枯れてしまうのです。
 
 ところで、写真の種板―――つまり今で言えば、フィルムのことですが―――のことを考えてみたいのです。カメラにフィルムを入れて、一度シャッターをおろしてしまったらもうそれを開いて見るわけにはいきません。ちょうど土の中にまかれた、一粒の種に似ています。そして、種は水分や日光の暖かみによって発芽していきますように、写真のフィルムも現像液の中で、しだい貫最初レンズを通して感光した映像が姿をあらわしてきます。こういう所も、よく似ています。なる程、フィルムを種板と呼んだ筈です(もっとも、昔は今のようにフィルムでなくて、ガラスでしたがね)。
 
 写真というものは、最初シャッターをおろした時、ちゃんとフィルムが入っておれば、必ず被写体の映像がフィルムに感光している筈です。誰も、その事を疑いません。そしてフィルムを開いてみたり、確認してみたりせず、そのままDPE屋に持っていきます。予定日が来て店頭に行ってみると、ピシャリ期待した写真が(時には期待どおりではないにしても)写っています。「あなたの信じるとおり、あなたの身になる」(マタイ9・29)のであります。
 
 「信仰とは、望んでいる事がらの実体である………」(ヘブル11・1)
 
 フィルムの上に、写されている(望まれている)ものの実体は、すでに潜在しています。人間の肉眼で見えないだけです。科学の目で見れば、すでにそこにあるわけです。
 私たちの心は、このフィルムに似ています。そして、ひとたび聖霊の光に感光して、あるイメージが定着されますと、それを信仰と言います。それはまだ、人間の眼には見えませんけれど、神の目はあきらかに実在する厳然たる事実なのです。この信仰こそ、即実体なのです。
 
 この信仰(実体)は、まだ目に見えませんが、もともと、「見えるものは、見えない所から出来てくる」のです(ヘブル一一・3)。感光されたフィルムを現像液に入れておくと、しだいにその姿をあらわしてきますように。
 
 「信仰とは、………、まだ見えていない事実の顕出である。」(ヘブル11・1)
 
 この顕出という言葉は、私の造語ですけれども、普通日本語訳聖書では確認・確信・証拠・真実と訳されているエレンコーという原語です。責めたり説得したりして真実をあらわに出させるという意味あいがあります。人間の目にかくされている実体を、徐々に現像させ、姿をあらわさせ、地上の生活に顕出させる力、それを又、信仰というのです。一度、神によって与えられた確信を、すぐ芽が出ないからといって、あきらめないで、祈りと忍耐と持続する確信をもって(それが第二段階の信仰です)、その信仰という現像液の中でかくされた実体が、発現するのを待つ。
 あるかなきかの、からし種一粒ほどの信仰でよい。その信仰を、しっかり発芽させ発色させることを学びましょう。
  (1976.5.2「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-12-20 11:10 | 日岡だより

No.673 湯わかし器の話/帰ろう 2014.12.7

湯わかし器の話
 
 ガスの火がパッとついて、コックをひねると、お湯がジャージャー出る。瞬間湯わかし器という奴。
 ところで、このコックをひねってもお湯が出ない、「なんだ冷たいじゃないか」と思ってのぞいて見ると、火がついていない。この火がついていないというのにも二通りあって、元火がついているけれども通水管の下で威勢よく炎が上がっていないのと、全然元火もついていないというのと。
 クリスチャンもこれに似ている。元火もついていないクリスチャン(?)が多々あるようですが、これはいただけない。元火はついているが、聖霊の炎が燃え上がっていないクリスチャン、これは多いのです。ですから、出てくる水は、あつくもない、冷たくもない、生ぬるい水です。
 心が、内でもやされると、出てくる言葉や表情、しぐさが実に愛、喜び、聖さに溢れてくる。これは、いくら真似をしてもダメなので、真実、内で燃やされぬと生きた表現になりません。
 しかし又、湯わかし器にたとえると、ガスはボウボウもえているのに、水道の方に欠陥があって、全然湯が出て来ないという人もあります。それは、余りに長い間使わなかったので、水道管がさびついているのです。
 さっそうとした身ぶり、快活な話し方、心底愉快そうな笑い声、そういうものをすっかり忘れてしまって、さびつかせている人がいます。少しは、準備体操か練習をしておくとよいのですね。(1976.4.25「キリストの福音」より)
 
 
 
帰ろう
 
 あなたが、万一孤児として育った方であったとしても、あなたがもし、ご両親のことを全然記憶していないとしても、あなたにご両親があったことは、疑い得ない事実です。この事実は、あなたの記憶や感覚とは矛盾するけれども、信じ得べき事実です。その何よりの証拠は、あなた自身です。あなたが、今ここにあるということは、あなたにご両親があったという事です。
 それと同じように、私たちが今ここにいるということは、この私と、この万有とを、造った神がおられるという事です。神が無いなどという人は、口さきでそう言っているだけで、本当は誰でも神を信じています。少なくとも求めています。周恩来は、死ぬ少し前に、「私ももうすぐマルクスの処にいく」と言ったそうです。無神論唯物論の周恩来氏の心にも、ふと死後の世界が思わせられたのでしょうか。周恩来氏が死んだら、毛沢東氏は彼を「人民英雄永遠不朽」とたたえました。永遠とは神のみの属性であります。仮にも、そういう修飾語を使う時、天下の毛沢東氏も、どこかその心の一部で、神を恋うている事が分ります。
 
 人間として、誰か永遠を思わないものがありましょうか。又、無限の愛、不壊の人生を願わぬものがありましょうか。
 喉がかわくのは、本来どこかに水があるべきだからです。胃が飢えるのは、本来どこかに食物があるべきだからです。人間が永遠を求め、神を求めるのは、人間は本来そこに居たからであります。
 人間は、神に帰らなければ、本当の幸福はつかめません。
 人類は、神に帰らなければ、本当の文明を築き得ません。
 政治も、教育も、産業も。
  (1976.4.25「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-12-20 10:59 | 日岡だより