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No.667 奇跡のマリア姉妹会 2014.10.26

奇跡のマリア姉妹会
 
 三月十四日夜、西ドイツのマリア姉妹会のシスター・ミス・ビスタよりすばらしい証しを伺いました。その一部を左記にかかげます。(林実先生の文章による)
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 マリア姉妹会を訪れる度に感じるのは、そこに満ちているイエスへの愛とアドレーションの霊である。ともすれば失いやすいイエスへの初めの愛が、姉妹たちの心の中に絶えず燃えているのである。また訪れる者に強く迫るのは、主の流された血汐によってきよめられ、日々の悔い改めを通して、光の中を歩んでいる姉妹たちのきよらかさである。私は姉妹たちと食事を共にする幸いを得たのであるが、姉妹たちの待ち受ける食堂に入ってゆく時、デービッド・ウィルカーソン師(十字架と飛び出しナイフの著者)の証しを思い出した。ウィルカーソン牧師は姉妹会に招かれてメッセージに来た際、姉妹たちの内より発するあまりのきよらかさにうたれて、思わずひざまづき、涙と共に主の憐れみを乞うたのであった。
 マザー・バジレアの隣に座って食事をしたのであるが、その食事の際、主が姉妹たちの祈りに答えて与えて下さったものが一つずつひろうされ、全員がいつくしみ深き父なる神に感謝と讃美を捧げたのであった。靴下からはじまってセロテープまで入っていたが、姉妹たちはジョージ・ミューラーのようにすべての必要を祈りによって満たされているのである。「カナン」の地には、千人以上収容できるチャペル、最新式の設備を備えた印刷所や放送スタジオ、世界中から訪ねてくる大勢のゲストのためのゲスト・ハウスが、十ヘクタールの美しい緑の中に点在しているが、これら全てが祈りのみによって与えられている。その驚くべき神の奇跡については、高橋三郎氏の訳された「神の現実」(待晨堂刊)の中にくわしく記されている。
 姉妹会のある「カナン」の中央には、「父のいつくしみ」と名づけられた噴水や、「ガリラヤ湖」と名づけた池があるが、姉妹たちが何年も祈って奇跡的に与えられたこの土地には、最初、水が一滴もなく、地質調査の結果も全く絶望的であった。しかし、神の奇跡を妨げているのは自分たちの罪であり、めいめいがその罪を告白して悔い改めるなら、主は水を与えて下さる、と信じた姉妹たちは、信仰をもって水の一滴も出ない所に「ガリラヤ湖」を造るべく土を掘り、石やセメントで湖の基礎造りを始めたのである。ヨシュアのエリコ攻略を思わずにはいられない信仰である。やがて湖底の基礎は完成した。水の一滴もない「ガリラヤ湖」……。しかしその時、生ける神は奇跡をもって姉妹たちの祈りに応え、豊かな地下水をお与えになったのである。専門家でさえ、「奇跡だ!」と叫んだのであった。
 又、姉妹会はいろいろな野菜を栽培しているが、「カナン」の農園も数年前までは世間の農園と同じように、干ばつや日照り、様々な害虫や害鳥に悩まされていたのであった。しかし、マラキ3・11のみ言を示されたマザー・バジレアは、「めいめいが罪から離れるなら、主はすべての害虫を追い払って下さるにちがいない」、と信じたのであった。そして、その通りになったのである。有害な農薬を一切使うことをやめたカナンの農園からは全ての害虫が姿を消し、それ以来、毎年農作を楽しむようになったのである。
  (1976.3.21「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-10-31 23:00 | 日岡だより

No.666 人間エンジン/集会を重んぜよ/あいさつ 2014.10.19

人間エンジン
 
 今、世の中は不景気です。
 どこへ行っても、不景気な話ばかりです。
 しかし―――
 世の中がどうであれ、景気にふりまわされるようでは、一人前ではありません。
 まわりの状況がわるい時、困難や行きづまりに出会う時、それを人生というエンジンのガソリンとして、積極的に吸収しなさい。
 
 私がもし、人生をつっ走るエンジンであるなら、最大のパワーを出す強力なエンジンでありたい。この人間エンジンの容量は、その人生の目的によって大きくもなり、小さくもなります。
 人生は、目的を持ったときに始まります。そこから、何かをやろうとする熱望がわきます。目的と熱望の大きさが、人間エンジンのパワーを決定します。
 
 私の勇気は、「地の果てまで福音をのべ伝えよ」という目的と熱望を持った時に生まれた。私は狂えるごとく、その目的を追うのである。そして、人が変ったように大胆、且つ行動的になったのである。
 人を動かすものはなにか。それは、心の底からの熱望である。
 この熱望に、たしかな目標(目的に至るための具体的にしぼったより近距離にある具体物)を与えよ。この目標に顔をかたくむけて、先頭きって前進せよ(マルコ一〇・32)。
 これが物事に成功し、成就する秘訣である。
 人間は、だれも弱虫です。
 しかし、目的をもったとき、勇者になります。
  (1976.3.14「キリストの福音」より)


集会を重んぜよ
 
 キリスト教は孤独の宗教ではありません。「私の名によって、二、三人集まる所には私もいる」とイエスは言われた。「この地上で、二人のものが心をあわせて祈るなら、必ずかなえられる」と約束されました。その弟子を伝道につかわされる時、かならず二人を一組になさいました。
 イエス御自身は、一人でしばしば祈られましたが、それでも最後のゲッセマネの祈りでは三人の弟子に共に祈ってくれるよう願われました。まして、私どもには一人で祈るよりも、二人以上の共同の「密室の祈り」が好ましいように思われます。ペンテコステの恵みは、百二十人の密室の祈りに答えて与えられました。ピリピの牢獄で、パウロとシラスは心を合わせて祈りました。
 集団(集会)のある所に、聖霊の臨在を感じるのは、聖書の上からも、経験上からも、真実であります。信仰はしばしば、孤独の時よりも、集会の中で導かれます。
 高慢な人間の心は、集団学習をきらい、独学を好みますが、残念ながら、独学は効果の上りにくい、能率のわるい学習方法です。まして、キリスト教の信仰は、集会の中でつちかわれます。
 日曜礼拝、水曜の祈祷会、各家庭での任意集会、それぞれの集いに、どうぞ積極的に参加して下さい。信仰が目に見えてすすみます(ヘブル一〇・25)。
 (1976.3.14「キリストの福音」より)


あいさつ
 
 「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」(ルカ一・44)。
 マリヤのあいさつを聞いた時、エリサベツは、こう答えています。
 一言のあいさつが、人の心を躍動させ、神の国にその心の扉をひらく事もあり得ます。ともあれ、あいさつは人間の交わりの第一関門です。
 「あなたは誰にもあいさつできますか。知らない人にもあいさつできますか」
 これは、ある成功したセールスマンの後輩への忠言です。そして
 「一般市民としての当り前のあいさつでなく、あなたの商品を売るセールスマンとしての特別のあいさつを、必ずすべての人にしていますか」
 と言ったそうです。
 セールスマンにとって、すべての人が見込み客であり、セールスマンはすべての人に商品を売り込むべき動く店舗であるなら、彼はどこででもプロのセールスマンとしてのあいさつが必要なわけです。
 私たちは、「いのちの言葉」のセールスマンとして、あらゆる時にあらゆる人に向かってなすべき、話法の第一声―――あいさつを身につけたいものです。
 「不景気ですねえ」
 「悪い天気ですね」
 「毎日さっぱりです」
 こういうあいさつを、うっかりしている人が多い。
 私どもの群で、今おこっているあいさつ運動は、ポーズ入りである。
 「イエスは主!」
 「イエスは勝利!」
 「ハレルヤ!」
 口々に、これらの言葉を身振り手振りで元気よくやって、壮観であります。
(1976.3.14「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-10-23 09:57 | 日岡だより

No.665 心を守れ/神は霊である/いのちの泉 2014.10.12

心を守れ
 
 あなたが、石ころを拾いたいと思うと、体がかがまり、手が自然にのびて、路上の石ころを拾う。からだは道具であり、心が主人であります。心は目に見えませんが、たしかな実在であり、各自の人格それ自身であります。イエス様は、心を倉にたとえました。善き人は、善い倉から善いものを取り出し、悪しき人は、悪い倉から悪いものを取り出します。善い行為、善い言葉は、善い心から出ます。「油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉は、これから流れ出る。」(箴言四・23)のであります。
「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
わたしの語ることに耳を傾けよ。
それを、あなたの目から離さず、
あなたの心のうちに守れ。
それは、これを得る者の命であり、
またその全身を健やかにするからである。」
 (箴言四・20~22)
 心を守るには、心から「曲った言葉、よこしまな談話」(箴言四・24)を捨て去ることです。そして神の言葉(聖書の言葉)を、「豊かに宿らせなさい」(コロサイ三・16)。そうすると、御言葉は各自の心の中に根をおろし、意識の深み―霊層にまで根づいて、人間の革命をおこします。善と喜びと愛、創造と奮起の精神、そして肉体の健康をすら造り出します。
 病んでいる人、弱っている人、罪に呻吟している人、へりくだって神に帰り、神の言葉を心にたくわえ、これを口に告白して、神の救を得なさい。(申命記三〇・14、ロマ一〇・10)
  (1976.3.7「キリストの福音」より)
 
 
神は霊である
 
 心の深みは霊であります。人間は、霊と心と体から出来ているのです(Ⅰテサロニケ五・23)。霊は、「神が私たちのうちに住まわせて、ねたむほどに愛しておられる(ヤコブ四・5)」といわれる、人間の最中心部であります。アダム以降、人間のすべては、この最中心部を罪によって欠落している罪人だというのが、聖書の人間理解です。
 肉によって生れた人間は肉である。肉の思いは死であり、肉にあるものは神を喜ばせることができない。しかし、霊によって生れるものは霊であり、霊の思いはいのちと平安である。だからイエス様は、ニコデモという当時の知識人の一人に「あなたがたは、新しく生れなければならない」と、言われたのです。欠落している霊を新生させて、はじめて人は神の前に生けるものになるのであります。(ヨハネ三・1~8、ローマ八・6~9、創世記二・7)
 高等な動物には、人間と同じような心があるように見受けられます。しかし、よく注意してみると、それは殆ど感覚というべきもので、人間の心に特有の自己意識がありません。この自己意識の深みをさぐっていくと、もうろうとしてきて、自分で自分がつかめなくなります。この底なき深淵のよどみに、超自我を回復することを、霊の誕生といっていいかもしれません。それは「神の子」としての、自覚であります。
 
 ともあれ、心も霊も、人の目には見えません。見えませんけれども実在します。
 神も霊であって、人の目に見えません。体が、心の道具であり、体のうごき(目や、しぐさや、口のことば)で、その内にある心を察するように、人間は神によって造られた万物の運行を見て、それらを道具としてお使いなさり、統御なさっている霊的実在の神を察することができます(使徒十七・25~27)。神を否定するのは、自分の心(自己意識)を否定するのに似ています。そして、自己を否定して生きれば無責任な道徳欠陥者を生むように、神を否定する人間や社会には、もっと甚だしい虚偽、圧制、比倫が生じるのです。
 (1976.3.7「キリストの福音」より)
 
 
いのちの泉
 
 神を否定するという事は、自分の根源を否定することです。
 神を見出しなさい。そこに平安と喜びがあります。
 教会においでなさい。ここに、神の霊的場があります。神の実在と、救いがひしひしと、身にしみてわかる所です。
 からだの健康、家庭の祝福、職業の繁栄。すべては神より溢れ出る命の泉によるのです。
 (1976.3.7「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-10-17 19:53 | 日岡だより

No.664 人生というマラソン 2014.10.5

人生というマラソン
 
 毎年、一月か二月になると、別大マラソンが行われます。当教会のすぐ近くの道が、コースに選ばれます。何年に一度か、この競走を見ることがあります。あんなに速いスピードで何十キロメートルも走るのかとびっくりします。見ているこちらの方が、心臓の破れそうな気持ちのする程エネルギッシュに風をきって走りぬけていきます。
 マラソンは、古代より、ギリシャの国民的競技であります。聖パウロは、ギリシャ地方の伝道旅行において、マラソンの事をじかに幾度か見聞きしたこともあったかと思われます。
 
 「………私たちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(ヘブル人への手紙一二・1)
 
 「耐え忍ぶ」という言葉は、どこかヨタヨタして疲れきった、弱りきった感じがあります。しかし、マラソンを見るとき感じますが、先頭をきる集団ほど元気で、尻尾の方ほどへこたれています。聖書に出てくる「忍耐」という言葉は、英雄的表現でありまして、決して泣きべそをかいて、獄吏に引きずられて這いずりまわっているような「耐え忍ぶ」ではないのです。
 
 昔、東海道五十三次を韋駄天のように走る飛脚のベテランがいました。その男に、「どうして、そのように速く走れるのか」と聞くと、「道の上の赤い石を見つけて走るんだ」と答えたそうです。次から次へと、視界に入ってくる道路上の赤い石を目ざしつつ、余念なく走っているうちに、足は自然に江戸から京に向うわけでしょう。
 
 「………イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル人への手紙一二・2)
 
 人生のマラソンにおいて、忍耐して、完走して、勝利の栄冠を得る(Ⅱテモテ四・7、8)為には、この目標がいるのです。赤い石ではつまらない。それでは東海道五十三次を行ったり来たりするだけです。朽ちぬ永遠の冠(Ⅰコリント九・25)を得るためには、イエス・キリストをあなたの目標としなさい。
 
 「………私は目標のはっきりしないような走り方をせず、………」(コリント人への第一の手紙九・26)
 
 普通、人生は旅にたとえられます。芭蕉の「奥の細道」の冒頭の句に見られるように、人生を旅として受けとめる感傷が日本人にはつよいのです。そして、それは正しく俳諧的(or徘徊!的)難渋にみちた、トボトボと放浪する荒野的人生観であります。
 そこには「走る!」という颯爽とした、果敢な人生観がありません。しかし、新約聖書の人生観は「走りぬく」人生であります。
 
 「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし……」(Ⅱテモテ四・7)
 
 クリスチャンの人生は、戦いぬき走りぬく人生であります。私どもの教会も、献堂式を終わって、今ホッとしています。しかし、マラソンで言うなら走りながらジュースを飲んでも、腰をおろして一息つくことは、許されません。折り返し点をまわったら、そこで感傷にふけるいとまはありません。早速、つぎのコースに走りつづけるのであります。
(1976.2.29「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-10-17 19:49 | 日岡だより