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No.659 水戸黄門と周恩来 2014.8.31

水戸黄門と周恩来
 
 昨年の暮まで、テレビの人気番組だった、東野英次郎主演の、水戸黄門。実に、面白いのですね。筋はもう、分りきっているんです。正直ものがいて、正義漢がいて、分らずやがいて、可愛い娘がいて、悪家老や、悪徳商人がいて、危機一髪の処で、黄門さまが出て、悪人どもが退治される。黄門さまが「ウォッ、ホ、ホ」と笑う。ナレーションが荘重に人生訓を語って、毎週よみきりの一篇。まことに、面白くて、タメになる。正直言って、私も、しばしば見とれてしまって、時間の無くなるのに舌打した程でした。
 
 人生が現実に、ああいう風にうまく回転するかというと、そうは行かない。そうは、うまく問屋がおろさぬ事を知っているから、一般庶民は、ああいうテレビ・ドラマを喜んで見るのです。
 
 善い事をすれば、よい報いがある。
 善人は必ず、栄える。
 悪い事をすれば、悪い報いがある。
 悪人は必ず、ほろびる。
 
 これは、庶民の、素朴な信仰です。
 現実の世界を、ぐるりと見まわすと、必ずしも、そうではない。正直ものが損をし、ウソつきの方が金をもうけ、益々善人を困らせている。
 その現実を見れば見る程、家に帰ってテレビを見る時は、その現実にはない理想の世界を見たくなるのです。
 テレビは、今や庶民の宗教です。
 人生を、冷静に、つき放して見ると、人間は、世界の中に、いとも不安定に、不条理に、無目的に、放置されているように、見えます。そういう、人間の状況を、レアルに描写し、その実存をつきつめる書き方をすると、批評家はほめてくれるが、一般庶民はソッポをむきますね。一般庶民は、やはり、水戸黄門が好きです。
 
 善悪ともに、それぞれ善悪を以てむくわれる。善人は栄え、悪人はほろびる。
 これは真実であります。
 現実、これに相反する事がおこって、いかにも残念でありますが、(旧約聖書のヨブ記は善人に何故患難がおそってくるかという、理解しがたい人生の不条理にいどんだ、世界最古の文学であります)、然も、この信念をもちつづける処に、庶民の魂を貫いて神が示し給う真理があると思います。
 
 会社は、経営を停止し解散しようとする時、必ず決算をします。損益の精算をつけない法人はありません。
 同様に人間は、
 「一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きをうけることは、人間に定まっている」(新約聖書ヘブル人への手紙九・27)
 のであります。つまり、人間は人間としての決算をつけるのです。つけざるを得ないのです。人間は、本能的にそれを知っています。そこで、いかに現実面と食い違う処があっても、正義は栄え悪は亡びるという水戸黄門を喜ぶのです。
 
 先日、中共の周恩来氏が亡くなりました。その弔問式に、毛沢東氏の文字があって、
 「人民的英雄永遠不朽」
 とあったそうです。
 無神論唯物論の国の人でさえ、すぐれた人物、愛する人物を、永遠に生きよ!とたたえずにはいられないのです。
 死後の生命、死後の決算を、今の私たちは唯物論的合理主義で実証する事はできません。しかし、一般庶民が水戸黄門を愛するのも、中国人民が周恩来氏を永遠不朽とたたえるのも、同じ心、同じ希望から出ているのではないでしょうか。
 
 「一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きをうけることは、人間に定まっている」
 これが、もし真理だとすれば、私たちの人生は、目の前の幸不幸、運不運、職業や結婚や財産や家族、その他人生百般のことで一喜一憂する以上に、考えなおす観点が別にあるという事になります。
 「永遠の相の下に」もう一度、わが人生を見なおしましょう。ウエストミンスター寺院の信仰問答にいわく―――
 「人生の目的は何ですか」
 「人生の目的は、神の栄光をあらわすこと、これです」
 ―――!
     (1976.1.25「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-31 23:00 | 日岡だより

No.658 「信仰短言」「聖書と祈祷」「神の慈愛はかわらず」 2014.8.24

《信仰短言》
 
 沈香もたかず、屁もひらず、熱きにもあらず、冷やかにもあらず、信仰もあるようで、無いようで―――。こういう人間になりかけていると気づいたら、一晩くらい無理して起きて祈りなさい。その晩、神様と約束したことを、次の日から、奥さんから叱られようと、社長から「首きる」と言われても、友人から、「変人!」と言われても、必ず実行するとよい。
 会社は首になり、女房には逃げられるかしらんが、神様の世界は少しは分るようになります。
    (1976.1.18「キリストの福音」より)
 
 
聖書と祈祷 
 
 聖書と祈祷に、一日に一時間ささげよう。これは、この一月四日におねがいした、今年の目標の一つです。
 勿論、人により、その事情により、一時間が、三十分になっても二時間になってもかまわない。それぞれの、神様との相談できめてください。
 マナの事蹟(出エジプト十六・14~20)より学びましょう。多く集めたものも、少なく集めたものも計ってみると、同量一オメルであった。聖書をよむ時間の量も、このマナの事蹟に似ています。しかし、できるだけ、最良の時間を、できるだけ多く取って下さい。
 次の日曜日(一月十八日)の説教テキストは、出エジプト記第二十三章より選びますので、お読みになっておいて下さい。何度も、何度も、音読し、そして祈り、又祈っては読む、そういう風に読んで下さい。
    (1976.1.18「キリストの福音」より)
 
 
神の慈愛はかわらず 
 
 神の慈愛は、天地に満ち満ちている。すべての造られたもの、わけてもその内の最高の作品である人間に対して、神の慈愛は、こぼれ落ちんばかりに、満ち溢れている。
 然るに、おかしな事に、人間はその慈愛を拒否する。イエス様のたとえ話に、王の婚宴にまねかれて、これを断わる者たちの話がある。畑に行くとか、牛を買ったからとか言って、理由にもならぬ理由をたてにして、折角の王様の招待をことわるのである。
 それは、当時の社会にあって、あり得る筈のない、とっぴな例話であった。そこに、この例話の面白さがある。現代風になおして言えば、天皇の園遊会に招かれるとか、アメリカ大統領の晩餐会に招かれるとかいうような、名誉この上もない話で、然も旅費ホテル代向こう持ちというような、断る筈もない結構な話なのだ。そういうタナボタ式のいい話を、一方的に断ってしまうという、非常識なおかしな話を持ち出しておいて、どうだ、それよりももっと不思議でおかしな話があるぞ、どうだい、神様のせっかくの愛を拒否するとはねェ、と言いたいのが、イエス様の胸の内だ。
 この、不思議な神の招き。招いたからには、礼服までも貸してやろう。恥はかかせまいという神様の寸法だが、この寸法が、人間の間尺に合わぬ。ごたくを並べて、神様の処に行かぬ。古代の中東の王宮には、王宮に用意した礼服があった。招待客は、その礼服に着がえて招宴についた。自分の自前の服を脱ぎたくない、ヘンに高慢な人間は、王宮に入れないのである。(マタイ二二・11―14)
 ルカ福音書十五章に出てくる放蕩息子にも、自分なりの言い分はあったろう。然しともかく失敗であった。行き倒れ、飢え、そして破れ、くだけた。奴隷になってでもよい、とにかく自分のやり方をすてて、父の家に帰るのである。父の慈愛のもとに帰るのである。
 必要な事は、神の慈愛のもとを、離れぬ事である。(ローマ一一・22)。ただ、ただその慈愛をはなれず、そこにとどまっておればよい。そのような素晴らしい神の慈愛に召し給いし、「神の賜物と召とは変ることなし」(ローマ一一・29)と言う。この不変の召し、賜物を信じるから、私の信仰は不動である。(一九七五・一二・三一夜 越年祈祷会)
     (1976.1.18「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-27 17:19 | 日岡だより

No.657 新会堂にて、初めての礼拝 2014.8.17

新会堂にて、初めての礼拝
 
 一月四日、昨夜の雨もやみ、新会堂にて、最初の礼拝をいとなみました。会するもの、二十名、清新の気分、喜びにみたされて、まことに素晴らしい第一回の礼拝でした。
 「イエスは主、イエスは主」と、さんびの自由唱を合唱する時、会堂の音響が、わりに良好で、これまでの畳の上の集会とことなり、いささかいわゆる「教会」に行った感じになりました。
 メッセージは、ローマ人への手紙第十二、第十三章を用いました。「ヘビは何度、皮がぬけても、もとのままのヘビです。しかし、さなぎは、全く内部構造が一度解体され、肉体組織を再編成されて、蝶に化体(メタモルフォー)されます。キリストの霊によりて新生された人は、心がもう一度解体され心が化体(メタモルフォー)されて、新しき人になる。そういう人は、あたりは夜であるのに、一足早く朝を身内に感じてトキをつげるにわとりのように、世を先んじて朝を知り、昼の衣を身にまとって、昼の行動をする。そのような人に造りかえ(メタモルフォー)られる。そういう人は、神に喜ばれる事、神に受け入れられる事、全き事が何であるかを実証して悟り、且つそういう聖化された生活を神にささげることができる。何度も何度も決心しては失敗する、ヘビの脱皮術のごときものではない、本当に心が『解体→化体』する変身を経験しなさい。これが、第一次回心したものの、次への道程です。」と語る。
 集会後、しばらく茶菓にて愛餐の時。初めてこの礼拝に出席されたK兄と、心ゆくまで話しあえて感謝でした。
 この月、中旬より、小学生の為の礼拝をはじめたく思っています。
    (1976.1.11「キリストの福音」より)
 
 
一九七六年
   三つの姿勢、三つの目標
 
 一年の計は元旦にあり、などと昔から申します。私どもの教会の今年の目標を、主に示して頂きたくて、切に祈りました。昨年のくれ、の事でした。その時、主は私に三つの姿勢と、三つの個人的具体的目標を、教えて下さいました。
 三つの姿勢とは、神さまに対する、私どもの取るべき、三つの姿勢です。それは
 一、神にささげる。
 まず、何事も神にささげる態度で、神さまに接しよう。礼拝も、伝道も、奉仕も、生活も、まず第一に神に捧げるのだと、心にきめてかかろう。そうすれば、成果の上がらぬ事も自分の失敗も苦にならない。また逆に、立派にやれたとて、心に誇る事はない。ただ、よき捧げものが、主に対して出来た事を謙虚に喜ぶだけだ。
 二、神にもとめる。
 次に、すべての必要を、神に求めるのだ。前述のような、捧げるべきものや、行為の力をも、凡てを神に求めるのだ。たとえば、ある人の家計の為に祈るとする。第一に、第一項のとおりに、その祈りを神に捧げる。しかし、その為には、この第二項のように、祈りを神に求めないと、他家の家計の為に、いかに祈ってよいか分からない。あるいは、隣人の為に、奉仕する時、その奉仕はまず神に捧げる為にするのだという気持でないと、その奉仕が、いやらしい偽善や傲慢の所作事になる。そして、具体的になにをするのかという行為を、神に求めないと、実際問題として、どうしてよいのか分らないのです。
 三、神に栄光を帰す。
 最終の態度。すべてがおわった時、あるいは途中で沙汰やみの時、あらゆる時、これは栄光の為だと、信じて、神に栄光を帰し神をさんびする。以上の三つが、三つの姿勢です。この三つの姿勢を持して、次の、三つの具体的目標を各自どうぞ持って下さい。
 
1.聖書と祈祷に、一日一時間ささげよう!
2.伝道! この一年、一人が一人を最後までみちびこう!
3.主のよき枝たれ。教会の世話をよろこんで、一人一役!
 
 右のような、個人目標を、是非あなたのこの一年の目標にして下さい。この目標をまず、「できるか」とか、「できない」とか自問自答する前に、神さまの為にするのだ、と言いきって神さまにささげるのですよ。そして、このような事を私にさせて下さいと、神さまに求めるのですよ。これらは、一切、主の栄光に帰す事です。主の栄光を担保にして、この為すべき力を主に求め、そしてこれをささげる(為しとげる)事を誓約するのです。
(1976.1.11「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-27 17:14 | 日岡だより

No.656 信仰短言、クリスマス 2014.8.10

《信仰短言》 
 
         ×
 敵を愛するということは、むつかしい。
 しかし、敵のために、祈るということは、できる。
 そして、敵のために、祈っていると、愛がわいてくる。
         ×
 むかし、「日本人ここにあり」と言って、有名になった男がいた。
 本当に、「われここにあり」と言えるのは、神だけである。
 人間は、神の前に立つ時だけ、「われここにあり」と自覚する。
 「主は活く、我も活く」と。
         ×
 たいてい、成功した人は、見通しのいい人だ。そして、そんな人は、計画性もあるし、備えもある。
 そんなに、見通しのいい、考えの深い人でも、死のことや、自分の魂のことは計算に入れていない人が多い。
 そんな人は、歩を成らせるのに夢中で、王様のことを忘れているヘボな将棋さしと、同じである。大実業家も大臣も大学者も、えてしてそんなものである。
         ×
 「神をおそれるは、知識のはじめである」と、旧約聖書にある。
 これは、神をおそれることが。知識の第一歩であるとか、入門であるとか、いうのではない。神をおそれることは、知識の基礎条件であるということだ。
 神をおそれず、神にそむいて知識を得たのはアダムである、その果ては死である。
 神をおそれぬ知識の所行は、あらゆる教育も政治も、協議会も条約も、人類の死を呼ぶ。
    (1975.12.21「キリストの福音」より)
 
 
クリスマス 
 
 私は、にぎやかな、クリスマスがなじめない。キャバレーや、デパートのクリスマス便乗風景はもちろん、教会のクリスマス祝会ですら、好きでない。子供の学芸会さわぎは、冒涜のようにすら感じる。
 しかし、ストーブの音だけが耳に入り、しんしんとして静かな聖日、簡素な会堂で行うクリスマス礼拝は好きである。
 世間はちょうど、歳末のあわただしい時で、そういう時だからこそ、いっそう、そういうあわただしい世間から、選び出されて、神の恩寵の前に立たされているという、感謝と喜びにみたされる。
 
 イエスは、馬小屋で生れた。
 旅さきの、何もかも行きとどかぬ、不如意の中で生れた。
 イエスの寝かされた、ベビー・ベッドは、馬の餌箱であった。
 イエスが生れた時、天使は共にうたってくれた。しかし、その歌声をきいたのは、下級労働者の羊飼いたちだけである。
 世間はだれも知らない。世の知らない処で、この大事件のしょっぱなは、おこった。
 
 クリスマス!
 それは、今もおこることである。
 いや、おこらねばならぬことである。
 私の中に。
 馬小屋や、馬の餌箱どころではない。もっと、よごれはてた、どぶ川に埋れてくちた、肥桶のような私の中に、イエスが生れる。
 
 どんな奇蹟があるといっても、イエスの誕生を、私の中にむかえるということほど、奇蹟はない。
 そして、そのイエスの生が、日々私の中に営まれるということほど、素晴しい奇蹟はない。
 このことを、世は知らない。それは、世間の片すみでおこる。
 こういうことは、小さい事だと思っている。
 一人一人の、主観的な、些細なことで、天下国家に関係はないことと思っている。歴史や文化に縁どおいことと思っている。
 
 中東の片すみでおこったキリスト教は、ローマ社会をかえた。
 ドイツの田舎大学よりおこった宗教改革は、ヨーロッパをかえた。
 今また、地球の全面に住む人類の上に、あたらしい精神発酵のおこる時がきている。物質文明の過熱によって、米は炊きあげられ、むしかえされている今ここに、少量のこうじ菌をふりかけさえすれば、世界はかわる。
 
 私たちが、イエスをむかえるということは、世界の歴史において、大変なことなのだ。その自覚をもとう。
 私たちは、一人一人着実に、隣人にこのこうじ菌ならぬ、イエスの生命を伝播していこう。
 愛しにくい人を、愛しなさい。
 人の為に、祈り、労し、生命をすてなさい。
 
 サンダー・シングは言う。ある時、ヒマラヤの雪の中で、旅人が寒さに倒れかけていた。一人の旅人がそれを見て、通りすぎた。サンダー・シングも、今にも凍え死にそうで辛かったけれども、その倒れかけた旅人を背負って旅を続けた。すると見よ、しばらく行くと、さき程、半死の旅人を見捨てて通りすぎた旅人は、寒さの為に凍え死んでいた。然るに、サンダー・シングも、また背にした半死の旅人も、互いのあたたかみによって、二人とも元気を回復していた。
 愛は死に打ち勝つのである。そして、この愛のプレゼントの主こそ、イエスである。
(1975.12.21「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-13 17:10 | 日岡だより

No.655 福音の源泉に帰れ(つづき) 2014.8.3

福音の源泉に帰れ 
 
    四、福音の支配
 
 福音とは、単なる「よきおとずれ」以上のことである。耳で聞き、目でよみ、心でナットクして、受け入れさえすればよいという「告知」以上のことである。「よきおとずれ」のそのおとずれが、人間の魂の髄に食い込む為には、理解や決断をこえた、神の証言力が迫ると、人間の魂はガバッと分る。その神の証言性こそ、本当のおとずれ(つまりことば)なのである。
 神のことばとは、はじめよりありし処のもの、万物を造った神の創造原理、生命の原理、光の原理である。死人を死より生にうつし、暗黒より光明にきりかえて、死と罪の法則より解放する力である。ヨハネが「つらつら見て手でさわった」ことのあるそのことば、ペンテコステ以後多くの真実のクリスチャンたちが「つらつら見て手でさわり」得たかの如き聖霊の力、それが福音である。
 管球を電源からはずして放置しておく、いくらみがいても、拭きこんでも光らない。しかし、少々汚れていようが、ほこりがついていようが、電流を通しさえすれば、管球はサン然と輝く。管球は、電流(光の力)にふれて、暗黒の力より解放されたのである。
 今、この世は一見、暗黒の支配下にあるように見える。しかし、暗黒の原理は負の原理であって、あるように見えるのは、虚構である(その虚構におどらされるサタンや罪人は実体である)。実在するものは光の原理のみである。故に、やみは光をかくすことはできぬ。光はやみを放逐する本性をもつ。光は実在であり、やみは非実在であるから(但し、やみにおびえ、やみに迷う人間は実在である。だから、やみに迷う人間がたちはだかると光のこなたにやみができる)。
 その光の原理が、目に見えぬ網の目のように、この世界にはりめぐらされて、かくれた電流の如く息づいているとしよう。これが、この暗黒王国の中にかくれる、もう一つの秩序・神の支配(くに)である。あたかも、やみの中に、はりめぐらされた高圧電流の鉄条網のようである。まっくらやみに見えるが、それにふれるものがあると、パッと全地を照らす。そのように、この世界に神の言葉(キリスト)の原理(力)が根をはって息づいている。これにふれて、光をはなて。御言葉うちひらきて、光を放、それが光の子である。
 
    五、聖書のよみかた
 
 聖書を読むには、聖書の中にピチピチはねている神の証言にふれることが肝要だ。それが「いのちのことば」だ。「御言葉を豊かに貯えよ」と言って、聖句を暗誦して頭の中に聖書の知識をつめこむことは、悪いことではない、勿論よい事だが、ベストではない。そして、しばしば、ベターはベストの敵である。同様の意味で、いわゆる聖書研究は危険である。「ものみの塔」式は勿論、無教会流の聖書研究も。
 聖書をよむ時、聖書にある神の証言(力)に感電されて、そして今の時代を聖書の中に移しかえ、その中であなた自ら聖書中の人物、聖霊の人にさせられる、そういう読み方がよいのです。
 
    六、生命原理
 
 これが福音である。あなた自身が、その神の証言、つまりロマ書八・2に言う「生命原理」によって、罪と死の原理から解放され、この天地を舞台にして、大いに手足をふるい、精神を躍動させて、神の栄光の表現者になれるという事、この大解放の源泉こそ福音である。
 全人類よ、生命原理である福音の源泉に帰れ!(終)
 
 〔註〕神のことばが全天地にみちあふれても(詩一九)私になぜ聞こえぬか?
 原子の中にかくれていて、一向実用的電力にならない電気のように、全天地にみちみつる神の臨在(聖霊)は、人間の救に直接作用しない。そこまできている、いや私自身神の体、神の宮であるのに、私に神が作用しない。他のエネルギーを発電機で捉え、全天地に満ちる電気を見える形で私どもの処に送り届けてくれる、この発電機をキリストに例えられないだろうか。聖霊は、至る処に充満していても、あらためて、キリストよりキリストの霊として受けなければ、聖霊は私のもとにチャージされない。神と人間と接触のこの二様性は、東洋思想とキリスト教思想の重要なむすび目になりはせぬかと思う。
(1975.12.14「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-08-13 17:03 | 日岡だより