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No.654 福音の源泉に帰れ 2014.7.27

福音の源泉に帰れ 
  
    一、今は暗黒の支配

「私は世の光である。私に従うものは暗き中を歩まず、生命の光を得べし」
 とイエスは言われた。しかし、イエスが死んでしまわれると、弟子たちはまことに、「はなむこに死なれた、はなむこの友」のように嘆き悲しまざるを得ない。かつて、イエスが
「バプテスマのヨハネ。あの人はあたかも燃えてかがやくあかりであった。みんなはその光の中で、しばし喜んだのだ。しかし、私にはヨハネの証言よりも、更に大きい証言がある。」
 と言われたお言葉はいつわりであったか。
 事実、主はこうも言われている。
「光のある間に歩いて、やみに追いつかれぬようにせよ。」
 けれども、主御自身やみに追いつかれ、やみの力に負けていたかに見える。実に、
「今は汝らの時、今は暗黒の支配なり」
 と言われたのは主御自身であった。
  
    二、再生の原理
 
 神の原理は二枚腰の原理である。明るさに向かう「けれども」の原理である。回復の原理である。死より生に甦える再生の原理である。
 イエスの死によって、無力と恐怖と罪責のどん底に陥っていた弟子たちを、生き返らせたペンテコステの原理である。
 イエスと共にあった生命の光は、一度はサタンに屈服してかがやきを消したかに見えたかもしれないが、今やあらためて暗黒の支配をくつがえし、光の支配の到来を世に示したのである。
 あのペンテコステの日、弟子たちの上に、それぞれ炎のごときものの舌が分れてとどまり、かれらは異言を語りはじめた。その時暗黒の支配を裂き、霊風をまきおこし、神の証言をあらためて、弟子たちの口より、語らせはじめた。新しい息づきの時がきたのである。
    
    三、神の証言
 
 神の証言とは「われは有りて有るものなり」という、神の自己宣言である。それは、はじめよりあり、神と共にあり、凡てのものを造った「ことば」であるのである。私の意思と私とが一つであるように、「ことば」と神とは一つなのである。
 ことばは、語られ伝えられ、形成されていく。
 詩篇第十九篇をみよ。神の言葉は、声なく響きもないが、全天地にみちわたる。被創造物の一切は、神の証言である。その知識のことばは日に夜に語り継がれる。即ち宇宙と世界の歴史の一切が神の証言である。神の言葉は、モーセに、十戒の石板に、ヘブルの民族の歴史に、預言者の言葉に、そして聖書に、次々と形をあらわしていく。そして、遂に、ことばは肉体を取ってあらわれ、主イエスの御生涯となる。
 故に聖書がみことばであるというのは、それが言語でしるされた本であるという故ではなくて、聖書を聖書たらしめている神の証言の故である。イエスの伝記を福音というのは、イエスの人格そのものが、神のことばであるからである。(つづく)
   (1975.12.14「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-07-31 23:00 | 日岡だより

No.653 信仰短言、母の祈り 2014.7.20

《信仰短言》
         ×
 人を見てはダメです。
 自分を見てもダメです。
 イエスさまだけを見るのです。
         ×
 軍人には、特有のよい性質があります。物ごとに、真正面にぶっつかってい
く、むくな気性です。
 「イエスの正面に立っていた百人隊長は」(マルコ一五・39新改訳)………
 この百人隊長のように、十字架上のイエスに、正面に向いあって立つとき、
人ははっきり悟るのです。
 「この方は、まことに神の子であった」(マルコ一五・39)と―――
         ×
 国鉄の操車場に行って見ますと、貨車の入れかえをやっています。ポイント
のきりかえで、貨車の行き先の方向を変えてしまいます。キリスト教でいう「救」
もこれに似ています。地獄に向かっていた人間列車を天国行きにきりかえてし
まいます。
         ×
 二人の男が山に入って毒きのこを食った。毒きのこの毒は二人の男の体内に
入って、理由もない憤怒心をおこし、二人の男AとBは大喧嘩をはじめる。表
面の姿で見れば、A対Bの争いである。しかし、真相は(A+B)対毒きのこ
の争いである。政府と労組、企業と市民運動、自由主義国と社会主義国、それ
ぞれの争いの底にひそむ共通の敵(毒きのこ)はサタンである。また、サタン
に身をゆるしている我々の「罪」でもある。
 当面その大喧嘩をやめさせる対症療法も必要であるが、根本療法は更に必須
である。
     (1975.12.7「キリストの福音」より)
 
 
         
母の祈り 
 
 有名な説教者、T・D・ウィット・タルメイドの父、ダビデ・タルメイドが
十八才の時のことでした。彼はその頃、弟のヤコブと妹と一緒に住んでいまし
た。ある晩、三人はパーティーに出席することにしていました。
 病床に伏していた母は彼らが家を出る前に、三人をベッドのそばに呼んで「お
前たちが家に帰ってくるまで母はひざまずいて祈っていますよ。そのことを忘
れないでね」と言いました。彼らは出発しました。そして午前二時頃帰宅して
みると母はまだベッドのそばでひざまずいて祈り続けていました。
 翌朝早く母タルメイジは夫を揺り動かしました。そして誰かの泣き声がする
から見てきてくれるようにと頼みました。
 ためらいながら廊下に行った父タルメイジは、娘がそこにひざまずいて泣き
ながら祈っているのを見たのです。そして話しかけると、「お父さん、小屋へ行
ってください。ダビデはわたしよりもお父さんの助けが必要です。わたしはだ
いじょうぶですから」と彼女は言いました。
 小屋へ行って見ると、ダビデは心の罪を示され、魂を砕かれて泣いていたの
です。父は彼と一緒に祈りました。するとダビデは「ヤコブのところへ行って
ください。彼は今わたしよりもお父さんの助けが必要です。彼は車の中にいま
すから」と言いました。
 このようにして、神はタルメイジの三人の子供をその朝救いに導かれました。
それは彼らの母の執ような明確な祈りの答であったのです。
 ダビデには少し離れたところに婚約者がおりました。祈りおわった彼は、彼
女の家へ走っていきました。そして彼と彼の弟と妹が救われたすばらしいニュ
ースを伝え、彼女も主を信じ、主にすべてをゆだねるようにと勧めました。
 一緒に祈ったとき、彼女も救われました。そしてこのニュースは教会に伝わ
り、驚くべきセンセーションを巻き起こしました。そして恵み深い、大いなる
リバイバルが燃え上がったのです。
 ダビデのこの婚約者こそ、後日T・D・ウィット・タルメイドの母となった
人物なのです。それから数年たってから、彼女は四人の主婦を毎週水曜日に集
めて、彼女たちの子供の救いのために祈りました。その結果、彼女と四人の主
婦の全家族が救われたのです。
 彼女の祈りと誓約は五家族全員が救われるまで守り通されたのです。執よう
な祈り、信仰による祈りは必ず聞かれます。(恵みの雨十一月号より)

 心から出たものでなければ、心に届くことはできません。(ウィリアム・ペン)
     (1975.12.7「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-07-31 01:57 | 日岡だより

No.652 信仰短言 2014.7.13

《信仰短言》
 
 信仰というもの、頭で信じるんじゃない。腹で信じるんです。
 聖書を、知力で読むんじゃない。腹で読むんです。
 御声を、耳で聞くんじゃない。腹で聞くんです。
 主の御みちびきに、小手先細工で従うんじゃない。腹の底から従うんです。
         ×
 ヨガの呼吸法で、エクスタシーに入るという人がある。座禅がよいという人がある。
 いろんな行を積んで、仏界を遊行するという人がある。
 異言や霊歌で祈っていると、天界が見えるという人がある。
 そういう人はすばらしいと思う。私は三十年来、そういう境地にあこがれ、聖者たちを夢みてきた。
 私は、すでに五十才をすぎた。所詮、そういう機根は私には無いように見える。
 私は、今へりくだっている。霊性、霊能を高めることを、自我欲求であこがれている間は、何もおこらないことこそ、御恵みである。
 しかし、三昧!好きな言葉である。
 今のわたしは、ただ、キリスト三昧!
 キリスト三昧!
         × 
 足が痛くても、頭が痛くても、痛むのは私です。案外、足の痛みも頭の痛みも、その原因はおなかにありはせぬか。ところが、頭が頑固になり、足がストライキをおこすと、おなかが私が被害者だという。いいえ、原因はあなたがたにあり、そして全体が苦しんでいるのです。(スト突入の日に)
   (1975.11.30「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-07-16 17:32 | 日岡だより

No.651 迫害下におけるクリスチャン 2014.7.6

迫害下におけるクリスチャン
 次にかかげるのはルーマニア地下教会の指導者R・ウオムブランドの著書よりの抜粋である。
◇共産党政府の刑務所で耐え忍んだ拷問のあとにも、私が共産主義者を憎むようにはならなかったのである。彼らも神に造られたものである。どうして彼らを憎むことができよう。
 私の主であるキリストは、共産主義者を愛しておられる。彼ご自身が、すべての人を愛しておられ、九十九匹の正しい羊をおいてでも、一匹の迷った羊が失われてしまうことをよしとされなかったおかたである。使徒たちも、世々のキリスト教の偉大な教師たちもみな、主の御名による、このすべての人に及ぶ愛を教えた。セント・マカリイはこう言った。「人がもし、全人類を熱愛していると言いながら、あるひとりの人だけは愛せないというなら、その人はもはやクリスチャンではない。なぜなら、その人の愛が、すべての人を含む愛でないからだ。」アウグスティヌスもこう教えている。「もし全人類が正しい人間であり、たったひとりだけ罪びとがいたとしても、キリストは世に下り、このひとりの人のために、同じ十字架を忍ばれたに違いない。主はかくもひとりびとりを愛しておられるのだ。
◇あとになって、かつて私たちを拷問にかけた共産主義者が投獄されてきた。拷問をした者とされた者とが同房になった。クリスチャンでない人たちが、以前の尋問者に憎悪を示し、打ちたたいたりする中にあって、自分も打たれたり、共産主義者とぐるだと非難されたりすることを恐れず、彼らをかばうほうに回った。クリスチャンが最後に残った一枚のパン(当時は一週に一枚のパンしかもらえなかった)を、今は同囚の身である病気の共産党拷問者に与え、また命をとりとめる薬を与える姿を見た。
◇孤独な獄中では、私たちは以前ほど祈ることができなかった。私たちは、想像もつかないほど空腹だったし、白痴になるぐらい麻酔をかけられ、まるで骸骨のようにふらついていた。主の祈りでさえ、私たちには長すぎて、全部祈るだけの集中力がなかった。何度も私がくり返して祈ったただ一つの祈りは、「イエスさま、あなたを愛しています」というひとことだった。
 ある輝かしい日、私は主イエスからの答えをいただいた。「わたしを愛しているというのか。では、わたしがどのようにあなたを愛しているか見せてあげよう。」一瞬、私の心に、太陽のコロナが吹き上げて燃え盛る炎のようなものを感じた。エマオ途上で、弟子たちは、イエスが話しかけられたとき、心が燃えたと言った。私たちすべてのために十字架にかかり、いのちをささげられたかたの愛を私は知った。このような愛は、いくら共産主義者の罪が深いと言っても、それを締め出すことはできないものなのである。
◇十四年間の獄中生活をふり返ってみると、とてもうれしい時もあった。他の囚人たちや看守でさえ、なぜ、最悪の環境の中でクリスチャンは喜んでいられるのかを、しばしば不思議がった。私たちは、讃美を抑えることができず、打たれることがわかっていても歌った。うぐいすも、歌を歌い終わったら殺されることがわかっていても、やっぱり歌うだろうと想像する。獄中のクリスチャンは、喜びのあまり踊り出すこともあった。こんな悲壮な状況にありながら、どうしてそんなに幸福になれるのだろうか。
◇地下教会の私たちには大会堂はない。しかし、どんな教会が、私たちがひそかに森に集まったとき仰いだ大空の美しさに比べることができよう。小鳥のさえずりがオルガンの代わりとなり、花のかおりが私たちの香となった。最近釈放された受難者のみすぼらしい洋服は、司祭のガウンよりずっと印象的であった。月と星が私たちのろうそくであり、天使がろうそくに点火してくれる私たちの助手になった。
 この教会の美しさは、とうてい筆で書き表わすことはできない。秘密の集会が終わると、しばしばクリスチャンが逮捕され、刑務所に送られた。そこでクリスチャンは、ちょうど花嫁が、愛する者から受けた宝石をつけるように、喜びをもって鎖をはめる。刑務所の川は静かだ。そこではキリストの口づけと抱擁を受け、どんな王の地位とも取り替えようとは思わない。私は、真実の喜びにあふれたクリスチャンを、聖書と地下教会と刑務所の中だけに見いだした。
   (1975.11.23「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2014-07-09 23:02 | 日岡だより