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No.645 「勿体ない」  2014.5.25

「勿体ない」 
 
 山腹の寺院の一角に、こんこんと泉がわいている。その水を一人の修業僧が杓子で水をくんで一口のんだ。そして残った水を何気なくその辺りに捨てた。それを見て師は叱って言う。
 「一杯の水も、イノチあるもの、天の恵みぞ。なぜ残った水なら、そばの木にでもそそいでやらぬ。勿体ない事を……」
 天は我々に無償のおくりものを豊かに注いでくれている。光を、空気を、水を、大地を。それをありがたいとも思わず、無暗やたらとらん費して文明の終末状況を呈しはじめたのが現代である。現代人は「勿体ない」という言葉を忘れた。百円を捨てるのも勿体ないのだが、それ以上にタダの水を捨てる事の方がさらに本質的に勿体ないことなのだ―――この感覚が現代人には失せている。
 大分駅前の「地の塩の箱」に、額に汗して得た金を投じる事を「勿体ない」と思う人も多かろう。しかしそれ以上に、あの「地の塩の箱」より、幾らかの金をつかみ出して、近くのパチンコ屋に行ってパチンコ玉を買う事の方が更に「勿体ない」事なのだ。
 「地の塩の箱」の金は何に浪費されようとらん費されようと、悪用されようと、それについて何一つさしでがましく指図しない無償の金であるのだから、それを取り何に使おうとも、背信でも罪でもない。さきの修行僧が残りの水を地べたに捨てるのと同じ事である。しかし、それは折角の無償の提供であるおくりものを無駄にするので無償提供者に対して、「申しわけない」というような一種の心にチクリとさすものを覚えるだろう。これが「勿体ない」心だ。法律的犯罪とはちがう良心の深い痛みだ。
 イエス・キリストの生命は、神より人類への無償のおくりものだ。これを、受け取るか、捨ててしまうかは、私たちの自由な選びにまかされている。もし捨ててしまうなら、「勿体ない」ではすまされないことと思うのだが………。
          
 今度、大分駅の付近に行ったら、あの「地の塩の箱」に百円玉一つでも入れてごらんなさい。コトンと、中でころがる音がして、それきりですが、その時無償の行為のすがすがしさの幾分かは味わえます。そして、このような心の無限大の倍率のかなたに、神の愛をかいまみることができます。
(1975.10.19「集会だより」より)

 
祈りの家
 
 エルサレムの神殿において、イエスは売り買いするものや両替人どもを追い出して言われた。「わが父の家は祈りの家ととなえられるべきではないか。それだのにお前たちはここを強盗の巣、商売の家にしている。」
 今も、私達は神様に祝福をゆすったり、なにがしかの犠牲や礼拝を捧げて恩寵を引きかえに頂こうとしている。正しく、これ強盗の巣、商売の家にしているのではないか。
 まず、私達はもう一度本当の祈りとは何であるか、それを学びたい。それは神学書でも、信仰の啓発書でも分らない。祈りは、祈りによってでしか分らない。そこで、祈ることを、この集会の今後しばらくの目標にしたい。この集会を「祈りの教会」としよう。私ども一人一人「祈りの人」になろう。私どもの生活を、「祈りの生活」としよう。
 時間をかけて祈ること、毎日継続する祈り、とりなしの祈り、協同の祈り、叫ぶ祈り、無言の祈り、異言の祈り、霊唱の祈り、断食の祈り等々いろいろな祈りを体得すべきだ。
 私自身の自戒として、ここしばらく「祈り」を第一とする。事を始めるに祈り、為すに祈り、終わって祈る。祈ることにより、能率を悪くしようと、損をしようとかまわない。まず祈る事を第一の道とする。他の事は、祈りの次だ。
 祈りは信仰生活の根だ。この根をしっかりはって、神の流れのほとりに住みさえすれば、神の生命は必ず私どもの上に実をみのらせる。(詩一・3)
(1975.10.19「集会だより」より)
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by hioka-wahaha | 2014-05-28 16:08 | 日岡だより

No.644 真の救済者 2014.5.18

真の救済者 
 
 人間を深い死の淵より救い出し
 心と肉体をいやし
 家や組織に平和をあたえ
 世界を滅亡より引き戻す力は
 武力でも金でもない。
 すべてのものの根源者である。
 真理のみである。
 真理とは単なる法則とか理念ではない。
 万物の創造者、唯一の神である。
 その神が化身してイエス・キリストとなった。
 イエス・キリストのほかに救い主はない。
(1975.10.12「集会だより」より)
 
 
新会堂を建築します 
 
 現在使っている集会室は、旧光研印刷の初期の印刷工場を改装したものです。目下のところ、集まる人も少ないですから、結構こじんまりした集会室で、かえってなじみやすいくらいかもしれません。しかし、和室ですので坐ることの不得手な若い人たちには、苦手なようです。それと、今後二年の内に「百人教会」に成長させて下さいと祈っているのですが、(これは東京から帰ってから以後の祈りです)、そうした「百人教会」の入れものとしては、今の集会室ではどうにもなりません。着実に人数が増えてから、大きな会堂を建てるという手もありますが、このたびはまず入れものを造るようにと示されました。
 現在の集会場の、道をへだてた向いがわの宅地に約三十坪の木造建築(あちこちにある大教会に比べれば至って簡素なものですが、当集会としては益々ならぬ信仰を要します。確信をもって建築に取りかかる予定です。ご加祷下さい。特別に献金のお呼びかけはしませんが、四、五百万円の資金の必要な事は判りきっています。釘宮の私財も光顕印刷の再建にほとんど使い果たしていて必要額の十分の一も今はないでしょう。しかし、なすべく主に幻をあたえられたのですから(そして御旨はたしかですかとくどい程祈ったあげくです)主がこの御計画を完成し給う事でしょう。
 人に求めず、主に求めるジョージ・ミューラーや、ハドソン・テーラーの信仰にならって今後の道を進みたく存じます。
(1975.10.12「集会だより」より)
 
 
 
最近の読書 
 
1.愛と平和を    ジャネット・リン著(英友社発行)
 札幌オリンピックで人気を集めたジャネット・リンの自伝です。無邪気で可愛らしいあのジャネット・リンのすばらしい演技の秘密が彼女の信仰にあった事が分ります。非常に素直で、何の起伏もないような信仰生活ながら、それが非常に力づよく魅惑的な信仰です。一つの道にあって世界一の人気を得るだけの人の事はあるなあーと感嘆しました。異言をめぐまれて自由に祈る彼女、神の平安に毛布に包まれるように包まれてリンクに出たという彼女、その若々しい語り口は最上です。装丁もきれい、少女にもたのしく読めましょう。

2.聖霊に満たされてから メーベル・フランシス著(いのちのことば社発行)
 自我について、これほど明確に書いてくれた本は少ない。自我が頭をもたげてきた時、それをいかに処理するのか、それをこれほどくわしく書いてくれた本は少ない。小冊子ながら「聖霊に満たされてから」以後の人に特に見てほしい本である。この中で、ミス・フランシスが「自我を十字架につける」というのは、「ハドソン・テーラーの生涯とその秘訣」(いのちのことば社)に出てくる「主のもとにゆきて生命の水をのむ」というのと凡そ同じ信仰の境涯を示していると思う。聖潔体験以後の復活の生命にて栄化されるまでの栄化への一つ一つの路程を示しているかと思う。

3.讃美の力  マーリン・キャロザース著(生ける水の川発行)
 これ程、すばらしい本はない。前掲のミス・フランシスの本や、ハドソン・テーラーに出てくる信仰の秘訣も、さて我がものにしようとすると、どうも勝手がわからない。そういう人が多いと思う。「信じる、委ねる、へりくだる、自我に死ぬ、主を仰ぐ、生命の水をのむ……等々」の信仰のすすめも、結局レストランのショウ・ウインドウを見せつけられるだけで、どうしたらそれが我がものになるか、見当がつかない。そういう悩みに、この本は解答を与える。この本は賜物の内容を説明するというよりは、そのすばらしい賜物のいただき方を伝授するのである。もう一つすばらしいのは、カリスマ的大伝道者(教祖級)の霊気にふれなければ体得できぬという恩寵ではない。この本一冊の通信教育的実習で十分享受できるすばらしい信仰の賜物であるという事だ。(釘宮)
(1975.10.12「集会だより」より)
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by hioka-wahaha | 2014-05-26 11:51 | 日岡だより

No.643 手術の痛みを負い給うイエス――山本和萬先生の証し―― 2014.5.11

手術の痛みを負い給うイエス
     ――山本和萬先生の証し――
 
 山本和萬先生は、私の最も親しい、且つ尊敬する同労の牧師であります。今度東京にいって先生のすばらしい入信当時の証詞をききました。私は長年つきあっていながら、初めて聞く話だったものですから、「なんで今まで黙っていたのです」と抗議したくらいです。多分、相手かまわず処も選ばず、しゃべり散らすには余りに勿体ない珠玉のような体験だったのでありましょう。
 山本先生は少年時代秀才でして(自分ではそうは言いませんが)、戦前の海軍兵学校に入学したのですから相当なものです。当時、県立Aクラスの中学校の一番か二番でなくては海軍兵学校に入れませんでしたくらいですから。ところで兵学校を出て戦争に行き、敗戦になって日本に帰る。物資もなく失業者の溢れているあの時代に、肺結核になりました。抗生物質治療の発達した今日、肺結核はそれほどの難病ではなくなりましたが、戦争直後の日本ではまだまだ死の宣告をうけるにひとしい大病でした。
 山本先生は、当時別府市街の背後地(なだらかな山のすそ野で本当に自然環境のすばらしい処です)にある石垣原国立病院に入院していましたが遂に肋骨六本をきり取る手術をすることになりました。これは相当な大手術で、まだ肺外科手術の始まったばかりの当時のことです。そんな手術をうけて、いったい手術室から生きて出れるのやら、死んで出るのやら、一向見当のつかない恐ろしいことでした。
 その手術の前日、山本先生は病院をぬけ出て近くの松林にはいりました。そして祈りはじめました。祈り! それは多分先生にとっては初めての経験ではなかったでしょうか。先生の話によると、入院当時先生はずいぶん茶目でいたずら好きの人であったらしい。御当人の口で言わせれば、「規則をやぶって、外食はする、目白取りに出る、看護婦はいじめる、そんな悪いことばかりしていました」ということになる。その頃、病院内で開かれていた聖書研究会にもちょいちょい出席していたけれど、そういう悪行(?)はやまず、熱心な求道者というわけでもなかったようです。その先生も、大手術の前日、不安や焦そうの中で思わず祈らずにはいられなかったのでありましょう。
 「神さま、私は本当に悪い奴でした。明日は手術です。死ぬかもしれませんが、このままでは死んでも死にきれません。これまでの私を許して下さい。私のすべてをイエスさまに委ねます。」
 このように祈っていると、不思議な平安が先生にやってきました。静かな信仰の喜びが心にみち溢れました。
          *
 さて、翌日手術室に入りました。執刀は、同級生の某氏で、胸の整形手術ははじめてで、それで用心に用心を重ね、大きく切り取ってゆっくり手術するから、大手術がいやが上にも大手術になったんだ、と山本先生は笑うのです。
 手術はおわり、個室に入り、麻酔がとけ、激痛が先生をおそいはじめます。一分、一秒の時間の経過に、もだえ、すがりつくようにして痛みをたえていく。このひどさは、今思い出しても気が遠くなる程です。
 その時、先生はふと昨日の松林での祈りを思い出しました。
 「昨日、神さまに祈ったんだったな。イエスさまに一切を委ねてしまったんだったな。しかし矢張り今、こうして激しい痛さの中ではたえられないなァ。イエスさま、あなたはよかったなァ。あなたは神の子だから十字架の上でも、どんなひどい目にあっても痛いことなどなかったでしょうから。おれはダメだなァ。おれは痛いなァ。」
 ―――そんなことを、激痛の合間合間に、とぎれとぎれに思うのですね。
 しばらくして、一つの声が、先生の心に聞こえたそうです。それはイエス・キリストの声でした。
 「和萬よ、そうじゃないんだよ。私は痛んだのだよ。あの十字架の上で。お前達の痛み以上に苦しんだのだよ。お前達、人間すべての罪、苦悩、痛みを背負って、私はくるしんだのだよ。今、お前が苦しんでいるその痛みも、既に二千年前ゴルゴタの丘の上で私が共に苦しみ、背負った痛みなのだよ」
 その時、先生はまだ次の聖書の言葉を知りませんでした。しかし、それと同じ内容の御告げを、書いた文字によらず、人の口の言葉によらず、御聖霊自らの働きによって心に受け取ったのでありました。
 「まことに彼(キリスト)はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。
 ……その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ。」
 (イザヤ五三・4、5)
 神の御子イエス・キリストが苦しんで、我々人間の罪苦痛を救うとは、人間の頭では理解できかねるバカバカしいとさえいえることでしょうが、「万物を造られた神様が、多くの人の子を栄光に導くため、イエス・キリストの苦難によって、その救いの御業を完遂なさるのは、神様にはふさわしいことである」と聖書は言っています。(ヘブル二・10)
 その不思議なる声ならぬ声がおわると同時に、先生の体の中に刷毛でぬぐうように、なにものかが通りぬけるのが分りました。そしてスッとあのきびしい痛みがなくなりました。その時から、痛みは決して戻って来なかったそうであります。
 こうして、山本和萬先生は、体も心も霊もイエス・キリストに救われたのです。《一九七五・九・二八 聖日礼拝説教の一部》
 
 
  私の悔改め 
 
 九月二十二日から二十七日までの東京・大阪旅行で多くのことを学びました。特に多くを山本和萬先生に学びました。それと、オズワルド・ズミスの「魂への情熱」を読んだのもよかったです。最後に二十五日の朝、日課でマタイ福音書第二十一章を拝読しました。そこの31・32にバプテスマのヨハネを信じた取税人や遊女たちは既に天国にはいっているとあります。
 私は二十二才の時、すばらしい回心をしました。人間とは妙なもので、神から恵まれたものを、あたかも自分でつかんだもののように誇りに思う処があります。
 そして、自分の霊的経験より低いと思われる人々の信仰(それが本当に低いのかどうか、天国に行ってみなければ分りません)をけなしたり批判したりします。それのみか、そんな程度では天国に入れませんよと言う。それが私でした。天国の門をしめて、人の入ってくるのをとどめるのです。
 ヨハネの悔改めの信仰、それのみを信じた取税人や遊女たちをイエスは神の国に入っていると確認しています。これはすばらしい事です。私には、悔改めの福音という事がよく分っていなかったらしくあります。クリスチャン・ホームに育ったおかげもありましょう、一気にパウロのダマスコ城外式回心をのぞむわけです。
 その故に、私のこれまでの伝道は、落果待機主義です。一個半個の手造り趣味です。機敏で多数を捉える救霊活動ができないのです。つまる処、霊能ショー(幕屋式)に陥らざるを得ません。
 私はもっともっと、「地の果てにまでいって福音を宣べ伝えよ」と言ったキリストの宣教の万人伝道・大漁主義を素直に信じたいのです。単なる伝道でなく、救霊だという事に目をさましたいのです。今後、多数の求道者を与えてください。凡ての求道者を主の御名にあずからせる熱情を与えてください。かく祈っています。《一九七五・九・二八の礼拝説教の一部》
(1975.10.5「集会だより」より)
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by hioka-wahaha | 2014-05-21 01:01 | 日岡だより

No.642 主を迎え入れよ(信仰の段階) 2014.5.4

主を迎え入れよ
         (信仰の段階)
 《先週の聖書講義》(一九七五・九・一四))

 聖書は神の言葉です。この神の御言葉に従って、神の人間救済の道を学びましょう。
 人が救われるのは、信仰によるのみです。信仰とは行きづまった私たちの生活、破綻した私たちの人間性の解決者として、私たちの内奥にイエス様に内住して頂くことであります。一定の信条とか、主義や哲学を信奉することではありません。
 私どもは、私どもの根底的な人間性において、又道徳や愛情、信頼、経済等あらゆる面において行きづまっています。その破綻の真の原因は罪である、つまり神へのそむきであると、聖書は告げています。
 「人間は神から造られているので、神に帰るまでは平安を得ない」と聖アウグスチヌスは言いました。聖書によると、人間が神に造られた時、神によって命の息を吹き入れられ、そこで生ける者になったとあります(創二・7)。命の息とは、人間の最奥にある霊(息と霊はヘブル語やギリシャ語では同一の言葉)をさしています。そこは、神との交わりの座でありますし、神の霊をうける処であります。(後述の図を参照)この霊の部分が人間の罪の結果損われ、活動を全く停止し、全く死んだ状態になっています(ローマ六・23)。
 この「罪過と罪の中に死んだもの」(エペソ二・1)になっている人間に対してその罪過を洗い清め(ヘブル一〇・22)、新しい生命を与え(ヨハネ三・16)、永遠の生命(ローマ六・23)、生命を豊かに与える(ヨハネ一〇・10)のは、神の豊かな御計画であります。只、一方的な無代価の御恩恵であります。
 神は義なる御方であり、又愛にとみ給う方であります。義は罪をにくみ、愛は罪をかばいます。この義と愛の相剋を埋めるのが十字架であります。
 ここに正しき人がいるとします。その人の子供が罪をおかすとします。その正しき人は、まずその罪をおかした子どもに対し、警察に自首することをすすめ、そして受けるべき刑罰をうけ、本当に悔改めて更生する事をすすめるでしょう。もしその子が承知しなければ首に縄をつけてでも警察に連れて行くでしょう。そして正当の報いを受け、罰金を払うべきならば、その父親が代って払ってやることでしょう。もしその子がまことに改心し、謙虚な心で刑務所に行き、あるいは死刑の宣告でもうけるならば、その父親は涙の中にも大いに喜び、出来る事なら、その子にかわって刑務所に行き、その子に代って死刑台に上りたいことでしょう。ここに、この父親の正義と愛の矛盾の相剋とその融合が見られます。ここにみられる「できる事なら……、身代りしてでも罪の罰をうけたい」という父親の願いが、イエス・キリスト様の十字架の死にあらわれているのであります。それが神の義と愛の矛盾の解決です(ローマ五・8、ヘブル書二・10、ヘブル書九・22)。
 私たちは、このイエス・キリスト様のあがない行(ぎょう)の故に、罪あるものが罪なしと認められ、たとい自分の目には悪性の人間と見えようとも神の目には聖なるものと見えるという洗い清めの神業が働くのです。これが「義認」です。キリスト教の信仰の第一歩はこの義認です。
 ところで、信仰の入門は、神を知り、おのが罪を知り、神に帰る決意をする時点にあります。この時点における神を知り、おのが罪を知り、神に帰る決意をするというのは、実は、d0065232_20241863.jpg人間の断面図では浅い処でやっているのです。Bの心で、しかもそのごく表面に近い浅い処で知り、決意しているのが普通です。本当に神を知り、おのが罪を悟るのはCの霊が開かれてからのことです。普通、教会では、この時期に早くも洗礼をさずけてしまうので、あとの指導がよくないと、ものにならぬまま教会を去ってしまう信仰流産児ができるのであります。
 通常このあとに(ある人は以上の入門期をとびこえて)、神様からの直接干渉があります。重大な転機です。ある人には「ハッ」と気がつく程度、ある人には百万ボルトの電圧がかかったような衝撃がきます。要するに、中心の霊(C)が息をふきかえすのです。創世記にある神より頂いて、そして罪の結果失っていた霊(息)が生きかえるのです。これを、新生というのです(ヨハネ三・3、ヨハネ三・16)。ヨハネ二〇・23で復活のイエスが弟子たちに「聖霊をうけよ」といって息をふきかけています。こうして、一度死んでいた罪の子は霊に生きかえるのです。これを私どもは「回心」と呼びます。この時、全くこの身を神に委ねている実感、神にうけ入れられている信頼感、義と認められたという平安―――そういった信仰に入るのです。
 信仰の成長ということから説明すれば、右の信仰の第一歩をふみだす時より、聖化がはじまります。「新生→聖化」という図式になります。聖化は漸進的でもありますが、又時に滝をとびこえ、せきをのりこえるように御聖霊の働きによって見事に伸びる時期があります。これを一部の人々は「聖潔」と呼びます。言葉の論理からいうと、これ以後は全く罪をおかさぬ聖人天使級の人になりそうですが、実はそうもいきません。しかし、一種言うに云われぬ倫理的自由感をもち得ます。
 こういうふうにして進歩成長しておる中に早く、あるいはおそく、人によってちがいますが、倫理的自由感というよりも、人間存在そのものとしての自由感、キリストとの一致感を得る時があります。これは信仰第一歩の「回心」に似て、全く神様よりの一方的干渉の下で、ある変化が私どもの霊におこります。
 それは、私どもの霊が生きておるのみでなく、全く主に支配されているという実感であります。たとえて言えば、これまで家を売って新しい家の所有者に法務局の台帳は名換されていた。毎月家賃を払ってはいたけれど、この家主に家の中に入ってもらった事はない。家がこわれれば修繕してくれ、何かと親切に気をつかってくれる家主であるが、家主であるならこの位の親切は当り前であると思っていた、これが新生している人間とイエスの関係です。しかし、第二の体験(私はこれを聖霊のバプテスマと呼びます)は、この家主に家を明けわたして、この家に入って頂き、私は彼の支配下に入るという事です。こわいこわいと思っていた家主はこはいかに、実際に入って頂けば本当の父親以上で、私は全く手厚い保護下にある子供のように自由快活でいられる、これが真のクリスト者の自由です。家の中に栄光と祝福が満ちます。
 このような、すばらしい恵みを求めて、私どもは何を為すべきでしょうか。ただ彼を我が内に迎え入れるのみであります(ヨハネ三・20)。ですから、こう祈りなさい。誠実な決意をもって。
 「主よ、私の内に入って下さい。私の王座におすわり下さい。永遠に私の内にお住い下さい。」
 そしてこの祈りをすましたら、この祈りが我が内に実現していると、信じて即刻只今「主は生く」と念じて主の足あとに従う如く生きて下さい。その時、あなたの内に、主の生ける水が、あなたの中なるかわいた川々に、みち溢れ流れはじめるのであります。
(1975.9.21「集会だより」より)
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by hioka-wahaha | 2014-05-08 20:16 | 日岡だより