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No.628 死を考え生を考える(1)死を考えないでおれるか 2014.1.26

死を考え生を考える(1)

死を考えないでおれるか

 私の若いときだった。四十年も前のことだ。ある長老の方と懇談する機会があった。その方が私に尋ねた。「あんた、どういうわけでクリスチャンになったの」。
 私は答えた。「人間、どうしても死ぬでしょ。この死の問題に悩みましてね。その解決を求めて聖書を読み始めたからです」。
 その人はフンと鼻先で軽く笑った。「いやぁ、僕も若い時にはそんなことを考えたよ。でも、今はもう考えないことにしている」。あたかも、そんなことを考えるのは時間のムダだよ、と後輩をたしなめるような口ぶりであった。
 「考えないことにしている」。この言葉にショックを覚えた。
 だれが予言しても当たる予言がある。「あなたはいつか必ず死にます」と言えばよい。この分かりきった自分の終末、前途不明な人生の幕切れを、考えないことにしているとは何たることだろう。また、考えないでおれる、とはどうしたことだろう、と思ったものだ。
 私の住んでいる家は大分市から佐賀関町に向かう197号線近くにある。この道をまっすぐ東に向かって佐賀関町を突っ切ると豊後水道に落ちこんでしまう。人生はこの一本道をみんな一斉に歩いたり走ったりしているに似ている。一人として逆方向に来る人はいない。
 「この先をどんどん行くと豊後水道に落ちこむんだそうですね」というと、人生の先輩たちは物知り顔に「ああ、そうだよ」と答えてくれる。「なぜ、あなたはこの道をゆくんですか」と聞くと、多分「さあ、よく分からないが、みんなが行くからわしも行くんだよ。あまり難しいことは聞かんでくれ」と答えるであろう。少なくとも、最初にのべた四十年前はそんなふうであった。そんな厄介なことを考えるのは、まあ、葬儀の式場に行った時だけであったろう。
 しかし、最近は様子が変わってきた。大分市ではまだそれほどでないようだが、ある人が東京の本屋では、「死と生」に関するコーナーにずらりと本をならべてあったのを見たという。気をつけて見ると新聞や雑誌で、終末医療(ターミナル・ケア)、脳死、死と老、こうした記事に目を触れぬことは珍しい。最近は特に天皇様のことで日本中の人々が尊厳にして悲しき告別のことを考えざるを得なくなった。
 死は万人にとって深刻で重大、かつ何にもまさってその人自身の問題であるのである。
 
(1988.10.6~19大分合同新聞で連載。全10回)
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by hioka-wahaha | 2014-01-29 16:12 | 日岡だより

No.627 須佐男命(すさのおのみこと)と天照大神(2) 2014.1.19

旅する手紙 第15号(1961.3.23)
 
須佐男命(すさのおのみこと)と天照大神(2)
                                             くぎみや・よしと

修養とは修(おさ)め養(やしな)う。この頃、私の処の子供が鳩を飼っていますが、おいおい伝書鳩にでもしてみたいのでしょうが、これが養いつつ修めさせることですネ。心に思い通りの技術・知識・くせをならわせるべく養っていくこと、これが修養です。最近の人は物質的知識や技術は大したものですが、心の(又霊的な)方面では全くゼロです。
 閑話休題、もとに戻って、まず天照大神型、誰もいない処(私室・教会や道場など・山の中etc)で全くひとりきりになります。天照大神が天の岩屋にひきこもったようにどこかにチョットの間(十分から三十分ほどの間でけっこう)ひきこもります。次には、須佐男命型です。その時のあなたが持っている感情をそのままズバリ百%噴出できるまで、叫ぶなり泣くなり笑うなり、不平ぐちこぼすなり、とんだりはねたり寝ころんだり、或いは案外ジット坐禅していたり、とにかく思いのままに心を外に露出して下さい。何もかも忘れて、赤ん坊のように、子供のようにハメをはずして、気ちがいのような時間をすごしなさい。
 あなたは時々、「ああ、オレも気ちがいになってみたい」と思うことがありませんか。それです、それです、その思いを十分にかなえてやる事です。但し、一人でね、チョットの間ネ。誰にも迷惑のかからぬよう、然し思う存分、思いのありたけ気のすむ程ワメクなり笑うなりして下さい。
 
 「王さまの耳は馬の耳」という秘密をしゃべることを禁じられたばかりに、病気になってしまった床屋の話を西洋の民話で読んだことがあるでしょう。彼はとうとう、しまいにたまらなくなって裏の山に行って、地面に穴を掘りその中に首をつっこんで(木のホラ穴だという伝承もあるが)「王さまの耳は馬の耳」と気のすむまでいうと、心もはればれとしてきて、そのうちにさしもの病気もすっかり治ってしまったというおハナシです。この民話くらい心身相関性の病気の説明をしてくれる判りやすい例話はありません。
 この民話に出てくる床屋に学びなさい。昔の王様は、今では社長であったり、姑さんであったり、となり組のオカミさんであったりします。そんな連中に遠慮して言いたいことも言いませんと、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」でしてね、万病のもと、ヒステリーやかんしゃく玉の原因です。
 始めに引用しましたイエスの言葉のように、子供の世界に帰って無心に、内からおこる衝動のままに動き語る(or暴れどなる orおどり唄う)ことを学び始めなさい。これは、肉体も精神も霊魂も真の健康を恢復する第一歩であります。まず始めに解毒剤のような作用をします。ずい分バカげた奇妙なことだと思うかもしれませんが、これは実はずい分と意味の深い内容の大きい事なんです。バカにせずに実行してみられるようおすすめします。
 
 〔附記〕宗教的な祈りの実修もここに書いたような気持でするといいのですね。気のきいたお世辞たらたらの祈祷文を上奏するより「ワーイ、神さまのバッケヤロー」とどなってやる方が神さまもよろこんでくれる事がありましょうからね。(終り)

※「旅する手紙」のシリーズはこれで終わりです。

(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。原文縦書き)
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by hioka-wahaha | 2014-01-24 23:07 | 日岡だより

No.626 須佐男命(すさのおのみこと)と天照大神(1) 2014.1.12

旅する手紙 第15号(1961.3.23)
 
須佐男命(すさのおのみこと)と天照大神(1)
                                      くぎみや・よしと

 子供を見ていますと、喜ぶ時は小おどりをしてよろこび、くやしがる時は地ダンダふんでくやしがります。大人になりますと、だんだんこういうことが無くなって、感情を心の中で押し殺してしまうようなことをします。然しホントウにその感情が死んでくれないものですから、あとでいろいろ災(わざわ)いがおこります。無理に抑制された感情が胃ガンとか心臓病の原因になるということは最近は医者でも言っているところです。
 
 『あなた方は、幼子(おさなご)のようにならなければ、天国に入ることはできない』
 とイエスは言ったそうですが、前述のような面から考えても、やっぱり真実の言葉ですな。子供のようにワァワァわめいたり大声で笑える人でなくては天国的たのしい生活はできませんね。
 だからといって、感情をすぐ表に見せて泣いたり笑ったりする人は周囲に大いに迷惑をかけるものです。社会秩序からいったらこういう人は困るのですよネ。そんなわけで、特に近所・親族のつきあいを気にした日本在来の道徳は親が死んでも泣かんのが男というような躾(しつ)けを尊んで来たのです。この「旧式」の道徳を、いちがいに悪いとは申せませんです。他人への迷惑を一向に気にかけないような感覚(センス)は、どこか人間として重大な欠陥を持っているわけなのですから。
 しかし過ぎたるは及ばざるが如し、余りに人に迷惑かける事を気に病んで感情を内に押し殺しているし、却って周りの人を陰鬱にし困らせる事があります。
 
 「古事記」を開いてみると、須佐男命(すさのおのみこと)は感情露出型です。自分の好きな国の王様にしてもらえないとあって口惜しくてたまらず
 「泣きに泣き、青山も枯れ、海川も乾し上る」ほど
 に泣き、その為に地上に蠅がわき、いろいろな災難が生じたと申しますから、これは見事な泣きぶりです。豪快なもンです。
 周りのものはタイヘンな迷惑ですが、泣いた本人はそのあとではサゾけろりんとしていたことでしょう。散々に悪たれつきながら、どことなくサッパリしていて憎めないヤクザもののようなタイプ。これが須佐男命です。
 ところで、その須佐男命の乱暴が余りにひどくて死人まで出る始末ですから、姉君の天照大神の御心労はひとかたでない、ついにノイローゼになって(などというと国粋主義者からは叱られようが)「天の岩屋にたてこもり、為に高天原はみな暗く、葦原の中つ国もことごとく暗し」というのですからよく読んでみると、須佐男命の乱暴による被害より、天照大神の憂鬱症による被害の方が更に甚大で区域が広い。正直ものの娘さんが一寸会社の金を使いこんで、そこで自殺さわぎを演じて周囲の人々がホトホト心配する―――というのに似ていますよネ。
 
 そこで須佐男命と天照大神の二つの型を一つにあわせて、うまい精神修養の道を伝授しましょう。精神修養というとコチコチになってマジメに生活することをいいますが、これは大マチガイ。(つづく)

(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。原文縦書き)
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by hioka-wahaha | 2014-01-24 23:05 | 日岡だより

No.625 昨日・今日の祈り(2) 2014.1.5

旅する手紙 第14号(1961.3.22)
 
昨日・今日の祈り(2)

         四
 私の昨夜から今朝にかけての祈り―――
「私は凡てを神に捧げる。
私の凡ては神に導かれる。
私の内には神性がある。
外皮をつきやぶってそれが完全に発芽し生長する。
パラクレートスの霊が私を助ける。この聖者のゆえに私は凡てをはじかる事なく神に求めいのる。すべて厚顔に……」
         五
 パラクレートスの霊とは、新約聖書のヨハネ伝後半にしばしばでてくる「助け主、真理の御霊」のことです。たとえば、ヨハネ伝十四章十六節
「(イエス曰(いわ)く、私は天界にのぼり父のみもとに行ったとき)わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は別に助け主を送っていつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう」
 助け主の原語はなぐさめ手とも訳せるパラクレートス、「そばに居る者」の意。(そばに呼びこまれた者とでもいうか)
 イエスが肉体を脱して天界に昇ったあと、父なる神はイエスの代りに(イエスとは別に)、私のそばまで来て私を助けてくれる霊者を送ろうというのですね。
 パラクレートスは「そばに招かれる者」の原意を持っていますから、ある意味からいえば私達の方から、招き呼ばなくては来てくれないのかもしれません。
 又、これまで私達についていた「守護霊」に転任を命じて、別に新しく聖なる真理の守護霊を送って下さるというのかもしれません、そうです、多分そうでしょう。よくは分りませんがね。
         六
 キリスト教で「聖霊」というと言葉で何といおうと実感としては神の感化力とかキリストの霊波というくらいにしかうけとれず、アイマイな人です。ある聖潔派の牧師が聖霊を「御聖霊さま!」と呼んで全く人格視しているのをみて感動した事がありますが、それをもっとつき込むと、右のような「守護霊」説がわいてきます。
 四章の祈りでいうと、こういう守護霊は本当に私についてのコマカイ処一つ一つのぞき込むようにして見てくれ守ってくれる親わしい有難い霊者です。
         七
 今、中学に行っている子供が帰って来て、PTAに行ってくれといいます。
 「オヤ今日がPTAだったかい」
 と、腰を上げかけた処です。ではこのへんで失礼!サヨーナラ。(終わり)


(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。原文縦書き)
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by hioka-wahaha | 2014-01-08 15:09 | 日岡だより