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No.614 ケロリ!前進!するがいい 2013.10.20

旅する手紙 第2号(1961.3.7)
 
ケロリ!前進!するがいい
 
         ☆

 イソップ物語ですかナ、又はほかの寓話ですかナ。こんな話があります。
 あるバカな親子がありました。ロバを連れて旅に出る事になりました。はじめ子供がロバの背に乗り父の方はタズナを取って歩いていました。すると通りすがりの人の曰く
「なんて親不孝な子だろう。自分はロバに乗ってラクチンしながら親だけを歩かせるなんて」
 これを聞いて
「おとうさん、おとうさん、聞いたかい、ぼく親不孝らしいよ。ぼくもうおりるよ」
「そうだな、お前が親不孝者といわれちゃ可哀そうだ」
 というわけで、今度は父親の方がロバに乗り息子がタズナを取って歩いていますと
「オヤオヤ、なんてひどい親もあるものじゃないか。自分だけがロバの背に乗って子供を一人歩かせているよ。あれじゃ子供が可哀そうじゃないか」
 と街の人が言います。二人は困ってしまって考えたあげく今度は二人いっしょにロバに乗っていると、「あれじゃロバが可哀そうだ」といわれ「なる程」と遂にロバの足を棒にくくりつけて二人でかついで行くと、橋があって、その上でロバがあばれだし川の水に落ちてしまいました。
 「ですから、自分自身の定見を持たず人の噂や意見ばかり気にしていては何もできませんヨ」という訓話ですね。

         ☆

 でも僕はこのバカな親子が好きです。自分で一度も川の水に落ち込んでみずに「定見」などというものを持っている人は天才かバカです。たいていの人がいう「定見」とは親や先輩(あゝさまざまの先輩のある事よ)から教わったこの世についての戒めにすぎません。そして習った事を一度も実際にやってもみずに一応の常識として持っている……。ところで、このバカな親子たちは人々が無責任にいう一つ一つの言葉に彼の全行為をかけて答えています。そして最後に失敗です。でも、この失敗は大きな収穫だと思います。
         
        ☆

 インテリの特長は何でも見たり聞いたりする時、何と批評しようかと身構えているという心のタイプ。新刊の小説をよみ始める第一頁の時から読後感の文章を考えているというようなあり方。映画を見ながら、泣きたくなっても自分は泣くのをこらえていて、トナリのおかみさんが泣いているところと画面をにらみ合わせて「母もの映画はなぜうけるか」という批評をねっているという具合。実は長い間ぼくもそんなふうだったのです。そして、これが一番ぼくの魂の発育をおくらせていた事に気づきました。
 以前は、本を読む時でも、できるだけその本に巻き込まれないように、影響をうけないようにと、一歩身を退けつつ読んでいました。それでもなおかつ、引き込まれてしまうような本が多くありましたがね。今は、できるだけ影響うけるように心をひろげて、トップリその本に浸ってしまうようにしてよみます。私の心の弦の全領域を開放して、どの糸でもかき鳴らしてもらうようにしておくのです。
 これは、①ずいぶんラクですしね、②それに世間ばなれせんですみます。浪曲をきく時も熊さんや八さんといっしょに夢中になってきく事ができ、会社の同僚と連れだってストリップを見にいっても同じようにヨダレたらして見ておれます。③そういうふうにズボラにやっていても魂に必要なものは何処かで摂取しているし不要のものはハネのけているし、そんな調子で魂が栄養失調になりません。④ただ一つ注意すべき事は、新しい刺激をうけると、古い刺激からの影響はすっかり忘れてしまってケロリと前進できる柔軟さです。
 意地をはらぬ事です。平気で針路を変更してマイ進する事です。その度にテンプクしたり大負傷したりするかもしれませんが、得る処は多大、ホントウに生きる喜びを味わうには近道であります。

         ☆

 さき程の「親子とロバ」の話、比喩として受け取るなら、例えば、人間の魂を父親、心を子、肉体をロバとしたらどうでしょうか。何だか、意味ありげにきく事ができます。さァ、これ以後の事はみなさんにおまかせします。
 悪筆失礼! さようなら。
 
(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。未発表。)
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by hioka-wahaha | 2013-10-31 23:10 | 日岡だより

No.613 旅する手紙 第1号(1961.2.28)-2 2013.10.13

旅する手紙 第1号(1961.2.28)
 
「信じる」という事について
 
 (つづき)
 でもねエ、内省的な人では却ってツマヅキのもとですし、又ああいう方法は魂の法則には反するように思いますね。
 多くの人が、信念と信仰をゴッチャにしています。(道理と信仰をゴッチャにしている位に)。意識に表面意識と潜在意識がある。同じく信念も表面意識でおこるものと潜在意識でおこるものがあります。表面意識で強固に同一観念を固執することを信念といい、潜在意識で思わずしらず信念されているものを信仰とよぶことにでもしましょうか、そうすると少しは信念と信仰の差が分ります。
 多くの宗教が、いまだに信念の宗教にすぎません。信念の人は、本人は意地をはって時にはエラク見えますが周囲の人にとっては肩がはり、気分が緊張し、メイワクな存在であることが多いのです。
 信仰の人は時には定見がなく、ヌラリクラリとしていて頼りない人のようですが、実はつきあっていてあたたかいたのしい人が多いのです。まして信仰の人が品行方正で酒をのまずタバコものまぬという人のことではありません。時にはアヘンをのみ、アヘンをやめようと思ってもやめられず、だからムリにやめようともせず、静かに天余を待っている信仰の人が居るかもしれません。
 あなたが、何教の人であろうと又無宗教の人であろうとかまいません。ただ意地をはる頑固な老化現象を来たしたような「信念」の人にならないで、ヒョウヒョウと人を許し、自分を許し、愛し、いたわり、至ってノンキに生きていく“信仰”の人になることを望みます。地球上には終末的様相がたちこめていますけれど、右のような人にとっては、この地球も楽園ですね。
 もし、神様というものがありますなら、我らは神のよい子(エリート)意識を持つのではなく、(馬鹿の子ほどかわいいというような)神に可愛がられる愛くるしい神の子になりたいと思うのです。
 オヤ、もう十枚かきましたナ。
 一寸多忙で、矢張り字が荒れました。申し訳ないがよろしく御判読下さい。
 御祝福をいのります。
                                    くぎみや・よしと
 
(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。未発表。
15号まであります。)

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by hioka-wahaha | 2013-10-21 10:01 | 日岡だより

No.612 旅する手紙 第1号(1961.2.28)-1 2013.10.6

旅する手紙 第1号(1961.2.28)
 
「信じる」という事について
 
 あるキリスト教の宣教師が
「あなたは神を信じますか、どうですか。人間はあれか、これかと答える以外ありません。さァあなたはどうです。信じるならば救われます。信じないならば救われません。あなたが“我信ず”と言えば救われます。そうでないならあなたは信じていないのです。さァ答えなさい!」
 とある求道者に迫ったという事です。
 その問い詰められた人は今「信じます」といっても、その言葉はどこかウツロで嘘であるようだし、また仮に今信じていると思っても迫害だの嘲笑だのこの世の事情で長続きしそうにないし、それかといってまんざら信じていないというわけでもないし、さぞかし返答に困ったろうと思います。
 その宣教師は、信じるということが、我々の意思で「我信ず」と言ってしまえば済むことだと思っているようです。しかし人間の決心というものがはかないものである事と知っている人は、そうカンタンには行けないのですね。
 イエスが「誓うなかれ」と言いましたが、本当にそうです。誓ってはならないというよりは、人間は誓うことができないのです。できもしないのに誓ったりするから、人をも自らをもいつわることになります。人をいつわることはまァゆるせるが、自らをいつわって気づかぬ人は神もこれを赦すことができません。(神の不可能です。)
 例をあげてみましょう。ここに相思相愛のカップルがあるとします。永遠の愛を誓って結婚します。そして次の日か、或いは何年かあとに男の(或いは女の)心がかわって他に移ったとします。決して心がわりしようと思って心がかわったのでなく、思わず(彼の意思に反して)かわったのです。彼がその心がわりを表明することは(いや表明しなくても)彼はかつての誓いを破ったことであるし、かといってその心がわりを相手に知らせぬことは芝居であり偽善であって、それ自体「愛」ということの真実要求性に反することです。その時、彼は(また彼女は)どうですればいいのです。そしてこの責任はだれが負うのです。
 これは多くの恋愛悲劇の素因ですし、人間の持っている大きな悩みです。心がすでにかわっているのに、相かわらず愛している格好をして、それで真実愛しているのだと、人をもだまし自らもだまされるタチの人はさておき、こういう心の手のつけようもない変化自在ぶりを自ら気づいている人は、さきの宣教師の言葉「信じますか、どうですか。さァ一言信じるといえば救われるのです、キリキリ返事をせい」式の伝道ぶりには閉口するのです。
 こういう時、人によっては、「ハイ、信じます」とキッパリ言ってみたトタン、その寸前アイマイだった心が本当に信仰に入っている人もありますから、伝道のメソッドとしては前述の宣教師のやり方でもいいことが多いのですね。外人宣教師は一体にザツだから、この型が多いのです。(つづく)
 
(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。未発表。15号まであります。)
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by hioka-wahaha | 2013-10-21 09:59 | 日岡だより

No.611 (1972.12.6「大分通信」No.9より) 2013.9.29

(1972.12.6「大分通信」No.9より)
(※この号の大分通信には、タイトルがありません、書けば「卓話寸言」だったと思いますが、短文の集まりで構成されています。)
 
 (つづき)
     *      *
 「一人すべての人のために死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり(コリント第二書五・十四)。」この聖句が、獄中の私を回心せしめたのであるが、今考えると、その時私は、神の「一即多」の原理にふれたのである。私はその後、あらゆることに於いて、キリストとの同一性に目ざめることによって、信仰の諸段階をふむことを学んだ。それは、あたかもラセン状の階段をのぼるに似て一種の弁証法的上昇運動をくりかえすのであったが
     *      *
 イエスは神の独り子である。これが正統的キリスト教の信条である。神に独り子があり、それがイエスなら、他に子供は無い。一つの場所を二つのものが同時にふさぐことはできないという初歩的物理学の原則に似た、初級算数の理づめである。
 「この独り子イエスによる以外に救いは無い。わたしたちを救い得る名は、これを別にしては天下のだれにも与えられていない。」――――これが使徒行伝第四章十二節における聖ペテロの宣言である。これを言葉通りにとると、おシャカ様も、孔子サマも、道元サンも、日蓮サンも救われない。そんな馬鹿な事があるものか。人を救うのは、あのイエスという人物ではない。イエスをキリストたらしめた、そのメシアとしての実存である。それが神の独り子性だ。その神の独り子としての脱イエス的実存が、全世界、全宗教の救いであると、かねてより思っていた。その実存が、「一即多」として、万人共同体験できるし又、万人共同保有の筈のキリスト性であるとしたら、神の子は「独=全」という数式がなりたつ。
 これはいけない。これはいけない。こうして理づめで反キリスト教的な口吻をもらしてみても仕方ないことだ。
 「キリストの死が私の死、キリストの生が私の生」という、起死回生的一大事実を、我が体内に経験しなければ何もならない。
     *      *
 息(イキ)をして、ただ生き(イキ)るだけなら、人間はただの動物である。肉体は、イキを出し入れして生き(イキ)る。魂はイノリを出し入れして生きる。それがイノチだ。本当の宗教はイノチの宗教である。愛も善行も積極精神もイノチから発する愛や善行や積極精神でなくてはならぬ。悪魔的愛や善行や積極的精神もある。これにだまされぬことだ。
 「イノチの君を殺してしまった」(使徒行伝第三章十五)のは、なにもユダヤ人ばかりではない。今も尚、多くの人々が自分の内にあるイノチの君を殺してしまった。このイノチの君が復活してくれねば、当然人生は暗い。
     *      *
 キリスト教のユニークさは、神を創造者としてとらえ神を人格者として体感し、神を救い主として信じたという事だ。神を仏教的に、無と把握し、真理を箇条書きにした既定的のものと考えず、永遠に到達できぬ無の終局へ辿りつこうとする魂の姿勢と運動をそのまま「真理」と考える、そういう東洋風の求道精神も正しい。地球の歴史は宇宙航行時代に入りかけている。地中海文明、黄河文明時代とはスケールがちがう。宗教のスケールも同様だ。
 座禅して、無の世界へ没入する、それが仏教なら、祈って、神と交わる、それがキリスト教だ。祈らずに、念仏だけ称えて人格神を信じている、それが浄土系仏教だ。どれがいいとか悪いとか言うまい。そのいずれも生きて溶解されて、いきいきとイノチが活動している、そういう新時代の信仰は、今こそ必要なのだ。宇宙航行時代の人類に必ず必要な信仰なのだ。
 (終り)
 
 (「こうすれば信仰がわかる」、2011年6月の日岡だよりにも収録されている内容をふくみます。)
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by hioka-wahaha | 2013-10-04 11:51 | 日岡だより