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No.601 卓話寸言(1972.6.24「大分通信」No.5より) 2013.7.21

卓話寸言(1972.6.24「大分通信」No.5より)
 
 私の文章は、思ったほどのことを、忘れぬ内に書きのこしておこうとするだけの事で、文章が名文になろうと迷文になろうと、その点おかまいなしである。前号に書いたことと、次の号に書いたことが、一見(いや何べん見ても)矛盾していようが、その点も、おかまいなしである。初信の人を迷わせたり、旧参の人を憤らせたり、そういうことも多かろうと思うが、それもおかまいなしである。
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 私は既に五十才という年配に達してしまって、ややセッカチになっているのだ。少しでも遺産をのこして死んでいきたい。財産目録を丁寧に作っていると、書類づくりに追われて肝心の財産そのもののかくし場処を忘れてしまっては困るので、バラバラのまま手当りしだいに文章に残しておこうと思う。
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 ちょっと、ぜんそくがおこっているので、日常の仕事をサボって、冷房のきいた社長室に休憩している。良心に痛みなく休めるのでありがたい。賀川豊彦はよく疲れると風邪をひいて、これを天与の休息静養の時間として喜んだ。私も同様に喜ぼう。
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 朝鮮の安女史の「たといそうでなくても」を読む。一読(と言っても長文なので普通の人はやや時間がかかるようだが)して、鮮烈なる感動と迫害への畏怖、驚嘆で頭の中がいっぱいになる。戦時中、神社参拝を拒否して獄に投じられたかよわい一朝鮮女性の獄中記である。私は少々似た経験を持っているから、身につまされて読んだ。
 かくまでの迫害を受けさせ、亦耐えさせるキリスト教信仰の特質について、私も思いまどう。
 私はああいう、頑固なまでの非寛容な信仰について、ヘキエキする。しかし、少しでも寛容であると、いつしか清濁あわせのみ、クソもミソも一緒にし、神仏混合して、けろりとしている日本人の体液に呑みこまれて融かされてしまいそうで心配になる。戦争中の多くの思想家、宗教家がマジメに考え、マジメに祈って、「絶対矛盾的自己同一」とか何とか言って神がかり的戦争完遂論になだれ込んでしまった、ああいう体液が日本人の思想母体に流れているように思う。これが日本人のいい処、これが日本人のあいまいモコ性。
 安女史を読んで、感動もするし、ヘキエキもするこの私、まさしく一個の日本人! 遠藤周作の「沈黙」を生む風土と同じ風土なのだろう。
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 今日、用事があって山一證券に行った。室内にもうもうと「金ほしや」の妄気がたちこめて息苦しい。
 何もせずに、投機だけで、あぶく銭をもうけようというのだから、顔面が何者かで引きつったような人相をしている。哀れなことだ。
 こういう場所に投機聖人があらわれないか。そんな事を夢想した。
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by hioka-wahaha | 2013-07-24 03:10 | 日岡だより

No.600 日々新生(六月二十二日(土)) 2013.7.14

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


日々新生 

六月二十二日(土)霊的疲労ひどし。理由分らず。いつもは、木南姉や相良姉が聖日準備に来てくれて、励まされるのだが、今日は誰も来ぬ。益々めいって苦しむ。
六月二十三日(日)日曜集会。昨日来の霊的圧迫はとけぬまま。聖書講義は、あれを言い、これを言い、少しもまとまらず、最近にない、ひどい状態。初めて出席してくれた飯島姉には気の毒でならぬ。ただし、閉会後のK姉の感話には残った四、五人感激して時間のたつのを忘れている。たしかに、先週一週間、私自身は最低ともいうべき霊調にありながら、周りの人々はすばらしく導かれて、リバイバル状況を呈していたのである。夕食の時、右のことを話していると、妻が「それと全く同じことがブレイナードの日記に出ている」と言い、その文章を読んでくれる。私は思わず、涙腺を刺激され、茶碗と箸を投げ出して泣いて祈る。
六月二十四日(月)早朝、元気よく目ざめ、ここ一週間程半減していた祈祷時間が、また元にもどる。あらためて、霊魂の暗夜の辛さと、その深い意味を悟る。
六月二十六日(水)夜の祈祷会。N君の祈祷力づよし。
六月二十七日(木)A姉きたり、昨日のK姉と二人での愛労の報告をきく。労するものにとり、労するそのことが報いである。感謝して祈る。▲「かもめのジョナサン」を読む。みなさんにも一読をすすめたい。
六月二十八日(金)増築工事の大工さんたち実にいい人ばかりで全く感謝である。神経質で困るという職人さんに、精神安定法を語る。
六月二十九日(土)増築が凡そ完了。近所の奥さん方、荷物の整理の加勢に来て下さる。無償の愛の御手伝いである。実にありがたい。

【編集後記】
 七月号とは言い条、実は十月上旬の発行になりそう。六月号に書いた原稿難の話が事実となって、この三か月間苦しめられた。私の身辺に大転変あり。次号はその報告もあり、外見も内容も共に相当の変化あるやもしれず。乞う、ご期待? (九・二〇夜)
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by hioka-wahaha | 2013-07-17 11:58 | 日岡だより

No.599 日々新生(六月十六日(日)) 2013.7.7

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


日々新生
  
六月十六日(日)日曜集会は、それぞれ余儀ない欠席が多い。集会も、全体的にゆるみを感じる。「すべり落ちかけたら、意地にでも歯をくいしばって、草の根でも捉えて、それ以上陥落しないようにせよ。処が人間というもの、そういう時、ヤケをおこし、毒食わば皿までと、自分から進んでドンドン落ち込む人多し。心せよ、じっと踏みとどまって辛抱せよ。短くて二、三時間、長くて三日間我慢せよ。必ず回復する」と語ると、みんな、ギョッとした表情。この三か月好調に好調をつづけただけに、ぼつぼつサタンが隙をねらっているな、と感じる。マネージメントの大家ドラッカーいわく「成功はつねにその成功をもたらした当の行動を古くさくしてしまう。」▲深夜K姉難問をかかえてくる。
六月十七日(月)結婚生活に危機がせまった時、解決されるべきは相手にあらず。自分自身。「離婚せずして再婚せよ」―――これが要諦である。人間の努力も必要だろうが、聖霊が働きたまわずばこの事は到底おこらない。そして、この時、霊的友人の愛がいかに大きい介助となるかを教えられた。
六月一八日(火)キリスト教は人格宗教である。モノはイノチとなり、イノチはココロをうむ、というのが進化の道である。ココロが本来の無に帰って没入するのが東洋的回心。ココロが神的人格に会って愛と喜びと希望と熱情にもえあがる。キリスト教の特長である。全体を神の全身にたとえ、個を神の肉体の細胞にたとえるなら、それぞれの一細胞が単に神意識の統制下に入って無に帰し、神と一体になるというだけでない。それぞれの一細胞が個としても益々目ざめ、元気づき、喜びと自由を以て全体なる神意識に交っているという、人格的な旺盛な意識がおこる。こういう人格性がまた、神の人格性でもある。人格の本源が神の人格性(神格性というべきか)にある。「愛」は、人格の交歓にのみおこる。
六月十九日(水)旧印刷工場社屋を好条件で某社に貸すことにきめる。最近一か月の具体的祈りの数々の一つであった。こたえられて感謝する。▲夜は祈祷会。N姉が日赤病院に入院一泊なさり、ご息女が心配しているのをK兄夫妻がお連れして共に祈る。泣いて祈るK姉の愛は尊い。
月二十日(木)旧社屋内の不要品の掃除や始末に近処の方々、何もお願いせぬのに喜々として加勢して下さる。早朝、我が家の周辺の草取りをして下さる方もある。私どもは近所づきあいの上手でないたちであるのに、この好意の数々におどろく。
六月二十一日(金)旧工場社屋を貸家に出すにつき、社長室に入れてあった私の荷物を我が家に引き取る為、私の書斎をつくる事にする。敷金と第一月分の入金の計が、一円もたがわず、造作費の見積額に一致した。そこで、一円も値切らず、工事を発注する。
(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-07-17 11:55 | 日岡だより

No.598  日々新生( 六月十四日(金)) 2013.6.30

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


日々新生
 
六月十四日(金)朝日新聞の朝刊。岩手県衣川村立診療所長の橋本行生氏の寄稿あり。
「医療」を、免許証をもつ医師や看護婦しかできないものときめてかかっているのが、今日の医療の混迷の最大の原因であるという。そして例の築田氏の赤本(知る人ぞ知る民間療法の実験的集大成の良書)をテキストに、「ぎっくり腰の治療講習会」などを開いたという。これが公立の診療所の所長先生のなさることだから痛快。▲似たような問題は、時折社会面をにぎわすニセ医師。しばしば「ヘェー、あの先生がニセ医師ですって。なかなか親切で、見立ても上手な先生でしたがね」などと、近くのおかみさんの声が出る。アル中で手がぶるぶるふるえている院長先生の命令で、無資格の事務長さんが、結構院長先生以上の名国手ぶりを発揮する。そういう例は案外多いと風聞する。本当にこわいのは、無資格のニセ医師よりも、レッキとした有資格のニセ医師先生である。▲もう一つ、似たような問題が、教育の世界にある。有資格の教員よりも、昔流で言えば代用教員の方が、さらに代用教員よりも、用務員さんの方が、教育者としてホンモノであったというようなことがおこる。▲現在の教育で最も気にかかることは、義務教育の場では、被教育者の手で学校をも教師をも選択できないという事。親が子供に教育を受けさせる義務を負うているのは、国家に対してではなく、その子供に対してである。教育の権利は国(文部省)にも親(PTA)にも教師(日教組)にもない。子供自身のもつ権利である。親はその子供の権利を代弁して、子供が教育を受ける為の諸施策・施設・環境・費用を国に要求し、国もまたそれに応じる義務がある。しかし万一、国家がその義務を果たさぬ時には、親がやはり可能な限りその子供に教育を与える義務がある。義務教育とは、そういうことである。親は、その子供に対して可能なる最善の教育を与える義務がある。学校が幾つもあって(公立の大施設より、寺小屋式の塾に至るまで)、そのいずれに学ばせようと選択の自由にまかせる。そういう教育体制はできないものだろうか。
六月十五日(土)最近、やや心境の乱れあり。しかし朝祷のあと、中野君に「なんで君この頃調子いいのか」ときくと、「山室軍平先生の本で教えられました。聖書を学ぶこと、祈ること、この二つを実行しはじめてからすっかり変りました。最近は、少々心が暗くなるような事がおこっても、神様!と言って帰ると何でもなくなります。」大いに感謝した。
(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-07-10 00:09 | 日岡だより

No.597 日々新生(一九七四年六月一日(土)) 2013.6.23

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


日々新生 

一九七四年六月一日(土)林兄の厚意に甘えて、ある保証問題で要所要所を同道訪問して頂く。無事に片付いて感謝。
六月二日(日)聖日礼拝は「神の安息」を主題。「きつねに穴あり、空の鳥にねぐらあり。されど人の子は枕するところなし」と主は言われた。人の子はどこに枕するのであろう。荒浪にもまれる小舟の中に。又あの十字架の上に。そしてこの卑小なる私どもの魂の中に。
六月三日(月)別府市中央公民館で大分県教委主催の学校広報活動講座の講師にまねかれる。二時間弁じる。会衆大いに笑う。少くとも眠気をもよおさなかった稀有な講師であるらしい。
六月四日(火)昨日にひきつづき講習会の助言者ということで出かける。午後、御用ずみ。別府市内の兄姉を訪問するも、いずれも不在。
六月五日(水)夜、祈祷会。会するものわずか六名なれど、木本兄は五月三十一日に「我が道を信じて進め」とのハッキリした御声をきき、喜びにつつまれた……等の素晴らしい立証多く、唖然とする程。古屋君は遂に泊りこむ。
六月六日(木)毎日の早朝の家庭祈祷会に、今日は古屋君もまじって、共にいのる。
六月七日(金)昨日来、異常に疲れている。肉体の芯がギクシャク。渇ききって、あえぐような内臓の訴えに、目は早くよりさめてしまう。妻と二人で毎日の祈祷会を終えると、又ひとり寝る。しかし、横になったまま、妻より昨日の諸兄姉の信仰生活のすばらしい報告をきいているうち、すっかり元気は回復してきた。最近の、この小さい群の一人一人の進境におどろかざるを得ない。
六月九日(日)日曜集会は、「神の愛に生きる」。神に愛されている体験をぬきにして、「汝ら互に相愛せよ」の実行は無理難題。イエスの「我が汝らを愛せし如く」の、この、「ごとく・ように」が大切。風のままに泳いでいるこいのぼりを例に上げる。風のごとくこいは泳いでいる。同じように、霊風のままに、御言葉のままに、神に愛せらるるままに、汝の人生はできないのか。▲午後、礼拝欠席のS君きたり共にいのる。些さか、午前中の疲れで弱っていた処なので、ありがたかった。
六月十一日(火)内にみたされると、遠慮ぶかい人も、雄々しい御言葉の伝達者になる。これまで縁のうすかったような人達に、スムースに語れるようになる。
六月十二日(水)夜、定例の祈祷会。来席六人。小さい祈祷集団であるが、あいかわらずよく祈り、よく証しなさる。力強くてならない。
(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-07-03 10:39 | 日岡だより