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No.596 労働は神聖であるか(続2) 2013.6.16

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


労働は神聖であるか(続2)  
 
 理想論からいえば、労働者に貴賤なしです。教職のみが聖職でなくて、凡ての職業が聖職であるべきです。しかし、現実、今見る一般労働者の平均水準に聖職的意欲を求めるのは不可能でしょう。それ程に、どれ程高貴な魂をもった人でも今の企業の中に職をもてばトタンに魂を売りわたさねばならぬ人間システムがあります。
 今、労働者は、共産党が「教職員をある意味で聖職者である」と差別的発言した事に腹をたてるよりは、まさしく自分達がかくいやしめられてもやむを得ない精神的状況(青少年を教育するように、心をこめて生産ができない)にある事態に、自他共に憤激すべきなのです。自他の自という訳は、いかに資本側の攻撃策略システムが巧妙であろうとも、やはりその状況におちいっているのは、自分の決意も与っているのですから。
 こういう、労働者から労働の神聖が簒奪されているうれうべき状況に気づき、労働者の魂の解放をめざさなければ(それが労働運動の最短距離である労働者の自己革命ではないでしょうか)ならないと思うのです。またそれに気づいた経営者は、企業と自己自身の財産と命をかけて、企業の自己革命を目ざすべきだと思います。
 (一九七四・八・二七)
 
 (附記)この日教組大会が立川市であって、槙枝委員長のあいさつのなかで、次のように聖職問題についてふれていた。
 「日教組が戦後、倫理綱領で“教師は労働者である”と規定したのは戦前の軍国主義・国家主義教育の中で果たしてきた“聖職教師”の戦争教育体験への深い反省によるものだ。その意味で戦後の日教組運動の歩みは戦前戦中を通じて“教職”につきまとった“聖職”という概念、意識との闘いの歴史であったともいえる」と“教師の聖職性”を改めてきっぱりと否定。さらに「しかるに日本共産党が“常識的には教師は聖職といっていい”などというのはその真意がどこにあるのか判断に苦しむ」
 (終)
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by hioka-wahaha | 2013-06-19 11:13 | 日岡だより

No.595 労働は神聖であるか(続) 2013.6.9

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


労働は神聖であるか(続)  
 
          *
 「労働に貴賤はない」というのは、昔から人の言うところであります。人のすべての職業を神よりの召命(ペルーフ)として受けとめるとき、あるいは人のすべての職業を人生の宿命(カルマ)として受けとめるとき、人の職業に貴賤のある筈はありません。まして、いわゆる職業と言わないで、労働と呼びならわす時、そこには農作業や鍛冶職、大工職などからくる「土や肉体と汗」を連想させる労働者感があります。そういう労働者感からくる健康感があって、「労働は神聖なり」と大上段をふりかぶった発言も、おこるわけです。
 しかし、現在現実に見る労働は、税額を査定する手も、土地収容の令書をかく手も、利息計算する手も、電力の配電用の針を見つめる目も、デパートで万引を監視する目も、核燃料を発電所に送る脚も、そういうもの一切を含めて、無意味で否それ以上に反人類的反公益的事業の一切を手助けする職業の一切であります。久しい昔では、労働者は奴隷のごとく牛馬のように使われ、その故にその目的がいかなる非道悪逆の用に使われようとも、労働者はそれに組する加虐者ではなく、その対象者とひとしく被虐者である事の実態が主観的にも割合に明瞭でしたが、現代ではちがいます。多くの労働者は、昔で言えば貴族か大金持のように生活しているのです。小じんまりしているとは言え、一応の住宅(それはどうかするとセントラル・ヒーティングを持っていたり、別荘であったりする)に住み、ピアノ、テレビ、自動車。奥さんは三食昼寝つきで、きれいに化粧して満足しきっています。これが抑圧され、虐待され、貧窮悲惨の労働者でしょうか。
 こういう点、現代の労働者は、ワイワイ労働運動をしながら、その実内心自分を危ぶんでいるのではないでしょうか。
 「はて? 俺は真実労働者であろうか」
 私は、この一点に重要な問題があるように思います。実に右の危惧のとおり、現代の労働者は労働者でなくなりつつあるのではないでしょうか。内的な、労働者としての自意識においてであります。
 資本主義社会において、労働者が生産手段を所有する資本家どもに利潤(の一部か大半かは別として)を収奪されるという公式的非道さ以上に、労働者の心を奪われ、そのかわりに資本家の欲心を与えられてしまい毒性におかされた羊のようになってしまっています。
 ここにおいて、労働者は、その労働の神聖さを売りわたしてしまっているかの如き行動と言語表現さえします。そこに、労働者の卑賤さ、無分別をかぎとって、「せめて先生はあのわめき散らす欲張り労働者という奴の仲間であってはならぬ!」と言いたくなる原因があります。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-06-14 01:58 | 日岡だより

No.594 労働は神聖であるか 2013.6.2

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


労働は神聖であるか   
 
 共産党が、最近になって「教職員は労働者であるのに違いはないが、ある意味で聖職者であると言ってもいいと思う」と言って、労組関係、特に日教組あたりで物議をかもしています。もともと、日教組で「教職員は労働者である」といって、世間の年配男やPTAママをなげかせていたのに、労組関係の家元とも思われる共産党が、「教職員はある意味で聖職者である」と言い出したので、ふりあげたゲンコの持っていきようがなく、それかと言って、「共産党もいいところある」と言うに言えず困っているところでしょう。
 七月の参院選前、私もある会合で共産党の不破書記長に会い、この件をただした処、
 「物を生産したり、加工、運搬する一般労働と違い、人間の能力や精神形成に重要な役割を果たす先生方は、ある意味で聖職者と言っていいだろうと思う」
 と、答えました。これは、共産党の口調をまねて言えば、実に「ある意味で」、貴重な発想転換でして、教育の重大さ精神性を認めた上で、まことに意義深いことでした。
 この共産党の主張に対し、社会党、日教組主流の反対する理由は、直接聞いたことはありませんが、多分次のようなことだろうと思います。
 「この、共産党の主張するところは、労働の本質に聖俗の二つがあり、一つは尊く、一つは卑しいとする労働者蔑視の思想である。これこそブルジョワ思想であって、日共は我々労働者の敵である………」
 この二つの主張を聞いてみると、共産党は現実論であります。七月参院選前、少しでも票がほしいという現実の前に、労働者の現実像をふまえて、現実論が早わかりする国民大衆にむかって、かくは教職聖職論をぶたざるを得なかった現実があります。
 社会党や日教組には、現実を見て見ぬふりして、「かえりみて他を言う」式の政治的発言が用意されています。それはまさしく本質論であり、理想論であります。こういう議論を聞くと、いずれも見物人の人気をねらって音の高い空砲を打ち合っている合戦のようなもので、何の実りは得られないのではないかと案じられます。
 しかし、私は思います。共産党はたしかに問題を提起してくれました。社会党、日教組式反論も当初より見越した上での発表なのでしょうから、そこに宮本書記長以下の並々ならぬ読みもありましょう。たしかに現状把握としては共産党がまさっているかもしれません。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-06-06 23:14 | 日岡だより