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No.593 性格の個人差を超えよ(続) 2013.5.26

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


性格の個人差を超えよ(続) 
 
 人にくらべて、泣きべその人、陰気な人。それは性格である。善も悪もない。しかしこういう性格は、人には不愉快だし、自分も実はやりきれない。そのへんの処を、少し詮索しよう。自分でやりきれない程の自分の「陰気さ・かた苦しさ・弱さ・だるさ」を、自分でも持て余して人におすそ分けさえしている。そんなものを、おすそ分けしてもらって、嬉しい人は一人もいない。それは、自分で耐えて内に持っておくべきものである。
 ところが只単に内にかかえこんでいたのでは、鬱々としてたのしまず、ついにノイローゼになる。内に持つというよりは、自分の中で気楽に客観視している心境だ。それが「耐える」である。歯ぎしりしてのガマンではない。あきらめに似ている。自分をじっと見る、内観である。こんなもんだよ、と自分をつき放して許す、真宗の妙好人に多い。内にあるものを、人に述べずに神に叫ぶ。悩みや悲しみ怒りが心の底からぬけおちて永遠の底におちつく―――これは私の心境。
 生れつき、神経が太くて、頭がよくて、明朗である。そんな人が偉人聖者になっても、一向うれしくない。生れつき、出来のわるい、生まれそこないのような奴が、自分の弱さに耐えて、聖くなる、向上する。それが福音だ。
 派手な絵には、地味な下塗りがほしい。枯淡な絵には、原色風の下塗りがよい。もともと明るい人間が、明るいままでは、底が浅い。暗い人間が暗いままでは、はた迷惑。しかし、暗い人間が、おのが暗さに耐えて、人生の暗さをつきぬける明るさをまとっている時、そこにやすらかさ、受容、ここちよさがある。
 個人差がある。人をうらやんではならぬ。明暗共々、生れつき、あるいは幼い時よりの心の蓄積である。キリスト教的に言えば、そのまま十字架につけて、「さて、次のことをしよう」と手にあたる程、至れるまま、生きて行くのです。
 (一九七四・八・二九)
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by hioka-wahaha | 2013-05-29 14:48 | 日岡だより

No.592 性格の個人差を超えよ 2013.5.19

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


性格の個人差を超えよ   
 
 しろうとの想像。だから、間違っているかもしれない。人間の感覚には個人差がありはせぬか。俗に甘党、辛党というが、甘さの味覚の小さい人は、人より以上に甘いものをほしがるにちがいない。私は子供の頃、甘いのが嫌い。おはぎはアンを指でそぎおとして食べた。多分、甘さの神経が敏感すぎたのであろう。博多の川端ぜんざいをおごられたことがある。二口三口食べたら、ジーンとこめかみのあたりが痛くなって、涙が出たのを憶えている。
 痛点も同様ではなかろうか。大正の頃、賀川豊彦が神戸新川のスラムで、子供たちの足の裏に針をさしても痛がらぬ子が何人かいた。その子供たちは小さな豪傑気取りでいばっていたという。そこで、賀川は思う。客人に、ホイ刺身だよと言って、自分のももの肉を切って与えたという、かの幡随院長兵衛もこのデンだろう。多分これは梅毒性痴痛(?)症かなと。梅毒性云々は、少々名誉棄損ものであろう。ともかく個人差が相当あるらしいことは事実。
 子供のとき。人より多少痛みが軽く、よその子が泣く時、こちらは泣かなくてすむ。そういう子は、多分優越心と自尊心から益々痛みにたえて我慢づよい人に成長するであろう。これはアタマの良し悪しにも似ている。小学校低学年の頃のちょっとした学習のコツ、先生への応答のコツ、幼い記憶術・発想法。他の子供よりほんのわずか、先取りし又自分で把握した勉強のやり方が、彼を一生秀才たらしめるかもしれない。(附言。こういう式の学習のテクノロジーを手助けして自得させる教師がほしい。)
 脳細胞の中のシナプス現象も、こういう個人差があろう。勿論経験の蓄積にもよる。泣き虫、笑い上戸、怒りん坊、のんき坊主。それぞれの個性が幼い時からの生活の中で形成されていく。それ自体善も悪もない。性格に善も悪もない。
 しかし、人に好かれる性格、いやがられる性格(性格というよりは行動習慣だが)というものはある。できる事なら、陰気なくせは直して、陽気なタイプになりたい。誰でもそう思うだろう。くらいジメジメした物置の中がいいという人は余程のあまのじゃくだ。十人が十人、明るい静かな部屋を好む。同様にカラカラと明るい人物を人は好む。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2013-05-25 19:23 | 日岡だより

No.591 真理は自由を得さすべし(四、永遠の充足) 2013.5.12

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


真理は自由を得さすべし 
 
四、永遠の充足
 最近、新聞やTVに出た。マルチ商法の某外国化粧品。一流の集団回心で、コロコロと有力幹部が生まれる。帝人の大屋晋三の言う「興奮管理」。つまり「経営のコツは一つ。全社員をいかに常時、興奮状態においておくかという事だ」の由。この興奮管理で酔いしれているうちはよい。一朝にして目ざむれば、借金の山。不義理の群。そこで頭をかかえこんで、神経衰弱・強迫観念・恐怖心のかたまりの見本に転落する。―――それが半月前のH君。
 八月十四日十五日の二日間。私と彼の二人で集会室にこもる。終日、聖書朗唱、講義、坐禅、祈祷。この二日間で少し立ち直るかに見えたが結局ダメ。聖書の言葉も、必死の祈祷も、それが人間の声や心であるまでは到底ダメ。一週間たった。心は最低に落ち込んだ。二十一日の夕刻。心に不意に光がさし込んだ。絶望より希望へ。暗黒より光明へ。悶々より歓喜へ。早速、義弟を一人引き連れて集会に来た。先生がおらぬでもよい。一人でお祈りしようと思ったという。これは何か。声や言語ならぬ、生命のことばが彼の心にさし込んだのである。一人で魂の暗夜をさまよい苦しんでいた彼を、解放したのである。
 「われも罪せじ、往け!」
 と、この兄弟を再びこの社会に勇気と謙遜をもって立たせるのである。
 最近、もう一人の姉妹が来た。この人も極度の恐怖症。一度面談したら(カウンセリング)、久しぶりにその夜はよく眠れ、次の日も元気に働けたという。この人はまだ本当の「生命のことば」にふれるには少し時間がかかりそう。しかし、その手がかりがつかめたのはうれしい。
 現代の日本は一億総興奮管理社会。日夜性ホルモンを打たれ、仔供を産みつづけて、狂い死にしていく人間牧畜社会。この狂騒の群について行けず、人にもみくちゃにされ踏みにじられて囲いの外に逃げだしもできぬ。恐怖症、神経過敏の人達。
 この人達を、救うと称して、更にあくどく金や幸福の看板をみせびらかして、あくなき暴走心理に導く宗教や心理学、成功主義がある。これは、「おのが腹を神となし、おのが恥を光栄とする」(ピリピ三・19)悪魔のまどわしの哲学なのである。
 人間を真の魂の向上と聖化にむかわしめ、永遠の霊の充足を与える救は、キリストの福音以外にない。(一九七四・八・二五の聖書講義の抄稿補正 八・二七筆記)
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by hioka-wahaha | 2013-05-25 19:22 | 日岡だより

No.590 真理は自由を得さすべし(三、生命の光・真理・自由) 2013.5.5

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


真理は自由を得さすべし  
 
 三、生命の光・真理・自由
 この物語りのあと。イエスは言われる。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ八・12)。ここで言う世は、この俗なる世界であるし、また形而上学的宇宙でもある。命は、この世になりわいする生命でもあるし、また永遠の生命でもある。
 イエスを二千年前の人とせず、今も活きて私の従うお方とする。その時、イエスの言葉が生命となり、私の生命を輝かす光となり、私は自由となるのです。
 「もしわたしの言葉のうちにとどまっているなら………」(ヨハネ八・31)。とどまると言うのは原語で、いつまでも滞在しているという意味です。それは、はなれがたく同居しているということです。ここでいう言葉は、音韻的言語でもなければ、表記的言語でもない。宇宙の創造に干与するあの言(ヨハネ一・1)です。
 そのような言(ロゴス)に誰が接し得るでしょう。しかし、その御自身がロゴスであられたというイエス御自身―――それは智恵では把握できませんが信仰的体験で分ります―――が、私のうちに永遠同居してくれる。学者・パリサイ人の罵りと嘲りの中におかれていた女が、突然その中に静寂を見出し、独りとなり、そしてキリストに会う。そのようにしてキリストの言葉にふれるのです。
 「われも罪せじ。往け!」
 この御言葉に永遠の赦しと能力の充満を感じます。この言葉の真相にふれ、これに永住する時、次のように言い得ます。
 「また真理を知るであろう」(ヨハネ八・32)
 真理とは科学の教科書にはさまっている枯葉のごとくカビくさい法則のようなものではない。真理とは生命です。ピチピチした血もあり涙も感激もある心です。意思です。人格です。宇宙の人格、神の意思、キリストの心そのもの。これが働くので、
 「真理は、あなたがたに自由をあたえるであろう」(ヨハネ八・32)
 と言われるのです。
 イエスはご自身の広大な自由を自覚しておられた。この自由をみんなに分け与えたくてたまらなかった。この自由で、あの卑劣なパリサイ人の奸計に勝つことができた。また罪の女を解放してやることができた。このような真の自由を、あなたがたはほしくないのですか。これがイエスが人類にいぶかしげに、またもどかしげに問いかける言葉でありましょう。
 
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by hioka-wahaha | 2013-05-10 00:24 | 日岡だより

No.589 真理は自由を得さすべし 2013.4.28

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


真理は自由を得さすべし 
 
 二、手島先生の講義
 この物語りをテキストにした説教では、手島先生の説教に最も感動しました。大感動した上に、びっくりした。手島先生がここの処を語る時、まるでこの物語りが舞台のように目の前に見えるようでした。手島先生によると、イエスはこの女があわれであわれでたまらぬ、その故にイエスは頭もよう上げられぬ、イエスは不思議に静かになったなと思って頭を上げてみると、そこに女が一人しか残っていない。その時、イエスは初めて女を見つめて「われも汝を罪せじ」(ヨハネ八・11)と言う。その時、イエスの眸は愛にみちて、涙がぼろぼろです。許された女も涙でぐしゃぐしゃです。それを語る手島先生も涙を流して語る。
 手島先生という人は矛盾の多い人で、私は今でも釈然とせぬ処ばかりです。しかし、この罪の女の物語りを講義される時の先生を見ていると、いつもの傲岸不遜な先生の面構えは消えて、全くイエスにあがなわれ、悪人のままで神の前に許されて感激と喜びで涙をぼろぼろ流している聖なる顔が見えます。このように、手放しで神の愛・キリストの救いを謳歌した人を私は知りません。そのエモーショナルな説教に私はびっくりしたものです。私はよく手島先生の悪口を言いますが、しかもあの人は本物だったナと思います。
 キリストによって救われるということは、智識や教条丸のみの事ではない。人格ごと網ですくわれるように救われて、網の中で、魚がピチピチはねおどるように喜び踊ることです。そこで必然的に、意思や知性と共に、感情が激動します。
 「われも汝を罪せじ。往け!」(ヨハネ八・11)
 この言葉は、イエス特有の断言命令です。この命令を魂に徹してきく時、いかなる人も「往く!」のです。人生の荒海を往くのです。生きる事の喜びと、困難にたちむかう勇気とがここにあります。
 この前、ニクソンが全米の批難を一斉にあびて、大統領の職を辞した時、さすがに可哀そうな気がしました。極東軍事裁判のとき東条英機が全世界の批難をあびて、遂に死刑に処せられた時、あれも哀れでした。私は東条体制に迫害された人間の一人ですが、それでも彼を可哀そうに思いました。世界のうち、誰一人として私を弁護するものなく、万人の弾劾に身をさらす時、私をかばい私をあがなうものはキリストのみです。私を一斉に批難攻撃する声、鞭、投石も、キリスト十字架にさえぎられ、せきとして声なく、私一人キリストの前に残されて、私はキリストの涙を拝すのです。そこに私の救いがあります。それが「福音」です。
(「神の息よ吹け」1974年7月号より)
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by hioka-wahaha | 2013-05-04 22:04 | 日岡だより