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No.588 訣別者イエス 2013.4.21

「神の息よ吹け」1974年7月号
-「心に満つるより」改題・通巻第10号-


訣別者イエス   

 先に進もうとする者にとって、昨日までの追随者・理解者も、しばしば敵にさえなる。
 さき程、イエスにほめられたばかりのペテロは、次の場面では早くも「さがれ、サタン」と叱られる始末(マタイ十六・13-24)。
 イエスにとって、あの神秘でやさしい母も、なつかしい弟妹たちも、最初の理解者であり師でさえあった洗礼者ヨハネも、さきに進み行く彼の背後におきざりにされていくかに見える。
 弟子たちも、あの華々しい初期のガリラヤ伝道に眩惑されて、そのままずるずると引きずり込まれたものの、さすがにゲッセマネの園やピラトの官邸での先だちゆき給うイエスのあとに従いかねたと、言えるかもしれない。
 イエスは周りのすべての人を怒らせ、失望させた人であったように見える。従おうとする人々を拒絶し、枕するところなき永遠の旅に立つ孤独の人であったように思う(マタイ八・19-22)。
 訣別者イエス!
 (一九七四・七・二八)


真理は自由を得さすべし   
 
 一、幸いなる挿話
 ヨハネ福音書第八章1~11.
 早朝の神殿で、説教中のイエスの前に、姦淫の罪でつかまった一人の女が、パリサイ人たちにつき出される場面です。姦淫の女は城外に引きだされて石打ちの死刑にあうのが当時の律法。この律法にしたがって彼女を死にわたせばイエスの人気は一ぺんに落ちてしまう。彼女を許せば律法軽視ということで今度はイエスのほうが罪に問われるハメになる。それを見越してパリサイ人たちは「イエスをこころみて訴える口実を得ようと」(ヨハネ八・5)この冷酷な仕打ちをしたのである。この時、イエスは言う、「あなた方の中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ八・7)。これを聞くと彼らは良心に責められて、老人からはじめて若ものにいたるまで一人一人出ていき、イエスと女が中にいるのみになった」(ヨハネ八・9文語訳参照)とある。
 この美しい物語は、別の写本ではルカ福音書第二十一章の最後にくっついているという。文体もヨハネ福音書風ではないという。しかし、日本語訳聖書では、みなこのヨハネ福音書のところにつけてある。実に内容的に言って適切な箇所であると思う。と言うのは、12節以下の「生命の光・真理と自由」のテーマにまさしくぴたりの挿話であるからである。
 ヨハネ福音書は他の福音書にくらべて、いちじるしく会話が多い。朗読調で読むと、会話の部分で腰をおられて、困る程。それ程会話が多いので、少し考えすぎのようですが、これは場面転換の多い戯曲だなという気がします。各章毎に、背景があり、登場人物があり、会話があり、そして解説のナレーションがある。ヨハネ福音書は、舞台にのせてみるとずい分とわかりやすいイエス伝になりはせぬかと思います。
 そのように考えてみると、この第八章には、是非とも一つの舞台がほしい処です。古い聖書には、この物語りはのっていないのだそうですが、二・三世紀頃、どこかに残っていた一伝承を採集してのせてくれたものでしょうか。実に嬉しいことだと思います。
 この物語りには悪人が出て来ません。いつも悪役の学者、パリサイ人達もこの日ばかりは些か神妙です。「エルサレムの宮の広場に朝日が射している朝のすがすがしき光景を思い浮かべることができる」と黒崎幸吉先生はその注解書で述べています。そういうことを書き添えてみたくなるような、仕合わせな早朝の物語りである。
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by hioka-wahaha | 2013-04-25 03:56 | 日岡だより

No.587 日々新生(三月十八日~)

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


日々新生  

三月十八日(月)内村鑑三流に言えば、ブルーマンディ。世を離れるべきことを、しみじみ訓えられる日であった。
三月十九日(火)H姉を訪問して、玄関さきで祈る。妻はI姉に御伴して病床のN姉を見舞う。意識もさだかならぬ(?)N姉の為に添祷すると、目に一粒の涙が流れたという。ああ、もっと早く、もっと早く見舞ってさしあげるべき人であったのに、今まで延引した怠惰にして愛の無い私どもを恥じた。
三月二十日(水)祖父の五十年忌で本家で仏事。愉快であった。内村鑑三の額「禁酒非戦」を従兄内藤利兵衛氏より頂く。けだし伯父釘宮徳太郎遺愛の逸品である。
三月二十一日(木)春分の日である。本誌第六号印刷上がる。工場が印刷の繁忙期で、つい私の名義のものは、身内の刷り物のつもりで、安心して納期をおくらすのである。早速発送の準備。
▲S姉来て、「先生、この前の集会はよかった、こんどの集会はダメだった、などと言ってはいけない。先生が自分で悪いと思っていても、その集会ですごく恵まれて喜んでいる人もいるのだから。」という。ハイ、ハイ。
三月二十二日(金)長女孝枝の日染展入選の皮革工芸品をはじめて見る。この子の不思議な才能を垣間見る思いがする。神の与え給いしタラントを切実に惜愛して大事に伸ばすようにと祈る。
三月二十四日(日)日曜集会はルカ第七章により「多く赦されたるものは多く愛す」をテーマに。多く愛すれば多く赦されるのだと、逆方向に理解せぬように注意せよ。「神の臨在」そのものが、接するものにとって「赦し」なのだ。と講義。閉会後、座談がはずむ。同僚の不当な圧迫に対し、ただ忍耐するだけがキリスト教徒の為すべき業ではない。愛や英智を以て忍んでおれるのはよいが、恐怖心や卑屈な心で忍耐するのは、神の御名を辱しめる事であると私見を述べた。
三月二十五日(月)S・H姉来訪、勤めさきの企業の非良心的あり方につき問われる。神によって潔められ、且つ強められた良心によって、ヘビの如くさとく対処せねばならぬと答えたが、よかったかな。多くの人にとり、良心とは、自己の内にある「他人の声」にすぎない。他人の声におびえてオロオロしている思念を「良心」と呼んでいる。それはサタンのあざむきである。イエスは言われる、「善をなすと悪をなすと、人の生命を救うと、これをほろぼすといずれか善き」(ルカ六・九)―――、すなわちイエスは善悪の区分は倫理綱領や世間の慣習によらず、ただ人間の生命のプラス、マイナスによって判断された(川喜田二郎の「パーティ学」にそれに似た主張がなされていて共鳴した事がある)。これが分らぬと、戦後の食糧不足の時期に、子供の為にヤミ米を調達してくる貧しい戦争未亡人を責めたてるような人になる。それは、時と場所によって法律の運用によって裁かれる事は止む得ないが、その罪(クライム)を道徳的罪(シン)として糾弾すべきではないのである。そういう場合、罪(クライム)をおかす者の心構えは、一応の社会的秩序をみだすものとしての申し訳なさを謙虚にかみしめて、「誰もが自然に知っている」(Ⅰコリント11・14)筈の社会通念として「正しきことを悉く為しとげるが当然である」(マタイ3・15)をわきまえつつも、然し内よりこみあげる生命拡張の力に従って、ヤミ米を雄々しく強く買ってくるような信仰に立脚する。ルターは「・・・・・・強く罪をおかせ」とマジメ人間に叱られそうなことを言っているそうだが、この辺の消息をも語っているのかもしれない。(終わり)
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by hioka-wahaha | 2013-04-16 23:48 | 日岡だより

No.586 日々新生(三月四日~) 2013.4.7

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


日々新生   

三月四日(月)会社では新人社員の研修を担当し、終日若い人達とすごす。
三月五日(火)日曜日以来の疲労がまだ取れぬ。霊的集会指導の負荷の重さを感じる。
三月六日(水)霧ふかし。妻と共に祈祷。異言と霊唱の噴出で、気狂えるものの如し。坐禅しばしの後、数年前買っていた「不可知の雲」をひっぱり出してよむ。この著者不明の霊的古典、実によし。
三月七日(木)S姉来たり、妻やN君も加わり、共に祈る。
三月八日(金)妻も同伴し立木姉を訪ね、占星術風にいえば、みんな山羊座の連中がそろったと言って、そういう脱世間的話ばかり。近くフランスに行く(帰る?)というのでお別れの記念に、私の旧曲<行きなれた道の・八木重吉詩>のメモをおくる。知事公舎の庭に出て豊後梅を賞でつつ、昼食を三人で頂いていると、そこへうぐいすが二羽来て豊後梅の枝にたわむれる。全くできすぎた風景になってしまったので呆れる。こちらが宗匠頭巾でもかぶって俳句の一つもひねり出さねばサマにならない。
三月十日(日)日曜集会、冒頭J・R君来たる。一一〇番を呼んでお引取りをねがう。流浪の才人だけに心痛む。集会はやや乱され気味で、気迫こもらず閉口する。但し、閉会後の座談は大いによろしい。▲ルバング島で小野田少尉接触、これは中野学校の教育のおかげだけではない。日本の古武士の遺風である。ぼくの親友安部勝美も同じく特別教育を受け、ヒリッピンにて山下将軍直属の工作員となって、行方不明のままである。彼もすぐれた素質の人間であった。どこかに生きているのではないか。その思いが私の脳裏をはなれぬ。
三月十二日(火)昨日のJ・R君より脅迫じみたハガキが私と妻に来る。私を相変わらずお金持ちと考え、「マンモンよ」と悪口を言って、ひねくれた文章を書いてくる。不動産を全部担保に入れての借金王の私に筋ちがいのわめきであるが、されど尚いまの私によき聖別の戒めであると思う。イエスに取り、荒野の誘惑が、彼の門出へのよきはなむけであったように。
三月十三日(水)大分集会の群の人々のお子さんがたに、高校入試の人多し。今日明日入試日なれば、主の御加護の程を祈る。▲今月は本誌第六号の印刷がおくれているが、今夜より発送用の封筒のあて名書きを始める。お一人お一人の為に祈る。
三月十四日(木)K姉きたり、信仰が偽物でああった、神様にだまされていたとなげく。「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と言い給うたのはほかならぬイエスではなかったか。少々の雑言で、神様がへこたれるものか。鮮やかな主の印を拝して帰宅される。
三月十五日(金)N姉は祈祷が下手で本当に困ると、いつもこぼしているが、よく聞いてみると、その映像的祈祷法は立派なもので、感じ入った。▲N君、Y君高校合格す。
三月十六日(土)K君高校合格。H・M君ひとり熊大を失敗し、言葉なし。しばし祈祷もできぬ程だったが、気を取り直し、居合わせた四人で祈る。
三月十七日(日)日曜集会はⅡコリント四章ピリピ書四章五~七により、「事ごとに祈れ」
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by hioka-wahaha | 2013-04-09 23:25 | 日岡だより

No.585 日々新生( 一九七四年二月二十四日~)

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


日々新生  

一九七四年二月二十四日(日)日曜集会はローマ書一~八章よりピックアップしての聖書講義。万物を委ね給う主の福音について語る。その中で性生活について聖交論(正しき性生活は主の御手の上で祝福される。この確信と感謝をもって交われよ。)をぶったのには、会衆の諸君も息をのんだかも。食欲・性欲・家族・職業等々、これら人間としての日常的な事柄を支配できなければ、信仰も羽をもがれた鳥のごとし。(特に食欲と性欲は人類の種保存の為にやむを得ないという事で果たして許されるものであろうか。これは人生の二大害悪だと倉田百三が若い時に悩んだ。この悩みにはまともにぶっつかる必要がある。)終祷にて、婦人方の霊唱が力強くかつきれいであった。
二月二十五日(月)S姉、ご子息が高校をめでたく卒業、挨拶に見えられる。大学入試についての成功を共にいのる。
二月二十六日(火)仏教的に言えば宗教に聖道門の時代と、浄土門の時代があったとする。(1)は世塵を離れ、聖別された道に生きる信仰である。モーセの信仰である。(2)は信心のみに生きる。世の塵、罪と汚れの中にも、お念仏を称えて、ひたすらに天国を渇望する。シンランやパウロの信仰である。(3)第三の信仰はこれだ。(泥の中にでも生きておられる蓮の花どころではない。)泥の中にこそ生き、泥を吸って生きて咲いている蓮の花の信仰。これが現代の信仰だ。社会の全体が総システム化して、悪の権力の中に収まってしまっている現代では、その悪の社会を逆手取って、その中で生きていける信仰でなくては、救真求道の人を彼岸へわたせる事はできなくなっているのだ。
二月二十七日(水)次々とイヤなことのおこる月なり。その中で、心が活然としておれるのが嬉しい。キリストの心が内に生きている。▲暖国の大分県には珍しくぼたん雪がふる。二・二六事件を思い出す。その翌日、つまり今日の日には昇天した伯父釘宮徳太郎を想う。噫! ガンジーのごとき、古武士のごとき、無教会人であった伯父を憶う。▲母は本年八十三才の高齢、若い時よりグチっぽい人で、息子の私の苦労の種。私も又、それに倍して相当の不幸息子であったが。今日の夕刻、突然「今日は一日中、淋しくなかったよ。いつも神様が一緒にいてくださるからね。御心をけがしてはならぬと思ってすごしたら、一日中嬉しくてたまらなかったヨ」という。こんな素晴らしい言葉をはいてくれようとは夢にも思わなかった。母を拝みたい程であった。
三月一日(金)昨日までで、妻は勤めを退職する。今日より家にいて十分勉強してほしい。まぜ坐禅から始めよと奨める。S姉来訪、妻と歓談、共に祈りの時を持つ。S姉の祈祷-「家庭経済の征服・具体的祈祷法」大いによろしい。
三月三日(日)昨日、妻とS姉「日曜集会の為の準備祈祷会」。夜はK姉と妻と私と三人で祈祷と坐禅。今朝は大いに各自が用いられて、すばらしい集会。釘宮保兄遠来にて嬉しい。主題はふざけて「ジャーケンド博士と聖ジャーケンド」。ジャーケンドとは、「……であるけれども」という言葉の大分弁である。祈祷会は大いに振るう。婦人層の霊唱も最近ずいぶん力強くなった。
(1974年4月号「神の息よ吹け」より)
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by hioka-wahaha | 2013-04-03 05:41 | 日岡だより