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No.584 事毎に祈れ(七、平安とは充実のことである) 2013.3.24

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


事毎に祈れ   

   七、平安とは充実のことである
 時々刻々、事毎に祈って、求めた事に前章のようなカラシ種信仰を以て対する時、「人知でははかり知ることのできない神の平安」が訪れます。
 平安とは、風呂に入ってハナ歌をうたっているような、一杯きこしめして太平楽を吹いているような、そんなものではない。そういう平安はたまにはよろしいが、年中つづけておられるものではありません。本当の平安は充実です。重心がしっかりしている事です。時々刻々祈っている魂にはそういう充実感があります。一瞬一瞬、新しい生命にあがなわれて生き返っているかの如き生命には、そういう溢れみなぎる充実しきった生命感があります。
 今、この信仰を最も端的に表しているのは、私の母かもしれません。私の母は若い時はその弟妹達の為、嫁しては病身の夫の為に、老いては非戦論、社会事業、伝道の為に家と生活をかえりみぬ独り息子(つまり私)の為に人生を費消しつくしました。こう書くと格好よいけれど、人の為につくすはよいけれど実にグチが多く悲観的、どこか律法主義的頑固な人で、私の求道生活は、この実の母がうとましくてたまらぬという罪責感から生じたと言ってもいいくらいです。
 この母が先月二十七日より、ころりと変りました。もう八十三才の衰弱した体で万年床にねたりおきたりですが、そういう孤独な生活の中で、「いつもイエス様と一緒だから淋しくない」といい、「毎日、聖書の言葉が少しづつ分ってうれしい」という。事毎に、いつも祈る老母を見ると、私も手を合わせて拝みたいくらいです。よくもまァあの自己中心に悲観的言葉だらけの人生であった母が、こうもかわったものです。
 いくら言ってきかせても絶対あとにひかず自分の意見を主張していた母が(大分ぼけてきましてね、夕食を朝と勘ちがいする、一度入った風呂にまだ入ってないという。朝食を食べて又眠って九時頃に起きてくると、また朝食を食べるという。以前はこういう時、少し家人のいう事が本当かいなと思っても、あくまで意地を張って、老人の特権でしゃにむに自己主張をしていたように思う。
 今はちがう。そうかい、私も大分物忘れがひどくなったからそうかもしれんね。でも、食べたいことは食べたいから、ご飯をお願いします。といった調子である。)本当に素直になってしまって、勿体ないような感じさえすることがある。おかげで、私共も一緒になって素直に祈る。
 「神様、バアチャンの腰が痛いそうです。どうぞなおして下さい。」
 「神様、バアチャンの手にイボがでました。どうぞイボを取って下さい、アーメン。」
 と事毎に祈ります。すると又不思議にいやされましてね、母は私に「ねェ、なおったよ」という。私もうれしいから、立ったまま母をかき抱いて「神様、バアチャンのイボを取って下さいましてありがとうございます。アーメン。」と祈るのである。こういう家庭が、幸福でない筈がありませんね。本当に毎日充実しきっているのですよ。今もこの原稿を書き終わろうとして、さき程風呂から上がったらしい母がもう眠っているかどうか見に行きました。そうしたら、既に眠っていた母が、ポカリ目をあけて
 「安らかに眠れてうれしいよ。イエス様に感謝いっぱいですよ。」
 という。私は泣けてしまって、母の手を握って、一緒に感謝の祈祷を捧げた事です。
 かく我らを愛し励まし進ましめ給う、十字架と復活の主を讃美しつつペンをおく。(一九七四・三・二八)
 (1974年4月号「神の息よ吹け」より)
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by hioka-wahaha | 2013-03-26 22:14 | 日岡だより

No.583 事毎に祈れ(六、小さな確証を拡大せよ) 2013.3.17

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


事毎に祈れ   

   六、小さな確証を拡大せよ
 こういう小さな確証も又、実に一つの神の「御言葉」でして、このような御言葉を頂いた時、どうぞサタンに奪取されぬよう、又思いわずらいや迫害によって双葉の時に枯らされぬよう、大切な種子として、よき畑で守らねばなりません。(マタイ一三・1~23)
 よき畑―――、それは「信頼」です。信頼という土壌の中に埋めておきさえすれば、あとは農夫は何の力もいらぬ。農夫は無為に日夜おき伏しする程に種は成長する(マルコ四・26~29)。それが神の国の法則です。神の言葉は、しばしば小さき細き声でして、世のいかなる種子よりも小さいカラシ種の如きものです(マタイ一三・31、32)。そのカラシ種のごとき小さい信仰の言葉は、カナンの女に言わせればパン屑のごとく(マタイ一五・27)、又子供の持っていた五つのパンの如く(ヨハネ六・9)、取るに足りぬ小さいものであろうが、それを信仰をもって増大すると大いなる結果をうむ。
 人間は不信の徒です。なかなか百パーセント信じられぬものです。「この山に移りて海に入れと言う時、その言う処が必ず成ると信じて心に疑わないならその如く成るべし。凡て祈って願うことはすでに得たりと信ぜよ」(マタイ二一・21、22)-この御聖句は実に真理です。しかし、こういう山を移すに山程の信仰を持てというのは、非力なやさ男に二〇〇キロのバーベルを持てというに等しいように思われます。
 然し又一方では「カラシ種一粒の信仰があるならこの山にここ、かしこに移れというとも移らん」(マタイ一七・20)とのイエスのお言葉があるのです。カラシ種は、畑にまく時は凡ての種より小さいけれど、育った時は他の野菜よりも大きくなって樹のごとくなる(マタイ一三・31、32)、そして三十倍、六十倍、百倍の実をむすぶ(マタイ一三・8)、そのように私共の小さい小さい信仰(むつかしい問題の時「先生、どうにか信じられるけど、あと二分程疑いが残って不安なんです」などと言ってくる正直な人がいる。二分どころか、九九%不信で一%しか信じられぬという不信の徒)でも、よろしく、「我信ず、信仰なき我を助け給え」(マルコ九・24)と言って主の足下にすがりなさい。
 そのような、人間の「信」を見限った絶望の淵に、本当の主にある信仰がわく自分、そういう信仰でいてこそカラシ種のごとく、三十倍、六十倍、百倍の実をむすんで、山をも移す程の大事を為すのです。このカラシ種のごとき信仰を山程に質量を増大せしめ給う神の国の法則こそ、神を信じるものがこの世に生きていく際の最も実利実効ある福音(即ち力)であると信じます。
 こういう福音的信仰をもって事毎に祈りつづけるのですよ。
 (1974年4月号「神の息よ吹け」より)
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by hioka-wahaha | 2013-03-23 14:53 | 日岡だより

No.582 事毎に祈れ(五、祈りが空念仏におわらぬよう) 2013.3.10

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


事毎に祈れ   

   五、祈りが空念仏におわらぬよう
 「告げる」(ピリピ四・6口語訳「申し上げる」)という言葉は「悟らしめる」という原意でして、単に言葉を唱えるというような祈りではない、神様の英知(グノーシス)に本当に判ってもらう、そういう祈りなのです。
 よく空念仏という言葉があります。念仏を唱える側が上の空のカラ念仏という事もあろうが、もしかすると唱えられる仏さんのがわで、よく聞きとれぬ念仏、右の耳から入って左の耳にぬける念仏もあるかもしれぬ、そういうカラ念仏じゃ困るんですね。本当に仏さんの心の中にカチンと納まってくれる念仏じゃないと困るんです。
 そういう念仏は、ひっくり返していうと、仏さんの胸にカチンと納まってくれたと、こちらにもカチンと応答のある一つの証し(アシュアランス)があるのです。こういう実感が祈りの生活には必要ではないでしょうか。この実感がくるまで「終りまで耐え忍んで」祈って待つ必要があります。こういう奨めに対しては、それが感情主義だとか、体験至上主義だとかいう批難もありましょうが、信仰生活の実践論としては、これは必要な忠告だと思います。ある人はこれをコリントゲームでパチンコ玉がコツンと凹みにおち込んだ時の感じだという。ある人はウッと胸にこたえる感じだという。主観的希望にだまされて、この時のカンの狂うこともあるが、体験を重ねて行くと次第にホン物、ニセ物の区別が分って来ます。
 (1974年4月号「神の息よ吹け」より)
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by hioka-wahaha | 2013-03-12 23:03 | 日岡だより

No.581 事毎に祈れ(四、コト毎の祈り) 2013.3.3

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


事毎に祈れ 

   四、コト毎の祈り
 前述した、S姉方式の祈祷法を一口で言うと「事毎の祈り」ですね。
「ただ事毎に祈りをなし願いをなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。さらば人の思いにすぐる神の平安、汝らの心と思いとを守らん」(ピリピ四の5、6)
 この聖句は、「事毎の祈り」の秘訣をよく表してくれています。
 事毎のコトという言葉は、モノ(物・者)に対蹠する言葉です。これら二つを合わせて、日本ではモノゴトというのです。モノは、ある時間帯を過去・現在・未来にわたって滞留します。コトはちがいますね。コトは一瞬一瞬、現在にあるだけです。コトは「我と」他者とのかかわりあいなのです。他とのかかわりあいは一瞬一瞬に変化してとどまることなく常に現在的です。
 時間の態様について三つの見方があります。
 (一)第一に過去→現在→未来へと流れる型。これは時間を見る人が、あたかも時間の外に立って「ゆくものは斯くの如きか(孔子)」と嘆じている具合な客観的立場です。
 (二)第二に未来→現在→過去への型。これは舟が川の中にあって上流に向うように、未来へ向って進む時、相対的に未来がかなたからこちらへ向ってやって来て、経験した時間が背後の過去に流されていく。これは主体的な時間の見方で、常識的な時間観と全く反対ですね。人生観として少しでもこの時間意識を持っていたら、運命論に陥らず未来を開拓する希望感が湧いてきます。
 (三)第三に常に現在あるのみ、常に一瞬一瞬、現在の推移のみという時間観。(ちなみに、一瞬とは数学的〇秒ではなく本当にまばたきする位の〇・一秒ぐらいの時間だと思います。ぐっと意識する間、その時間が大事なのです。)
 この三つの時間論は、私のオリジナルかと思っていたら、道元の正法眼蔵にちゃんと出てくるそうです。
 だから、事毎の祈りとは、一瞬一瞬の祈りであって、過去を悔いず、未来を案ぜず、日々瞬々に、当面するコト毎に祈り、願い、求めを感謝をもって神に告げるという事です。これはおのずから「思いわずろう」筈のない心技でありまして(思いわずらいには二つありまして、過去のイヤな事をくよくよするのが持ち越し苦労。将来の心配をいちいちするのが、取り越し苦労。現在当面する問題には瞬々に直面していて努力をするのみ、いろいろ心配するいとまはない、故に充実しています)つまりその時、人の思いも及ばなかった神の平安が人の「心と思い」を守るのであります。
 このピリピ人への書四の六に出る「心」は深い意識(霊)、「思い」は表面の意識を指すように思います。事毎に重大問題でも日常茶飯事でも、何もかも主の前に注ぎ出して祈るという、この祈り方は単に実利実効型、表面的、いわゆる積極心理技法(よくハウツウものの本があるじゃありませんか)の域をこえ深い魂の層の平安をもたらすということを、このピリピ人への書の聖句は示してくれないでしょうか。
 (1974年4月号「神の息よ吹け」より)
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by hioka-wahaha | 2013-03-09 21:51 | 日岡だより

No.580 事毎に祈れ(三、祈りの秘訣) 2013.2.24

「神の息よ吹け」1974年4月号
-「心に満つるより」改題・通巻第7号-


事毎に祈れ   

   三、祈りの秘訣
「信仰の秘訣は、祈りの秘訣です。
私の信仰は日常の戦いです。
たとえば金―――
いくら計算しても、一ヶ月の収入は一ヶ月の支出に足りない。
だから、もう計算は止めて、祈ります。
毎日、金は不足します。
不安がこみあげてきます。
私は心に叫びます。
短い言葉です。
『豊か!』『十分!』『平安!』
それを手裏剣のように放って
刻々に、不安を断ち切るのです。
通勤の車の中でも、おトイレの中でも、
祈りの手裏剣を放って、戦うのです。
そのようにして戦いを続けていると、しだいに不安は遠のきます。
しかし、まだそれでは不完全です。
私の心の中から不安がすっかり無くなるまで、しつこく、徹底して祈らねばなりません。
完全に、その不安をたちきる為に、
その戦いが三日間もかかった事があります。
三日間たえまなく吹矢を射込むように
短言寸句の斜祷を
連投して急場を切りぬけるのです。」
 以上がS姉方式一の型とでも呼びましょうか。
「もう一つのコツは、祈りの主題がその祈りの中でしぼり上げ、与えられるものだということです。
欠乏、希望、感謝。このように祈る主題はいくらでもあるようですが、それが本当に真実の私の祈りとなる為には、祈りの中で与えられるのでなくてはなりません。まして、将来の方針とか、土地を買うとか、そういう大きな問題が単なる欲や思いつきでなく、心からの求めとなる為には、その求めが本当に祈りのルツボを突きぬけてくる必要があります。」
 これがS姉方式二の型です。
「もう一つ、私の祈祷でこれが特徴かなと思うのは、具体的に、できるだけこまかく具象的に祈るという事です。」
 この具体的に祈るということについて、私の妻が、このように話してくれた。
「今日Sさんと一緒にM雄ちゃんの入試合格をお祈りしたんです。処がSさんのお祈りにはびっくりしましたね。M雄ちゃんの名前、受験番号、大学の名前、その学部、科名。今度のホテルの名、その室番、明日の受験科目、それを一つ一つ口に出しては、この子のことよろしく御願いしますと祈るんです。」
 その報告を聞いて、私も驚き呆れましたね。これがS姉方式三の型です。徹底して、綿密、丁寧、具体的に祈るのです。
 (1974年4月号「神の息よ吹け」より)
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by hioka-wahaha | 2013-03-05 23:39 | 日岡だより