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No.576 剥脱の日記<リバイバル感想>ほか 2013.1.27

「心に満つるより」No.1 

剥脱の日記       

<リバイバル感想>   一九七三・七・八
 山本先生よりアルゼンチン・リバイバルの記録「栄光のおとずれ」を送って頂き、一気に読了する。
 こういうものすごい怒涛のごとき聖霊の働き、それがある地域に集中してあたかも磁場がつくられているかの如き現象を呈する、こういうリバイバルはキリスト教(それもプロテスタント)だけのものなのだろうか。それとも、どの宗教にも見られる事であろうか。
 それはさておき、リバイバル物語の最大の危険は、その宗教的ヒロイズムに目をうばわれた宗教的野心家をうみだす事である。そういう英雄妄想を、釘づけし得ない宗教家に神がリバイバルの門戸の鍵をわたす筈はない。
 完全に「指導者づら、英雄気取り、後世への名誉心」から脱却して、「おのれを捨て、おのが十字架を負いて」キリストに従う神の僕ならずば、リバイバルの鍵を乞い得ない。
 

<燃えよ! 人生> 
 「燃えよ! 人生」
 そう自分の人生に言い聞かせたい。
 古人いう「どくろ識尽きて、枯木龍吟す」と。
 龍吟とは、燃えるということだ。
 枯木に何の使い道ありや。
 ただ燃えるのみだ。そこに、神にもやされる人生がある。
 燃えないのはなぜか。生木だからだ。生木はくすぶって火にならない。根は切られているくせに、枯れ果てようとしない。そういう「既に死んでいる」はずであるのに、まだ生きている体の人が教会にうようよしている。「一人すべての人にかわりて死にたまい、すべての人すでに死にたるなり」と心に深く体験していても、根は切られても尚水を吸い上げて花を咲かせている生花のように、死を心の奥深い処にあるキリスト体験してのみ記憶し、日々に死し、キリストの十字架に生きる日毎の人生の秘儀を知らない人は、所詮人生に失敗する。
 人生に燃えよ!
 汝の内的熱気ではない。
 汝自身を枯木となして、神の霊気にもやしつくされよ。      (七・一三)
 

<宇宙と私> 
 目に入るもの、感じるもの、すべて私と一つである。私の体の中にある諸器官、諸細胞と「私」との関係と、宇宙、星辰、山河、海風、草木、虫魚、人獣、工作物一切のものとこの「私」との関係と同じようなことなのではないのか。「私」とそれらをすべて切り離していくと、一切が宇宙に帰り、「私」は無になる。その無が、神のイノチであるという気がする。            (七・一四)
 (1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-01-29 21:18 | 日岡だより

No.575 剥脱の日記<一寸の打坐、一寸の仏>他 2013.1.20

「心に満つるより」No.1

剥脱の日記  

<一寸の打坐、一寸の仏>
(つづき)
 「十分祈ったら、十分祈っただけ、私の内に神の国は開けるのである」と。神の国が肉に於いて見えずとも、感ぜられずとも何の感応も形も表われなくても、私は信じぬくのである。私の内に、神の国は来たれりと。
      ×      ×
 「我すでに神の国に在れり」という確信のわく時、「神の権威の下にある」という信仰が可能である。その時、「我」を殺し、神の権威に服すならば、私は神の指となって、神の業を為すことができる。一寸は一寸なりに、一尺は一尺なりに。
 

<神の迷い>
          一九七三・五・三〇朝
私は無である。
私は神の材質より造られ
神の息吹きにより支えられているので
その限りでは私は神である。
されど私は無明の中にあり
世俗におし流され、溺れかけている。
この私は
まさしく迷いの人である。
私が迷っているということは
神の迷いでもある。
もともと、創造は神の迷いではないのか。
私の周辺で神は迷い、
私の中で神は迷い
宇宙いっぱいに神は迷っているのではないのか。
大いなる神の迷いの中で
私もまた迷っている
私はこの私の小なる迷いに目ざめ
(それは私の小なる迷いを離れるという事である)
神の大なる迷いに目ざめ
(それは神の大なる迷いに没入するという事である)
私という存在は、おのれの「本来」に目ざめ、
神の心に帰って、その身、その儘、そこで即座に、
神の国の人となるのではないか。
 
(注)神の迷い=あそび、たわむれ、
いたずら、
創造、愛、支配


<パンと十字架の冥想>
                  一九七三・六・二
 青草の上に坐して、イエスの奇蹟のパンをもらう群衆は、まさしく無為徒食である。「ただ立ちて待つものも神に仕うるなり」とミルトンは言ったが、ここではなんと「ただ座して食するものも神に仕うるなり」である。
 「我はまことの食いもの、まことの飲みもの」と言ったイエスのその奇蹟のパンは、彼の血、彼のイノチを象徴する。ただ座して、イエスの生命を頂戴する、この秘儀こそ、「祈祷、冥想、坐禅」の秘儀であると思う―――。
 わずか五分、一〇分の祈祷でも、これを宇宙をのみこむ程の大きな容量にするには、この秘儀にかかわる信仰が必要である。
 私は丘の上にたつ一本の十字架ではないのか。私の上にイエスを釘づけしているのではないのか。私の本質そのものが、イエスの血を釘とともに吸い込んでいるのではないのか。キリストの血を釘の傷と共にのみ込んでいるこの十字架こそ、神の宮ではないのか。十字架を、ご自身の血をもってそのまま神の宮とならしめ給うその血汐こそ私の生命ではないのか。「釘宮」という姓を感謝しつつ。
 (1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-01-22 20:44 | 日岡だより

No.574 剥脱の日記<一徹に生きるか・・・>(つづき) 2013.1.13

「心に満つるより」No.1 

剥脱の日記   

<一徹に生きるか、ドレイとなるか、はた又、奴隷の世界より救われる道ありや>
(つづき)
 現実の対処として原始キリスト教団は、奴隷問題に対しては、「許さるる事を得れば許されよ」という消極的態度であったと思われるが、しかし又、彼らの勢力の台頭により、ヨーロッパより奴隷制度が無くなっていった事も事実であろう。
 さて、資本主義は宗教革命の鬼子であるといわれるが、その資本主義的新世界の綿の畑が、新しく黒人奴隷を要求した。そして、この黒人奴隷の問題が形の上ではどうにか片づく頃、実は全世界が「資本」の奴隷になっている事を発見した。社会として、「資本」に隷属化しているといわんより、全人類がカネの力に手足をしばられ、自由を失っているという事実に目をとめたい。
 今や、我々は何度目かの出エジプトをしなくてはならぬ時代に来ている。
      ×      ×
 昨年末来、原材料不足とかで、インフレーション下の凄まじい買い占めさわぎを生じたあのさわぎは、すこぶる象徴的で、地球上が金の奴隷より脱出しようとしている身ぶるいのように思える。人類の底しれぬ欲望に地球が崩壊すようとしている。その最終期、歴史が転換しつつある時期が今なのだと思われる。

<一寸の打坐、一寸の仏> 
 「一寸の打坐、一寸の仏」という禅語の意味が、最近幾分わかりかけて来たように思う。坐れば坐っただけの、たとえ僅少なりといえども内にひらけるもの、あるいは蓄えられるものがある。心の構えというか、用意の力というか、そういう内側に向かって開けていく光線の矢が強くなっていく―――それはモノがたまり、色が変化し、数字が上昇する、そういう形の事でなく、私どもの心の中にある事実がおこる、あるコトが重ねられていく、それだけの事だが、そういうコトのおこりが仏だし、神の世界なのだと思う。
 私の内に、何度か神のコトがおこり、その経験が、私の心のヒダに刻まれていく。そこに私の聖化がある。そこに私の見性成仏がある。ゆるやかであり、僅々一ミリか一センチか一寸ずつの事であろうが、神の国の拡大がある。
 勿論、私には瞬間における鋭角的回心の経験があるので頓悟ともいうべき、いきなりま尽大地を照らすイルミネーションの如き見性ぶりを想像できぬわけでもないが、今はその事をおく。今の私には却ってこの身このまま、一寸の打坐、一寸の仏という方が、しみじみありがたいのである。キリスト教的に言えば「十分の祈り十分の聖化」である。静かに、おだやかに、確固として、りきみかえらず、あわてず、あせらず、信じぬくのである。(つづく)
 (1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-01-15 20:22 | 日岡だより

No.573 剥脱の日記<一徹に生きるか、ドレイとなるか・・・、> 2013.1.6

「心に満つるより」No.1

剥脱の日記 

<一徹に生きるか、ドレイとなるか、はた又、奴隷の世界より救われる道ありや>
 「今日ただ今が大事である」などと仏教で言われる。その日、その時、魂を打ちこめる仕事を持っている人はよいが、そうでない人はどうなるのか。全く、世をはなれて専修念仏、只管打坐すべきか。そう言い切ってしまうのも、一つの信念だと思う。結婚を反対するガンジーに結婚しなければ人類が滅んでしまうではないかときいたら、ガンジーはほろんでもいいではないか、そうまでして人類を残さんでもいいではないかと言ったという。非戦論となえて、最悪の事態では日本がほろんでも仕方ない、反戦平和の大義をつらぬき通す為には。などという―――そういう一徹主義である。そういう一徹主義で世間をはなれ、世間を捨てて、一瞬一瞬俗事にわずらわされずに入魂の仕事をしていく人生があろう。天才はそうして生きてきた。大芸術家、大宗教家、大武道家、大学問(?)家、みんなそういううらやましい人生を生きてきている。それをマネして“Do it!”などと赤ん坊の如く自然に生きようとするヒッピースタイルの生活人も生れてきた。総じて一致している事は、すべてこの世のドロドロした、利欲に癒着し、弱さに足を引っ張られつつ、反目しながら手を組んでイヤイヤながら金と地位に引きずりまわされている生活と断然手を切ろうという態度である。
 小乗仏教の東南アジアでは、人間一生に一度は必ず出家するという風習の国もあるというが、意味のある事である。若いときに一度くらい出家の決意をしてこの世間をつき放して客観しつつ雲水のごとく生きる経験をしなくては人間話にならんと思う。
      ×      ×
 それはさておき、今私の思うのはそういう思いきった出家型に生きる事もできず、この世のキズナの中で奴隷のごとくつながれている一般民衆の生き方である。
 BC2000年、ヘブル人がエジプトの奴隷生活より脱したように、今の奴隷庶民も金のくさりより脱出すべき時がきているのかもしれない。
 ローマ時代の奴隷制度に対し、当時のキリスト教がどういう態度を取ったか、それも興味ある処だ。
 奴隷制度等に対し、原始キリスト教団(主にパウロ)の態度は
①「許さるる事を得れば許されよ」という(オネシモの如く)。それはしかし原典ではこうも訳せるのだ。
②「許されても奴隷でありつづけよ」(他の処でパウロが「人は救われた時のそのさまのままにとどまるぞ良き」と言うのに口うらが合う。)
 すこぶる曖昧な態度だが、結婚問題にせよ、税金問題にせよ(現代で言えば、平和論や労働問題に相当するであろう。)端的で、鋭角的で、反応は早いのだが、しばしば左右両極の矛盾するはげしい返答が戻ってくるのが聖書のくせでこれは聖書の態度が曖昧だというのではなく、この応答を求めた世間の事情の方にかくれた左右の偏凹があるのであろう。<つづく>(1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-01-08 20:52 | 日岡だより

No.572 剥脱の日記<日本教? 禅>他 2012.12.30

「心に満つるより」No.1

剥脱の日記    

<日本教? 禅>
 最近、禅宗の本(特に正法眼蔵)にこっているが、この東洋的な、余りに東洋的な思想に埋没していると、時々、その脱世間的な、故に世間に対してきびしさをうしなって妥協的な生き方になってしまう入廛垂手ぶりに反発しはじめる。
 それじゃダメだ。もっと世間への発言と行動はないのかと言いたくなる。悟りすまして洒脱な風格の和尚が、芸者を上げて遊んでいる。そういう悟りきっていると称して、世間に埋もれきって、なずんで手が切れなくなってしまっているような人物を輩出する仏教というものをおかしいと思う。これはもともとの仏教であろうか。あるいは、イザヤ・ペンダサンのいう「日本教」のしからしめる処であろうか。
      ×      ×
 キリスト教のきびしさは矢張り、砂漠と唯一神教のしからしめる処か。このきびしさと、仏教のあいまいさとが止揚されて、次代の宗教がでてきそうな気がする。私の宗教はそういう宗教でありたい、私はそういう宗教に生、死したい。

<いろんな宗教の型>
① キリスト教は、何でもかでも十字架の贖罪に吸引してしまって、宇宙を彩色する。
 贖罪はたしかに神の法則、これに救われるのみでなく、これに救われたものは、この贖罪愛に自分が行動すべきだ。
② 仏教は一切を平等に無に閉じこめて活動を封じやすい。
社会に出て行こう。不平等の世間に出て共に泣こう。
③ ニューソート風の近代宗教は人間の快楽主義的エゴイズムになじんでしまう。
 人間のエゴイズム、皮相なヒューマニズムを糾弾せよ。この皮をむけ。
④ マルキシズムは自分の罪を忘れて、それを人に転嫁する。
 マルキシズムに妥協するな。唯物論に恐れるな。
⑤ 催眠的人格改造論は、人間性の表面を浅くなでるだけ。
⑥ 心霊学は、人を宿命論や恐怖心におとし入れ、エゴイズムより救い得ない。
⑦ 神道は、何もしないのと同じ。その明るさがよい。
⑧ ヒューマニズムは人間エゴイズム。

<ガンジーを想う>
 これまで、東洋思想、東洋思想と言って、東洋思想にはまるで、きびしい現実対処がないもののように言ってきたけれど、あのガンジーの行動はどうだ。
 そして、そのガンジーを見習って、アメリカで黒人牧師のマルチン・ルーサーが無暴力抵抗をやったという事に、西と東の結合を見て、大きくうなずかせられる処がある。
      ×      ×
 インドにおいて、ラーマクリシュナとガジーと、どちらが根源的であったろう、どちらが世界に対し、直撃的であったろう。
(1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
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by hioka-wahaha | 2013-01-01 22:27 | 日岡だより