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No.558 《戦時信仰日誌》四月一日 2012.9.16 

《戦時信仰日誌》  (昭和二十年二月十六日起)
 
 四月一日
 復活節である。朝、会社を一寸休んで礼拝に出る。夜、岩本氏来訪、偕に佳き夜を守る。
「なんぢの指をこゝに伸べてわが手を見よ。汝の手をのべて我が脇にさし入れよ。信ぜぬ者とならで信ずる者となれ」トマス答へて言ふ「わが主よ、我が神よ」イエス言ひ給ふ「なんぢ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり」
 此の聖句の感銘深きことよ。
 あゝ我が主よ、我が神よ。此の言葉は矢張りイエスを目のあたり見なくては発する事のできない(我ら如き弱く且つ傲慢なる者にとりては)ものである。聖霊によらざればイエスを主と呼ぶこと能はずとパウロもいふ。然り悲しくも我らは神を遠く離れ逆きさりし罪人であって、主御自身手をのべ、汝の指を伸べよと仰言られる迄は、何ともすることの出来ないものである。
 信ぜぬ者とならで信ずるものとなれ
 イエスは決して不可能を強いるのではない。懼るゝ勿れ只、信ぜよ、凡ては信仰より湧きいづるからである。
 見ずして信ずるものは幸福なりと主は言ひ給ふ。然しこれは決して人に可能なることではない。然し乍らひとたび主に接し主のみことばにふれたる人は、即ちひとたび主を見て始めて信仰をあたへらるゝ時、見ずして信ずることの如何に幸福たるかを痛感するのである。
 此の我を見しによりて信ずるかといふ言葉に主の深い深い歎きとあわれみとを察するのである。
 
 四月二日
 午前益田姉大連に発つ。荷物運賃二九六圓五十銭預る。大野千尋氏出征。
 
 四月三日(神武天皇祭)
 母昨日より感冒にて不快のため、会社を休む。終日家内雑事。
 十一時頃、特高課より巡査が来る。正午迄話した。
 中村氏が来て、岩本氏の家庭面白からざる由、聞く。午後、母に一寸岩本氏宅に行ってもらふ。然し、これは人の力でどうにもなる問題ではない。たゞ祈るのみである。
 結婚生活とは忍びあひ赦しあふ生活である。そして信じあふ生活である。人間に最後に残される能力は忍耐である。そして忍耐は練達をうみ、練達は希望をうむ。希望はやがて信頼であり、愛である。忍べ忍べ、而も主にありて忍べ。
 結婚に当って幸福なる生活を些かも期待してはいけない。人間的なる期待は常にみぢんに破れ苦い苦い食味を何時迄もその人の心に残し勝ちである。
 
 信仰生活に這入っても、一向に表面に異った処はなく矢張り難み悲しみ苦しみ失望する。いさゝかも進歩がない。弱々しき生活態度は人をつまづかせ神のみ栄を傷つける。果たしてこんなことで基督の僕といへるのだらうか。
 然しこれでいゝのである。僕は思ふ、僕らの救はれたのは決して僕らの業によるのではなく、たゞ主の十字架によるのである。それと同様に我らの救ひの保証も又我の業にあるのではなく、たゞ主の復活にあるのである。僕らは僕ら自身をかへり見る必要はない。神が見給ふ処は、その右に在す主イエスであって、醜き僕らの姿ではないからである。
 
 我には我らの主イエスキリストの十字架の外に誇るところあらざれ
 然り然り主よ、我らの誇りはあなたの十字架以外にはあることないのであります。
 決して十字架ぬきのキリストではない。却って十字架にかゝり給はざるキリストは我らに取り怖れであり、悩みであり、恥辱である。
 
あゝ此の心の底よりの喜びよ
何者にも奪はるゝ事なきこの喜びよ
何者にも比ふべきなきこの喜びよ
あゝ此の賜はりし我が喜びよ
不安の波はげしく疑ひの風吹き猛けるとも
如何に又苦難あり悲しみあり
それに堪ゆべく如何に力弱くとも
  (あゝ其れに堪ゆべき力が我らの努力によるのならば我らは全く絶望する、然はあれど)
主よあなたの賜はる力と望みと信頼とにより、
あゝあなたの仰せ賜ひし如く
我ら勝ち得て餘りあり
然りあなたは既に世に克った
あなたの勝利は我が勝利
あなたの喜びは我が喜び
あゝ尽きざる此の喜びよ
たゞ此れのみ!
たゞ此れのみ!
たゞ此れにて足れり
めぐみよ、めぐみよ、我がめぐみの泉よ、
あゝ此の心の底よりの喜びよ
賜はりし此のめぐみよ、此の喜びよ
 (つづく)
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by hioka-wahaha | 2012-09-25 17:21 | 日岡だより

No.557 われ弱くとも恐れはあらじ 2012.9.9

われ弱くとも恐れはあらじ

 昔懐かしい日曜学校讃美歌です。
  主われを愛す
      主は強ければ
  われ弱くとも
      恐れはあらじ
  わが主イエス
      わが主イエス
  わが主イエス
      われを愛す
          (讃美歌461番)

 よく歌ったものです。日曜学校の行き帰りに、みんなで元気よく声を上げて歌いました。私は幼年時代、別府で育ったのですが、別府駅の下あたりに、今もそこにありますが、日基の教会に毎日曜日通っていました。
 山手にあった当時の自宅からは、教会までかなりの距離でしたが、めげずに通いましたね。特に「わが主イエス、わが主イエス」と繰り返して歌う時、息が自然に強くなって元気が出たものです。
 明治初年の頃の讃美歌では「主われを愛す。聖書さよ申す」とかいう歌詞だったと聞いたこともあります。なんだか歌ってみたくなるサムライ風歌詞ですよね。《く》 
 
 
《戦時信仰日誌》  (昭和二十年二月十六日起)
 
 汝らは地の塩なり
 これは主の尊きお約束である。他の多くの御命令と同様に、これは命令であると同時に、必然であり、可能であり、約束である。殊に此の「めぐみの約束」であるといふ所に目を留めなくてはならぬ。決して我々の力や我々の信仰に依って、我々が地の塩となり、世の光となるのではなくて、たゞ主の恩恵によって地の塩となり世の光となる事が出来るのである。その故に我々は自らを徒(いたず)らに反省し落胆して、若しや我々はもう地の塩でもなく世の光でもなく、そして或は主の恩恵よりを(お)ちたものではなからうか抔(など)と心配する必要はないのである。
 懼る勿(な)唯信ぜよ、そのひたすらなる信頼に依ってのみ、我々は眞に地の塩、世の光とさせて頂く事が出来るのである。
 
 我かれらに永遠の生命を與ふれば彼らは永遠に亡ぶることなく又かれらを我が手より奪ふ者あらじ、彼らを我にあたへ給ひし我が父は一切のものよりも大なれば誰にても父の御手より奪ふこと能はず
 此の様な大いなる保證があるか、我々は如何にもがき逃れようとしてみても逃れる事のできない能力を主は持ってゐ給ふのである。
 
 我らは神によりてイエスキリストに在り、彼は神に立てられて我らの智慧、義、聖、贖となりたまへり
 此の「神に立てられて」を注意しなくてはならぬ。決して我々の信仰や我々の動機によってゞはなく唯神のみ旨によって、彼キリストの十字架はあるのである。
 
 三月十八日 大分市初空襲を受けた。
 信仰生活の重大さと基督者としての責任を益々感じた。
 基督教生活の根本は愛と十字架であると思ふ。十字架ぬきの愛は眞の愛ではない。そして又愛なき十字架は却て偽善である。人本主義は十字架ぬきの愛に陥り、倫理的道家は愛の缺(か)げたる十字架にを(お)ちゐる。
 
 過去の日本をかへり見るに決して賞めたことのみではない。
 その十字架を負ふのは誰であるのか。
 
 主の祈とは正しく主の祈であって、決して我らの祈ではない。我らはたゞ信仰に於てのみ主の祈を我らの祈として祈り得るのであって、生来の人間が決してそのまゝで主の祈りを祈り得るものではない。
 信仰とは決して我らの意志ではなく、唯一切を捨て置いて主の御恩寵の裡に移り住もふことである。その故にたゞその無条件的なる恩寵の故に、主の代祷を信じて祈る処に本当の主の祈がある。
 我らの祈る現実の主の祈は呆れ果てたる一つのみにくき汚物である。然し、それが主御自身お命じになり(且つお約束になったが故に――命令は即約束であり、又恩恵である)しものなるが故に、たゞその御恩恵の故にのみ義とせられ、聖とせられて、神の前にたち至るであらう。
 御名の崇められんことを、といふ祈は考へれば考へる程すばらしい祈である。此の言葉によって、我らの裡には神を崇める力も資格も元々、何も無いのだといふ事が充分に示されてゐる。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2012-09-18 16:00 | 日岡だより

No.556 夢を見る自己訓練 2012.9.2

夢を見る自己訓練  

 昨日の朝、夢の中で、声をあげて大きく笑っていた。目を醒まして声をあげて喜ぶほどに、良い夢を見ることが出来るのは幸いである。「今宵も亦、良き夢を見させ給え」と祈ったことである。
 私は主にあって活かされている。天使たちに護られている。サタンは排除される。私は主を全く信じる。また自らも努力する。主に従う者として成長し完成して行くことを心から願い、また期待し、確信している。
 今宵も又、眠りの中においても護られ、導かれ、成長し、完成へと向かって行く。その事を確信します。神様、感謝します。ハレルヤ、アアメン!
 夢は潜在意識下で起こることであるから、夢は正に潜在意識による自己訓練の格好の教室であり、道場なのである。この際、夢を見ている時、今自分が夢を見ているという自覚が出来ることが必要である。そして、己れの夢の中で自分自身を相手にして教え、訓練し、鍛錬するのである。
 こうして「夢を自己教育、自己訓練の教室、道場とせよ」というのが、私の年来の主張なのです。ということは、私たちが先ず、自から自覚的に「自己訓練の為の夢を見よう」という自己意識を持つことが、先ず先決課題であるということです。この自己意識を持ち始めると、次第にそのような夢を毎夜見始めるようになるから不思議です。こうして、私たちの心に奇蹟が起こり始まるのです。《く》
(2012.8.15記)
 
 
《戦時信仰日誌》  (昭和二十年二月十六日起)
 
 其の時神のみたま汝にのぞみて汝かれらとともに預言し変りて新しき人とならん、是らの徴(しるし)汝の身におこらば手のあたるにまかせて事をなすべし、神汝とともにいませばなり(サムエル前書第十章)
 神の汝らに要求し給ふはたゞ信仰のみであって、我らの行為ではない。その故に我ら若(も)し信仰さへあるならば我らの行為如何(いかん)に拘(かかわ)らず我らは心自ら責むるところなき筈である。即ち行為の一つ一つは信仰によって栄化せられるであらう。その場合、我々に聖書は斯く教へてゐるのだ。手のあたるに任せて事をなすべし、これこそ基督者の自由の最たるものである。
 
 主の途(みち)は我々の心を絶したものである故に、我々は何が主を喜ばせ何が主を悲しませるかと「主の心を知りて」主につかへまつる事は出来ないのである。
 その故に我らが主に事(つか)へまつる途は一つ一つの業によらず、たゞ信仰にのみによる。信仰のみが主のみ心を御満足させる。その故に又信仰による時、我らは律法的なる内的規範よりも外的規範よりも完全に自由なのである。
 
 手にあたるにまかせて事をなすべしと激励されたサウロは、かへって可笑しい迄に謙遜に生きてゐる事実を見逃してはならぬ。人間とは斯うしたものだ。此の同じサウロが今度は戒しめらるれば戒しめらるゝ程かたくなになる実例となっていくのは正に全く考へさせられる事だ。
 
 父は我らを暗黒の権威より救ひ出してその愛しみ給ふみ子の国に遷(うつ)したまへり
 この聖句に表はれてゐる御子の国とは決して来世を(のみ)指すのではないといふ事に注意しなくてはならぬ。
 極端に云へば、若しも此の世に於て救はるゝ事ないならば、宗教の意味は一つも無いのだ。若しも救ひが来世の事のみであるならば信仰は無意味であると云はねばならぬ。
 何故ならば、私の考へる所によれば、来世に於ては誰も彼も救はれるに違ひないと思ふからだ。佛教で全ての人は佛也といふのと少しも違ひない意味である。
 
 即ちその名を信ぜし者には神の子となる権をあたへ給へり、斯る人は血脈によらず肉の欲によらず人の欲によらずたゞ神によりて生れしなり
 その故に我らは決して自ら努力する必要はないし、又自らの一つ一つの行為についてあれやこれやと後悔する必要はないのである。いやもっと端的に言へば、我らは自らの行為に於て、何事すれば神の御旨に適ひ主のみ業を表すかなどと豫(あらかじ)め考へたり又、その後になって反省してみる事すらも却って魂の平安と進歩の碍(さまた)げとなる事がある。
 割礼を受くるも割礼を受けぬも数ふるに足らず、たゞ尊きは新に造らるゝ事也とパウロはガラテヤの諸教会に書き送った。然り、自ら努力し反省し、思索し、悔ひるも、又それらの事を何一つせざるもともに数ふるに足らず。たゞ神による働きのみが、我らの魂を救ふのである。又パウロは同じ書簡の中に於て同じ様な言葉をいってゐる。即ち割礼を受くるも割礼を受けぬも数ふるに足らず、たゞ愛によりて働く信仰のみ益あり、然り「我らの」働きによる信仰が益あるのではなく、たゞ神の愛によりて働く信仰のみ益であるのである。愛といふは我ら神を愛せしにあらず神我らに頒ち給ひし愛をいふのである。
 その故に我らには何ら誇る所はない。我には我らの主イエスキリストの十字架の外誇る所あらざれとパウロがいった通りである。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2012-09-18 15:58 | 日岡だより

No.555 夏の風物詩か? 夜の空に花火がパチパチ! 2012.8.26

夏の風物詩か? 夜の空に花火がパチパチ! 

 昨日テレビで、秋田県大曲という所で持たれている花火大会の中継をやっていました。私はその大曲での花火大会を偶然実際に見たことがあるのですが、それは大したものでした。もの凄いものです。
 秋田・大曲の花火は正に日本一かも知れませんが、それはともかく、現に今日私たちに与えられる神様よりの賜物の凄さに目を開かれようではありませんか。それは大曲の花火どころでないです、ハハハハハ!
 冗談を言っているのではありません。私たちは主よりの賜物の大きさに余りに気づいていないのだ、ということに恐れを感じるのです。
 逆の見方で地球人類の文明の終着点を予想すると、西洋文明は地球を一周して世界を覆っています。これ以上は爛熟してどうしようもありません。鍋の中の料理が煮え過ぎてたぎりだし、鍋から溢れ出して外に飛び出してくるように、人類の文明は全人類を圧倒して叩きのめすようになるかもしれません。
 日本もドイツも、勝って勝って勝っての遂に大敗でした。勝ったつもりのイギリスやアメリカにしても今後どうなるか、怪しいものです。そのうち日本やドイツの逆転勝ちもあり得るのでは? いやいや、これは冗談です!
 でも、神の御手による逆転劇はこれからです。世界の終末が来ます。その時、何が起こりますか。世の勝者どもは敗退し、負け戦さの弱虫どもが勝ちどきを上げる時が来るのです。バンザイ、ハレルヤ!
 その日の近からん事を待ち望みつつ、いや確かに、その日は近いと信じます。華やかな西洋文明はアメリカを覆い尽くし、太平洋を越えて日本まで来ました。今や日本は世界有数の大国になりました。これから中国、インド、アフリカ、でしょうか。こうして地球文明は一回りして、その終末がやって来そうな、予感がします。
 これはまあ、世界文明史では全くの素人の私の予測です。お笑い下さって構いませんが、中国、インド、アフリカから、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、アメリカを越えて、日本にやっと明治の初期到達した文明の香りも今や、驕って老化して息も絶え果てようとしているのではないか、それを私は感じます。世界人類の文明文化は、その終息期に来ているのではないか。この悲壮な予測を持たざるを得ないのです。
 世界の最後のパチパチが始まるのではないかという予感です。《く》


《戦時信仰日誌》 (昭和二十年二月十六日起)
 
 我らが心みづから責むる所なくば神に向ひて懼れなし
 あゝ此の言葉は今やめぐみ溢るゝなぐさめの言葉と変った。今迄は愚かな弱い私の心に取って、甚だ怖しい苦痛な言葉であった。しかし今は限りない喜びと平安をこの言葉に見出すのである。
 ヨハネやパウロやフランシスや、多くの聖者も、今は私供には及びもかなはぬ雲上の人とは思へなくなった。誰にも彼にも近い親しみを感じる。パウロの信仰、ヨハネの愛、それら凡ては一つ主の賜物である。私も又主の賜物により主によりて生きてゐる。誰も彼もその誇るところは主の十字架のみである。然ればヨハネにしろ、パウロにしろ、私を離るゝ事、いや遠い人間ではないのである。むしろヨハネもパウロも我が兄弟である。然り、パウロは幾度となく兄弟よとその教会に呼びかけた。
 
 ザァカイは一切を捨て置いて主に従った。その様に我々も又一切を――― 凡て惑ひも自省も何もかも――― 捨て置いて主に従はねばならぬ、その後始末は主にして頂かなくてはならぬ。
 主のみ懐に来た以上、何を我々は心配せねばならぬといふのか、何を努めねばならぬといふのか、善にあれ悪にあれ私心は今や捨てきらねばならぬ。
 
 愛について―――
 我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ。患難か、苦難か迫害か飢か裸か危険か剣か・・・・・・然れど凡てこれらの事の中にありても我らを愛したまふ者に頼り勝ち得て餘りあり。
 然り我らをキリストの愛より離すことの出来ないものは決して我らの力ではなく、そのキリストの愛自体である。もし我らの力と云ひ得べくば、即ち、
 「愛によりて働く信仰」である。キリストの愛に励まされて立つ信仰である。
 視よ父の我らに賜ひし愛の如何に大いなるかを。
 
 我キリストと偕に十字架に釘(つ)けられたり
 此の聖句より我らは決して我ら自身の努力感を汲み取ってはならない。思ふに、一人凡ての人にかはりて死にたれば凡ての人既に死にたるなり。
 自己放棄とか云ふが如きは決して人の力で出来るものではない。我らをキリストと偕に十字架に釘けて、新しき生命に甦へさせるのは、決して我らではない。斯の如きは神より出ずである。
 (つづく)
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by hioka-wahaha | 2012-09-04 14:09 | 日岡だより