<   2012年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

No.554 イエス様はまことの神、まことの人 2012.8.19 

イエス様は 
    まことの神、 
        まことの人
 

 イエス様は人類史上、独特な方です。こんな方は地上に他に一人も居ません。
 多くの世の人々は「エッ?」と驚くでしょうが、イエス様は本当に人間らしい人間でした。こういう人間は歴史上、一人も居ませんでした。イエス様だけが、創世記に於いて神に造られた時の、本当の人間らしい人間であられました。
 あのアダム以降の人間は皆すべて、罪に汚れた失格者の人間だった。ただ、イエス様だけが、たった一人、歴史上、本当に人間らしい真実の人間だったのです。
 神が造られた人間の好見本は唯一人、イエス様だけです。あとは皆、出来そこないです。だから、このお方こそ、まことの義人です。
 このお方が、私たちに代わって罪の罰を背負いなさり、十字架の上のお死に下さった。その故にイエス様を信じる私たちは罪を許され、死んだ後、天国に移されるのです。
 人間の理想像として一個の人格を求めると、ソクラテスや、お釈迦さんや、孔子さんなど居られるでしょうが、イエス様は断然、違うのです。このお方に勝る方は一人も居ません。完全無欠な人格者としてイエス様を置いては、他にはどなたも居ません。
 イエス様は確かに神様なのです。ご自身も確かに「私と父とは一つなり」と仰せになりましたからね。この点については、多くのクリスチャンもしっかりした信仰を持っていないかも知れません。□く


《戦時信仰日誌》 

 徒らに自分を批判する事は止めたがよい。パウロの様に私も又、我は自らをさへ審かずと宣言せねばならぬ。これこそ入信後に於けるサタンの誘惑への最大の武器である。
 自らかへりみて責むべき所あらねど、これによりて救はるゝにあらず唯主の十字架のめぐみによるのであれば・・・・・・とパウロはつけ加へてゐる。然り然り、自らかへりみて責むべき所なしと云ふ事が我々には非常に到達しがたい事の様に思ってゐたが、それも又めぐみの故による確信であると判ってきた。我々の現実の生活が如何にあらうとも、我々は様々の戒めよりなる律法より解かれて自由に成りたるものであれば、自らの生活の故によらず只主の十字架の故に、自らかへりみて何ら責むる所ないのである。我ら心みづから責むる所なくば神に向ひて懼れなしとヨハネも言ってゐる。まことにアーメン 
 (以下次号につづく)

  
日々新生 

一九七三年十二月十八日(火)フランス歌曲の立木稠子さんに会う。ひそかに期待していたとおりヨーロッパ宗教音楽の深みを教えてもらえそうで嬉しい。再会を約す。
十二月十九日(水)山本先生の「真の光」56号をいただく。その巻頭言「肉的にイエスを理解するならば、肉のイエスしか見えず、そうするとその人は、イエスを超えるか、イエスを脱することを考えるようになる。肉のイエスを受け入れることが、神が人に命じておられる神から発した霊的な操作であり、それによって人は霊的な者にせられる。肉のイエスを超えることによってではなく、受け入れることによって聖霊の恵みに入れられ、人の中に霊的な生命が誕生する。故に大切なことは『脱・肉のイエス』ではなく、我々自身が『脱・肉の我々自身』とならねばならぬ。」これは正しく、私にむかって先生の憤っている言葉だな。純な先生の怒りが見えるようだ。こういう言葉をきくと、私の胸に焼きついた回心の時のイエスの姿が燃えはじめる。――― 私にとっての、「イエス」をあらためて思う。
十二月二十日(木)早朝起床、いつものとおり坐禅、昨夜来ひきつづき「肉のイエスを受け入れる」ということを想いつつ、八十分をすごす。そのあと習字、ピアノの練習。
ある人の「金儲け」の話をきく。この世の人の智恵と情熱におどろく。真理の為にどうして私どもは、そのようにかしこく、また白熱化しないのか。
編集後記 本号は頁数がへってしまった。もう一編、原稿を用意してあったが、印刷工程のラッシュと年末郵便事情をにらみあわせて、このあたりで頁数ストップと踏んだのである。私の共産主義寛容の態度や天皇制問題についてE兄へのお答えを次号にのせたい。モノ不足で、かえってすがすがしい正月が来そうである。久しぶりに一燈園の三上和志先生の文章を拝読、しみじみと感じ入り、涙にじむ。


祝クリスマス あわせて来たるべき一九七四年のご聖福をいのります 

 新年の賀状を今回は全廃することにしました。目上の方や、宗教や信仰問題に興味をお持ちでない方には、まことに失礼と存じますが、この小冊子をもって賀状にかえたいと思います。虚礼返上などという思い上がった気分も無いではないのですが、それ以上に時には自分の心の思いのたけも打ち明けてみたいという念願からにほかなりません。来年を占ってみると、語呂あわせでは「イクナヨ」と実に消極的なひびきがしますが、それでも小生、そんなまずい感興を振り払って消極的に生きたく存じます。小生、来年一月十四日には五十二才になります。母も妻も子供たちも息災に過ごしています。もっとも母は八十三才の高齢にて到って弱ってきました。小生の俗務は昨年来の印刷共同工場の常務、今回生産棟に入りました。キリスト集会は毎週日曜日かかさず続けていますが、それ以外の伝道じみたことはしていません。この小冊子発行をのぞいては・・・・・・。
 皆様の御健康と平和をいのります。
 (一九七三・一二・七記)
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
※「心に満つるより」No.4再掲はこれで終りです。
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-08-31 00:00 | 日岡だより

No.553 敗戦残念日を迎える 2012.8.12

敗戦残念日を迎える   

 もうすぐ、「敗戦残念日」を迎える。決して「終戦記念日」ではない。「終戦」などとはとんでもない。まったく「完敗」、東京をやられ、広島・長崎の原爆、全国各地の主要都市壊滅、わが大分市もそうであった。
 大分市の西部商業部分は壊滅した。幸い、我が家は助かったのだが、その翌朝、私は大分市内を綿密に見て廻った。こんなことをした人は私のほかにおるまい。ほとんどの家に人はいなかった。皆、疎開していたのだ。ただ、一軒だけ、老女が独り泣いている家があった。慰めてはみたけれど、慰めようがなかったのを覚えている。
 敗戦というものは残酷なものである。戦争に勝った国が、負けた国を憐れんで親切にしれくれるはずはない。アメリカはまあまあ良かった方であろうけれども、それでも政府にとっては厳しかったであろう。
 国民向けにはアメリカさんは親切な国と宣伝されて、日本人一同も納得していた趣きもある。日本人は昔から、政府に騙されやすい。
 それは日本人は素直で、お上の言うことを信じて従いやすいからではあろうが、自分の国を占領して来て、我がもの顔にのし歩いている外国人を、このように快く迎えた国民が他にあったであろうか。ところが、日本はそうであった。
 アメリカ兵は煙草を吸いながらニコニコして、さすがにピストルを持っていない訳ではないが、温和な顔で一人で日本人の住む町の中をのんびりと歩いている。警戒心は全然無いようだった。そういう様子を私はよく見たものだ。
 昨日までの敵国人、広島や長崎に原爆を落とした国の兵隊、その人を誰一人恐れていない、嫌がらない。無事に道を通させてくれる。こんな国民はいるものかと、彼らは思わなかったであろうか。
 さて、実は、序文としては長い文章を書き過ぎたのだが、私の戦争中の「信仰日誌」を以下に載せたいのである。ふつつかな文章であり、載せたくない文章にもなりそうな気がするが、それらを一気に無視して、戦争当時の私の文章をそのまま一字訂正、抹消せず、以下に掲載しようと思う。
 題して、私の「戦時信仰日誌」(昭和二十年二月十六日起)である。《く》


《戦時信仰日誌》 

         序

 愁ひ多き獄にしあれど
主によりて活かさるゝ身の幸に我が酔ふ
(昭和十九年十一月二十三日)

 此の感懐は今も尚変らない。我が罪人たること、又悲しみの谷にあること、最低の人間であること、又しかし乍ら人生最大の喜びを與へられてゐること、我が主よ、感謝すべきかな、あなたによりてこれらの確信は、私に終生忘るべからざる記念となったのである。
 今や、凡ては喜びに輝いてみえる。律法は過ぎ去った。奇すしき平和の裡に我が魂は憩うてゐる。そして、思ひも及ばなかった新しい希望に生きてゐる。今、私の求めるものは“完全”である。しかし、それに捉はれるのではない、あせるのではない、確信と平安とを持って、それを追ひ求めるのである。
 いはゞ、その新しき自由に於ける求道生活を、此の記録は示すものとなるであろう。又、それを願ってゐるのである。
    昭和二十年二月十六日
                              釘宮義人
 
 
 私達は先づ、何よりも貧しさに於て生きなければならぬ。此の聖フランシスの言葉は決して忘れてはならないものだ。
 
 基督の完全を追ふものは、先づ自己放棄と、そして清貧と謙遜を学ばなければならぬ。凡てを捨てゝ我に従へ。それは決して容易なものではないが、しかし主と偕にくびきを負ひ、主に直接教へられる時、いとも軽く又たやすいものとなって来るのである。
 
  ヱス君の熱き血潮の今も尚
      あふるゝ思ひ我が身にぞすれ

 此の喜び、何とも言ひ表しやうのない此の全てのものに勝りたる聖なる感動、それは不思議にもどんな場合にも私の心を離れず、いかに心さびしき時にもその底の底の方に、しづかににじみ出るやうにひそんでゐる。
 
 我らが神に向ひて確信する所は是なり。即ち、御意にかなふ事を求めば必ず聴き給ふ。
 誠にまことに汝らに告ぐ。汝等のすべて父に求むる物をば我が名によりて賜ふべし。なんじら今までは何をも我が名によりて求めたることなし。求めよ、然らば受けん。而して汝らの喜びみたさるべし。
 斯のごとく御霊も我らの弱きを助けたもふ。我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御霊みづから言ひ難き歎きをもて執成したもふ。(以下次号)
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-08-21 18:22 | 日岡だより

No.552 キリスト信仰の三つのかなめ 2012.8.5

キリスト信仰の三つのかなめ   

 今回はキリスト信仰の大事な三つのかなめについて語りたいのです。
 その第一は「義認の信仰」です。
 その第二は「聖化の信仰」です。
 その第三は「力の信仰」です。
         *
「義認の信仰」
 これは信仰の入門第一課です。イエス様の身代わりの死のお蔭で、私は神様によって義人として認められ、永遠の命を与えられ天国に入ることが出来るという確信です。これは「罪人のままで義人として認められる」という信仰です。
 この信仰に従って私の父は私に「義人」という名を付けてくれたのです。しかし私は若い時「自分は決して義人ではない、罪人である」という厳しい自覚があって、この名前の故に長いこと苦しみました。しかし、その解決として、はっきりした「イエス様によって義人とされた」という信仰を与えられて、喜びの人生を獲得したのです。
 それは22歳、昭和19年11月23日のことでした。この確信がなければ、実はクリスチャンとは言えません。皆さん、如何ですか。

「聖化の信仰」
 これは信仰の第二課です。前掲の第一課「義認の信仰」のように、「私は罪深い人間である」という自覚を充分持っていながらも「私は義人として認められている」という信仰を持つことが出来る、しかし、それ以上に更に「私は主にあって聖められているのだ」という凄い確信を持つという不思議な信仰です。
 この「聖化の信仰」を私に確固たらしめた聖句は、これでした。「我聖なれば、汝らも聖なるべし」(ペテロの第一の手紙1:16)、古い文語訳の聖句ですが、現代訳では「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」とある。私はこの訳は気に入らない。かつての文語訳が非常によい。どちらが原文に近いか私は知らないが、古い文語訳が私は好きだ。こういう事だ、「聖なる者になるべきである」ではない。「聖なるべし」である。「必ず、聖なる者になる筈だ」と私は読むのである。そうですね。
 イエス様が「我は聖なる者であるから、汝らも必ず聖なる者たちである筈である」と、おっしゃる。だからイエス様を信じる者は必然的に「聖なる者たち」になる、これは必定なることです。これは何という福音でしょう。単に救われるというだけではない、「イエス様と同様の聖なる存在になる」との仰せである。「イエス様、それ、本当ですか」と叫び出したくなるような、驚くべきお約束のお言葉ではありませんか。
 「我聖なれば、汝らも聖なるべし」、このお言葉は、どうぞしっかりと胸に収めてほしい。この「……べし」は、命令形ではないのです。必然形です。必ず、こうなるのだという約束です。「私、イエスは聖なる者なのだから、私を信じるお前たちも、みんな聖なる人たちになるのだよ」とおっしゃるのです。このお約束をしっかり信じることが、信仰の秘訣です。
 この俗っぽい私たちが、このまま「聖人」なんだと言ったら、全く眉つばものです。そんなこと、ある筈ない。しかし、イエス様はおっしゃる、確かに。「お前たちは、みんな聖人だよ」と。
 愛する皆さん、あなたがたは皆、聖人です。「エッ、ホントー?」と聞き返すのではなくて、「アッ、本当ですか、嬉しいです。びっくりしました、感謝します」と受け留めようではありませんか。それが信仰です。
 「うひゃー、勿体ない。そんなこと、信じられない」と言う人も出ようかと思うのですが、ここは一つ大胆に信じようではありませんか。そして、
 「私たちの信じるイエス様に相応しい聖なるクリスチャンにして下さい」と、祈ることは可能ではないでしょうか。このように祈って下さい。必ず、素晴らしい結果を与えられると思います。

「力の信仰」
 これが第三の信仰です。多くの教会はこの信仰を持っていません。ただあこがれているだけです。天国に行ったら与えられると思っています。いいえ、違います。この地上でも凡てクリスチャンに与えられるイエス様のお約束です。
 この「力の信仰」については、パウロ先生がコリント人への第一の手紙第12章8節~11節に簡単に、その種々の力について説明していますから、是非お読みになって下さい。知恵の言葉や、癒しの力や、預言、霊を見分ける力、等々です。これらの賜物は貴重なものですが、小生にだって多少は頂いています。例えば、「神癒」の信仰です。それから、異言は多くの方々が頂いています。時には預言や霊視の恵みを頂く方々もおられます。
 こうした賜物は、皆さんもふるって求めて下さい。必ず与えられます。又、牧師の為にも祈って下さい。主のお約束の賜物は大胆に求めましょう。(マルコによる福音書第16章17節、18節)《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-08-07 14:37 | 日岡だより