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No.551 神様と仲良しになりましょう 2012.7.29

神様と仲良しになりましょう     

 まず、詩篇第37篇4節の御言葉です。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」。「主によって」は「主の中にあって」と訳しなおすと分かりやすいと思います。これは「心の願いをかなえられる秘訣」です。
 イエス様の中に移り住み、イエス様の中に休み定着し、喜び歌い感謝して、あなたの心の中の思いったけの、あなたの真底からの願いを訴えてご覧なさい。イエス様は驚かれて、お喜びになって、あなたの願いに御心を寄せられるでしょう。
 イエス様は私たちの喜び踊るような心の働きをどんなにか、お喜びなされて下さることでしょう。イエス様は天のお父様が喜んで下さり、天使たちが喜んでくれるのにも慣れています、しかしこの罪深き弱々しき人間たちがイエス様に親しく喜び憩うがごとき感情を寄せるのは耐えがたいほど嬉しいことであったに相違ありません。
 だからこそ、「主はあなたの心の願いをかなえて下さる」と聖書は告げているのです。これは尊い聖書の御約束です。「主にあって喜ぶ」ことは、「主によって、あなたの心の願いがかなえられる」秘訣です。ですから「主にお頼りして喜んで祈る」ことはこそ、祈りがかなえられる秘訣なのです。この秘義をどうぞ、記憶しておいてください。
 ですから、祈りの秘訣は「喜び」をもって祈ることです。勿論「確信をもって祈ること」も大切。しかし、それ以上に「喜びをもって祈ること」が大切です。だから私は、祈る時は「ワクワク、心を躍らせて喜ぶに燃えて祈るんですよ」と言うのです。
 私はよく「ワッハッハと笑って祈りなさい」などと言います。聞く人によっては不謹慎に聞こえるでしょうが、私の正直なおすすめです。祈りは真剣にまともに祈るべきでしょうが、それ以上に楽しく率直にワッハッハと笑って祈ってみませんか。改めて一段階上の祈りの世界を発見することでしょう。
 祈りは率直に神様の懐に飛び込む必要があります、そのためには真剣とは言え、軽快な楽しい心地で神様に寄り添って行く気合がいるのです。
 そういう親しい姿勢で神様にそっと近づいて行く、「おやおや、お前さんどうしたい?」と神様がなじんで下さる。神様と仲良くなるんです。「神様と仲良し、こよし」これが信仰の秘訣です。
 神様と仲良しに、なりましょう。《く》

  
日々新生  

一九七三年十二月三日(月)会社では年末手当で組合と団交、資金調達で心の中は宙に浮いている。北海道の園田先生よりご激励の手紙。長崎時代に大変なご迷惑をかけた信仰の師である。戦時中に「この戦争は負けるねえ」と、こういう反戦的言葉をはじめて聞かしてくれたのもこの先生であった。
十二月四日(火)パリで禅の伝道をしている弟子丸氏の自伝「無一物よりの挑戦」を読む。沢木興正老師のお弟子さんでは、この方のが一番おもしろい。ことに今度の「自伝」はよかった。沢木老師にはじめて指導をうける頃の文章は実にみずみずしい。沢木老師の法語もよい。曹洞禅のよさがくっきりと出ている。
十二月五日(水)俗務、実に多忙。人事と金のあつれきに、みんな巻き込まれておかしくもあり、哀れでもある。
十二月六日(木)東北の遠藤兄より長文の来信。本誌第二号についての懇切な感想。
十二月七日(金)工場にて係長クラスの読書会に出席。人間のラセン式向上形式について語る。己の向上を願うのは人間の特長だ。
十二月八日(土)斉藤喜博全集別巻(1)を読む。教育のきびしさ、むつかしさ、その素晴らしさに思わず心おどり、又涙ぐんだ。よき教育者の出る事を願う。
十二月九日(日)快晴である。集会はエペソ書により、無一物の我の中に、無尽蔵の富をもて満たし給う神の大能力を語る。終りの祈り、「天のお父さま。私どもの内に住んで、私どもの内なる人を強くして下さい。私どもは、自分は弱い者であるとか、ダメな者であるとか言って、卑屈になりやすくありますが、それは謙遜に似て謙遜でないと思います。あなたから豊かに頂いたプレゼントを内に持っていながら、私は貧しいとか、みじめであるとか言うのは、あなたに対する冒涜であります。私もあなたにあって、富めるもの、強きものであることを再確認したい。私どもはものおじせずして、この人生を勇歩したい。かく念じて祈ります。アーメン。」異言、霊唱噴出の祈祷会となった。
十二月十一日(火)石油不足のおりから、「油断大敵」という昔の言葉を思い出して苦笑する。「神の油」の絶えぬよう祈っていたい。
十二月十三日(木)最近、クリスマス、歳末の関係もあろうが、ご献金があちこちより届く。本誌の印刷費や郵送料の不足金に入れさせていただく。
十二月十四日(金)F君倒産の模様である。相当額の保証をしているので、かなり気になっていいのだが、正直いってあまり堪えぬ。当方、金があるわけでもないが、気分は大金持だ。何たってオヤジが天地に溢れる無尽蔵のお大尽さんだもので。
北九州で「豊前火力訴訟」の第一回弁論、松下竜一君ほか、素人原告たちの素人弁論、大いに良し。
十二月十六日(日)集会は使徒行伝第二十章により、若者ユテコの眠りについて語る。識者がいくら忠告しても耳をかさず、三階の窓はおろか、五十階六十階の超高層ビルで象徴される高度成長の窓べで眠りこけて墜落してびっくりしている日本の現況を愁う。神との交わり、神との一致なくして、真の起死回生の業はおこり得ない。<つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-07-31 17:46 | 日岡だより

No.550 魂の救と肉体の癒し 2012.7.22

魂の救と肉体の癒し  

 聖書を拝見すると、イエス様の御働きの殆どは、福音の御説教と、信仰生活の御指導と、病気の癒しの実施であったと思われる。特に癒しを求めて来る病者たちへの優しく強力な治癒のお助けは見事で、民衆に大きな驚異と賛嘆をもたらせた。
 現代においても私たち教会の仕事のすべてはこれでなくてはならないと、私は思っている。繰り返すが、福音の説教と、信仰生活の指導と、病気の癒しの三つである。私はこれを実践したい。
 福音の説教とは、はっきりとイエス様の教えを具体的に提示することである。つまり福音の内容が聞く者の魂のどん底に食い込まなくてはならない。そして聞く者の生活に強い変革を与える。キリストの命がその人の内に生きて働くのである。そうすると信じる者の生活が活気に満ちて来て、廻りの人々も驚かされる。本人や家族の病気も癒され健康に、職業と経済が祝され豊かに、生活が明るく楽しく、社会的に伸びやかに発展する。
 信徒の皆さんが生き生きとして、会社や職場で勝利的に仕事をこなし、廻りの人々に「クリスチャンって素晴らしいなあ」と思わせるような人になる。家族も「うちの人は凄い」と感心してくれる。「あんたは凄いね」とほめられると、「ありがとう、これイエス様のおかげよ、信仰のおかげね」とさりげなく返事できる、すると、「あら、本当? 教会に行ったら、あなたみたいになれるの? いいわね」
 「あら、いらっしゃいよ。私、ご一緒するわよ」と教会にお誘いもできる。
 こうして、信仰生活を素直に、実直に、伸び伸びと成長させたい。
 「お母ちゃん、いつも楽しそうで、あたい大好き」と子どもに言われたら、「そう、有り難う、イエス様のお陰ね」と答える。
 「そうだね、パパもこんな母ちゃん、大好き」とお父さんが言ったら、
 「そう? パパも教会に行ったら?」と言われて、お父さんが照れていたという話もある。どこのご家庭も「お父さん、教会にいらっしゃい!」
 教会へは、どうぞ御家族そろってお出でください。これが家庭平和の秘訣です。そのためには、どうしても教会にお出でにならない旦那様のためには奥様はどうなさったらよろしいのでしょうか。
 「あなた、教会にいらっしたら、よろしいのに」とお勧めするのも結構ですけれども、実はご主人が奥さんを「さあ、教会に行こうじゃないか」を手を差し伸べてさそってくれているような姿をいつも奥さんが心に絵を描いて期待していると良いのですね。必ず、そのような日が来ることを期待して祈っていましょう。《く》
 
 
日々新生  

一九七三年十一月二十七日(火) 映画「ソイレント・グリーン」を見る。二〇一五年のニューヨーク。大洋壊滅、食糧危機。遂に人肉をクラッカーにして食わせるという筋立て。人肉を食うというだけで拒絶反応をおこすキリスト教徒国の映画らしい。私はかえって、人民の目をふさいで、人肉クラッカーを食わせねばならぬ為政者の苦悩を想う。これこそ現代の政治家の苦悩かもしれぬ。人間がふえ、人間が生きることが罪なのだというカイン文化のもとでは「生めよ、ふえよ、地にみてよ」という祝福はのろいでしかない。
十一月二十八日(水) この十年間、俗事の世に没入し、金もうけを当面の仕事とし、その混濁の中で生きる心技を身につけてきたつもりであった。しかし、このモノ不足の時代はつらい。悪い予感を感じさせる。狂気が脳裏をかすめる。
ニューソート風な、生長の家式な、積極心理学(?)風な、そういう精神強化・思い込み術で「富・家庭の平和・健康」を得ることは可能かも知れぬ。特にアメリカや西欧、日本において。しかし、バングラデシュ、ネパール、ベトナムではどうだろう。目の前に難民を見て、自分だけの現世的幸福を想念することができるというそのことで既に私はその心の不健康を感じる。
十一月二十九日(木) 自由とは何か。「私」の自由ではない。「私」の中にとじこめられている神の霊に自由を与えることである。文楽の人形にとって彼の自由とは、背後にいる人形使いの自由である。人形をあやつるものに自由を与えなければ、人形の自由はない。
十一月三十日(金) 僕らの常識的「生命」観は、全く「神話」的であるような気がする。「生命」を「有る」唯物論的な有と思っているのは、迷信(?)なのかと思う。「時間」や「空間」は、無条件、潜在的な我々の環境であると思う。そして「生命」もそういうたぐいの解きがたいものであると思う。「生命」は、物質の一つの相にすぎないのかな。「生命」をこまかく分析してさぐっていくと、いつしか「生命」は見えなくなり、「物質」だけが残る。その「物質」を更にこまかく分析してさぐっていくと、その「物質」すら無くなり、「場」だけが残る。そこに、キリストのほのかな輝きが見えるように思う。
十二月一日(土) M君の結婚式に招かれて臼杵市の喜楽庵にいく。控室に、「無一物中無尽蔵有花有月有楼台」の額あり。一燈園時代以来、見慣れた禅句なれど、無一物とはキリストのことであったわいとこの日初めて悟った。
十二月二日(日) 日曜集会はピリピ書講義。キリストと共なる生活を説く。
<つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-07-24 14:12 | 日岡だより

No.549 福音の力 2012.7.15

福音の力   

 昨日、7月14日(土)の夜、8時半頃だっただろうか、何か促されるように会堂に行って祈った。その時、神様は私に非常に重大な確信を与えて下さった。
 それは端的に言うと、「福音の力」(ローマ人への手紙1:16)の確かさであった。私たちの信仰を強める力は「福音の力」、つまりキリストの福音によって与えられる力である。私どもの教会を「キリストの福音大分教会」と称していますが、その根底はそこにあります。
 キリストの福音とはキリストが所有される福音です、キリストについての福音の説明ではありません。キリストご自身が内臓される「福音」こそ、私たちを活かすキリスト様の力です。イエス様ご自身がお持ちになっておられる福音の力が私たちを救うのです。
 福音とは「喜びの訪れ」と訳しても良いと思いますが、もっと良い訳は「喜びの力」でしょう。ここでは日本の仏教、浄土真宗の親鸞さんの言葉を拝借しましょう。それは「歓喜の中の歓喜」です。歓喜の中の歓喜、最高の歓喜です。この最高の歓喜をもって喜ぶ信仰の喜びを内に抱え持つ人は、如何なる艱難にも堪え得る力を把握するでしょう。人生の最高の力です。
 ひらめく刃が来ても、地獄の火が襲って来ても、泰然としておれる信仰の力は内にみなぎる霊的歓喜の故です。昔、長崎のキリシタン迫害の嵐の中で、お奉行の裁きの座で少年の信徒さえもが嬉々として厳しい扱いに堪えていたという記録がありますが、熱い信心による神秘な抵抗力は屡々、こうした文献などに残されています。
 私はこれを「福音の力」と題したいと思います。キリスト様の福音には強烈な力があります。この秘密の力を私たちは頂こうではありませんか。この力こそ、クリスチャンを如何なる難所においても、平安に住まわせ、勝利を与えて下さる聖霊の恵みであります。《く》

 
日々新生  

一九七三年十一月二十二日(木)今朝の新聞によれば、政府は遂にアラブ寄りの政策転換をするという。かつて、中国に媚をうって台湾を捨てた。今度は石油でおどされてイスラエルを捨てるという。信義のないことおびただしい。それならいっそのことギブ・アンド・テイクの外交ということで当初より割り切る手はなかったのか。それもできない。右顧左眄して、実利を失い信用を失う。日本人らしい。悪人にもなれす、善人にもなれない。以って口より吐き出さるる手合いである(黙示録三・16)。
経済的にアメリカ体制に組みこまれてしまっている日本として、どこまでイスラエル断ちができるか問題だ。いずれにせよ、石油はないのではない。あり余る石油を、売りたくないと言っているのだ。交渉しだいで何とかなることだ。日本人全体が幾分辛抱すればすむことだ。買い急ぎさせる商社、流通業者に多分の罪がある。日本人よ、大人になれという以外ない。又、この機会にアラブの状況について、日本人はよくよく理解を深めるべきである。
十一月二十三日(金)昔のニイナメ祭である。我が回心三十周年である。パウロ、アウグスチヌス、ルター、ウェスレー、内村鑑三、釘宮太重、原田美実、石原兵永等、私の霊性の目ざめに最も影響のあった人々を想起して感謝する。真実の神の愛を知らなかったら私は相変わらず、気弱で怠惰で陰惨な悲しい人間であったろう。いつもジメジメとして世間に白眼ばかりむけていた若い日の自分を想いおこし、あの儘生きていたらどんな人間になったろうとゾッとする。こういう、自由な、幸いな人生を与えたまいし神に感謝する。私程、幸福な人間はそう多くはない。
十一月二十四日(土)我が内に充満する神の愛を想う。私は神の特愛の子であると悟る。(朝の坐禅で)
十一月二十五日(日)日曜集会。言いたいことが多く、心があせって、かえって語れず、不本意な日であった。終りの頃、約二十分やや自由を得て語る。宇宙の創造、見えないものより見えるものへ、やわらかいものより硬いものへ、じっとしているものより動くものへ、単なる感覚より心へ、外面より内面へ、そして遂に見えないもの(創造の原点)に還る私流の進化論について語る。特に、人間が進化する時、ダーウィン的自然淘汰でなく、愛と十字架による新しい進化のルールをとることを語る。
モノ不足の時代、それは正直者がてきめんにバカを見る時代である(大臣諸公がどれ程努力しようと必ずそうなる)。「故に正直者がバカを見る政治をするな」と新聞投書する正義派の人も、最後の一線で(その一線がどこであるかは個人差があるが)遂に敗れて「モノ集めの利口もの」にかわる。そして常に、より正直でおバカさんのおかげ(それが十字架だ)で食ったり、あたたまったり、トイレットペーパーを使ったりするのである。人類は、この五万年間、特に狩猟時代にあって、しばしばより強く、より勇ましく、より正しく、より愛にとみ、より保護意識のつよい族長や兄貴分のおかげで危険や敵から逃れてきた。ダーウィンの進化論とちがって、人間においてはより弱く、より卑怯な人間が生き残る。これが私の「愛と十字架による進化論」である。「心の進化論」である。この「生きていることのうしろめたさ。生き残ったもののつらさ」、太宰じゃないが「生れてきてすみません」だ。これが宇宙進化の底にあるキリスト原理の一つの条痕である。
夜、原田美実先生の信学行十一月号で「委託された人の生涯」を拝読する。深い霊的経験と洞察が拝察されて感銘する。霊の人の語る言葉は短言寸鉄、心にとどまって宝石のごとし。
十一月二十六日(月)岸沢「正法眼蔵全講」をよむ。
<つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-07-17 17:07 | 日岡だより

No.548 【聖書講義】死人の中より甦れ 2012.7.8

【聖書講義】 
死人の中より甦れ   

 <前号よりつづき>
 「生命の言」――― キリストご自身のことです。キリストぬきでは、人はみなダメです。このダメな人間が、世の光地の塩としてどうしてこの地上に立てましょう。然るに、いったん私どもの内にキリストが来臨なさる時、人は一変して新しい人になります。
 
 それがピリピ書第三章10節にいう「復活の力」です。イエスが復活されたことを「信じています」――― それでは知的信仰、ないし迷信です。「その復活の力を知り」この知るという言葉は8節にも出ました。非常に大切です。ヘブル人は「知る」という言葉を夫婦の交わりの隠語に使っているくらいです。そのように、頭だけの知識ではない、体得的悟りをさしています。
 
 復活信仰とは、単なるイエスの復活の承認ではない。自分で体得すべき、自分自身の死すべき体の復活経験をさします。あたかもクリスマスが、単なるベツレヘムの追認行事でなく、自分自身の心の洞窟の中における神子誕生の経験であるように。
 
 ピリピ書第三章11節「いかにもして死人の中より甦ることを得んが為なり。」――― 実に然り。今日、私の古い同窓の先輩・益田八郎さんから本を送ってきました。彼がハルピンの兵営にいた時、憲兵会報で私の受刑を知ったそうです。その文章の中で、少年時代の私がいかに弱々しく女性的なタイプであったかを書いてあります。そういう誰がみても、人生の敗残者になるしかないような、月足らぬ子のようなものを、起死回生せしめし復活の力が、私の内に働いて下さったことを、私はいくら感謝しても感謝しきれません。
 
 イエスの新参の弟子が、死んだばかりの父を葬ってから随行したいと願った時、イエスは言いました。「死にたるものをして、死にたるものを葬らしめよ。汝は我に従え!」然り。死にたるものの如き祖国、死にたる事物、死にたる人事、財宝、政治、すべて死にたる人にゆだねよう。汝、今死人の中より甦りたるものよ、汝は我に従え! 汝は我に従え!
 
 ああ、兄弟姉妹! 汝ら、死人の中より起きよ! 死にたるものは死にたる者をしてつかさどらしめよ。大洋デパートで百余人死んでもおどろく事はない。日本列島、一億人が死にかけています。その死人の中で甦る力がキリストの生命です。
 
 この「復活力」が働くと、人間は不思議な人種になるのです。パウロは「すべてを捨てた、捨てた」と言いますが、結構いざという時、ローマ市民権、パリサイ人たる事、当時の最高の教養、テント作りの職、いろいろなものを活用して用に供えました。チリ芥のように捨てて、捨てた屑箱のなかから、いろんなものを拾い上げて廃物利用するように、この人生をローマの殉教の日に至るまで用いつくした人です。
 
 そういう人の「国籍は天に在り(ピリピ三・20)」ます。常に天の時、天の国が眼前にひらけている。過去のすべてをすてて、今こそ天界におどり込め。さきにのべたキリストの復活力のみちみちた眼前一寸先の未来、そこに一歩をおどり込ませる時、栄光の生命によみがえるのです。クリスチャンの生涯は、そのような「復活の生涯」であるのです。(伯父釘宮徳太郎の最後の原稿は「復活の生涯」と称する日記体の伝道誌であった。)
 
          六

 ピリピ書第四章5節を読みましょう。
 「主は近し。」
 みなさん、みなさんにとり、果たして主は近くにいますか。ひょっとしたら主は千年さきであったり、百万億土の向こうにいたりではありませんか。主は近い。主は我が内にいまし、我はキリストの内にいる。これこそが福音ではありませんか。<終わり>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)

 
日々新生 

一九七三年十一月十六日(金) 奇矯なる天才・乞食遊行のJ氏より来信、私に献歌として、「聖なる友ひとりあり俗にゐて菩薩行なす地の塩として」
十一月十七日(土) 「生けるキリスト」主筆今橋先生より来信、「釘宮先生と無銭徒歩伝道旅行で抱き合って泣いた、あの祈りは過去のものではありません」然り然り。日本の霊性をもって、聖書を再解読する先生の身は、世界の為に尊い。
十一月十八日(日) 日曜集会、来席六名、至って少し。世界最小の教会だろう。開会の讃美歌、祈祷、聖書朗読等一切なし。いきなり「聖書勉強」。コロサイ人への手紙第一章~第三章を重点的に学ぶ。見える天ではなく、見えない天に、キリストと共に(合金するがごとく共になる)かくれある我らのイノチについて学ぶ。
回心のない信仰は肉を入れずして牛鍋というがごとし。回心後の聖化を求めぬ人は、たれも具も入れぬ牛鍋のごとし。
十一月十九日(月) 内からなる聖霊の声に徹底的に従順であれよ。これのみが真の成長の秘訣である。
十一月二十日(火) 我が家の近所でも、チリ紙、洗剤が店頭より姿を消した由。物が豊かになろうと、政治機構がかわろうと、日本人の腹の底がかわらぬと、本当に人の住める国はできない。人間の心を一八〇度転回させる本物の伝道が必要だ。
十一月二十一日(水) ふと、この三月に頂いた富山県の中川富夫氏のお手紙を再び披く機会あり。バングラデシュに御子息を失い、その遺志をついで老骨(?)をあの炎天の地に埋めに行く覚悟の文章。一寸した石油不足、××不足で上を下への大さわぎの日本をかえりみ、恥ずかしくてたまらぬ。さあ、われら一同、「無一物無尽蔵」のキリストのふところに帰ろう。そこで真の豊かさを学ぼう。
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-07-10 16:45 | 日岡だより

No.547 【聖書講義】 死人の中より甦れ 2012.7.1

【聖書講義】 
死人の中より甦れ   

 <前号よりつづき>
 私の内にあって、私のものでない「キリスト・イエスの○○」――― これが我らの人生の秘訣です。「キリストの智恵、キリストの力、キリストのやさしさ、キリストの聖、キリストの正義、キリストの諧謔、キリストの喜び、キリストの平和、キリストの富、キリストのあわれみ、キリストの悲哀、キリストの勇気、等々」――― それが、私どもの内に一杯に満ちないでしょうか。「イエス・キリストの義の果をみたして」(ピリピ一・11)神の栄光をあらわす人生の誉れが我らに可能なのですよ。
 
           三

 ピリピ書第三章8節~11節を読みましょう。
 「然り、我は我が主キリスト・イエスを知ることのすぐれたるために、凡ての物を損なりと思い……、これをアクタの如く思う。これキリストを獲得し……、キリストの内に自分を見出し、キリストとその復活の力とを知り……、いかにもして死人の中より甦ることを得んが為なり。」
 
 すばらしい文章です。この文章の中心は、「キリストを獲得し」です。キリストはキリスト教の中心眼目です。このキリストを獲得することがキリスト信仰の中心です。キリストが我が内にあるから、「キリストの英知、キリストの権威、キリストのいやし、キリストの生命力」が内にピチピチ生きて、我が人生は最高潮なんです。この最高の味を知っているから、パウロはすべてのものをふんのごとく思うのです。
 愛するものは、恋人の為に夜半遠路をゆくをいとわず、音楽を愛するものは大枚五千円を払っても演奏会に行きます。私は毎朝早くおきて三十分から一時間くらい坐禅しますが、それがたのしいから、寒いのも、眠いのも苦になりません。
 
 だから、信仰とは難行苦行じゃないのです。世間の人の知らない喜びがあるし、充実があるのです。遠藤周作ごとき偽悪偽小趣味の作家の知らない偉大さがあるんです。信仰とは決して弱心卑怯の中に居すわっている無力感の信仰じゃないのです。力があるのです。武威堂々の人生です。
 
 ここで大切なのは、「我はわが主イエス・キリストを知ることのすぐれたるために―――」と言って、内にありありと生きて下さる主を知っている。その喜びの故に、主に反するものをポイポイ捨てることができるという、パウロの尊い体験です。こういう言葉を上っ面だけ知って、それをサル真似して泣きの涙で大切なものを捨てている、そんなのじゃないのです。知識じゃない、体験です。
 
           四

 「キリストを得る」という事と、「キリストの内にある自分を発見する」という事、この二つの言葉は同一のことです。これはもう一つの言葉で言うと「キリストと共なる」という事です。ギリシャ語で「スン・クリストース」で、パウロ特愛の言葉です。
 ある聖書学者は「スン(共なる)」を「魚が水の中にいるような状態」と説明しました。私は「バプテスマされる」という言葉もいいと思います。酒に酔うという時、酔うという言葉を「バプテスマされる」という言葉を聖書は使っています。「アルコール漬け」とでも言いますか。酔酒漢がアルコールと共にいるように、キリスト漬けにされている状況が「キリストと共なる」状態です。
 パウロは言います。「酒に酔うな、むしろ聖霊に酔うべし。」酒に酔った程にも、聖霊に酔ったことのない人間が、これを言うとおかしいのです。四角キチョーメンな顔をして、酒抜きの堅苦しいクリスチャンの会食には閉口します。(勿論、聖霊漬けのない場合のことですが)
 
 「キリストと共なる」という時、パラクレートスという(なぐさめの主とか助け主とか訳される)イエスの用語の関係もあって、多くの人は、傍にいてくれる方、くびきの片方を肩にしてくれる方、二人三脚のように共に駆けてくださる方、そういうふうに思っていると思う。それも正しいが、それ以上に私は「中にいます、共なる方」を指すと思う。
 
 エジソン発明する処の、白熱電燈を見なさい。フィラメントを電流が貫流する時、フィラメントは、フィラメントの儘でありつつ、電気を貫流させて、光を発する。同じように、私の内に活けるキリストが住み給う時、私は私の儘にキリストの光を発する。これが、キリストの栄光だ。私の聖化だ。「我らの卑しき状の体を化えて、おのれが栄光の体に象らせ給わん(ピリピ三・21)」ということだ。
 
 別の例を申しましょうか。私が魚を食べるとする。魚は私の胃袋から腸を通って、遂に私の体になる。魚を私と一体です。私は魚を「獲得」したのです。魚の方から言えば、魚は私に食されて遂に私の内にある自分を発見します。イエスはご自身を真の食物、真の飲物だと言いました。実にイエスは私共に食され飲み込まれて私共の内に生きることを望まれた。また、ある時は、私共がイエスの食物であり、世の人の知らぬイエスの真の食物であると言われた。私共は、イエスに愛され、主の中にかくされ、主の中に実在する自分を発見する時がくるのです。
 
           五

 ピリピ書第二章14節を読みましょう。
 「是、なんじら責むべき所なく素直にして、この曲れる邪悪なる時代に在りて神の瑕なき子とならん為なり。汝らは生命の言を保ちて、世の光のごとくこの時代に輝く」
 
 白熱電球にたとえると「電球は、そのフィラメントが断線することなく、錆びることなくしてその内に百ボルトの電流を保って、このくらやみの部屋に明るい灯として輝く」
 <つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
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by hioka-wahaha | 2012-07-03 16:21 | 日岡だより