<   2012年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

No.537 相馬富恵姉、召される! 2012.4.22

相馬富恵姉、召される!  

 東京・秋川集会の相馬富恵姉が去る4月16日、天に召された由、連絡を頂き、一瞬ショックを受けた。86歳であったそうだ。
 体には障碍のある姉妹であり、日常生活は不自由であったと思うが、いつもニコニコ、お元気であった。聖霊に在る篤信の故である。
 信仰に導かれた経歴を詳しくお聞きしたことは無かったけれど、吶々と語る信仰の言葉には深い深い確信から来る味わいがった。信仰者としても特異な存在であったと思う。
 また赤坂家ご一家が例えようのない愛と親切さをもって家族同様、同姉を慈しみ愛して居られ、お世話されてきたことも知っている人はどなたも賛嘆されない人はなかったであろう。
 しかし、それ以上にキリストにある奇しき同胞愛である。いや亦、それ以上に同姉への尊敬でもあっただろう。遠からず同姉の思い出を、秋川集会や赤坂家の方々よりお聞きしたいものである。(早速、赤坂文姉より、その原稿が来た、来た。次頁に載せます。)《く》


「一心一体」
                               赤 坂 文  
 
 とんちゃんこと相馬富恵は、生後3ケ月で高熱のため脳性マヒとなり、手足だけでなく言語もままならない身体となり、86年の生涯を送った。
 出会ったのは横浜の施設旅行。その時は不自由な身体をなんとかバランスを保ちながら歩くことができていた。53才だった。
 一年後のある秋の日、
 「文ちゃん、イエス様って知ってる?」
と、とんちゃん。知るも知らぬも、私は洗礼を受けて、わずか1ケ月たらず。もうすぐ20才になるところだった。
 とんちゃんが初めてイエス様を知ったのは、まだ自宅にいた頃の20才くらい。ラジオ放送でコリント人への手紙13章「愛の章」だった。愛がほしいと熱望していたとんちゃんにとって、ぴったりの言葉だった。
 私にはイエス様しかない、と思ったそうだ。そして一人でラジオを聴きながら信仰を持ち続けた。
 洗礼を受けたばかりの私は私で、とんちゃんに尋ねられた時の気持ちは35年たった今でも鮮明に覚えている。御聖霊様から湧き出る歓喜だった。
「とんちゃん、私もイエス様知ってるよ!」
と。
 それからは神様が出会わせてくれた一体者。私はとんちゃんに新約聖書をマタイから読んでカセットテープに吹き込んで施設に届けた。とんちゃんはそれを大音量でよく聴いていた。
 ある日、釘宮先生の説教テープを届けると、これまた施設中に伝道しているような大音量で聴いている。
 そうしているうちに
「気持ち悪いから、早く大分に連れてって。早く洗礼を受けたい!」
と言い出した。言い出したら聞かない。
 しばらくして、キリストの福音大分教会へと出かけた。釘宮先生に洗礼を授かった。その直後、不自由で組めなかった指が組め、正座できなかったのが出来た。これぞまさしく、祈りの姿勢。その後は祈る、祈る。祈りまくる。また、持てなかった箸を持ち、トマトをつまんだり、神様の御業が次々に現された。
 そして帰りの寝台車での夜中の出来事。白い衣を着た女の人がとんちゃんに現れ、
 「あなたは神様の子供です。」
と言って消えたそうだ。(天使様なのか?) ご聖霊様の働きなのだろうか、その天使様は、一から十までお聞きすれば教えてくれるし、私たちを神様の御旨に導いてくださる。健康面から仕事面、人間関係までも。
 危ない言い方をすれば、ご利益宗教まがいにされてしまいそうだが、これを否定できるのは、すべてなすことすることが自分の為ではなく、イエス様の御用の為ということだった。
 この世の人からみれば、傷み、苦しみに、不自由な身体、それは、不幸に見えるかもしれないが、とんちゃんは何人もの人をイエス様に導いた。思い起こしてみるとざっと15人が洗礼を受けた。
 そして、とんちゃんは私を鍛え抜いて天国に行った。今、私は独り立ちが出来、何か事が起きると、静かに目を瞑り、神様に聴く。これぞ御聖霊様を強引に呼び寄せ、お聴きするやり方だ。
 出会って35年。一緒に暮らして28年。イエス様の愛を身をもって知らしめた生涯だった。
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-04-24 14:57 | 日岡だより

No.536 息吹きの祈り 2012.4.15

息吹きの祈り  

 祈ろうとしても何を祈っていいか分からないことがある。祈ろうとしても、一言の声も出ない。心には張りつめた思いがあるが、言葉にならない。欝屈した思いが今にも爆発しそうだが、却って、重く沈殿して心の奥底に沈んでしまいそうである。
 たまらなくなって「神様あ……!」と叫ぶように祈ると、思わず涙が目に溢れて胸に重いものがたまってくるような気がする。前につんのめって床を叩いて「主よ……!」と叫ぶと、フトそこに神様がおられるような気がすることがある。
 神様の膝に駈けよって甘えてみたいような気がする。「神様あ……」ともだえるように語りかけると、心のうちに「何だい?」という神様のお声が聞こえるような気がする。もう一度「神様あ……」と叫ぶと、私の肩に神様が手を掛けてくださる、その重みを感じる。「どうしたの?」とお声がする。私は思わず、「苦しいんです」と申し上げる。その途端、思いかけなく私は「ワッハッハー」と笑い出すことがある。喜びの霊が私の内に殺到するのである。「主があなたの喜びとなる」(イザヤ58:14)」ということか。
 それから、思わず、異言の祈りが始まる。と言うより言葉にならないで、息だけが出て「ハーハー」と言っているような祈りだから、私はこれを息吹きの祈りと言う。
 そうして、ある思いが心に湧き起こってくる。「主と一つだ。主と一つだ。」 《く》


〔聖書講義〕
我が内なる「福音」   
 
 「恵み」とはキリストの内にある壷から砂糖でもスプーン一杯ずつわけてもらうように思っていてはいけない。一発くらって穴があくと、私の中にある全エネルギーが凡てキリストの「恵み」とかわるのです。
 
 この力で地球全壊とは行かずとも「日本列島沈没」「日本列島蒸発」「日本列島総入れ替え」ぐらいのことはやろうじゃありませんか。これが、「キリストの恵みによって強かれ」ということです。
 
 次に8節に移りましょう。
 「ダビデの子孫として生まれ(=約束の子として生まれ、或いはあたりまえの人間の子として生まれ、ということ)、死人のうちからよみがえった(=肉の人間として生まれ、十字架にかかったにしろ、何にしろ、とにかく当たり前に死んでしまったが、その中から生き返る力を得たキリストの秘密→それは医学的生理学的神秘学的復活ではなくて、つまり墓の中から息を吹き返したなどというケチくさい復活ではない。単純な復活では生きてまた死ぬ。前々のとおりオドオド、イライラ、ねじれた根性で生きるだけだ。そういう人生をけとばして永遠感覚で生きぬく、それが本当の復活だ。)イエス・キリストをいつも心にとめなさい」
 
 人間の肉体の中で精神活動は最も最高の人間らしいところ、霊に密着するところだ。霊の世界は要するに人間の知恵では掴み得ない。精神の最奥の壁に耳をあてて(のぞき窓もないので)いろんな振動を聞いてそれをいろいろ翻訳しているだけのことだ。
 その精神の部屋にいつも復活のイエスの姿を、その力を、その愛を、とどめておくことをパウロはすすめる。
 
 これは、パウロの信仰の実生活から出た奨励でしょう。パウロは実際体験としてイエス・キリストを我が精神の室に充満して居っていただくことの有利さ、実力さ、ありがたさを身にしみて知っていたに相違ない。
 ダマスコ城外の体験のごとく、キリストの痛みが我が痛みと判るように、キリストとの共同生活を知っているパウロの、あらわな信仰告白です。
 
 「これが私の福音です」―――、こんなあつかましいことをいうのはパウロだけです。神の福音、キリストの福音、ではない。私の内に活性聖霊が生きて、聖霊が活動しはじめ、目に見えぬ霊的世界に神の力が働く―――、それは心にキリストをとどめているからです。キリストの心を我が心としているからです。
 この精神(心)←→ 霊の相関作用のメカニズムにキリストの心が働きかけるのです。このキリストが「私の福音」であるとパウロは言い切るのであります。
 
 このようになってくると、私どもは大なる親分キリストという結晶体の中の、小さな一結晶体である子分という格好になってくる。「クリスト者の完全」とはよく論議される聖潔派の用語であるが、結晶体は小なりといえどもその完全度を持つものであってその用語は正しい。
 
 ただし、現実には不純物も多い。テモテ第二書(二・21)の如く、不純物を取り去る必要もある。高熱をもってドロドロに溶解して不純物を捨て、再結晶させるような聖化の道はなかろうか。こういう時、死にてよみがえるキリストの力が必要である。
 
 福音とは何か、この活性聖霊によって活かされ、息づかされる現状です。福音をコトバや信仰箇条や対象化にするのはだめです。福音は我の内のことです。「福音我が内にはじまり」そういう事がおこらぬといかんのです。
 
 ああ、すばらしい人生ですね。時には人に裏切られ、人に誤解され、損をする人生であろうとも我々は何も恐れる事はない。心を動かす事がない。辛抱できるのです。
 <つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-04-17 17:25 | 日岡だより

No.535 主なるキリストのご復活を崇めます 2012.4.8

主なるキリストのご復活を崇めます

 今日は教会暦によるとイースター(復活祭)の日であります。イエス様のご復活を祝い崇め賛美する日なのです。キリスト教においてクリスマスに並ぶ大切な祝日であります。
 さてイエス様のご復活の意味を学ぼうとする時、その前に十字架の死についての学びを深くしなければなりません。
 イエス様が十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたと聖書に残されています。それは「わが神、わが神、なんぞ我れを捨て給いし」という意味だとマタイによる福音書では解説付きです。旧約聖書詩篇22篇1節の聖句のそのままの言葉です。イエス様が内心深く潜めていた思いの言葉でしょう。
 これはイエス様の神様への怨みの言葉ではなく、ご自身が人類の罪を一身に背負いなさって神様から捨てられる事を確認する厳しい言葉なのです。
 イエス様が十字架上で死なれるということは、単なる生命の死ではなくて、人類の罪の全てを背にして死んで行かれる、つまり陰府の底にまで下られるということを指しています。それは神に捨てられることなのだと証言なさっておられるわけです。
 イエス様はこの時、死のドン底の体験を証言されているのです。全人類の罪を贖い救い給う御心の告白です。並々ならぬ深刻な死を背負って行かれるイエス様の御自らの証言なのです。そして、その死を蹴破って勝利の復活をなさる覚悟を表白されているのです。
 父なる神様が愛するその独り子を十字架上で殺して、陰府にまで追い遣ろうとされる真意は人類の救いです。神様は天にある目に見えない霊的な存在者です。その神様が地上に降りて見える肉の存在者となられた、それが独り子ということです。ですからイエス様は父なる神様ご自身の化身です。
 即ち、イエス様の死は神様ご自身の死です。そこまでご自身を追いつめなければ人類は救えない、これが神様ご自身の人類救済の秘策です。神様のたぐい無き憐れみです。
 イエス様の十字架は父なる神様の至上の愛の自己表現です。逆に言えば、そこまでなさらねければ救い得ない人類の罪の深さということです。
 私どもは地にひれ伏して神様の御愛を誉め称えましょう。アーメン、ハレルヤ! 《く》


〔聖書講義〕
我が内なる「福音」   
 
 さて、働きのある電気は、流れる電気です。電気は流れないと力を発揮しない。聖霊もそうです。アダム・エバの時代より、聖霊は人間にみたされっぱなしです。しかし流れない。なぜ流れない。入り口がない、出口がない、缶詰めの缶と同じです。出入り口が二ついるのです。
 
 イエスはまず、「いまだ栄光をうけなさらぬ時(それはペンテコステをさすようである)」、その前より弟子たちに、己れをすてることを、人を愛することをすすめた。これは些か無い袖をふれというようなもので、酷な命令にも思える。缶のフタに小さい穴を一つあけて中の液汁を無理に振って出すようなものである。
 
 イエスはしかし、まず吐き出すことを教えます。呼吸の練習がこれに似ていて、まず息を吐くことが大事なので、吐いてしまえば息は自然に吸ってしまいます。
 
 それから、ペンテコステがくる。出る口と入る口(これがペンテコステ的突破口)があれば、聖なる空気はスムーズに還流する。神より聖霊を頂戴し、それをドンドン使い果たす。そこに活性聖霊があります。静なる霊は、太初より人間に満ちている。しかし流れなければ力は発揮できないのです。
 
 さあ、さあ。事をおこそうとするでしょう。さて、ここで「能力が発動したら、オレ始める!」と足ぶみして待っている人が多いのです。それじゃいけない。信じて始めるのです。そうすると直ちに聖なる力が発動してきます。
 セールスマンが嫌なお得意さんのドアを開ける時、怖気づいたらいつまでも開け得ません。信じてドアを押すとき、同時に力は発動します。後をかえりみずドンドン進むことです。信じて進むことです。そうすると、事態はどんどん開けます。「天命を信じて人事を尽くす」のです。(鐘紡・伊藤淳二社長)
 
 アインシュタインの発見した有名なエネルギーの数式――― 
      E=MC2
「エネルギーは質量×光速の二乗」というのでして、マッチ箱大の船の全質量が全部解放されると、地球が吹っ飛ぶそうです。この原理を利用したのが原爆です。
 
 私どもの内なる霊的エネルギーもどうでしょうか。これは目下静電気状態にありまして、どれほどの力もないようです。しかし今これに何らかの引き金があてられますと、次々に連鎖反応をおこして原爆状況をおこします。
 
 ああ、なんという偉大な力でしょうか、これがテモテ第二書(二の1)でいう、イエス・キリストにある恵みですよ。
 <つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-04-10 17:25 | 日岡だより

No.534 信仰の第一歩は聖書を読むこと 2012.4.1

信仰の第一歩は聖書を読むこと

 「聖書を読む」という時、私は出来るだけ「聖書を拝読する」と言うようにしています。昔のクリスチャンはよく聖書を一度持ち上げてキチンと拝しながら開いたものです。
 聖書を学ぶ時、参考注釈を書き込むことをよくしますが、丁寧に文字を書きたいですね。そういう私もあまり模範にはなりません、グチャグチャと書く癖があり残念ですが。
 私の存じ上げている先生で、決して聖書に書き込みをなさらない方がいました。聖書の各頁を決して汚さないで奇麗にしていました。私は驚嘆しましたね。
 しかし、逆に白紙を貼りこんでまで、ギッシリ参考記事を書き込む先生も居られました。昔は余白を広く取って書き込みしやすいように記事を中のほうに印刷してある聖書もありましたが、今は無いようです。
 さて、私は聖書研究という言葉はあまり好きではないのです。聖書学習と呼びたいのです。ともあれ、そのために聖書に一杯書き込みするのは矢張り許して頂きたいと思っています。《く》


〔聖書講義〕
我が内なる「福音」   
 
(1)サウロの迫害したのはクリスチャンであった。イエスではない。故に、イエスはここで御自身がクリスチャンと同一体であることを宣言しているのである。
(2)この言葉を聞いた時(以後の事実でわかるように)、サウロにとり、この言葉が実感となった。神の言葉は、信じる者(信じさせられる者)の胸の中に実現する力を持つ。
(3)サウロのクリスチャン迫害は、クリスチャンの痛みであるだけでなく、それはそのまま、イエスの身の痛みであった。そしてその痛みがサウロにも同様に感じるので前項のとおり、イエスの言葉がサウロの胸に実感としてこたえた。その時、イエスの痛みはサウロの痛み、というキリストとの同一性がおこっている。そして彼の旧い人は死に、目がつぶれた。

 だから、トゲのあるムチをける時、痛みは自分にはねかえってくるというのだ。ける我も、けられる彼も、一つキリストの体の肢だ。おのれの手で頭を叩けば頭も痛い、手も痛い。
 
 サウロはかくて、目は見えなくなり、人に助けられ、ダマスコに入って、直町という貧しげな街のアナニヤという青年の按手で救われます。目からウロコが落ち、新しい世界が見えはじめます。その時彼は、どんなにか大きい大きい神の愛と、己の平安を感じたことでしょう。
 サウロは頑固な「おのれ」の道にやぶれ、神の手に落ちました。「我が愛におれ」というイエスの言葉そのままに、サウロ(又の名はパウロ)はその日以後、神にのみ生きる人になります。パウロの愛は、そこから発するのですね。
 
 テレビが電流にみたされて、遠い電波を受けるとき、内蔵するブラウン管に遠い放送局の画面が映るように、サウロの全身全霊にキリストの霊がふれる時、キリストの体の痛み(すなわちクリスチャンの迫害される痛み)が、なまなましくサウロの心情にわかるのです。
 
 キリストの体―――それは「永遠の岩」です。ロゴスです。その「岩」より血が流れ血漿が流れ出るあたたかさ、痛さ、つらさ、悲しさ、いとおしさ、それが身一杯にサウロに迫り、彼をおしつつみ、彼の人格を一変せしめるのです。
 そこに彼の死と復活があります。キリストと共に死に、彼の復活に与るということです。(テモテ第二書の二・11)
 
 ここで語られている体験は、パウロ、アウグスチヌス、ルター、ウェスレー、内村鑑三等々、代々の真のクリスチャンに普遍的な回心体験であります。この時、人は「永遠の岩」の脇がさかれ、生命の血と水に洗われて、キリストの死と生に密着することを自覚するのです。これが信仰の原点、力の原点、また、愛の原点です。
 
 キリストの内にあるもの、それは一つです。見る見方により、愛とか力とか聖とか義とかいろいろに見えます。そういうものが数多くゴタゴタとつまっているんじゃないんです。
 それは一にして全、キリストの霊です。このテモテ第二書(二・1)でいう「イエス・キリストにある恵み」とは、ほかでもないキリストの内にある全てのもの、その全てのものが「我がもの」であるのです。それが恵みなのですよ。
 
 このキリストに直結して、彼の内なるもの(恵み)が私にみたされてしまう。その時、私は強くなるのです。そこをもう少しくわしく言います。
 
           三 
 創世記を読むと、神は人間を土でもって造り、それに息を吹き入れて活けるものとなさしめたとある。息はルーアッハで「霊」でもある。吹き入れたのは、充満せしめたのである。そして神は「すべては善し」と言われたことであろう。
 
 聖霊とはどうもあらためて受けるものではないらしい。少なくとも創世記ではそうなる。これが聖霊問題の原点になりそうな気がします。
 
 たとえば、電気のことを考えよう。物質はすべて電気をもっている。こすり合わせると紙片などをくっつける作用をする。ナイロン衣料でパチパチ火花を出したりする。これが静電気だ。たいしたことはできない。じっとしている電気である。この電気は万物に滞在している。
 <つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
[PR]
by hioka-wahaha | 2012-04-03 16:13 | 日岡だより