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No.533 信仰を築き、成長させる十則  2012.3.25

信仰を築き、成長させる十則

一、主日礼拝に必ず出席する。その他、教会の定期集会にも出来るだけ出席する。これが信仰を築く第一歩である。

二、日々聖書を読む。神の御言葉は、あなたの足のともしび、また道の光です。

三、日々祈ること。聖書を食事にたとえれば、祈りは呼吸にたとえられます。祈らぬクリスチャンは息をせぬ人間に似ています。絶えず祈ることは、聖書のすすめ。以上の三点が信仰生活を守るための基礎です。

四、肉体の人間も食べて寝ているだけでは健康な体にはならない。信仰の健康のためには、伝道が大切です。伝道といっても大げさに考えず、日常の生活の中で信仰を告白し、証しをすることが伝道の手始めです。そして、教会の集会にさそいましょう。

五、次に、信仰成長のために、ぜひお勧めしたいことは、什一献金(収入の十分の一)の励行です。什一献金は実行してみると分かりますが、出来ないことはないが経済的に容易ではない額です。神様は何も貧しい人をいじめるつもりではなく、持っているものを取り上げてしまうつもりでもありません。「什一献金で私を試してみなさい。私は天の窓を開いて溢るる恵みをその人にそそぐ」。と神は言っておられます(マラキ三・一〇)。実に什一献金はクリスチャンの経済的祝福の道であります。

六、信仰のための良い指導書や、キリスト教古典を読みましょう。図書の選択は牧師に相談するとよいでしょう。良い読書は良い食物(聖書にたとえて)のための良いビタミンであります。

七、日々賛美を、周囲に迷惑なければ、声高らかに歌いましょう。たとえ少人数でも、信徒が集まった時は必ず賛美をしましょう。

八、多くのクリスチャンが精神の強化を忘れているか、無視しています。あるいは、律法的なガンバリズムに堕しています。霊の救いに重点をおかずして精神強化を忘れるのは、信仰の故に肉体の健康を無視するのに似ています。聖書的精神強化法としての映像思念・御言葉コールを励行しましょう。

九、教会の係り、役目、仕事に奉仕ください。教会の奉仕には不思議な喜びがあるものです。そして、一人で黙々とやって人の分までしてしまうというより、少しでも人をさそい、人と共に奉仕し、そして係りなどの務めは後継者を早く見つけてください。

一〇、互いに集いましょう。電話しましょう。手紙をかわしましょう。信徒の交わりこそ信仰を冷やさぬ大保温器です。

(1977年4月10日週報より)



〔聖書講義〕
我が内なる「福音」   
 
           二

 テモテ第二書の第二章1節を読みましょう。
「そこで、私の子よ、あなたはキリスト・イエスにある恵みによりて強くなりなさい。」
 
 これはもう、冒頭から凄い言葉です。これだけについて語っても語りつきない程です。
 「私の子よ!」この呼びかけに、パウロの深い愛を感じます。どんなに愛する弟子でも「私の子よ」とはなかなか言えぬものです。キリストの愛にみたされぬと、こういう言葉は出ぬものです。
 
 人生を強く生きる秘訣は愛にあります。「全き愛は懼れを除く、恐るるものは愛全からず」と長老ヨハネの言うとおりです。本当に愛する時、恐怖心をけちらしてしまいます。恐れている時は愛が無いからです。
 
 こうなると、愛、愛と簡単に言っても大変です。そういう本当の愛はどこから来るのでしょう。
 みなさん! 愛とは受動的なものでありまして、愛されて初めて愛が分かり、そして愛することができます。愛された経験のないものは愛することが分からない。そして、今愛されていないものは人を愛することができない。
 それなら、今この私、どうしてどうして人を愛することができようか。
 友よ! 聞け、イエスは言う。
 「我が愛に居れ」と。
 
 宇宙に神の愛は満ち満ちているのです。人間の体に、打ち身ができるとそこに全身の血が集まり、傷や炎症があるところに血漿がたまる。そのように、ゴルゴタの丘の上に宇宙全身の血が集まって、そこに神の愛の結晶が見られた、とクリスチャンの私は思うのですが、正しくそこでイエスは見世物のごとくさらされています。愛の見世物ですよ。神の愛が見えるがごとく投げ出されているのです。こういうイエスを通して表される神の愛に居ろうではありませんか。
 
 パウロの愛の原点はどこにあるか。それはダマスコ城外の回心の時です。パウロ(その時の名はサウロ)は、光に打たれ、そして声を聞いた。
「あなたは誰ですか。」
「私は汝が迫害するイエスである。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである。」
 これは奇妙な問答です。神秘現象を以て迫ってくる目に見えぬ人格に
「あなたは誰ですか」
 と問う。倣頑なサウロにとり、かって分からないことは何一つ無かった。このようなうろたえた質問を発する時、既にサウロの敗北がある。
 「私は汝が迫害するイエスである」この答をサウロが聞いたと彼自身が告白する時、三つの重要な点がある。<つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-03-27 16:10 | 日岡だより

No.532 死を見つめることが信仰への始め 2012.3.18

死を見つめることが信仰への始め  

 人生において死ほど不可解なものはありません。誰もこれを説明してくれません。人は死んだら、その先、何が起るのでしょうか。誰も語ってくれません。
 これまでも、何度か書きましたが、私が19歳の時、同級の友、荒巻保行が自殺しました。彼の死後、私宛に届いたノートには、
 「人間の生は快楽を生き甲斐とする。生きて居るだけ、快楽を求め、罪深い生活を続ける。罪の生を止めようとすれば死ぬ外は無い。自殺は罪だとキリスト教は言うけれど、生きていても罪なのだから、一刻も早く死んで行く方が良いに決まっている。『神様、済みません。これ以上、罪を犯したくありませんから、ここで思い切って死にますことをお許しください』、こう祈って死のうと思う。」とありました。
 少年と言ってもいい年令の荒巻のこの言葉は、成人者たちから見れば、なんと言う考えの浅い、早とちりの愚かな命の捨て方か、折角の尊い人生を見くびった実に不敬虔な自己処理ではないか、そう非難されるでしょう。しかし、私には彼の自らの命を賭しての荘厳な訴えだと思えました。尊いとさえ思えました。しかし、それだけでは救いは無い。無益な試みに過ぎないではないかとも思えて私は泣きました。
 彼に本当の救いを語りたかった。しかし、私にはまだ、本当のキリストの救いが分かっていなかった。教理として知っているだけでした。
 それから、聖書を一所懸命に読みました。聖書のどこかにその秘密が書かれているはずだと思いました。しかし、聖書には「信じなさい、信じなさい」と書いてあるだけです。どうしたら信じられるのか、書いてないように見えました。
 「とにかく、信じたら良いのだな、よし、信じることにしよう」と私は考えました。イエス様が私の為に死んで下さった、そこで私は生きる者となった。そのことを信じようと思いました。
 しかし、いくら信じたつもりになっても、今のままのおまえでは天国に入れるはずない、それは不可能だとささやくものがあるのです。それは私自身でした。私の深い良心がそう言うのです。厳しく私自身を拒絶する私がいるのです。このままでは地獄に落ちるしかない、と絶望しました。
 その絶望の只中で、私の心に語りかける声がありました。言わく。「われ最早生くるにあらず。キリスト我が内にありて生くるなり」。後で考えればそれは聖書のガラテヤ書第2章20節のお言葉でした。その言葉は私の魂の奥底まで響き渡りました。
 私はもう生きていない。私は既に死んでいる。そして私の代わりにイエス・キリスト様が私の内に生きて下さっている。今私の内に居られるのはイエス・キリスト様である。この確信が私の心に突然湧いたのです。それは疑いようのない断然たる確信でした。
 この確信が私の内に備わった時、私は非常な喜びに燃えました。宇宙の中心にデンと居座ったような自信がわき、世界の何処にも恐れるものはないという気持ちになりました。
 イエス様がご自身のご意志をもって私の内に移り住んで下さった。これより確実なことは無い。私はキリスト様のものである。誰も私を揺るがすものはない。私はビクともしない。悠然として全宇宙を見回しているような安心感でした。《く》

〔聖書講義〕
我が内なる「福音」  
 
 偶像礼拝については、旧約聖書はきびしく糾弾しますけれど、そうかと言って宗教的偶像の良さを見失ってはなりません。たとえば、円空の木仏など最も注目すべき作品と思いますが、あれを自分で作っておいて、あとで自分が拝むという処が本当にいいではないですか。そこがイザヤなどヘブルの預言者には理解しにくい処でしょうね。
 一度完成して拝みはじめたら、もう自分のものじゃない、仏です。自分の内から摘み出され、刻みこまれ、自分の内にある仏が形をなして写し移されて、遂に自分以上の(マリヤがイエスを拝むように、親が子を拝むように)仏となって我が前にたたずむ、そういう仏像のみごとさに私はうなりたい程です。
 こういう処に礼拝や仏像や神話伝説を重んじる宗教の意味があるように思います。円空の仏像のように、多くの神秘な教義も信条も一つの偶像でしょうか。
 
 イエスの十字架は神の贖罪愛のドラマティックな表現であると、さきに言いました。こういう言い方は多くの方の顰蹙を買うので恐れます。しかし、あのドラマを大仰に受け取っている方々に、却ってその背後にある本当に大きな「永遠の岩」の愛のエネルギー法則に気のつかぬ事の多いのを私はなげくのであります。
 「ちとせの岩」という時、私どもは宇宙のつよい、大きい、圧力ある、かたい、不動の、巨大な、つめたい感じのする神の真理というようなものを感じます。そういう律法的つめたさ、かたさの中より、血と水、情と愛をしたたるように感じるというのがこのトプラディの讃美歌の秘密です。それが、「律法」という旧約の「岩」より切り出されてくる新約の「福音」なのです。そして、イエスはその福音そのものです。イエスにふれる事により、神にふれ、神の心情と血にふれるのです。
 <つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-03-20 12:43 | 日岡だより

No.531 イエス様の最初の奇蹟 2012.3.11

イエス様の最初の奇蹟  

 ヨハネによる福音書の第2章の始めの箇所に、イエス様の最初になされた奇蹟の記事が載っています。
 婚礼の席上でぶどう酒が無くなった。イエス様が12人もの弟子たちを連れて行ったので、しかもその弟子連中が遠慮もなくお酒をたっぷり飲んだのでしょうか。そこでイエス様のお母様のマリヤが慌てた。
「イエスよ、イエスよ。あんたの連れて来た弟子たちがお酒をたっぷり飲んじゃって、底をついちゃったわよ、なんとかしなくっちゃ」。
 そこでイエス様はなんとおっしゃったか。聖書はなんともつれないお返事をお母様のマリヤに答えている。聖書によると、
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時はまだ来ていません」
 なんともつれないお返事ですねえ。私はこれはイエス様のユーモアなご返事なのだと思っている。「婦人よ」に始まるこの日本語の翻訳は適当ではない。こう訳すべきでしょう。
「マイ・レディ! ご心配なく、大したことじゃありませんよ」
 イエス様は軽く答えます。
「大奇蹟を行う必要はないのですよ。まだ、その時じゃないのです。簡単にすませます」
 マリヤはすぐに悟ります。僕(しもべ)たちに伝えます。
「ね、あなたがた。この人の言うことはなんでもして下さい」
 そこでイエス様は、そこに大きな石の水がめが6つあったので、僕(しもべ)たちにその水がめに水を一杯汲みいれるよう命じます。彼らはイエス様が命じられたように忠実に水を口のところまで一杯入れたと聖書は書いています。そしてイエス様は命じられました。
「さあ、これを汲んで、この会席のお世話さんに持って行きなさい」。
 僕たちは疑いもせず、その水がめの水を料理の主任さんに持って行ったと聖書には書いてあります。
 その水だったはずの飲み物をお世話さんがなめてみたら、なんとも言えない高級ぶどう酒だったので、びっくりしたのです。
「驚いた、上もんやねえ。これだけ飲んで 酔っぱらっちゃったら、もう安物を出す頃なんだが、この宴会の亭主は偉いぞねえ。これは飛びっきり旨い酒だよ」
 こうしてイエス様は多分親戚か、親しい家庭の婚礼だったのでしょうが、その席を盛んに賑わしてあげます。母マリヤもどんなにか喜んだことでしょう。
 これはイエス様が、そのご生涯で最初になさった奇蹟だと聖書に特記されています。イエス様は、その後も数々の奇蹟をなされましたが、その最初の奇蹟が病気の癒しなどでは無くて、婚礼を盛り上げるというような楽しい奇蹟なんですね。イエス様のなされた数々の奇蹟のなかでも、これは珍しいタイプの奇蹟ですね。
 私どもの教会でも、こういう楽しい奇蹟を見させてくれる結婚式や誕生会など、イエス様にお願いしたいですね。皆さん、期待して居ましょう! 今後(釘宮)。《く》


〔聖書講義〕
我が内なる「福音」  
 
 シンドバッドが「開けゴマ」と言って、岩を開いて、宝物を盗み出した。天照大神は岩から出てきて、もう一度神々に光を与えた。永遠の神の岩が切りさかれる時、巨大なエネルギーが解放され愛と生命が人類にふき込まれて、聖霊革命がおこるのです。それがキリスト教の秘儀ではありませんか。
 
 それでは、キリストの死が西欧キリスト教風に語られることは、未発達宗教心理のしからしめる伝説スタイルなのであって無意味な事だといえるでしょうか。
 そうではない。人間は「国家」とか「愛」とかいって抽象的な言葉を語る時、内に浮かぶイメージは「日の丸の旗」とか「富士山」とか或いは「母の姿」とか「キッス」とか、そういう姿や形です。人間はイメージ抜きで、心情のわかない抽象事を真剣に思うことはむつかしいのです。
 
 はじめ、ヘブル人にとって神の名はなかった。「名の無い神」という実に現代的な神が古代エジプトの下層民ヘブル人の神でした。(この雑誌を「名のない雑誌」とつけたかった話は第一号に書いた。ところが本当に東京に「名のない新聞」というのがありましたよ。おもしろいので、互いに交換しました。)姿も無く、名も無い神では困ったでしょうね。
 そこでモーセは神に願って神の名を教えて下さいと言っています。神に名ができると、それぞれの神の名のもとに各民族が仲たがいし、そして××の神が真正最高、○○の神は悪神魔神というような事になる。イエスが出てはじめて、神名返上、「父なる神」に統一してしまいました。
 
 宗教的熱情をかきたて、信心の対象をはっきり定め、信者を統治する為には、神名が必要、神像が必要、そして極彩色のドラマが必要なのです。私はこれをさして反感を以て言っているのではないのです。人間の心理限界を考えると、そういう大道具小道具がいるのだと思います。イメージなくしてはコトを考え得ない人間の感覚限界です。(モノの世界はイメージ化が容易です。コトや目にみえぬモノの世界はモデル化しないと分りにくい、伝道しにくい。)
 <つづく>
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-03-13 17:49 | 日岡だより

No.530 死を考え、生を考える 2012.3.4

死を考え、生を考える

 今週の土曜日、3月10日に「大分・生と死を考える会」の3月定例会が持たれるそうなので、私も出席したいと思っている。(会場は大分市東春日町、アイネス2階大会議室、会費・会員500円、一般800円)
 こうした趣旨の会は大抵「生と死を考える会」と名称が打たれている。小さいことに気がつく方は、私はこうした場合、必ず「死を考え、生を考える」というように、死を先に持ってきて、生を後に持ってくることを知っておられるであろう。私はこの辺に非常にこだわるのである。
         *
 私が19歳の時であった。親友・荒巻保行が死んだ。自殺である。彼も19歳だった。その前日、彼は私に言った。
「釘宮、僕は死の哲学を書こうと思う」
「バカ言うな。君が本当に死の哲学をきわめたらやな、君はそんな哲学なんか書くひまなんかないよ、その場で死んでしまう筈だよ」
 と僕は言った。この会話をしたのは、別府に彼の父が彼の療養のために造ってやった別荘だったのだが、その別荘の玄関で別れる時だった。その翌日だったか、2日後だったか。彼の父親から電話があった。
「釘宮君、保行が死んだ。自殺なんだよ」
 と泣き声だった。私は驚いて、別府の彼の別荘の家まで行った。既に息絶えている彼の姿に呆然とした。泣く涙も出なかった。私は気を失ったように、大分の私の家に帰って来た。そして居たたまらず、大分川のほとりに出て行って、
 「荒巻よ、荒巻よ、お前どこに行ったんだ」と泣くばかりだった。
 河口に近い、その辺りではしきりに、かもめが飛んでいたが、その印象がいつまでも私の心に残った。
 そして、夜になり、遅くなって、家に帰ると、死んだはずの荒巻から郵便が届いていた、開くと彼の小さな手帳が出た。彼の日記だった。彼の死ぬまでの書き残した日々のメモである。私は食い着くつくようにして読み始めた。以下のような文章だった。
         *
 人間というものは、生きている間、心に思うことは自己愛から出る思いばかり、多少は親を想い、友を想い、純粋だとは思うけれど、所詮は自己中心、そして自分を嘆き、自分を痛みつつ、解決が無い。
 所詮、こんな愚かな、自分だけを可愛いがって、他への思いやり、愛の心なんかありゃしない、醜い自分、このような自分は死ぬ外ないなあ。そういう思いで一杯になった。
         *
 実は、その手帳は、後日、彼の従弟なる青年がやってきて、「保行さんの手帳をちょっと貸して下さい」と言って私から持ち去ったまま、返してくれなくて私の手元から無くなってしまっているのであるが、
 私の母などは、この荒巻君の手帳を読んで「荒巻さんて、本当に純粋ねえ。あんたは、荒巻さんにイエス様のことを、もっともっと話して上げなくちゃいけなかったのよね」と私に言ったものだ。私は泣き伏してしまった。
 本当に、このような深い罪意識にさいなまれる彼のためにはイエス様の福音が一番の救いなのだとは、私も理屈では思ったけれど、私にはまだ信仰のことなど少しも分かっていなかった時だ。そして又、彼の罪意識がこんなに深刻なものなのだったとは、尚更思いもよらなかったのである。
         *
 この荒巻君の死は私に大きな影響を与えた。荒巻はこのままでは地獄行きではないか。こんなに純粋に罪に苦しむ魂を、キリスト教の教義では言うなら「自殺は神の前に最大の罪である」と言うかも知れない。しかし、この荒巻の魂を地獄にやってたまるか、という私の心に悶えがあった。
 しかし、私には、まだイエス様を信じる信仰なんかありはしない。母親にくっついて教会の礼拝には出席するけれども、信仰ということなど些かも判らない。私の心に途端に、「私は神様の前には罪人だ」という自覚が湧いた。だから、私自身も死んだらやはり地獄しかないのだ、ということが私の思いに突き刺さった。
 私は死んだ荒巻君の魂を追って、地獄にまで追いすがって行きたかった。しかし、私の魂は地獄に行けば、そのまま地獄の底に落ち込むだけのこと、彼を救う事は出来ない。私は地獄に打ち勝つキリストの生命に満たされる必要がある、その事が分かった。
 こうして、私は父と母、彼らの信仰を想起したのである。父や母の信仰は、ただ日曜日には教会にお参りしています、というだけの信仰ではなかった。私の父や母の信仰は、確実にイエス様を信じて、そこで、死ねば必ず天国に行けるという信仰なのだ。
 この信仰を私は「キリスト体験」と呼びたいと思う。イエス・キリスト様が私の罪の罰を背負って死んで下さった。故に私の罪は消え、私はイエス様と一つになって死の関門をくぐる。地獄は私には関係無い。私はイエス様にくっついて天国の門の方へと進む事が出来る。サタンが幾ら私を地獄へ連れて行こうとしても、それは不可能である。私はイエス様の蔭に覆われて天国への門をくぐるのである。《く》
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by hioka-wahaha | 2012-03-06 21:50 | 日岡だより