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No.525 キリストわが内に生くるなり(証し) 2012.1.29

キリストわが内に生くるなり     
                                  相良佐枝子    
  
 昭和三十四年の今日(十月二十一日)、私は当時、大分交通につとめていて、バス通勤していました。
 その日も、一日の勤めをおえて、現在の一〇号線大分大学のあたりを通っていました。客が多くて、私は運転席の後ろの柱にもたれてぼんやりしていたのです。
 その時フト気がつくと、同乗の見知らぬ乗客の一人一人がいとおしくいとおしくてたまらない自分なのです。
 かき抱きたいような愛の感情がわきおこってくるのです。どうしてこういう心になるんだろうと私は非常にいぶかりました。すると突然、
「我キリストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」 (ガラテヤ二・二〇)
 この御言葉が、私の全身全霊を全く占領してしまいました。その時、私の足もとに私の古い死骸が黒々と横たわっているのがありありと見えました。そして私を愛するキリストのうるんだ愛の御眸をまざまざと感じたのでした。
 このあと、バスを降りてからどうして家に帰ったのか何一つ覚えていなかったくらいです。
  その後、神様は仕事や家事の中で一瞬一瞬教えて下さいました。これまでは限りある世界に生きていましたけれど、その時より永遠という感覚によって生きるようになりました。
 今まで、この目で見ていたものはすべて影であり、今こそ真実の栄光を見ているのだと分らせて頂きました。
 それより二十年、御恩寵に引きくらべてあまりに怠惰にすごしてきたと反省しています。悔い改めて益々御言葉に従い生きたく存じます。
 最後に、私の特愛の聖句を載せさせていただきます。
「神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや」(ロマ書八・三一)
「二羽の雀は一銭にて売るにあらずや、然るに汝らの父の許しなくば、その一羽も地に落つることなからん」(マタイ伝一〇・三〇)
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」(ロマ書四・一七)
「あなたがたの会った試練で世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、のがれる道も備えて下さるのである」(第一コリント一〇・一三)
 (一九七九年十月二十一日、日曜礼拝にての証し)

 去る4日に天に召された相良佐枝子姉妹の残された信仰の証詞を、お載せしました。
 かつて「回心記」という題の本が出たのは戦前でした。石原兵永先生の文章でした、私は、初めて「回心」という言葉を知ったのです。その本には「回心経験なくてはキリスト教は分からんよ」という内村鑑三先生の言葉もあり、それが私が切に回心を求めるきっかけとなりました。この事は何度もあちこちで書くので恐縮なのですが、特に聖化の信仰や神癒等の賜物の付与を体験する経験も大切ですが、それでもまず「イエス様による義認の信仰」が第一の大切な回心だと思います。この点では、とにかく私に取り、石原先生の「回心記」は最大の恩恵でした。この本によって、私は信仰の真っ先の基本を学んだと思います。
 相良姉妹は私の伝道の初期の頃の人ですが、正に私から「丸写し」に、私の回心経験を掴んでくれたと思います。木南姉妹や私の妻トミさんなども、この「丸写し」の信仰を掴んでくれたのでした。これは伝道者として限りない恩寵です。《く》


いのり   

 神様よ!
 旧約の聖徒は申しました。
 「エホバは活(い)く!」と。
 まことに、あなたは活く、我もまた活く。
 「すべてのものをもて、すべてのものを満たし給う方が、満ちみつる処」であるこの神的宇宙(かみのからだ)の一細胞であるこの私に満ちみつる霊(かた)よ、あなたが私の内に満ちみちていられることを知られるとき、私は「あなたはまことに活く、我もまた活く」と告白せざるを得ません。
 
 あなたが私の中(うち)に盈満(えいまん)して、私は「神の幕屋」「キリストの幕屋」であります。私は張り子の人形のように、弱くおろかしくありますが、しかし「もはや我生くるにあらず、キリスト我が中(うち)にありて生くるなり。」私の中に満ちみつる方のイノチに、私が活(い)かされて日々の生命をもやすのであります。そこで私は力づき、希望に満ち、まことの信仰に再生するのであります。アーメン。
<つづく >
(1973.12「心に満つるより」No.3より)
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by hioka-wahaha | 2012-01-31 17:35 | 日岡だより

No.524 信仰をしっかり学びたいと思ったら 2012.1.22

信仰をしっかり学びたいと思ったら   

 先日、暇つぶしに、こんなことを書いてありました。
 信仰をしっかり学びたいと思ったら、やはり聖書です。でも、聖書も厚いですからねえ。それでは、まずヨハネの福音書、それからローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙を読んでください。えっ、長過ぎますか? ではねえ、割引してあげましょう。ヨハネの福音書の13章から15章まで、ローマ人への手紙は7章15節から8章最後まで、それから・・・えっ、まだ長い? えーっと、それならね、ガラテヤ人への手紙2章の20節、これだけ。これだけね、しっかり読んでくださると、よいです。(釘宮)


日々新生*  

十月十七日(水)K姉より来信。「私はすっかり男性不信に陥ってしまってそれが人間不信にまでなった。その私を先生の教えと聖書が救ってくれました。先生が『宗教は道徳ではない』と云った言葉・・・・・・。私自身を責めて勝手に重荷を背負った自分でしたが、今は大変荷物が軽くなった様にニコニコと働いています」
十月十八日(木)癌を宣告され、一応の手術のあと再発を危ぶまれているI姉よりの信仰告白を頂き精読する。<そしてある時の祈りに「心すがすがしく美しくありなさい。ごくろうであった。感謝して神を讃美するものに絶対再発はないから」とのお言葉を頂きました。それから徐々に体も快方に向かい、・・・・・・家族の愛につつまれ、今ほど心おだやかな時があったろうかと思われる日々がやってきました。・・・・・・今まで遠くおられた主よ! あなたがいつも共においでになる毎日あることを今ほど身にしみ、かって悲しみの余り泣いた涙は喜びの涙とかわり・・・・・> アーメン、感謝である。主は弱きもの、病床のものの主である。
十月十九日(金)K牧師より来信。「最近毛沢東に強く心を引かれています。彼の最近の文章に、『私有財産は人間の原罪である。我々の戦いは、この原罪との戦いである』とあり、またスノーとの最後の対話の中に、『私たちの心の中には、資本家になりたい心がありますからねえ』とありました。彼によりますと、階級の原点は、他者の中にあるのでなく、自己の内にあると言うのです。彼の場合、マルキシズム以上のものがあるようですね。」
十月二十日(土)東北の白石市の遠藤兄より来信。本誌一号への共感同情、心にしみる。同じ琴線が、同じ振動数で共鳴してくるようだ。第一号の文章が難解と思う人もあろうが、単なる難文ではなく、分る人には分ってもらえるという事も分って一安心。

〔注〕* 日々新生
 「人あらたに生れずば、神の国に入ることあたわず」
 とイエスは言われた。
 「人あらたに生れずば、神の国に住むことあたわず」
 と私は言いたい。あらためてこういう言い方をする真意はこうだ。
 多くのクリスチャンは、一度新生して(=それが「洗礼をうけて」と同義語になっていて益々事態が不可思議になっているむきもある)クリスチャンになった以上、それ以後ずーっと間違いなしに、神の国の人であるという自己認識(自己欺瞞)をもっている。
 「我は日々に死す」とパウロは言った。「もはや我生けるにあらず、キリスト我がうちにありて生くるなり」と言ったこの信仰の達人は、その時、「日々に生きる→日々に生れる」ことを言っていないだろうか。
 日毎、日毎に生れ出よう!
 刻々に、新生しよう!
 キリストの血を刻々に、我が肉と霊にむかえ入れよう。
 神の国にては、その中心街に月毎に実をむすぶ生命の樹があるという。果実がみのるのは普通夏か秋か、年に一度だ。毎月実をむすぶとは、常に実がたわわにみのっているということだ。
 その実のみ、かは、その葉でさえも諸国の民の病をいやすという。この比喩する処は何だろう。日毎新生して、活々とした天国民の生活ぶりを見るだけで周りのものがせいせいするという事だ。

編集後記
◇月刊ものを企画して、予定どおり創刊号のあと正確に一ヵ月後に第二号を出すなどということは、怠惰な私には珍しいことである。
◇この第二号を感謝をもってみなさんに送る。十一月は私にとり感謝の月である。昭和十九年十一月二十三日、私は福岡刑務所北一舎六二房に厳正独居として収監中の九〇二番囚人であった。その日の夕刻、窓べの桑の木に雀がチュンチュンないて戻ってくる頃、私は暗黒より光明にポッカリ天井穴のあいたように回心した。ちょうど今年で三十年である。私の「サンクス・ギビング・デイ」として感謝したい。
◇本誌は毎号何頁くらいになるやら、今の処、見当がつかない。頁が不定のため実は、定価もつけにくくて困っている。大体頁あたり二円五十銭くらいと思う。しばらく毎号価格がかわりますが、ご送金くださる方は適当に見計らってお送りください。第三号はクリスマス特集ができれば幸いである。
(くぎみや・よしと)
<おわり >
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2012-01-24 15:47 | 日岡だより

No.523 魂の回心を求めよ 2012.1.15

魂の回心を求めよ   

 回心という言葉はキリスト教用語として大切な言葉です。泥棒をしていた男が心を改めて「もう泥棒を止めます」と決心した、これは改心と言います。これを回心と誤解する人もいますが、それは誤りです。現行の日本語訳の聖書では、「悔い改め」という言葉を使っていますので、誤解を受けやすいのですが。
 回心という言葉は、キリスト教においては原語でメタノイアです。魂がクルリと回転することです。この世の事ばかりに気をかけていた魂が神様の方に向きを変えることです。これは殆ど自力では無理です。神様のほうから力が働いて思わず人の心が神様の方に向きを変えるのです。そうして神様のほうから聖霊の力が差し込んでくるのです。その時、思わず人の心は神様の言葉を受け入れます。ハッと気づくのです。そうして人の心は神様の霊の言葉に耳を開きます。
 悔い改めるという言葉は、何かくよくよ悔やんで泣きべそかいてへこたれる感じですが、聖書では心を表を裏にひるがえして、回転させることです。そうして神様から逃げ廻っていた心を神様の方に方向転換、神様の前に帰って行く、それが悔い改めということです。そうして人の心には喜びが湧き、希望が燃え上がり、力が増してくるのです。
 これまで幾ら努力しても解決できなかった人生の問題をぶち壊し、新しい目的を見出だし、計画を練り直し、聖霊さまの力を借りて、勇気を己がものとし、全力を挙げて敵に突貫するのです。これらの中で最も大事なものは勇気です。事を起すのも、事をやり遂げるのも勇気、そして最後の勝利を掴むのも勇気です。
 これには矢張り、心が神様に向かって忠誠心一杯、己れを捨てて、敵に対しては勇気百倍、恐れを知らぬことです。敵とは何か、悪魔です。悪魔は我々に弱気を与え、困難に遭えば退却を一途に勧めます。勝利させません。こういう時、必要なことは、悪魔を追い払う一喝の言葉です。言葉には力があります。
 多くの人の失敗は、いざと言う時、この悪魔に対する一喝の声が出ないことです。
 イエス様に向かって恐喝の弁を吐くような強気のサタンに対して、イエス様は更に強気です。ここでイエス様の一喝、「サタンよ、退け」(マタイ4:10)。サタンはイエス様の一言のもとに逃げ去ってしまいました。
 人生における勝利の秘訣は「勇気」です。万事勇気が必要。恋人に声をかけるにも、社長さんに意見を具申するにも、病人の患部に向かって「病気の霊よ、出て行け」と言うのにも、勇気が必要です。
 案外、多くの人が気がつかないのが、祈る時に勇気が必要だということです。この点は詳しくは申しませんが、大抵の人は神様に祈るとき弱気です。こんな大胆な祈りをして、もしかなえられたら、どうしよう。私には到底、その始末はできません、などと心に恐れているのです。
 そこで、勇気です。この勇気を与えてくれるものは、冒頭に書いた回心です。神様に向かって魂が回心、つまり徹底して従順になって居るのです。神様に従順な魂は勇気を持っています。何ものにも負けない勇気です、
 祈りを始める、最初の一語、「神様!」と申し上げる時、素直で、へりくだった魂も必要でしょうが、それ以上に「神様から何を要求されようと私は従います。引き受けます。何事でも、どんな困難なことで致します」と、覚悟して祈り始める時、それは一種の勇気です。勇気有る祈りを忘れないように、諸君、お覚悟召されよ、ハハハハハハハハ。《く》


小生、九十歳になっちゃったです   

 私は1922年1月14日生まれ。昨日90歳になった訳です。
 生まれた時、産科医言わく、「このお子さん、20日と生きておられないでしょう。いろんな条件が悪いんです」。
 父はそれを聞くと、産褥にある母にもそれを言い、彼は家に帰って、泣きました。
 「ああ、主よ、あなたは私に一人の男児を与え給い、しかして又急にこれを取り給うか。主権者である主よ、私は従順に服従します。すべてを御手にゆだね奉ります。アブラハムがイサクを燔祭に捧げたる如き試練を私どもに与え給うか。ラザロを甦らせ給いし主よ、私ども夫婦にマルタ、マリヤの如き厚き信仰は無くとも、一度与え給いし幼児を願わくば取り去り給うなかれ。主と、御心にかなわぬかも知れませんが、出来得るならば、僕よりこの苦き杯を取り去り給え。この幼児をこの世より取り給う事が御心であるならば、その真理のある処を私どもに悟らしめ給い、我らの涙を拭い給え。されど、主よ。御心をなし給え。アーメン。」と祈ったと父の文集に残って居ます。
 尚、生まれたその日も、翌日も次の日も、来る日も、毎日毎夜「ラザロを甦らせ給いし主よ」と祈り続け、同信の方々にもご加祷を願い、多くの方々から熱誠なる同情と慰問の電報、手紙を頂いたとも記事が残されています。
 そして1週間たって、その病が快復の曙光を得たとの医師の報告に喜び、神様に感謝申し上げた旨の記録を残しています。その赤子だった小生は、今90歳。感謝ですが、この父は釘宮太重(たじゅう)と言い、なんと45歳で召されたのです。嗚呼! 《く》
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by hioka-wahaha | 2012-01-17 00:18 | 日岡だより

No.522 相良佐枝子姉を天に送る 2012.1.8

相良佐枝子姉を天に送る   

 相良佐枝子姉が、この1月4日午後11時過ぎに天に召されました。昨年暮れより大分の日赤病院に入院されていたので、突然と言うことは出来ないにしても、不意を打たれたような感じがして、参ってしまったのは私だけではなかろう。
 これまで、何が起ろうとも乗り越えて来た姉妹だから、病状の悪化を耳にしても、どこか安泰感で見ていた私に落ち度があったなあ、とも思った。その事に気づいて、「佐枝ちゃん、ご免よ」と今頃になって謝った。
 相良姉を「佐枝ちゃん」と呼ぶのは、私の癖である。昔からの癖だ。もう50年程になる。
 彼女が初めて私の許に来たのは昭和34年の初めの頃かなと思うのだが、その7月か、8月の頃、しょっちゅう私を訪ねてきたのだったと思う。
 彼女がキリストによる「救い」の確信を求め始めたのである。それは、当時から今に至るまで、私の主張し続けている「キリスト体験」の必要性である。
 「最早われ生くるにあらず。キリスト我が内にありて生くるなり」というガラテヤ2章20節の体験を、今、私たちも共に頂こうではないか、と言うのである。
 私はこれを「キリスト体験」と呼ぶ。この体験無しには「キリスト信仰は有り得ない」と私はいつも言っている。
 これは人間の自我意識では起り得ない。キリストの聖霊が迫って来る時に、そのことが人間の魂に起るのである。正に奇蹟である。
 私はそれを昭和19年11月23日に福岡の刑務所の独房で体験した。
 その時、ガラテヤ2章20節のお言葉が無類の力を持って我の魂の奥底、霊の深みに落ち込んだのである。その一瞬、我の魂に信仰が湧いた。私の霊魂の奥底にキリストが生きて居られる。この信仰は以後の私の生涯を貫き、今日に至っている。
 この信仰を「キリストの内住」の信仰という。私の大好きな尊敬する先生、四国の故・金田福一先生の著書に、この題名で素晴らしい本がある(キリスト教の古書店・東京神田の友愛書房で探せばあるかも知れない)。

 この信仰を相良佐枝子さんが切に求めはじめたのが、昭和34年の夏の頃であろう。私の日記を見ると、その年の9月14日に、「広瀬(同姉の旧姓)佐枝子さんの救を示される」とある。祈りの内に、彼女の救いの確信を与えられたのであろう。そして10月14日の私の日記には「佐枝子さんが救の信仰をもった」と書いてある。そして、それから7日後、「10月21日、佐枝子さん、バスにて徹底回心」と記録されている。
 その時、相良姉は職場から帰る途中だった。混雑したバスの中で、突然ガラテヤ書2章20節の御言葉に全身全霊が占領され、一度倒されキリストとともに起き上がる自分を見たと言う。すぐに私の家にやって来て、「先生、正にこれ回心です。イエス様を信じる信仰が突然湧きました。間違い無し、私はイエス様に救われました、ハレルヤ!」と。今、その時のことを思い出すだけでも感激します。《く》
 ※この相良姉の救いの証は以前にも日岡だよりに載せていますが、次回再掲したいと思います。

相良姉の葬儀  

 昨日、1月7日午前11時より、大分市山津の大分典礼MGFホールにて、相良佐枝子姉を送る葬儀が釘宮牧師の司式、永井明牧師の式進行で行われました。前夜式は1月6日午後6時からでした。
 姉妹の危篤状態の報を受けた永井明先生が高森先生とともに宮崎から駆けつけてくださったのが実に元旦の翌日のことでしたが、そのまま大分教会に滞在してくださっていました。亡くなった夜の日赤病院から、葬儀、火葬にいたるまで、釘宮牧師の高齢を心配して補佐に徹してお手伝いくださり、感謝にたえません。
 前夜式、葬儀とも、当教会の信徒のみなさんをはじめ、多くの方々が見えられ、70名の会場が満席で外にまで人があふれました。そのほとんどが組織でなく個人的なつながりと見受けられ、相良姉の、人のお世話に徹した人生を思い起こさずにはいられません。
 釘宮牧師は、その集まった多くの方々に、遠慮なく大胆にキリストの福音を説かれ、時に「佐枝ちゃん、そうだね?」と棺に向って語りかける、その姿にも感動を覚えました。
 ルデヤ会(婦人会)会長をつとめるなど、大きな働きをしてきた姉妹を失ったことは教会にとって、悲しみでもあり痛手でもありますが、姉妹の天国への凱旋を心から喜び、また、今度は天から私たちを支えてくださるだろうことを期待しつつ祈っていきたいと思います。(S)

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                〔葬儀にて:最後の祈祷〕
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by hioka-wahaha | 2012-01-10 17:01 | 日岡だより

No.521 キリスト信仰の中心 2012.1.1

キリスト信仰の中心  

 今年は、新年早々、元旦が主日です。有り難い、感謝ですねえ。新年おめでとうございます。今年もどうぞ宜しく。

 イエス・キリスト中心の生活が今年も実現出来ますように祈りましょう。牧師だって、そんなこと簡単に出来そうにありません、と言えば正直な告白ですが、いや、出来るんだと、カラ元気でもよいから、信仰の言葉を吐きましょう。一生懸命、信仰の言葉を告白する時に、事実そのことが、その人に実現する。それが信仰の不思議な成就です。
 「キリスト信仰の中心は何ですか」と、問われれば、私ははっきり答える。ガラテヤ人への手紙第2章20節、これです。
 言わく、「最早われ生くるにあらず。キリスト我が内に在りて生くるなり」
 この言葉を後生大事に唱えたり、胸に仕舞い込むと言うのではない。この言葉通りに信じるのである。
 ところが、この言葉通りに信じるということが、多くの人にとって難しい。信じたつもりになってみても、本当に信じることは到底不可能である。幾ら信じよう、信じようと思っても、本当に真実心をもって信じることは難しい。
 しかし、この文章を読んで下さる読者の中で、万一にも「先生、信じました。もう生きているのは私ではありません。キリスト様が私の内に生きて下さっています」と言える人が居られたなら、私は「ハレルヤ! 感謝!」、その人を抱いて喜ぶでしょう。お知らせ下さい。そういう人が生まれたならば、それは御聖霊様のなさったことです。私は双手を上げて感謝、賛美、歓呼の声を上げますよ。
         *
 さて、信仰とは何かの信仰箇条や、信仰の教理などを表面上、納得し、受入れて、「ハイ、このとおり信じました」と、告白する事ではありません。いや、洗礼式の時など、そのようなお答えを要求して、そのお答えにより洗礼を授けることは、よく行うことです。言葉は悪いですが、多少儀式的な振る舞いです。
 しかし本当の信仰の問答として、その方の本心としてお聞きしたいのは、
 「ハイ、私は信じます。もう生きているのは私ではありません。キリスト様が私の内に生きて下さっています」という、この言葉です。
 この言葉を本心からの告白としてお聞きするためには、ご本人にこの実質体験が必要です。
 
 少々、くどい言葉を述べて、分かりにくかったかもしれませんが、ご了承ください。分かりにくい所はもう一度、読み直してご理解くださるようお願いします。
 信仰の生じる原点を申し上げます。信仰は、ご当人の決心で生まれることは滅多にありません。正確にいうと、信じたいと思って、「信じます。信じます」と一心に口にすることはあっても、本当に心の中で信じてはいない。そういうことが多いのです。
 大抵の場合の決心は「信じたいなあ」という決心です。「私は信じます」という決心ではありません。つまり、「信じる」という心の決心は非常に難しい。ということです。皆さん大抵、「信じたい、信仰したい。信仰させてください」と願う心は一心ですが、なかなか「信じる」一筋の心にはなれない。
 とにかく、これは人間の心が非常に頑固な性質だということです。イエス様が私の罪を背負って赦して下さるという、天下第一の真理を信じられない、とても本当とは信じられない、神様の赦しの恵みを素直に受け入れにくい人間の頑固な性質です。このイエス様にある救いと赦しの真理を、人間の心理は容易に受入れられないのですね。ここに悪魔の悪の手が、人間の心理につけ入る隙間があります。
 (ここまで書いた時、私の右手に激痛が走りました。しばらく、続く文章を書けませんでした。私は「悪魔よ去れ。出て行け!」と叱りつけたものです。2、3度叱るとやっと出て行きました。悪魔が、聞きたくもない言葉を私が書きかけていたのでしょうね。呵々!)
 右の文中の「悪魔よ去れ。出て行け!」と叱りつけた言葉に、「イエス・キリストの名において」と、付け加えると万全です。如何なるサタンも、その子分どもも逃げ去って行きます。

 ですから、最終的な完全な言葉を呈しましょう。それは、先にも書きましたが、その終わりの言葉、「もはや生きているのは私ではありません、キリスト様が私の内に生きているのです」(ガラテヤ2・20)、これです。
 この言葉を、あなたがイエス様から直接頂戴する必要があります。それは難しいことです。あなたの恣意では不可能です。神様からの絶対的恩寵として頂くのです。言い替えれば、イエス様ご自身のご意志です。私たちの身勝手な心で、この御旨を要求出来ませんが、しかし、不滅の真理の御言があります。
「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7:7)、この御言は不滅です。神様にあなたの救を切実に求めることです。私が昭和19年11月23日、一瞬に救われたのも、この御言葉の実現でした。《く》
 
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by hioka-wahaha | 2012-01-03 17:03 | 日岡だより