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No.520 クリスマスを感謝しましょう 2011.12.25

クリスマスを感謝しましょう  

 今年は西暦2011年でしたが、学者の説によると本当の西暦の紀元はもう4年遡(さかのぼ)るのが正しいという声もあるようです。
 西暦の紀元というのはイエス様のお誕生の年に定めてあるのですが、それは聖書の記事に従うと、その時のユダヤの王はヘロデ、この王様は例の嬰児虐殺事件を起こす訳ですが、そういうう歴史的事件をとおしてイエス様のお生まれになった年をさぐると、もう4年さかのぼるべきだと言うのです。
 とは言え、こういう論議は学者さんに任せて、私たちはイエス様のお誕生そのものに思いと考えを及ぼしたいのです。
 イエス様がお生まれになったのは正確に言うと何年、何月、何日か。それは大切な論議かもしれませんが、それよりも、イエス様という方が、2千年程前にこの地上にお生まれになったのは、本当に事実なのか、どうか、それが大事なのです。
 一時は、イエスという人物は本当にユダヤの土地に生まれたということ、そこに33年ほどの生涯を過ごされたということ、それは事実なのか、相当きびしく検討された時期もあったのです。長い間の検索の結果、今はもうイエス様の歴史的実在を疑う人はなくなりました。
 その次は、イエス様という人物が本当におられたとしても、あの聖書に書かれた人物像はどの程度信じていいいのか、これも長い間あくどい探索検査にさいなまれて来た訳ですが、現に残されている新約聖書のイエス伝をちょっとでも疑う人は最早いません。お釈迦様や、マホメットや、孔子さんに比べても、比べられないように散々に調べ尽くされたあげく、新約聖書のイエスの生涯の真実性を疑う人はいません。
         *
 以上の結果、欠点の一つも見られない正に聖者と言ってよい、古今通じてこんな人物が地上に居たのかと驚嘆せざるを得ないようなお方、このイエス様につきあたるのです。
 正に聖なるお方、愛に満たされたお方、あまたの病や不具を癒し、驚くべき奇蹟を為してご覧に入れて下さったお方、その方が十字架にかかり、死なれていることを何度も確認されているが、そのお方が3日目に、見ている人々の前で墓石を押し分けて歩き出て、ついにその復活の姿をもって天に上って行かれる。このようなお方は人類の歴史にない、唯お一人の不可思議な方、正に神が人となられたと言うほかはない、この人類未到の奇蹟的人物として、私たちは確認せざるを得ない、こういうお方が本当にこの地上に生きていてくださった。もう一度言うが、お釈迦様でも、マホメットでも、孔子さんでもない、ここに地上にかつて生まれたことのない奇蹟の人、イエス・キリストのご人格にぶち当たるのである。
 お釈迦様も、マホメットも、孔子さんも、言ってみれば申し訳ないが、元々只の人である。しかし、偉いことに修業してあそこまで人格を成就なさった、偉い方々です。
 しかしイエス様は違う。彼は人として生まれ、人間に相違ないが、実は人にして真の神、神様が地上に生まれて、人としてお育ちになったお方である。だから生れながらにして神、それがイエス様である。
 だから馴れ馴れしく「イエス様」などと甘ったれて言うのではない、厳かに「神様」とお呼びして仕えまつるべきお方がイエス様である。
 主は言われる。「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)。《く》


日々新生   

十月十日(水) 「心に満つるより」第一号の発送をはじめる。はなはだしく汎神論風に傾斜した文章である故、古い先輩、教友方の批難や絶交状のくることを覚悟している。
十月十二日(金) 俗務多忙(その一例、三百万円借入れ、高教組委員に面会、求職者不採用決定、医者にて血圧をはかる、S氏交通事故を見舞う、封筒書き、十二時就床)
十月十三日(土) 坐禅を正式にはじめて満五ヵ月になる。枚方バプテスト教会 田辺恵雄牧師の伝道誌「聖名の福音」第九号を頂く。巻頭論文、私自身の文章を読む思いがする。私のようにテレンパレンでなく論理的にしっかり書いて下さる点もありがたい。早速、共感・感謝の電話をかける。
十月十四日(日) 日曜礼拝、ヨハネ十三・一~二〇にて。我らの内なる岩のキリストに根ざして生きよ。律法主義では人の足を洗えない。
十月十五日(月) K氏を見舞いに行くが不在。癌であるが至って気性しっかりしているご様子。
十月十六日(火) 原稿(宗教思想)をかきはじめ二時をすぎる。
<つづく >
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-12-27 17:29 | 日岡だより

No.519 一日三回、笑いましょう 2011.12.18

一日三回、笑いましょう  

 この標題「一日、三回笑いましょう」は当教会の礼拝室の背後の壁に貼ってある、お薦めというか、お励ましの言葉です。
 この言葉を貼り付けたのは、何気なく思い着くまま墨汁の筆を浸して書き付け、その場で貼ったまま、もう2、3週間にもなりますか、それからというもの、この言葉を見る度に私自身が笑いたくなって、なんとなく笑ってしまいます。そしてこの言葉を貼り付けたのは、悪いことじゃなかったなあと自分で納得して喜んでいるんです。
 そこで、こうして「一日、三回笑いましょう」と私に語りかけると、素直に私自身が忠実に従ってくれるのです。何気なく、こだわりもなく、軽く笑ってくれるんです。しかも3回! いつもそうだものですから、よくもまあ毎度よく聞いてくれるもんだと、感心するんです。これは正に人格再形成の秘訣のような感じがします。
         *
 しかし、たった一つ、この方法でも私自身を再形成できない残念至極なことがあります。恥ずかしいのですが。
 それは手紙やノートなどに、字を書く時です。ペンや鉛筆を握って紙の上に文字を書く時、どうしても標準的文字が書けないのです。決して上手な字でなくても良い。小学校の低学年の子供が書くような幼稚な書き文字でもよい、落ち着いて小学校一年生になった気持ちで書いてみなさいよ、と自分で自分に励まして書いてみるのですが、どうしても出来ません。相変わらずあっちこっちにはみ出したヘンチクリンな字が出来上がってしまいます。
 私の自筆の手紙を貰った人は、多分どなたも不思議がると思います。どうしていつもあんなにペラペラしゃべるのに、字を書く時だけは何故こんなにひっかかったり、出っ張ったり、チョロチョロ書いたり、一字か二字だけ、豪傑のような字を書いているかと思うと、次の字は全く気の弱そうなビクビク文字。釘宮先生はどうも性格異常者ではないかな。正常な人なら、こんな字は書かないよ、と思う人は多いだろうと思うんですよ。
 でもしょうがない。私にはこれしか出来ない。一生、下手な字を書き続けるでしょう。しかし、しゃべる時は多分いつでも明朗に正確にしゃべれる筈です。
         *
 ここまで書いて気が付いたことがあります。私は小学校6年生の時まで、ひどい吃音(どもり)でした。そして、その6年生の夏、ある有名な先生について吃音の矯正をしたのです。それは見事に良くなりました。今の私を見て、私が小学生時代吃っていたなんて信じる人はないでしょう。今は私のおしゃべり、ご覧の通り、ペラペラですね。しかし、かつては本当に全くひどい吃音で、国語の授業なんか、てんで朗読など一字も読めませんでした。
 そして、私は気が付いたのです。その吃りの癖が手の指に転移したのではないかと。これは私の思い違いかもしれませんし、学者はどう解釈するか分かりませんが、私はそう信じています。私の吃りの癖が手に移って、そこで手が吃りの症状を起こして、吃り文字を書いているのだということです。
 そこで私の決心、「一日三回笑いましょう」と自分に言いさえすれば、簡単に一日3回ケロリと笑えるように、字を書く時に手の吃りの癖が癒されて、素直に震えが止まります。そうです。ペンを取って、「手の震え止まれ」と命じて紙の上に字を書きました。見事、書けました。アーメン、ハレルヤ! 癒して下さいました。《く》


日々新生     

一九七三年九月二十一日(金)疲れたとき、興奮したとき、即座にすわって祈ることだ。ノボセがぐっと下って生命力がわく。
九月二十三日(日)集会、サムエルの召命の記事を通し、我が内に充満するキリストを語る。我ながらよい説教であった。
九月二十四日(月)小倉に出張、車中にて原稿(別稿「私にとっての禅」)をかく。用事をすませ、福岡に行き子供らに会う。
九月二十五日(火)遠藤周作の「死海のほとり」をよむ。弱さ、無力に徹するキリスト観は分らぬではないが、あまりにも人間的。神の世界を知らぬ人の言うことだ。才たけた子供がせのびして、恋愛論を語っているにひとしい。
九月二十六日(水)川合信水先生の文章を学ぶ。修行の大事さを思う。修行のついていかない信仰の危なっかしさを思う。
九月二十八日(金)生命の樹を想う。春日神社の四方に枝をのばした楠を想う。川合信水先生の「完全」を想う。天と地の創造に対処して、人間もまた天的に開け、且つ地的に完全を全うすべきなり。
九月三十日(日)エペソ書四章により天地に貫くキリストを語る。
十月三日(水)この世の金もうけの名人に会う。その人間性、至って面白し。
十月五日(金)珍しくTVと雑談で夜をすごす。
十月七日(日)日曜礼拝、ローマ署一・八~一七により、獅子吼す。信仰より信仰にすすむ、ダイナミックな信仰を語る。
十月九日(火)「神の独り子イエス・キリストと私は一体である、一枚である。」
 <つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-12-20 16:39 | 日岡だより

No.518 毎日がクリスマス? 2011.12.11

毎日がクリスマス?   

 クリスマスが近づきました。毎年、いつもこの頃になると、クリスマス近しという言葉を口ずさみます。そして「実は日々クリスマスを体験することこそクリスチャンなんだ」というせりふが私の脳裏を走るのです。これは毎年のことです。
 クリスマスという言葉は、キリスト祭と訳しても良い言葉なのだと聞いたことがあります。
 クリスチャンとは何か。クリスチャンとは日々その心に働くイエス様を体験し、そのイエス様内在の感謝と喜びに溢れて、その内なるイエス様を日々に、その唇に告白せずにはおれない者たちなんだと、私は定義するんです。
 極端に言い替えると、クリスマスとは年末の12月25日の日だけではない、イエス様は1年365日、毎日、毎日クリスチャンの心に来臨して下さる。だからクリスマスはクリスチャンにとり毎日のことである。だからクリスマスの喜びは毎日クリスチャンの心を襲うのである。イエス様のクリスマスをクリスチャンは毎日告白出来る筈ではないか。これが私の心に於ける、叫びです。《く》


私の宗教問題    

       四

<日岡だよりNo.517よりつづき> 
 自分の神だけを本当の神と思い、他の民の神をハナであしらう態度ほどきらいなものはない。私は、宣教師が日本の仏教や神道を軽くあしらう時、満身の怒りを覚えざるを得ない。
 ブレイナードのアメリカンインディアン伝道の本ほど霊的ないい本はないが、ただ一つ「あわれなあわれな異教徒インディアン」と言う時、私は本当にイヤになってしまう。
 全世界、キリスト教の宣教師の行く処、その地の土着宗教はあとかたもなくなってしまう。そんな事でいいのだろうか。熱心な熱心な宣教師の手により、改宗者がドンドン造られていく時、イエスはそれを「ゲヘナの子」と眉をしかめているかもしれぬ。
 
 ここに宮崎亮医師の手によるアフリカ医療伝道の一記録がある。
         ***
 今日は孤児収容所を訪れました。・・・ここの収容所には四十人もの孤児を収容しておりますが、この施設は政府がつくったのでもなく、団体の寄付金でできたのでもなく、自分たちの力で、村民たちが協力し合って作りあげたものだそうです。
 この村は、原生林の中のいわば「奥座敷」にあります。お年寄りのヨボヨボした酋長さんがニコヤカな微笑をたたえておいでになりました。酋長さんは静かにささやくような声で、こんなことを語ってくれました。
 「こんな田舎の田舎にまで日本からおいでいただいてお礼の言葉もありません。わたしたちの国は貧しい国です。コレラや腸チフスや、その他の伝染病がはやっています。教育もない人が多く、お金も食べるものも住むところもない人がたくさんおります。薬もありません。『お腹が痛い』『頭が痛い』『熱がある』といっても子供たちにあげる薬がないのです。・・・子供たちが病気になって苦しんでも。死にそうになっても、なすすべがありません。土間の上で淋しく死んでいきます。ただ一つ、こんな貧しい中にもわたしたちが、しっかり握っているものがあります。それは私たちが、私たちなりに信じている神様の愛と隣り人への愛です。私たちの持っている何ものかを外国人であるドクターにも理解していただきたいと思います。」
 こう語る酋長さんの眼の中に美しく光るものがありました。それは、金よりも、銀よりも、ダイヤモンドよりも美しく輝いておりました。
 この酋長さんは、キリスト者ではありませんでした。仏教徒でもありませんでした。しかし、本当のキリスト者とは、こんな人ではないかと思いました。本当の仏の慈悲を知る人とは、こんな人ではないかと思いました。
         
 後進国の伝道に行って、こういう事を言える人をうみ出した日本を私は誇りたいと思う。ここにシュバイツァーをこえる思想がある。キリスト教を脱して、宇宙のキリストに接点をもつ思想の円環がある。
 
       五

 世界の改造はカンタンではない。
 
 株式会社や、土地所有や、組織圧力や、権力欲や、それが個人個人よりも無くならぬ限り、世界は悲鳴をあげて亡んでいくであろう。
 
 「キリスト教」という名を惜んで、真理を独占したような気分になっている時ではない。
 (一九七三・一〇・一八)
 <「私の宗教問題」の項終わり>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-12-13 16:28 | 日岡だより

No.517 大東亜戦争から70年 2011.12.4

大東亜戦争から70年   

 今日は12月4日。大東亜戦争勃発の12月8日がすぐそこだ。標題に書いた通り、今年はあの大東亜戦争から70年である。言わば、大東亜戦争70年記念日ではないか。大々的にこの日を祝おうとする右翼の人たちも居るに相違ないと思う。
 多くの人は考えないし、知ろうともしないが、日本が起こした大東亜戦争の意義はもっと充分に考えるべきことである。
 第一、大東亜という視野である。この広い視野は、日本人のみか、中国人やインド人の心ある人々の充分に考え抜いた視野ではなかったかと思う。あるいはロシアの人々も、どうであっただろう。
 ところで我々に欠けていたのは、日本の背後にある太平洋である。これが当時の政治家、特に軍部である。軍部の人々は太平洋のことは忘れてはいなかっただろうが、うっかり戦略思考から抜けていたに違いない。これは「うっかり」とは言っておれない当時の国策を扱った政府、軍人がたの大失態である。
 ところがこの太平洋をたんたんと狙っていたのが、なんとアメリカであると言うべきか。いや、アメリカの領土としては既に、ハワイがあったし、また領有地に等しいフィリピンが日本の領土、台湾の近くにあった。だからアメリカは太平洋を遥かに越えて、かなたの東アジアに向かって国策的視野が届くのは当然のことなのである。
 この事にうっかりして気がつかない。単なるアメリカ蔑視主観、おカネに驕り昂ぶっているアメリカ相手には一戦ぶったら一返に勝ってやるぞ、なんて気軽な対米意識が日本にはあったように思う。少なくとも当時の平均的日本人の意識だ。
         *
 ああ、あの頃から、もう70年経っている。世の中はグローバルになった。情報が地球表面を駈け廻っている。かつての日本は勿論、アメリカでさえも今思えば視野が狭すぎる。昨今は近所の老人夫婦が世界旅行に旅立つような時代である。聖書が告げる世界の終末時が意外にも平穏裡にやって来そうな誤解も起こる。そういう時代が今である。《く》
 

私の宗教問題      

       三

<日岡だよりNo.516よりつづき> 
 釈尊は「我は法を説くものにして、法にあらず」と言ったとも聞いているが、彼の説いた処は、何といっても「成仏」の秘儀であろう。空海の言う「即身成仏」、道元の言う「現成公案」、そこで証しされている「仏」は、キリストと同一者と思われるが、惜しむらくは、人格性を欠いで汎神論的非人格神、自然神、法則神の相にのみ見える。
 誤解なきようにねがいたいが、私は叙上のような汎神論的神相をダメだと言っているのではない。そういう相を兼ね持った上で、総体的唯一の人格神としての神をキリストは表現していると思う。少なくとも、私の信じるキリストは。
       ×       ×
 人間の脳髄は、ずいぶんと物を考えたり記憶したり感情を発したりする。これすべて人間を組成している物質の為す処であるとすると、少なくともこの地球の物質には、物を考えたり記憶したり感情を発したりする潜在力があるという事になる。
 少なくとも我々の知れる限りで、鉱物→植物→動物→人間→と、こう考えてみると、人間ほど進んだ存在はないようであるが、他の宇宙に行けばもっと進んだ生物もいるかもしれない。
 ともかく分ることは、物質はこのように組み合わされ、うまく進歩すると、とんでもない知性をうむ、人格をうむ、ということは、実はこの大宇宙そのものに、知性、人格の種がかくされているということではないか。人間がこうして知性や人格を持っているということは、この宇宙(の一部の物質)が知性や人格を持っているという恐るべきことであるのだ。
 その時、この知性、人格の進化のかなたに目をとめ、その進化をうみだす全宇宙のレアリティを神を呼ぶのなら、それは人格(我々の人格と知れる凡ての人格性をこえる超人格、つまり神格)を持つものでなくてはならない。と私は思うのだ。
       四
 内村鑑三か、藤井武が「私がいくらクリスチャンであろうとも、日蓮や親鸞のいない天国に行こうとは思わん」というようなことを言って、一種のキリスト教的ナショナリズムを発揮したことがある。
 内村や藤井の無教会主義をけむたく思っても、その純な福音性を疑う人はそう多くあるまい。その稀有に純粋な福音の徒であった内村や藤井が、こういう言葉を吐く処に、日本の霊的風土の深みと異様さがある。
 これも、イザヤ・ペンダサンに言わすれば「日本教」だろうか。「ある牧師が聖書の行間をよめ、言外の言をよめと言った」と言ってペンダサン氏が呆れているが、それが分らぬペンダサン氏の方に私どもは呆れる。私どもかくなれば矢張り「日本教徒」か。
 
 エホバの神という言い方は、私はきらいだ。私はほとんどこの神名を使ったことはない。エホバの神名(ヤーヴェであろうとヤハウェであろうと)は、新約聖書には出てこない。イエスは神を「アバ、父」と呼んだ。パウロも言う。「聖霊によらざれば『アバ父』と呼ぶことあたわず」と。私どもにとって、神は「我らの父なる神」であって、エホバではない。(私はそれかといって、無邪気に疑わず信じて敬虔にエホバの御名を呼んでいる人を批難する気は少しもない。それはそれでいいのだが、一度このことに気がつくと無邪気にエホバと呼べなくなるのである。エホバの神名をみだりに使う信仰はとかく独善排他攻撃律法型の宗教になっているような気がする。)
 <つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-12-06 11:53 | 日岡だより