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No.507 悪霊について~一つの見解~ 2011.9.25

悪霊について   

    ―一つの見解― 

 ある姉妹から、ご質問がありましたので、私なりの返事を書いてみました。その一端を以下に写させて頂きます。(釘宮)

「悪霊は人に入れないということを聞きましたが、聖書にはイエス様が悪霊を追い出す場面があります。どうしてでしょうか。」
 悪霊が人にある種の影響を与える事は事実です。イエス様だって悪霊の言葉かけだけは受けました。しかし、イエス様は悪霊を追い返しました。(私だって悪霊くらい追い返しますよ。もっとも悪霊も大物、小物いろいろですがね)

「悪霊は牧師にしか追い出せないのでしょうか。自分で祈るとすれば悪霊に勝つ祈り方がありますか。」
 人に入り込んだ悪霊を追い出すのはイエス様か、イエス様の名によって追い出しするクリスチャンのみに可能です(牧師さんでも出来ない人あり、いや、しない方もあり、また信徒の方でも追い出せる人もあります)。
 悪霊を追い出すのは「祈り」というより、聖霊によって実行できる賜物(力)の一つです。

「死後の世界のことをお聞きしたいのですが。死んだらすぐに天国に行けるのでしょうか」
 死後の世界は陰府(読みは「よみ」、黄泉と同じ)と地獄、それに対するのは天国です。
 陰府は地獄と同じように理解されやすいですが、些か分かれます。陰府は地獄の入り口といってもよいでしょう。或いは天国と地獄との分かれ道と考える人もいます(ルカ16:22~31参照)。

「天国ではどのようにして過ごすのでしょうか」
 天国は主にあるクリスチャン達の学びと奉仕の場所と思います。多くのクリスチャンたちは、地上では救われたとは名のみの者たちですから再教育が必要なのです。
 そして天使候補となって、地上に遣わされます。信徒諸君への奉仕です。

「キリスト教でない人はどうなるのでしょうか」
 地上にあってイエス様を信じる機会のなかった人、また信仰はよく分らなかったけれど、真理を求めた人達の救のために、再教育の道はあるはずなのですね。

「永遠の命をもった人々で天国はいっぱいにならないでしょうか」
 天国も宇宙も無限大に広いのです。《く》


私の宗教問題   

     一

<日岡だよりNo.506よりつづき> 
 〔1〕目下の私の心情を正直に言うと、既にキリスト教をすててしまっていると言ってよいと思う。キリスト教の神話、教理、教会制度、その伝承的な雰囲気より西欧的キリスト教風な形骸を捨て去ってしまって、その底に残っている一つの真実を私は求めている。
 
 〔2〕故に、私に言わせるなら、私はキリスト教の根本を問い直しているのであるし、私は本当のクリスチャンであるとも思うし、だからキリスト教をすてた、すてたと言うのは、少し言いすぎであると思う。そこで、正確に言うなら、すてたのはキリスト教であってキリストではないのだ。
 
 〔3〕ところが、問題はこの「キリスト」論である。私のキリストはしばしば宇宙論的キリストであって、「地球を聖舞台にして、宇宙星辰の只中で執行される」底の「真の肉、真の血」としてのキリストである。
 
 〔4〕こういうキリストは既に、汎神論的異教的キリスト像であると正統派の人々は言うであろう。私はそう言われても少しも困らないし、痛くもかゆくもない。中世のヨーロッパに住んでいないことを心から感謝する。
 
 〔5〕キリストを捨てて、史的イエスに帰ろうという前衛派の人々に私は組しない。しかし、神話的衣をはいで新約聖書の真実に迫ろうとする、その手法にうなづける。私は、神話の底にあるキリストの真実にふれたいと思う。
 
 〔6〕こんなわけで、今や私はキリストの真実を求めるあまり、キリストの名はどうでもいいと思うようになった。イエスもキリストもクリスチャンもクソもあるものか。そんな「名」が天国にあるはずがない。天国には真実のことばはあろうとも、バベル以降の人間の言葉が通用するわけはない。
 
 〔7〕もし、キリスト教が西欧におけるように、また日本における仏教のように、日本の世間に通用する宗教であったら、私は少なくとも、私どもの集会の名にキリストの名はつけなかったろうと思う。私が、私どもの集会にキリストの名をつけるのは、少なくともこの大分では、キリスト教はまだ人気のわるい外国の宗教だからである。意地っ張りなんだね、この私は。
 
 〔8〕私がもっともつけたかった名称は「ヤソ教アーメン宗」である。キリスト教というよりも、そのほうがもっとも侮蔑的で、そして私どもの宗教の本質をついていると思う。
 キリストという言葉は私にとって既に「名でない名」であって、この世でキリストを語るにふさわしい代名詞は「イエス」のみである。
<つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-09-27 16:45 | 日岡だより

No.506 永遠の命に至る水 2011.9.18

永遠の命に至る水〔1〕   

 本日の礼拝メッセージはヨハネによる福音書第4章13、14節によって語るつもりでいます。
 「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」

 さて、この章の冒頭に、イエス様がバプテスマのヨハネよりも沢山の弟子を作り、またバプテスマを授けたという記事があります。
 そして注意書きがあって、バプテスマを授けたのはイエス様ご自身ではなくて弟子たちであったと言うのです。イエス様に対する過敏な批判を解こうとしている、この福音書の記者のヨハネの気遣いが伺われます。
 このヨハネの福音書が書かれたのは、紀元90年から100年を越える時と推測されますが、その頃に至っても尚、洗礼(バプテスマ)を授けたのはイエス様ではなかったなどと書かずには居れないのは、その頃の伝道の厳しさです。楽器や賛美歌で賑々しく伝道できる現代とは違う、そうですね、大東亜戦争中の日本におけるキリスト教伝道の厳しさを思い出しますよ。
 私は当時、大分市内の三軒長屋の真中の古い家の2階で集会を開いていました。私が説教最中に「このままでは日本は滅びてしまいます」などと言おうものなら、聞く会衆(と言っても僅か7、8人足らずの少数メンバー)は思わずシーンとなって辺りの気配を探っている、そういう時代です。「壁に耳あり、障子に目あり」という市井の言葉もありましたが、特別高等警察の目を恐れていたのです。
 イエス様がご自身で洗礼(バプテスマ)をお授けにならなかったのは、受洗希望者が多くて、その準備段階におけるご指導に手間を取られたからだろうとも推察できますが。(釘宮)


永遠の命に至る水〔2〕  

 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。
       (ルカ12:20~21)
 
 成功が万物の尺度であるならば、そして快楽が人生の充実とすれば、「わたしは今とても幸せで環境にも恵まれ、何も不満がありません、たくわえは充分あるし安心です」、このように言う方はたくさんいるとおもいます。
 さほど成功したわけではないが、いまは幸せなんです。そう言える人もたくさんいると思います。
 しかしイエス様はあなたが用意した物は無駄になる、と言われるのです。
 私たち人の命には限りがあります。この世の成功も宝も、パウロ (聖書)に言わせれば糞土のようなもので、主を求めるならば添えて与えられるものだと言っています。
 この世のものでは私たちの魂は決して満たされません。なぜなら肉のものは肉とともにほろびてしまうからです。朽ちるものにではなく、朽ちないものに目をむけよと聖書はいいます。
 朽ちないものとは何でしょうか?
 信じるものにだけ与えられる「永遠の命」、まさに朽ちない主の命です。
 そしてそれは私たちが死んでからではなく、実に生きている今、与えられるものです。
 主イエス様を私の救い主と信じることこそ、天に宝を積むことであり、永遠の魂の平和を得て生きることではないでしょうか。

 もし今あなたの心にポッカリ大きな穴が開いていて、何が足らないのか、何をもって埋めればいいかわからないとしたら、ためしてみてください。
 「主よ(イエス様)、いま私の心の中に来てください」と。(阿部)



私の宗教問題   

      一

 「本誌」第一号や本号の「私にとっての禅」などを読むとき、読者の中から必ず
 「あなたはキリスト教をすてたのですか」
という声が出るだろうと思う。その時、私はなんと答えるだろう。私はかならずや、あの赤岩栄の「キリスト教脱出記」を思い出し、
 「いいえ、違うんです。あのキリスト教脱出記の二番煎じじゃないんです。」
と、手を振って何か言うだろうと思う。
 
 私がいくら弁解したところで、正統派や福音主義の先生方は、私を異端者と呼ぶだろう。私は信仰の正道をふみはずしたもの、また信仰の破船をしたものと言われるだろう。
 実際、この春私の送った私信の一節をその主宰する雑誌に載せただけで、ある牧師が同僚牧師より大攻撃を喰っている例もある。私も自然おっくうになってしまい、禅堂にいって坐禅したり禅話を試みたりすることはあっても、ついぞ十字架の銀柱輝く教会へは行かなくなってしまった。

 それでは私は、本当にキリスト教をすててしまったのであろうか。この質問に答えて、現在の私の心境や、私の立場をできるだけ正直に発表しておこうと思う。
<つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-09-19 22:46 | 日岡だより

No.505 天の栄光を望み、地の喜びをもって生きる 2011.9.11

天の栄光を望み、地の喜びをもって生きる   

 この度、松村さんを天にお送りしました。当教会の信徒の皆さんの多くの方々は存じ上げない人でしょうが、かつての私どもの良き同志であった森幸子さんの友人でもあり、私の旧居のあった大分市大手町(旧・米屋町)にお住まいであった方です。
 2000年6月11日、ペンテコステ礼拝にて当教会で洗礼を受けられました。この日岡だよりを毎週待ちかねて喜んで読んでおられたこと、足が弱っていてなかなか礼拝に出られなくて残念がっていたこと、そんなことをご遺族より知らせて頂きました。
 私としても、この日岡だより300号のときに、思いがけなく記念のお祝いを送っていただき、そのように大事に思ってくださることを嬉しく感じたことを思い出します。
 それにしても、もう少し訪問してさしあげなかったことを申し訳なく思います。こうした姉妹の死の床を訪ねることは牧師にとって苦痛なことでありますが、またお詫び心を抱きながらお訪ねすることでもあります。久しぶりに見る姉妹のお顔を拝見しながら、感慨無量、心をこめて祈ったのでした。
 死の床にある同姉の額に手を置きながら祈る時、初めてお会いしたのは何時のことであっただろうと回想します。
 残ったご夫君が孤閨を守って居られるお宅は私の級友高木君の生家、高木酒造の残したビルの最上階にあるが、お訪ねしたことがあると思う。私の旧居から50メートルも離れていない程の近くである。
 結婚生活はいろいろあるが、幸不幸にかかわらず思い出は大きいはず、その結婚生活が長ければ長いほど。松村さんご夫妻の生死の別あれど、主にあるご多幸を祈ったのである。
 「生死の別あれど」とは、私も妻を亡くしていて、今も幸福そのものであるから、特にそのように思う。夫婦の関係はあるカップルにおいては永遠である。なんという祝福であろう。このような夫婦のことについては、またいつか書きたい。《く》


私にとっての禅   
    
     (二)

 <日岡だよりNo.504よりのつづき>
 私はだから、聖書や経典の枝葉末節にかかずらわって、針でスミをつつくような定義解釈や教理論をほじくることはたいして意味のないことだと思う。
 私がクリスチャンであって平気で禅寺に出入するのもこの故である。クリスチャンもくそもあるものかと思う。私はクリスチャンではない。イエスと同じく神の独り子である。
 イエスが神の独り子であり、そのイエスが、私の内に住み、イエスが充満して、私が死んでいるなら、私に今残っているのはイエスのみで、それはつまり神の独り子。かんたんな方程式である。
  その「我」を信じることが信仰、その信仰が汝を救う、判りますか。

 「私にとり、イエス・キリストの十字架のほか、誇るところはない」と、パウロは言った。イエス・キリストの十字架とはイエス・キリストの生命だ。
 十字架は彼の死を示し、彼の死は新しい生命を意味し、その生命は私の内に生きる生命である。以上はいささか文学的表現にすぎるから、もう少し化学的に説明しよう。

 私は今この原稿を車中で書いている。この車はディーゼル車らしい。ディーゼルエンジンの中で重油が燃焼してそのエネルギーが解放され、エンジンがまわり、車両が走り、私もいっしょに時速八十キロメートルくらいのスピードで移動している。
 かって重油の中にあったエネルギーはディーゼルエンジンという十字架の中で死に、そしてそのエネルギーは私の中に生きてレール上をつっぱしっている。

 イエス・キリスト(の生命)が私の誇りであって、その他に誇るところが断じてあってはならない、という時、パウロのベニヤミンの後裔としての誇り、ローマ市民の誇り、使徒の誇り、独立伝道の誇りはどこへ行くのだろう。それらのすべてをキリストのものとして誇るのである。
 一万円札が一万円札としての誇りをもつ時、当然、その紙質や印刷やデザインや、そのすべてが一万円札としての誇りを担う。汚れてちぎれた一万円札でもやはり一万円札であることにまちがいないが、なおかついつまでもきれいな紙幣でありたい処に一万円札の自負心がある。神の子もさもあれ。
<「私にとっての禅」終わり>
  (1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-09-13 16:28 | 日岡だより

No.504 なりたい自分になれた私 2011.9.4

なりたい自分になれた私   

 『「なりたい自分」になる心理学』という本が出ていたので買ってみた。まだ読んでいないが、興味はありますね。
 尤も、私は既に「なりたかった自分」になっているので、その本のいう方法論には興味はなかった。ただ、世の多くの人の「なりたい自分」像に興味が有るだけだった。
 もともと、私は決して、評判の牧師先生になろうなどとは夢にも思わなかった。ただ、真のキリスト意識を内に頂いて、「我はキリストの者なり」という確信を得たかった。そして魂の底から聖別された神の人になりたかった。しかし、本当は私の内にキリスト様が宿り、私はイエス様によって全く義とされた、その確信を得たかったのだ。
 若き日、そんなことは可能だろうかと思った。そのような目標を心に抱いているのだが、どうにもならない、私の内面の品性の実質が全く低劣で、いかなる聖別目標を立てようも、基礎土台となれそうな堅実牢固な精神力が私には全然無い、歴史上の聖者の諸先生がたには及ぶべくもない。そのように思い、私自身の精神の基礎的劣弱さに私は驚き慌て、そして悲しんだ。
 この劣弱な精神構造の青年の魂にキリストの霊が注ぎ込まれる神秘さは喩えようもなく不可思議である。しかしこの神秘さが実現された。
         *
 新約聖書、特にパウロの信仰の特徴は義認論にある。イエス様が私たちの代わりに罪の重荷を負い給うて、十字架の上でお死に下さった。そのイエス様の死のお陰で、私の死ぬべき罪の代価の重荷が取り払われた。即ち、そこで私の罪は消え、私は新生するのである。
 ここの説明を聖書はこう説いている。イエス様は十字架の上で私たち人類の罪を背負って死なれた。その故にイエス様を信じる人たちはもう死ぬ必要はない。彼らの罪は既にイエス様の十字架の上で消滅した。このことを信じるなら、その事実がその信じた者たち(即ち、クリスチャンの一人一人)の上に実現する。彼らの罪は既に消えうせ、彼らの本籍は天国に移された。彼らは死ねば、即座に天国に移される。
 この十字架の上で我らの罪は消えたと信じる心の起こる時、彼らの罪はキリストによってあがなわれた、その贖罪の御業が成就した。この秘義を自分の事として信じる心の起こる一瞬、この瞬間がキリスト信仰の秘密である。
 この時の私たちの信仰の一事を神様は私の義と認めて下さるのである。
 この救の一事は父なる神と御子なるイエス・キリストと聖霊との協同の恵みの働きの結実である。これには如何なるサタンの働きも妨害なし得ないのです。
 神様に賛美、感謝! (釘宮生)



私にとっての禅   

     (二)

 <日岡だよりNo.503よりのつづき>
 私の値打ちは、私という人間の値打ちではなくて、私の肉を包むキリストの値打ちである(今度は内に住むといわず、外を包むという表現を試みる。パウロはこれを「イエス・キリストを衣よ」と言った。内在も外被も同一の真理の表現の差である)。
 一万円札を見よう。これは一枚いくらかしらぬが高くても一円か二円の紙きれである。この紙きれに一万円としての印刷がなされるトタンにこの紙キレは一万円の値打ができる。この紙と一万円の印刷とを切りはなすことはできない。一体のものである。

 私たちが赤い色を見た時、その視覚に応じる言葉を
 「アカ」
とよぶ。それを同じ機構で、英諸国民は
 「レッド」
とよび、フランス人は
 「ルージュ」
とよび、中国人は
 「紅(ホン)」
とでも呼ぶであろうか。
 視覚に映ずる感覚は同じであろうが(実はそれもあぶなっかしいのだが)、その感覚を言語に翻訳(?)する時、それぞれ自分なりの所有言語で翻訳する。

 神が私たちに迫る時、それが感動や畏怖や、英智をうむ。その内的衝動を私は神の純粋言語と呼びたい。その神の純粋言語をそれぞれ持っている思想言語に翻訳してしまう。たとえば、神の性質だが、最高の力とか根底的ささえとか、第一の原因であるとか、そういうものを直覚的に語る時、ある民族は、それを「はじめより在りし処のもの」、そして「万物を造るもの」として表現した。ある民族は「あしかびの如く成り出たもの」と呼び、且つ「万物を産むもの」と表現した。
 そういう表現の語法や語意に目をとめて、その差異を云々するのはアカと紅の差を論ずるに等しい。些かの表現の差のある事は勿論である。それに目をとめて、いろいろ考えることも学問上の研究としては正しい事もある。しかし、事実に即して生活するものにとり、その差は取るにたらない。
 <つづく>
 (1973.11「心に満つるより」No.2より)
 
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by hioka-wahaha | 2011-09-06 16:21 | 日岡だより