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No.503 あなたも夢を見ましょう 2011.8.28

あなたも夢を見ましょう   

 夢を見ない人はないでしょう。人間は夢を見る動物です。もっとも犬でも夢を見ているようです。その手の本を読んで研究したわけではありませんが。
 聖書では預言者たちはよく夢を見ていますし、イエス様のご両親もそのようですね。夢を通して神様が人に語りかける例は多いのです。
 夢とは潜在意識が睡眠中に人の脳裏に湧いてくるものでしょうが、潜在意識、いやもっと深い深層意識を通して神様が人に語りかけてくるのが預言の原則でしょう、つまり私の造語を使えば神層意識なのだが、その神層意識では人間の意識と神様の意識がツーツー(通々)になるのである。私がそのようになっているわけでは決してない。しかし、聖書の預言者たちは、そのような方たちであったはずである。
 そこで、皆さんに考えてほしいのは、皆さんの夢見を大切にするということです。「神様、今宵もあなたよりの夢を見させて下さる私にして下さい、と毎夜寝る前、よく祈ることです。
         *
 夢を見る事は、信仰生活を活発にし、実りあるものにするために、非常に大切です。みなさんの夢の中で、意識をもって自分の夢を自覚し、自分に夢を神様の世界に向けるように激励し、また夢の中から神様ご自身や、イエス様や、天使たちの御姿や御声が見聞きできるようにお祈りしなさい。高ぶらないで、謙って求めなさい。(威張って、こんなことを言ってるみたいですが、私にはそういう経験は全然ありません。ご質問がありましたら、イエス様ご自身に、天使様ご自身になさってくださいね。)
 霊的に夢を解釈する事は聖霊により出来ることです(創世記40:8)。《く》


二人のヨセフ   

 聖書の中に夢見る2人の人物が出て来ます。旧約聖書のヨセフ、新約聖書のヨセフです。
 今日の礼拝で、この2人のヨセフのお話をしたいと思い、目下(昨日の今日)勉強中です。旧約聖書のヨセフ伝は創世記第37章以下50章、創世記の最終までに載っています。どうぞお読み下さい。魅力的で、話題に富み、物語としても充分に楽しめます。
 新約聖書のヨセフは言うまでもなくイエス様のお父様です。ですから、書く材料は一杯あり、面白い原稿を書けそうですが、実は然らず(実はこの然らずという言葉は私のワープロには出て来ない。こんな言葉は時代遅れなんですね)、案外、このイエス様のお父さまの記事は少ない。伝説は多いでしょうが。
 イエス様のお父さまのヨセフさんは多分、地味で人前に出ることの遠慮がちな方だったのでしょうか。イエス様のお父さまということになって、当惑なさっている人物が目に見えるような気もします。しかし、イエス様の聖霊を頂いて素晴らしい生涯を過ごしなさったでしょうね。《く》


私にとっての禅   

    (二)

 <日岡だよりNo.502よりのつづき>
 パウロも「同一の主」という言葉を使っているが、それはローマ書で
「イエス・キリストはユダヤ人にもギリシャ人にも同一の主である」
と言っているところだ。
 時間の軸を縦に取って、どこに持っていっても同一の主、民族の軸を横にとってどこに行っても同一の主、その縦と横の軸の交わる十字の接点がこの私ではないか。この私の内にあって、「在りて在るもの」「みちみちている方」「私の内に私を貫き、私の上にある方」―――これがキリストだ。
 
 キリストを信じるとは、天上たかく雲の上にいますキリストさまをおがむ―――そんな事ではない。そういう絶対他者のキリスト教を信じると何かのマジナイで罪がコロッと消える―――それじゃ迷信もいいところだ。
 そうではない。私の内に充満し、ソーセージの肉じゃないが私という皮袋の中で張り切っているキリストの実力を信用する、それが信仰だ。

 私の娘は佐良直美が好きです。こづかいを貯めて、佐良直美のレコードを買います。
 「お前、そんなにそのレコード好きか」
 「うん、好きよ」
と申します。だからといって、あの合成樹脂か何かの黒いレコードが好きなのではありません。あのレコードに吹きこまれている佐良直美の音楽が好きなのです。あのレコードと佐良直美の音楽は一体でして、あのレコードには佐良直美の音楽が充満しています。
 佐良直美の音楽は愛すけれども、あの黒い平べったいレコードは不要だ、私は物質は嫌いだ、私は精神を愛すると言って、レコードを捨てて佐良直美の声のみ聞くことはできない。これが物心一体の原理です。
 それと同じような具合にもっと内面的に密着して、キリストは私の身心に一体的に住んでいるのです。いわば紙の裏と表であって、我が表なら、キリストが裏、表裏一体の一枚となって、キリストが私の内に住んでくれているのです。
 <つづく>
 (1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-08-30 16:44 | 日岡だより

No.502 奇跡が起きるのが宗教 2011.8.21

奇跡が起きるのが宗教    

 昨日、鳥栖のクロスロード・ゴスペルチャーチ(金本友孝牧師)で行われた「今、起きる奇跡」聖会に参加させて頂きました。
 講師はタンザニア・キリスト栄光教会のジョセファット・ガジマ牧師でした。アフリカの現地では死んだ人をも生き返らせたという報告のDVDを以前に見せていただいたことがあるので、非常に興味があったのです。
 私が参加した2回の集会の中では「死んだ人が生き返った」という内容に直接ふれることはなかったのですが(私の耳が遠いので聞き逃していましたらご容赦を)、
 しかし、その事実に裏打ちされた大胆で簡潔なメッセージと、それに呼応する熱気ある会衆、そして癒しと奇跡の現場に居合わせたことは非常に感謝でした。
 クロスロード・ゴスペルチャーチは定員オーバーの身動きのとれないほどの満員状態でしたが、立ち上がった人々の間を縫い、椅子の上を渡り歩いて全員に按手祈祷をされたのには驚きでした。
 ともあれ、私たちも「死んで生き返る」奇跡体験をする必要があります。(釘宮)


私にとっての禅   

        (二)
 
 <日岡だよりNo.499よりのつづき>
 前述の応真和尚の故事だが、「主人公!」と呼ぶ言葉が、近代小説の「主人公」などというように使われる言葉だもので、何となく手軽に考えられているむきがある。
 しかし、よく考えると(私は古典中国語の知識がないので自信はないが)、「―――公」とは多分に大げさな尊称であると思う。今風に翻訳すればどうなろう。多分「ご主人様!」だ。キリスト教風に言えば端的に「主よ!」「主様!」「御主よ!」。
 
  もし私たちが、わが内なるものに声をかけて
 「主よ!」
と呼ぶ時、内より
 「おう」
と答えるものは誰であろう。それは我らの内なるキリストである。

 「もはや我生きるにあらず、キリスト我が内に生きるなり」とパウロが告白せざるを得ない時、彼の内なるキリストがあまりに確実で且つ充実しきっているので、そう賛美せざるを得ないのだ。キリストとは他人事ではないので(私以上の)私の事なのだ。
 「もはや我生きるにあらず、キリスト我が内において生きるなり」という時、何だか私の心の中に小さくこじんまりとキリストが生きなさっている様子を想像する人が多くはないか。そしてこの私を殺さねばならぬ、この私を殺さねばならぬとこの聖句を律法的に聞いているのだ。
 そうではない。風船に水素がはち切れんばかりに充満する時、風船は自分の重みを失って水素のままの性質上、空に昇ってしまう。風船に水銀をつめてしまうと、今度は風船の性質を失い、水に沈んでしまう。同様に私の内にキリストが充満する時、私は死にキリストが生きる。私がわざわざ死ぬ必要はない。
 宗教や信仰の世界で、自分で死のう、自分で死のう、と力めば力むほど、自分が死ぬどころか「死にたい我」が生きてしまうという心の泣きどころを、少しでも本気で修養したことのある人は知っている筈である。
 
 パウロ文書を読むと、この内的キリストを、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、五十人の弟子たち等に現れた復活のキリストと同一視していたことが分る。さて、復活のキリストとは、そも何もの、肉体をもって復活したというイエスについて、あのイエスにあったキリストのリアリティが弟子たちに再び再現したということだ、というように八木氏は言っているが、これは正しいと思う。
 「我は在りて在るものなり」と言った神の実在が、イエスの内に「みちみちてあった」、その故にイエスは神の御徳をあますところなく表されたと言われる。その故にこそ、イエスは神の独り子と言われる。「独り」とは何も数の上の「一」ではなく、神の性質を全く表現しきっているということだ。太平洋の水をコップに一杯入れた時、このコップは太平洋のモデルだ。海は大きくこれは小さいが、しかし寸分もちがわぬ太平洋の水である。
 神の実在に充満されたものは神の独り子と呼ばれる。そしてその神の実在を同じように我が内にみたされたものはそこにキリストの復活をみる。正しく肉体をもって復活しているキリストを見る。私の肉体において、自己表現されているキリストの実在を。
 
 ヘブル書で、「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでもかわらない」という言葉がある。この箇所を原典でよむと
 「イエス・キリストは昨日も今日も世々にわたり同一の方である」
と読める。同一とは、「似ている」とか「等しい」とかでなく、全く同一のもの、かけがえのない唯一のものをさす。
 だから、創造の日のロゴスであるキリストも、アブラハムにあらわれたキリストも、ナザレのイエス・キリストも、マグダラのマリヤやペテロに現れた復活のキリストも、パウロの内に生きているキリストも、ただ一人の同一の主なのである。
 <つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-08-23 11:07 | 日岡だより

No.501 終戦・敗戦論とイエス様勝利論 2011.8.14

終戦・敗戦論とイエス様勝利論   

 かつての8月15日、66年前の対米戦争の最後、これを日本政府は終戦というが、決してそうではない、終戦ではない。敗戦である。
 終戦などという、こういう言葉の言いつくろいは、日本人の得意とする所、即ち、自己欺瞞である。だから。新聞等、ジャーナル関係に進言したい。終戦という言葉は使用停止せよ。敗戦と書けと。
 あの戦争を日本は初め「大東亜戦争」と呼んだ。アメリカはこれを何と呼んだか、「太平洋戦争」である。アメリカは太平洋を支配したかった。その意図は明らかである。日本とアメリカの考え方の規模の較差を見よ。
 日本がアメリカの先手を打って、アジア大陸に戦争をぶったつもり、それが日本の浅はかさ。アメリカの思う壷だ。
 日本は最初は連戦連勝、鼻をうごめかせて自慢しているうちに、アメリカは中国の蒋介石と手を握った。中国の広い国域を空軍で覆い尽くせる力量を持っているのはアメリカか、ソ連だけである。日本には到底その軍備はない。日本は奉天とか北京とか、拠点、拠点を支配するに過ぎない。
 日本の軍人には、その司令部そのものに、そうした総括的な視野が無かったのではないか。目の前の局地戦で勝っておれば、それで満足、「勝った。勝った」と喜んでいたのである。
 当時の日本が一番欲しかったのは、中国大陸では無くて、もっと南方の石油であったのであろう。そこで、イギリスの南方支配の拠点としてのシンガポールを手に入れたかった。やったことは当時の友好国シャムから、陸軍の兵隊に自転車を使わせて、(今で言えば笑いたくなるが)銀輪部隊と称してマライ半島を突破させ、シンガポール対岸まで行かせて、世界をアッと言わせたつもりであった。
 とは言え、先に言ったように、日本の視野は東アジアに過ぎない、しかしアメリカが見据えているのは太平洋である。世界で一番広い大海である。アメリカから太平洋を越えて、アジアを見据えている。アメリカの世界戦局がある。日本は東アジアだけを欲しがっている。残念だねえ。しかし、もうよい。今は、我々は何を望もうか。私は言う、宇宙である。

         *

 急に話の枠を広げて申し訳ないが、かつて昔の大正の頃のことですよ。皆は日本の繁栄を望んでいた。もっともだ、日本人だもの、日本の繁栄を期待する。しかし、我々はそれにもまして、世界人だろう? 私は言った。世界人類の平和を渇望しようではないか。そして、更に……。えっ、更に、また何をですか。何を求めるのですか?
 「そうだね……」、かつて内村先生は言った、「宇宙の完成を求めよう」と、これが大内村の言う所です。雄大ですね。内村先生らしい。
 「宇宙の完成を求める」って、何ですか。宇宙って、ねえ。この太陽系や銀河系宇宙じゃないんです。もっと、もっと大きい、大宇宙! 総宇宙! 何もかも飛び越えて、総広がりに広がっている無限の存在、この中には人間もいます。天使たちもいます。そして、驚くなかれ、イエス様も居られるのです。
 え? それなら、神様も? いいえ、神様は存在者ではありません。神様は凡てのものを存在させている方です。
 それなら、イエス様は? イエス様は神様です。神様がご自身の御都合で人間となられたお方、それがイエス様です。だからイエス様は人間の形を取っておられる間は人間と同じ存在者、しかし神様の存在にお帰りになると、霊なるお方となって、人間の形をお捨てになります。
 しかし、人間のお形を取っておられる間は、本当に人間以上に全く人間らしいお方です。イエス様は真実の神、そして真実の人間。どの人間よりも、正に本当の人間、理想的人間がイエス様です。この方が、全人類の罪を背負って地獄にお行きになった。イエス様は本当の霊的な死を体験なさった、十字架の神秘です。
 イエス様は間違って死んだのではないのです。父なる神様のご意志により、またイエス様ご自身のご意志により死んで地獄にまでお行きなったのです。
 そして死に勝利された。天国に凱旋なされた。それが復活のイエス様です。このイエス様を信じる私たちは如何なる罪からもあがなわれ、如何なる罪の刑罰からの救われるのです。
 イエス様はどんな地獄の底までも通って行かれ、勝利されて来た方だからです。このイエス様を信じる私たちは、どんなにか祝福された者であるか、それは実に感謝なことです。言い尽し得ません。《く》
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by hioka-wahaha | 2011-08-16 13:12 | 日岡だより

No.500 世の終わり(世界の完成)の日は近いか? 2011.8.7

世の終わり(世界の完成)の日は近いか?  

 本日の礼拝で開く聖書はヨハネの黙示録、その最終章の第22章です。いつもは牧師が一人で講壇でお読みすることが多いのですが、今日は皆さんと一緒で第1節から第21節までを、全員そろって朗読いたしましょう。
 全員で一斉にそろって読むのは、案外気もそぞろで落ち着かず、折角の聖書の文章の意味がよく把握出来ないまま、読み通してしまって、それで全員一緒に読んでしまったことになる。なんとなく聖書朗読の意義が確かめられないで不満が残ることがあります。今日は、そこで、ゆっくりと意味を良く味わいながら、読み通してしまう体験を持ちましょう。
 聖書の文章を読む時、その一句一句の意味を良く味わって心で印象を確かめながら、次の一句に進んで行く、その静かな朗誦進行の味わいを心に納めて下さい。
 そのしばらくの経験は、前もっての想像に勝って深い印象を皆さんの心に残すと思います。普段の聖書の拝読の仕方が、あまりに忙しく、折角味わい得べき聖なる印象を掃き捨ててしまっている事の残念さに気づくでしょう。勿体無いことです。
 特に2人で、3人で、又もっと多くの人数でこの聖書朗誦の営みを続けますと、聖書の持っている聖霊の息づかいが事のほか深く感じられます、この席に列する方々は、その恵み豊かさに驚かれるはずです。
 牧師による聖書講義も良いですが、そうした先生抜きの信徒さん皆さんがたの聖書朗読による聖霊さまの息吹きに触れる時、それは聖書に接する際の最大の恩恵だと言いたいと思います。この恩恵をこの際、豊かに味わいたいものです。
         *
 さて、本日はそのようにして皆さんで聖霊さまの息吹に触れることを体験いたしましょう。
 そのようにして改めて、集会を始めると、いつもとは違う集会の雰囲気が起こってきます。何もそうした聖会らしい雰囲気を期待するのではありませんが、皆さんで会衆一同祈っていますと、不思議に聖霊さまの働きが襲ってきます。それは人が人の工夫で作り上げるのではありません。神様の聖霊がそのような働きを私たちの中に起こしてくださるのですね。
 聖霊による感動は私たちを変えます。なんだか大きな、こね鉢の中に溶けこまされ混ぜ合わされ、新しい味わいと香りを作り上げてゆき、新しいお料理を発見させられるような興奮を覚えるのです。確かに発見です。新しい人生の発見です。これまで感じたことのない人生の感動です。
 信仰とは新しい人生の感動です。その発見です。今まで、感じたことのない生き生きとした人生です。
 目が醒める思いです。そよ風が吹いて、初夏の森の香りを誘って来るように、聖霊の風が吹いて天国の香りを連れなってくるのです。まさに天国です。
 肌を突き抜け、肉体を通して、神様の霊気は精神の中心を浸透します。全身は奮(ふる)い戦(おのの)くように燃え上がります。それのみか、周辺を動かし、変化させます。空気は熱くなり、地面さえも火の如くなり、人は巨人のごとく、刃を持てる者の如く、獅子の如く咆哮して周囲を畏怖させる。これは人が聖霊の力を得て、サタンがこれを恐れ、慌ただしくあらぬ方に逃げ行く様に似ています。
 これこそ信仰により人が変わり、悪魔が恐れて退散逃亡する姿です。まさに人類の世に勝利する預言に外なりません。
現世は人類が悪魔に散々にもてあそばれ行く行くは世は滅びるばかりと人類に誤解を与えていますが、しかし全能の神の御業は違います。神は最後に勝利します。ヨハネの黙示録の第21章がいよいよ始まるのです。
 わたしまた、新しい天と地とを見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。また聖なる都、新しいエルサレムが、天のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとから出て、天から下って来るのを見た、云々。こうして古き世は消え去り新しい天と地がやって来るのであります。《く》
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by hioka-wahaha | 2011-08-09 13:17 | 日岡だより

No.499 国井一男君を天に送る 2011.7.31

国井一男君を天に送る   

 教会の週報の第一頁だから、やはり国井一男兄と書くべきかなあと思ったが、どうもなじめない。やはり国井一男君を天に送ると書いてしまった。一昨年12月2日に細君のキノさんを天に送って約1年半経っている。型破りのクリスチャン夫婦だったから、おどけて書けば書きやすいのだが、真面目に書こうとすると困難する。
 酒場で一杯飲んで、キリスト教の伝道をさせれば、この人にかなう人はない。まあ、そんな場面を私も見たことは無いのだが、想像すると場面は自然に私の脳裏に湧いて来る。
 一度、彼が市内のかなり大きい病院に入院したことがあって、私は彼を見舞おうとして行ったのだが、なんと病院に入ったとたん、玄関のすぐそばの待合室に患者さんたちが6、7人集まっていて、一人の男が何か盛んにしゃべっている。よく見ると、そのしゃべっているのが、この国井一男君である。
 聞いてみるとキリスト教の伝道をしているのだ、私はビックリして聞いていたが、なんとも言えない奇妙な、そして巧みな、伝道説教である。私には、こんな伝道説教は如何に努力しても出来ないだろう。
 もちろん、彼もまだ教会に来始めて半年も経っていなかっただろう。整ったキリスト教の信仰の紹介をしていたわけではない。ただ、教会はいい所です。みなさん、いらっしゃい、という簡単なことをしゃべっていたに過ぎない。しかし、その初めて聞いてくれる初見の人たちに臆することなく、楽しく聞いてもらっている彼の素朴な愛らしさに驚嘆したのである。
 決して、上手な話しぶりではない。あくまで素人っぽい話しである。しかし、これが終生彼が見せてくれた、彼の魅力である。
         *
 この国井一男兄、ここ数年は介護施設のお世話になっていたが、先日7月27日、突然体に不調を来たし、国立医療センターに運び込まれ、救急のベッドで召されて行ったのです。私が状況を聞いて、急いで医療センターに駈けつけた時には、午前9時半頃だったでしょうか。すでに心肺は停止していましたが、私たちが行くまで医師は待っていてくれました。
 私は、この彼の最後の時に居合わせていることに感動しました。主様に感謝しました。キリスト教の伝道者がよくやるように、言葉で話して聞かせて、納得させて、信仰に導くタイプには対応しにくい国井君です。
 そうでなく、人間対人間の友情の中で意志を通じ合い、理解し合い、理屈抜きで、信仰を通じ合う仲間となる。この釘宮義人と国井一男と共にイエス様を信じ合う仲間になる、その時が来ていると感じたのです。 今更と思うけれども、いいえ今更です。彼にしっかり福音を語って置きたい。私は心を込め、病院の安置室で看護師さんの聞いている所で、最後のメッセージを語りました。
 彼の耳に近づけて大きな声で語ります。人は死に直面して耳の聴力だけが最後まで残っていものだと聞きます。ドイツの田舎では今でも死人の耳を開いて、その耳に向って大きな声で「おおい、天国へ行くんだぞう。間違っても地獄の道を行くなあ」と叫ぶんだそうです。私はその話を聞いて以来、亡くなった方の、特に信仰がはっきりしなかった人に向かっては、よくこの地上最後の天国宣言を叫んだものです。
 今回も我が愛する国井一男君のためにも同様にこの叫び声を浴びせました。彼の魂が嬉々として天に向かって昇って行くことを魂の目で見、また祈りました。私自身、私の心にそのことを、しっかりと語りかけ、また祈ったものです。
 彼、国井一男兄弟の召天を見送りつつ、かの天上にて待っている彼の妻、国井キノさんへの伝言を委ねつつ、私の天国への憧憬の目を閉じたのでした。(釘宮)


私にとっての禅   

         (二)
 
 <先週よりのつづき>
 似た話では、昭和初期の話で、実力があるくせに小心の為にその力を発揮できぬ大波という力士の為にある有名な禅僧が指導した。
 「お前の名前は何という。」
 「へェ、大波と申します。」
 「そうじゃろ、これからはお前が大波になった気でいるんじゃ。ザブーンと沖から打ちよせて、岩でも舟でもひっくりかえしてしまう大波じゃ。」
 そういって大波を坐らせ、冥想させて、自分が大波になったような気分になるよう指導した。一夜あけた大波は人が違ったように雄々しい力士になり、以後バッタバッタと連日相手をなぎたおしたという。
 これはまァ、ウソでもあるまいし、それ自体結構な話で、一応の名僧知識だもの、そのくらいの指導ができなくてはなるまいと思う。しかし、それが禅の真髄のように思われては達磨も臨済も泣こう。
 <つづく>
(1973.11「心に満つるより」No.2より)
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by hioka-wahaha | 2011-08-02 15:00 | 日岡だより