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No.490 その名は主、そのみ前に喜び踊れ 2011.5.29

その名は主、そのみ前に喜び踊れ  

 「その名は主、そのみ前に喜び踊れ」
 詩篇68篇4節下のみ言葉です。
 このみ言葉のすぐ前の冒頭の1節、2節を拝読すると、「神よ、立ち上がって、その敵を散らし(中略)、悪しき者を神の前に滅ぼしてください」とあります。
 私たちの人生で困難な時というか、悲境ともいうべき時が訪れる時がありましょう。そうした状況下に置かれた時、私たちの祈るべき好見本が以上の聖句です。
 もしあなたが悲運、逆境の中におられるとしたら、この祈りを口にして下さい。少し言葉を変えました。
 「神よ、立ち上がって、この敵を散らし(中略)、この悪しき者を神の前に滅ぼしてください」
          *
 実は先日、小生、大いに憂欝な時がありました。主日礼拝の説教準備をしようにも、心が不安定で落ち着きません。こういう時、牧師は有り難いですね、すぐ側に教会の会堂がありますから。私はすぐ教会に行きます。そして誰はばからず大きな声で、
 「神よ、立ち上がって、この敵を散らし(中略)、この悪しき者を神の前に滅ぼしてください」
 と、このみ言葉を叫びました。20遍ほど叫びました。こうして私の心を暗くし、憂欝にさせ、説教準備を阻害しているサタンに向かって反撃したのです。
 そうして、私の流儀はその後で、「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と呵々大笑するのです。口を大きく開けて、手足を振って、小踊りしながら、「ハレルヤー、バンザーイ」と連呼するのです。
 こうすると憂欝な消極的気分は一掃されています。私はそして、床(ゆか)にひれ伏して神様に感謝します。
 皆さんがよく喜んで下さる私の小冊子に「笑えば必ず幸福になる」というのがありますが、みなさんも、このようにして愉快な、大胆な、周囲の人をも笑いに巻き込むような陽気満々の人になってください。
 こうして愉快な気分になると、脳の生理に非常に良い影響を与えることは、医学的に立証済みです。論理を企てる時、奇抜なヒントを見つけ出してくれるのは、こうした時です。
 特に小さい会議で談論風発している時、出席者が軒並に良い提案を出してくれて、司会者は有頂天になることがありますが、そうした委員会を持てるようになると、会社や団体や組合など、生き生きした集団になって来ますね。
 私ども教会も、婦人会や、それぞれの諸会合、仲良く、元気の良い、運営、活動をして下さるよう、期待しています。《く》


信仰生活の鍵  
  
 信仰生活を実りあらしめるには、祈って心に期したことは、火が降っても矢が降っても後ずさりしないという不屈の態度がいる。そういう態度を英雄的百%の堅持に要求するのは、我々凡人には無理なことだ。
 しかし、それをまっとうに覚悟して立ち向かうとき、あまりに気弱で怠惰で飽きっぽくてダメなおのれ自身が丸見えになる。その故に、みだりに安易な祈祷はできにくくなるし、且つ祈ったことはあくまで神との約束ごととして、為すべきは果たし、待つべきは待つという気合の入った信仰生活になる。そういう信仰生活がきびきびした、そして神の応験をいちじるしく体得する人生の鍵なのである。(1972.7.14「大分通信」より)

         
二つの切り抜き  

 今日、新聞をみて二つの切り抜きを得た(一九七二・七・四)。その一つは、朝日の夕刊で「標的」欄に紹介されていたある雑誌の文章、いわく
『「スパイや裏切りを完全に締め出す方法などそもそもあり得ないというのが僕の考えだ。そうである以上、それらが意味を持たなくなってしまうような新しい組織の組み方、新しい活動のスタイルを創り出すより他に、この問題を根本的に解決する方法はありえないだろう。そうしなかったら〈革命的警戒心〉が万人に対する万人のスパイ状態を生み出してしまうことは、ほとんど論理的必然なのだ」(「安保拒否二人委員会の通信」四号)』
 かつて、ガンジーが反英運動のプログラムをすべて事前に英国側の官憲に告げ、しかもその通りに実行した。その故に、当時のインド総督府は秘密警察を必要とせずガンジー側の通告を受け入れるだけで情報入手は事足りたと言われる。この開明な活動方式には、驚嘆せざるを得ない。革命的運動方式の真の人間らしい型を模索すると、現代でもガンジー方式に行かざるを得ないであろう。その事を前掲のキリヌキは考えさせる。
 二つめの切り抜きは、毎日の夕刊で
『インドの中北部の荒野、山峡を馬やラクダ、時にはジープで駆け抜ける“ダコイツ”(義賊団)が“ガンジー主義”に共鳴して帰順した。アラビアン・ナイトの盗賊を地で行くダコイツの歴史は古い。ムガール王朝時代からともいわれ、英植民地時代はもちろん、独立後もさして衰えを見せなかった。権力と腐敗に立ち向かうのが彼らの使命だったからだ。一九五〇年代、民衆からロビンフッドと親しまれたマン・シンやその右腕のラカンと美人の妻プトリはやがて討伐隊との銃撃戦で殺されたが、六〇年代半ばごろからはムラト・シンのもとに再編成され、三州にかけての勢力は四百人以上とも言われた。腐敗地主や権力をくじくため人殺しなども朝飯前だが、奪った金品は必ず貧しい民衆に分かち与えた。そのダコイツの巣窟へ「正義は暴力からは生まれない」と、単身で乗り込んだのが故マハトマ・ガンジーの使徒ビノバ・ベハーブ氏(七二)で、今から十二年前。』
 ガンジーの捨て身の「愛」は今もインドで生きている。これは、涙のこぼれるような嬉しいニュースではないか。
 クリスチャンの凡て、真理に目ざめた人の凡てが、かく捨て身の愛に生くれば、地球上に必ず平和と幸福とは来る。(1972.7.14「大分通信」より)
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by hioka-wahaha | 2011-05-31 13:56 | 日岡だより

No.489 悪魔と戦おう、全き勝利を得よ 2011.5.22

悪魔と戦おう、全き勝利を得よ  

 私どもクリスチャンは、この世においては多くの戦いを体験しますが、その本当の敵は悪霊どもです。
 その戦いは千差万別ですが、意図的な敵にしろ、知らずして敵対して来る世の勢力にしろ、その背後にいる本当の敵は悪魔です。
 悪魔とは悪霊どもの頭(かしら)であります。彼は父なる神様に背き、御子なるイエス様に敵対する親玉です。
 悪霊どもはこの悪魔から、その悪しき力と技量を分けて貰い、それを思う存分に悪用して神の僕どもに敵対するのです。
 私どもイエス様の僕たちは、この世にあって様々な戦いを経験しますが、すべてそれは悪魔の子分どもとの戦いです。彼らの背後には悪魔、その名はサタン、こいつがいます。彼らは強力です。また我々をあしらうのに巧みです。あの手、この手と使い分けます。

 イエス様が世に立ち給う時、ご謙虚にもバプテスマのヨハネからバプテスマを受けようとなさいました。ヨハネは驚いて「私こそ、あなたからバプテスマを受くべき者でありませんか、どうしてあなたが私のところにお出でになるのですか」と反問しています。尤もなことです。
 その時、イエス様は「今は許してくれ。一応、順序を追おうではないか。まず、君からバプテスマを受けたいのだよ」とおっしゃるのです。
 ヨハネは知っていました。「私より後に来る方は、私より力ある方です。私は水でバプテスマを施すが、その方は聖霊と火とにてバプテスマを施すでしょう」とかねてより言っていました。
 でも、まだまだ、その時のヨハネの知識は半可通だったと思います。本当に聖霊様が火のごとく、主の弟子たちを襲う時が来ます。それはイエス様が十字架の苦しみを通り抜け、天に帰り、御父の御もとより、改めて聖霊様となられて弟子たちの魂を占領する時です。
 魂というものは、その人の「持ち物」ではないのです。魂とは、その人自身です。だから正確に言えば、真の聖霊のバプテスマとは「聖霊様が火となって、その人自身にとどまり、かつ彼自身を燃やし続けることです」と言えましょうか。
         *
 聖霊様とはイエス様の別名です。また父なる神様ご自身です。父なる神様が地上に降り立って人の姿を取りたもうた時、その方がイエス様です。そのイエス様が聖霊の火となって、私たち自身を訪れて下さる時、一大事変が起こります。私たちの中に神様が生きて下さるのです。
 ある人が、この私の言葉を聞いて驚いて叫びました。「そんなことって、あるでしょうか。そんなことが起こったら勿体無くって、私は死んでしまいます」。
 私は答えました。「そうです。その時、誰でも、みんな死んでしまいます」。
 キリストにあって死ぬことこそ、本当に生きることです。このことが思考の操作によらず、あなたの内に事実として実現する時が来ます。案外ですが、簡単に起こるのです。一瞬です。見事です。
 あなたの努力では起こりません。イエス様を見上げるだけです。声を上げなくてもよい。心の中で「イエス様あ~」と御名をお呼びして下さい。
 自力で死ぬのではありません。ただ、イエス様を見上げて、心の中で「イエス様あ~」と御名をお呼びするだけです。イエス様を見上げれば、見上げるほど、御名をお呼びすれば、お呼びするほど、あなたは無くなるのです。死ぬのです。そしてあなたの中にイエス様が生れて、父なる神様を拝しているのです。ああ!
 信仰とは努力ではない。あこがれです。恋愛です。信仰とは神様に恋い焦がれることです。神様は霊的存在で目に見えません。もっと身近に見たいでしょう。それがイエス様です。イエス様は見える方です。イエス様を心の目で拝して、「イエス様あ~」と御名前をお呼びください。それが信仰です(神学は後回し)。
 イエス様のお名前をお呼びすれば、お呼びするほど、イエス様は私たちに近く迫って来て下さいます。
 「イエス様あ~」と叫びましょう。イエス様はなおも私どもに近づき、私どもの中に入って下さり、またとどまって下さいます。そして私たちは世のすべてに、その背後の悪魔に対して全き勝利を得るのです。《く》


入れ物がない  

  入れ物がない 両手で受ける   放 哉

 私は、旅行で小豆島の沖をとおる時、必ずこの句を思いだして涙を感じる。私は、放哉と同じように一燈園にとび込んで、しばらく紺木綿の筒袖姿になった事があるので、ひとしお感慨が深い。「入れ物が無い……」そういう人生がよい。そういう信仰がよい。総務部長、そういう入れ物になにがしの月給がはいる。キリスト教、そういう入れ物に、神学、信条、その他いろいろの思想がつまっている。
 私は、信仰の世界で一個の無政府主義者である。無国家主義者である。入れ物が無い……ということである。
 私の信仰は、主観的にはキリスト教を一寸たりともはみだしていると思っていないが、キリスト教界はこれを認めまい。私もまたそれを認めてもらおうとは思わない。私に共鳴し、私と信仰を共にする人は、決して多くは無かろうと思う。しかし、一個半個の人物が私のあとを継いでくだされば、私は幸甚である。その幸福を、今あらためて、主に祈りたいと思う。 (1972.12.6「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2011-05-24 14:10 | 日岡だより

No.488 なぜこんなことが 2011.5.15

なぜこんなことが

 この度の大震災について、ある日本人少女がテレビを通してローマ法王に質問しました。「なぜこんな悲しいことになるの」と。
 それに対してローマ法王は「私も『なぜ』と同じ思いを持っています。答えはわからないが、無実のキリストの苦しみを通して来られた神はいつも私たちとともにいます」というふうに答えているそうです。新聞記事に載った抜粋された言葉なので確かなことはわかりませんし、7才の少女に直接答えたせいもあるのでしょうか、何だかあいまいな答えのようで残念です。
 なぜこのことがあの人ではなく、私に起きるのか、という問いにすりかえてしまっているように思います。しかし、少女が聞きたかったのは、なぜ世の中にこのような悲惨なことが起きるのか、という誰しもが考える命題ではないでしょうか。
 聖書を開きますと、地震はしばしば神様からの裁きか、警告か、もしくは親切な助言です。なぜこんな悲しいことが起きるのか。私に言わせれば、答えは簡単です。人間の始祖、アダムが罪を犯したからです。その罪の報いが、今回の地震どころじゃない、ノアの洪水のような大悲惨事以後、次々と地球上にはひどい事が起こっているのです。(ノアの洪水は全世界を水で覆い尽くした地球の歴史上、ただ一回の大悲惨事でした。)

 さて聖書の年代に従いますと、アダム以来、イエス様まで4千年です。イエス様から現代まで2011年です。計算するとアダムから現代まで6011年ですね。7という数は聖書では神聖数です、かつ完全数です。この6千年代が尽き、歴史が7千年にいたるとき、黙示録の地球が滅びるという預言が成就するはずです。
 我々は最後の千年期を迎えている訳です。まだ後、989年控えているのですから、あわてる事はなさそうですが、聖書的年代感覚ではみれば、歴史も押し迫っているという感じです。
 さあ、我々は人類の歴史の最後の舞台に立っていることの神秘さ、厳粛さ、際どさ、を感じとりましょう。そして、大いなる主の御顔を仰いで、どんな悲劇的な地球規模の災害からあなたがたは救われるよう、主の憐れみを乞い願いましょう。《く》


人は永遠の求道者  

 「信仰」というと、熱してのぼせ上ったような心理状態を推測する人が多かろう。
 そういう「信仰」もあるかもしれないが、しかし、あくまでクールな醒めきった「信仰」の方が、更に深い境地なのだと思われる。
         *
 救いがたいのは「信仰」を利得の道と心得ている人たちです。
 しかし、そういう低い境地の人をこそ探し求めるのが神の愛です。
 その神の愛になれて、いつまでも物質的信心生活になじむ人に、神は時折カツをくれる。
         *
 最初の回心で、何だか卒業したみたいになって、信仰の進歩を見せぬ人がある。そして自分の「信仰」にとらわれて、そこから抜けだせない人がある。
 かっての信仰体験が、新しい信仰の仇になる人が多い。それをパリサイ人という。
         *
 科学、科学と言って、宗教をバカにするのは、科学迷信である。
 信仰、信仰と言って、科学をかえり見ぬのは狂信である。
 科学的に、宗教を心霊学や心理学に結びつけて安心しているのは似非科学者である。
 科学の科は、百科事典の科。科学とは、分析・分類の学である。宗教は一括直覚の体験である。肺活量をしらべるのは科学であるが、山頂に立って深呼吸する空気のうまさは宗教である。
         *
 信仰は真の求道心をおこさせる。信仰に入るまでの人を求道者というのは間違いである。あれは溺れかけている人が救を求めている状態で、求救者である。泥水から救われ一応地面に上ってから、今度は道を求める。
 人は永遠の求道者である。
 (1972.7.22「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)



いい勉強だった  

 生活汚物と工場廃液が川や海をよごしています。
 同じように、人の吐く息や思いが宇宙をよごしているのですヨ。
 そして、歴史の深淵には全時代の人類の悲しみが堆積しているような気がします。
 本当の、魂のクリスマスを待ち望むのは、全人類の声でしょう。
          *
 昭和四十八年十二月三日夜、これを書いている。企業合併で、私の経営していた光研印刷(株)を事業閉鎖して、あたらしく大分県印刷センター協業組合をつくった。その新工場のオープンが十月一日で、私はその総務部長の席についた。今、オープン以来やっと二ヶ月たって、少々おちついて来た。長く休んでいたこの通信をぼつぼつ再開しようと思う。
        *
 私に新しい人生がめぐってきていることを感じる。十年間、チャチな企業であったが、一応経営者の真似事のようなことをしてきた。いい勉強であった。この間、私の信仰はキリスト教のわくをはみだして、東洋風な「一即多」の心境に達したように思う。物を持ち、金をもうけ、人を使う生涯には、ぼつぼつお別れの時が来ているように思う。それが今だ。
 (1972.12.6「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)

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by hioka-wahaha | 2011-05-17 15:11 | 日岡だより

No.487 母の日に祝福あれ 2011.5.8

母の日に祝福あれ

 今日は母の日です。5月第2週の日曜日です。いつ頃のことか忘れましたが、アメリカに起こった習慣です。日本で習慣化したのは戦後のことでしょうね。私は子供の時、教会の日曜学校で聞いた記憶があります。
 「母の日なんていうけど、父の日というのは無いのか」とあるお父さんがつぶやいたら、「だって、うちでは毎日がお父さんの日やもん」と言い返されたという笑話もありました。
 ただし、これは戦前の話。今ではお父さんの影も薄くなりました。尤もクリスチャンの家庭では、そうあってほしくないですね。クリスチャンの家庭では、お父さんは一家の長として、毅然たる存在、家族の皆さんから尊敬される人であってほしいです。
 「なんじ、父と母を敬え」というのは、旧約聖書の十戒の第五戒ですが、「敬う」という言葉は、心と形を示しています。心では父母にたいして「情愛」の思いを持つのは当然のことですが、また「尊敬」の形も忘れないこと。
 老人が老いてきますと、すべてが愚かしく見えるようになることがあります。この時、尊敬の言葉、態度を忘れないこと、これは十分注意してください。
 私はこの点では、つくづく後悔しました。「どうせ俺のおふくろやもの」と親しさのあまり軽く考えて、病床の母にいい加減な言葉や態度で接したことを、今でも申し訳なくて「母ちゃん、ごめんね」と謝っています。《く》


人はいつも喜んで居れるか  

  「あなたがたは、常に主にあって喜
   びなさい。もう一度、私は言うが、
   喜びなさい。」(ピリピ4:4)

 「あなたがた」という言葉はギリシャ語では、わざわざ使わなくても意味は通じるので、「あなたがた」と強調していることが感じられる。「常に」という言葉は、ある翻訳では「どんな時でも」と意訳している。親切な訳である。「主にあって」の「あって」は。英語で言えば、in である。「主の内にあって」と訳せる言葉である。
 「喜びなさい」は、端的に「喜べ」と訳すほうが良い。まして屡々「喜んでいなさい」と訳してあることあるが、これは拙い。「喜んでいる」という人の態度は「ニコニコ平安に喜んで居れる」姿を表しているが、ここで「喜びなさい」という命令語は普通の人間心理では不可能な命令語である。人は他人から「喜べ」と言われて単純にすぐ喜べるようなものではない。
 「美味しいものを食べさせる」とか、「お気に入りの友人を連れて来る」とか、喜べるような条件や環境を備えてあげなければ喜ぶ事は出来ない。ところが、この聖書の個所では「環境も条件も」そろえてあげなくて、たとえばお菓子もお寿司も与えなくて「おいしいかね」と言うようなものである。
 しかしここでパウロは主の臨在の伴う信仰の賜物を与える時、喜びが湧いていることは分かっているから、「さあ、遠慮せずに大いに喜びなさい」と命じているのである。つまり「喜びを大胆に表現しなさい」と命じているのだと読むのも面白い。
 心に喜びが溢れていれば、表情ににこやかな笑いが生まれるのは当然だが、それをもっと、更に大きく手足も踊るかのような身振りで表現するのは周囲の人々に豊かな共感を呼び起こす。
 主より信仰を頂くと、その人の心には、おのずから喜びが湧く。喜びが湧けば、自然に笑いの表情が起こり、この生理的機能が繰り返されると、人間の心には更に幸福感が浸透する。
 これが私が「笑えば必ず幸福になる」という法則を打ち出した理由である。だれも内心知っていることでありながら、それをあたかも定理のごとく言い出せ得なかったのは不思議であるが、その虚をついて私がわがもの顔に「笑えば幸福」の定理を打ち出したのである。実は昔から人々は知っていたことだ。日本の地方に、よく「笑い講」という風習があったのが、それである。
 この定理は「笑えば必ず幸福になる」という小冊子の中で例を上げたように、子供たちが「泣き真似」をしていると、いつの間にか本物の「泣きじゃくり」になるという面白い現象に見られる、ごく普通のことなのである。我々大人も子供の時のことを思い起こせば誰にも記憶のあることであろう。
 そこで使徒の言う、「喜びをなせ」という言葉を私流に言い直すと、子供の泣き真似ではないが、あなたが幸福になろうと思ったら、「笑い真似をしなさい」と言うのである。心では泣きたくなるように辛い時でも、腹が立ってカンシャクが起こりそうな時でも、「笑う真似をしなさい」と言うのです。
 そうです、口を大きく開けて、大きな声でワッハッハッハと、手を振り、足を振って、笑うんです。そうすると、初めは「何をしているんだ。バカバカしい」と阿呆らしくなるでしょうが、一生懸命、真剣に、大分方言で言えば、シラシンケンに笑って下さい。そうすると、次第にあなたの心に喜び、楽しい気分が湧いてきます。
 これを鏡の前でなさると良いでしょうねえ。面白半分でやってよいのです。面白、可笑しく、マンザイをやっている気分で続けてください。次第に気分転換が起こります。愉快になります。
 これは、やってみれば誰にでも出来ます。単純です。あなたにも出来ます。人生を愉快に幸福に過ごす秘法です。至って簡単な便利な方法です。
 ここで改めてもう一度、提言します。みなさん。「笑えば必ず幸福になる」※のです。《く》

※このタイトルで小冊子があります。内容は当教会のホームページで無料で読む事が出来ます。印刷したものをご希望のかたは、キリストの福音大分教会あて、お申込み下さい(1冊100円送料別)。
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by hioka-wahaha | 2011-05-10 13:57 | 日岡だより

No.486 祈りのコツ 2011.5.1

祈りのコツ 

 「祈りとは神様との会話である」とは、よく言われますが、それはともかく、一般的には、祈りとは何かと問われれば、多くの方にとってはたぶん「神様への訴え」、もしくは「願い」あるいは「求め」なのではないでしょうか。
 日本語の「祈り」という言葉そのものが、正にそういう音韻を持っていると私は思っています。
 「イノリ」のイは強調を表す『イ』でして、「息を止めて、腹に力をいれて意気込む感じの『イ』です」。「イーッ」と気ばっている感じですね。
 それに続く「ノル」は宣言の宣、『宣(ノ)ル』です。神社で神主さんが「祝詞」(ノリト)をあげると言うとき、神様に向けて意図する言葉を「宣言」している、そういう感じです。息をこめて『宣(ノ)ル』という言葉なのです。
 そこで大和(やまと)言葉で考えれば、「宣(ノ)ル」は「乗る」でもあります、言葉に意志を「乗せる」のです。ですから、神主さんが神社で「祝詞」を上げる時、言葉以上の言葉、つまり意図(志・こころざし)を言葉に乗せて、神様に申し上げている、それが神社での「祝詞」(ノリト)なのです。
 以上は、日本の神社での「祝詞」を例にして、祈りという言葉を大和言葉風に読んでみたのです。そうすると、日本語の「イノル」という言葉は、やや強い意志をもって、その心を言葉に乗せて、神様に申し上げるという言葉なのだと、理解してみたわけです。
 これは、私たちクリスチャンが神様に向かって祈る時の心がけの参考になると思います。意志を強めて神様の前に宣言するという意気込みで祈りなさいと、聖書は私たちに告げているのだと言うわけです。
 このような祈りは、どちらかというとセッカチな談判風な会話です。こういう祈りに対しては神様からのお答えは滅多に聞けません。私たちの方から言いっ放しです。こういう祈りに対しては、神様からのお答えは、言葉ではなく、事実としての応答がある。つまり病気の癒しをお祈りしたら、さっそく祈りが答えられて即座に熱が引き、痛みが無くなったとか、資金が不足して困っている時、専務が「社長、祈りましょう」と気を取り直して、二人で床に平伏して祈ったとき、「あしたまで待て」と二人とも同時に、お声を聞いた。二人は顔を見合わせて「ハレルヤ」と叫んだ。その翌日、てんで当てにしていなかった得意先からドンぴしゃりの金額の送金が届いたなどと言うこと、よくあることです。
 もっと素晴らしいのは、祈っている時、突然、心の底に強く聖霊様の響きがグンと来て、確信が湧きます。「大丈夫だ!」。思わず立ち上がって叫ばされます。
 いつもだったら、行くのも億劫な気分の重くなる先方の社長さんの前ですが、その時は気後れもなく、さっさと行けるんです。既に社長さんの机上には承諾の書類が出来上がっている。そういうことが起こりますよ。
         *
 さて、冒頭の言葉に帰ります。「祈りは神様との会話である」、よく言われる言葉です。正に、正しいのです。
 ところで、この会話としての祈りは、穏やかな談話スタイルです。いろりの前で火にあたりながら、あれこれと思うままに話している。あるいは海辺に行って、かなたの水平線を見ながら、会話を楽しんでいる。そういう感じで会話を進めて行く。そんな祈りで神様とのお相手をさせて頂きませんか、これは楽しいですよ。
 或いは、神様には大変失礼な感じですけれども、私のように年齢も老いて来ますと、朝などは意識は半分醒めているのに夢を見ながら、その夢の中で神様と会話式の祈りをしている、というようなことも多いのです。
 「神様、今日は誰か訪問したいのですけれども……」、こう祈りはじめると、「そうかい、松本君がよいと思うね」
 などと、お答えを感じるかも知れません。そのまま、神様との会話を続けます。「そうですね、松本君は最近、神経衰弱の感じです」
 「彼はねえ、最近、奥さんのお母さんが同居しているでしょう。あのお母さんに気を使い過ぎているんだよ。思い切って大胆に楽しく話しかけてみるように勧めてご覧」
 こうして神様との会話が始まるかもしれません。
 会話式祈りは、声を出さないで。心の中だけで。ひとり言のように、つぶやくように、延々と祈りを続けると上手く行くと思いますよ。
 朝、床の中で目が醒めてウトウトしている感じの時、気がついたら、この祈りの練習をしてみてください。会話式祈りの良い練習になります。
 少し、遊びめいた祈りの練習法ですが、試みてみてください。《く》


ギリギリ一杯 

私は、説教の中で、「私の話はかば焼のにおいをかがしてあげるだけで、本当のかば焼を食わせてあげ得ないけれども――――――」と言ったら、あとでA姉いわく、「先生ちがいます。私は今かば焼を食べていますと言って手を上げたかったくらいです」と。こういって下されば、説教者もミョウリにつきる。いつ死んでもいい。私は今の私の説教が立派な説教だとは夢にも思わないが、私にとっては最高の説教であると思っている。私に与えられた神のめぐみがギリギリ一杯語られている。これ以上うまいことを言えばそれは偽善。これ以下を言えば不忠実。語られる内容を聞くのでなく、語らせるものと語らされているものとの間柄に気付いて主を崇めてほしい。
最近の私の説教、これは私の遺言に等しい。(一九七二・九・三 夜)
 (1972.9.6「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)


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by hioka-wahaha | 2011-05-03 14:40 | 日岡だより