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No.485 復活の恵み 2011.4.24

復活の恵み 

 今日は教会暦では復活節です。復活節とはイエス様が十字架にかかって死なれ、墓に葬られた日の3日目に御復活なされた、その記念日です。(カレンダーで言うなら、春分の日以後の最初の満月の後に来る第一日曜日ということになっています)。
 イエス様は私たちの罪の贖いのために死んでくださった。そのことを信じ、「十字架、十字架」と言いながらも、この世の力に対して無力なクリスチャンが多いように思えます。それは、イエス様の御復活の力を頂いていながら、その力を発揮しないからです。イエス様のご復活が無ければ、御十字架の死は無意味になってしまいます。
 世の苦難、圧迫、迫害、そうしたものに、じっと耐える力、それだけでなく、逆に世に出て行って、世の勢力と戦って勝利する力は、イエス様により罪を赦されたという信仰だけでなく、イエス様が私の内に復活して生きていて下さるという内在の信仰が必要です。
 イエス様は既に私の中に生きていて下さっている、という信仰をイエス様に求めて下さい。「主よ、私の魂に宿って下さい。私をあなたの住まいにして下さい。私の魂を握って下さい」と祈るのです。祈りについては、次回に書きます。《く》


市長、市議の選挙にあたって 

 今日は大分市の市長と市会議員の補欠選挙の日である。「あなた、誰に入れますか」と私に問う人は普通はないが、時には信徒の方から、ご自分の投票の参考にしたいらしく「先生は誰に入れますか」と問われることもある。
 今度の市長選では現職の市長が最有力であろうが、姓が私と同じ釘宮で、これは他県ではまず珍しい姓である。大分県ではかなり多い姓だが。(その系統は大分市郊外の宗方と、臼杵市の吉野の二つの流れがあるようだ)。私も同姓だから肩を持つ訳ではないが、釘宮さんに入れるつもりである、ハハハハハ。
 さて、こうした選挙の投票について、以下のような身近の例もあったので、ご参考に読んで下さい。それは私の伯父・釘宮徳太郎のことに関するのだが。
 私は中学生の頃であったが、この伯父が周辺から無理矢理に推薦されて、ついに不承不承、県会議員の選挙に出た。聞いたところによると、あっちこっち政界の批判を述べたのち、私には一票も入れてくれなくても良い。日本やこの県市に神様の御心に添った良い政治を期待するというような異例な選挙演説だったらしい。伯父を知っている人たちは、「釘宮さんらしいし、元気のいい演説だったよ」と好評だったが、一般の人にはどうだったか、その辺は聞いていない。
 結果は次点で残念ながら落選。周囲の者はガッカリした。ご当人も決して気分爽快とは言えなかったろうが、実は以下のようなこの伯父の内面がある。
         *
 この伯父はそれまで選挙の投票なるものに一度も行ったことがなかったのである。それには、彼の当時の人にも、今の人にも分かりにくい、奇妙とも言える考え方があったのである。
 伯父には、選挙というものは世を挙げてのお芝居であって、ホントウのことはよく表に出ない。結果がどう出たところで、所詮は一般庶民には、関係はない。一部の政治屋の思うままに、こねくり廻されるだけと思っていたと思う。
 選挙に行けば、ともかく選挙率の向上には只の一票でも、そうした愚昧選挙に加担したことになる。だから一票でもよいから、棄権しよう。これが、伯父の正直な考えであったらしい。
 選挙は国民の義務だなどとだまされて、多くの人は投票場に通う。政権党に入れようと、反対党に入れようと、投票率が高くありさえすれば、少なくとも国民の意志は目下の政治(政権ではない)に満足の感想(意志ではなくても)を語っていることになる。
 投票率がガタッと落ちて、投票率10パーセントなんかになってご覧なさい。どちらの党の支持が落ちたなどということではなくて、目下の政治全体が否認されているということである。そうなったら、もう革命寸前というより、国家運営そのものが風前の灯火であろう。
 ともかく、選挙には億劫(大分弁ではヨダキイ)で行かないのではなくて、当時の伯父のように「選挙なんか止めてしまえ」という積極的投票拒否の姿勢で棄権するという人たちが多数出たとなると、これは国家的大事件である。それは国家機構を拒否していると解釈してもよいからである。今の日本では、そういう事までは想像もできないから、安心していてよいのだろうが、為政者たる者は、こうしたことも念頭において国民の思想経緯を見守っておいて貰いたいと思う。
 投票は国民の義務であるなどと、はやしたてて大勢の国民を投票場に向かわせるのは、戦時下の国民精神総動員と同じである。そうでなくても「右へならえ」と思想統一されやすいこの国の国民の思惟の弱さを、ここで一つ強健に立て直す再教育が必要である。これは教会の世に対する一つの大きな任務であろうと思うが、このことを私はキリスト教界に大きく訴えたいのである。
 こうしたことこそ、「真の愛国心」であると私は信じる。即ち、キリストにあって、①おのが国(民族)を愛することと、②世界の平和を願うことと、③宇宙の完成を祈ること。これは、全世界のクリスチャンの務めである。《く》

〔おしらせ〕
◎テレホン聖書は最近は一週間に一度、土曜日の入れ替えになっています。また、過去の吹き込みテープを使っていることもあります。ご了承ください。
◆5/22 13:30より「いのちの講演会」 渡辺和子氏(ノートルダム清心学園理事長) iichiko音の泉ホールにて。ゴスペルコンサートもあります。入場券1000円(当日1200円) プレイガイド、または円ブリオ大分080-4281-8852までお問い合わせください。


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by hioka-wahaha | 2011-04-26 12:29 | 日岡だより

No.484 勝利の入城式 2011.4.17

勝利の入城式 

 今日は教会暦では「しゅろの日曜日」と呼びます。今日から「受難週」に入るわけです。
 受難週というのはイエス様が十字架にかかられる苦難の最後の一週間のことです。しかし実は最後には復活されて父のいます天に帰られるのですから、受難週とは言うけれど実は逆転の勝利を飾られ、天へ凱旋されるのです。
 ある人が歌いました、「我死なば鯉幟をば立てよかし。凱旋したるしるしばかりに」と。正にその凱旋の主人公がイエス様です。私たちはイエス様のお供をして、おこぼれの凱旋です。おこぼれと言ったって、金賞ものの凱旋です。
 聖書を読みましょう。ヨハネ福音書12:12~13、エルサレムは過越の祭で人は一杯です。イエス様がエルサレムに来られると、群衆は大喜びでしゅろの枝を手に取って、イエス様を迎えます。しゅろは勝利の木と呼ばれていました。
 群衆はイエス様を凱旋将軍のごとく、お迎えするわけです。しかし、イエス様はこの後、4日もすると十字架にかかられ死を迎えます。イエス様はそれをご存じの上で従容として苦難の道を進みます。人類の凡ての罪を負い、人類を悔い改めに導き、かつ天にまで送られるために、父なる神様と共々に御計画を着々と進めて行かれるのです。
 それは本当は勝利への道です。この十字架のご苦難は、一度は陰府の門に下らねばならぬご苦難の道でもあり、また歓喜の門に至る道であります。悪魔とひと勝負、更に厳しい戦いであることは充分分かっていますが、それはまた、復活されて人類のあがないの御業を成就する祝福の道でもあります。
         *
 イエス様の十字架は天界の秘義です。世界の宗教では、仏教とイスラム教が、三大宗教だと言われます。しかし、仏教もイスラム教も、人間満足の生活教です。キリスト教は天地万物の創造主なる神様が、ご自身が満足なさるための宗教です。人間が修業したり、悟ったり、人間が考えた宗教ではないのです。
 仏教は人間釈尊が人生無常なりと修業して悟った教えです。みんなも同じように修業して悟りなさいと言う。
 イスラム教は唯一の神アッラーを信じる。神の律法を絶対守ること。ユダヤ教、キリスト教の聖書も同じように大切にする。しかし最高の教師はマホメットである。マホメットが啓示を受けて書いたコーランをしっかり守れ。厳格です。
 キリスト教は「キリストを信じる」。仏教は「仏法を悟る」。イスラム教は「コーランを守る」と、まとめてみました。
         *
 小生の信仰とは、前文のように「キリストを信じる」ことです。「キリストを信じる」とは「キリストさんが居たことを信じる」のではありません。
 簡単に言いましょうか。「キリストを信じるとは、キリスト様が私の一切を引き受けてくれることを、ズバリ信じることです」。
 お金が欲しいですか、イエス様はお金以上のものをくれますよ。病気を治してほしいですか。イエス様は、まず病気を心配しない心をくれますよ。旦那様と本当に仲よくしたい。そう、あなたがまず、あなた自身と仲良くすることです。良い職業は無いでしょうか。無職でやっていけるコツがあるのですよ。《く》


私は伝道者失格です。 

 私はどう考えても、「伝道者」としては失格者のようである。私のような、顕示欲、名誉欲の強い人間は、得てして伝道者になりたがる。実際また此の世の中ではこういう人間が「伝道者」に向いているのである。だから、私には自分自身を大衆伝道者として大成するのではないかと自惚れていた時代があった。今考えれば笑止な話だが、妻なども私を世界一の伝道者のように思っていた。
 私が伝道者になれない最大の原因は、私がしょっちゅう自分の現位置に安住できず、そこから出奔するくせがある。それを心配しているせいだと思う。何べんも何べんもカラを脱いで変身したことのある前科者は、変身前の体で恋愛して、変身後に相手を失恋させる。その辛さに恋することをこわく思うだろう。もしも人間が体のうわべだけで恋愛するものであるとすれば。
 私は一人のクリスチャンであるが、それ以上に、「真実」の探求者である。キリスト教をキリスト教の故に、聖書を聖書の故に信じるのでなく、「真実」の故にキリスト教を信じ、聖書を信じるのである。キリスト教に、また聖書に、「真実」にそむく処があれば、私はその分だけキリスト教を、また聖書を信じない。これは誤解を招きやすい処であるが、たとえば私が父を愛している。父の人格を信じている。しかし、父が感ちがいして誤った記憶や誤った認識をしているならば、その分だけ父の言葉を信じない。しかし、父の人格を信じないとか、父を愛さないとかいうのではない。いや、その人格は信じられない程、野卑でウソつきの父であっても、子はその父を愛するということがある。ヨブが神に降参したのは、多分にそういう処がある。ヨブには神の正義も愛も信じられなかったけれど、しかもヨブは神の前に降参した。それが、信仰である。
 「聖書は誤りなき神の言葉である」というのは、たしかに一面の真理であるが、また聖書に科学的誤認の記事の多いことも(少なくともあるということは)事実であろう。信仰とは、そういう形骸的な事柄を丸暗記して「信じた」「信じた」とはしゃいでいるようなカルタあそびのようなことではない。
 信仰とは、「宇宙(天文学的宇宙にあらず)の真実」に接触した、あるいはそれを自覚したイノチを生きる心の様(さま)を言う言葉である。その心は「日に新た」である。「古きは過ぎ去り、見よ新しくされたり」である。毎日変身である。「君子は豹変す」である。
 いわゆる「伝道者」は、自分が今もっている信仰、信条、宗教的思想を至高最善のものと自信をもっていなければならぬ。それがなければなかなか伝道はやれない。少なくとも創価学会風の戦闘的伝道(初代キリスト教会はそんなふうであった)はできない。
 ところが、私は自分が今持っている信仰に百%の満足ができないのだ。そんな事では、到底、他の宗教の批難攻撃はできない。しかし、伝道とは、まず他の宗教、信仰、教義を(表面では何と言おうと)叩きつぶして、人を自分の信仰陣営に取り込むことを言う。私はそういう伝道者にはなれそうにもない。
 私が今、目標としている信仰(と言い得るならば)はキリスト教というわくも、宗教というわくもはみ出してしまい、ただただ、「イノチ」とでも曰(い)うべき宇宙の根源者への回帰(or目ざめ、交わり)である。こういう回帰運動に魂が躍動しはじめると、日毎自らが己におどろき、あたりの風光に眺め入っているというふうであるから、巷に出ていって人を引っぱってくるというていの伝道精神がなくなってしまう。
 他宗教や無神論と溶解しあった純信仰、それは「真実」の炎にとかされたルツボの中で可能なことでなかろうか。生きているというだけで、そういう炎を反映してみせる人物になりたいと思う。それが私のねがいである。(1972.7.14「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)

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by hioka-wahaha | 2011-04-19 09:58 | 日岡だより

No.483 クリスチャンの生き様 2011.4.10

〔東日本大震災義援金について〕
日本国際飢餓対策機構(郵便振替 00170-9-68590)「東北地震」とご明記ください。
活動状況http://www.jifh.org/hungerzero/news/cat-11/
クリスチャンの生き様 

 私の若い時、クリスチャンという呼び名は余り好きではなかった。文字としては「クリスト者」という書き方が好きだった。
 「キリストの者」という感じである。これが一番、私たちに相応しいと思った。昔はよく無教会の人たちが使ったように思う。
 しかし口にするのは、世間的には使い慣れていないせいか、ややワザとらしい響きがある。だから世間に出ては使いにくかった。でも、お互いの間では、なんだか納まりが良いのである。
 ともあれ、私たちクリスチャンとして、まず相応しい告白、「イエス・キリスト様を私の救い主として信じているんです」と口で言う気持ち、この言葉を日常会話の中で屡々言ってみよう。最初はかなり勇気を要するだろうが、慣れてくると何でもなくなる。
 そうなるための秘訣は実は「信仰生活」や「教会生活」の様子をしょっちゅう口にすることである。
 「先週の日曜日にねえ、教会に行ったら、牧師先生のお話に、こんなことわざがあったのよ。聖書に出てくる言葉なんだろうけれど……」というように、会話の中に入れるのである。
 「昨日、教会のお友達の家に行ったのよ。そうしたら、お子さんが、『お腹が痛い。お祈りして頂戴』と言うのよ。そこに、お祖母ちゃんが出て来て、まるで牧師さんがするような立派な言葉でお祈りして、お孫さんを玄関に送りだしてね。私、びっくりしたわあ。」
 などという会話はどうだろう。こういう信仰きっぱりの言葉が会話の中で、例えば今の「クリスト者」というような言葉が、自然に口から出てくるようになると良いですね。
 無理に気張った言い方でなく、いとも自然な言い方で、信仰の表現が出来るよう、普段の生活の中でひと工夫してみると、いかがでしょう。《く》


継続は力である 

 「継続は力である」とは、よく聞く言葉です。とは言え、ものごとを継続することは中々困難です。
 継続のコツは、継続することをうっかり忘れた時、何事もなかったかのように、ケロリとして続きを継続することです。
 いいえ、イヤになって継続の決心を自分で破った時にも、もう一度、気を取り直して最初の決心のとおりにやり続けることです。その継続する自分の行為を自分で褒めて、やり続けるのです。
 「やっぱり俺はダメだあ。俺には継続なんか出来ねえよう」と言って止めてしまわず、「自分には出来る。自分には出来る」と自分に言い聞かせて最初の決心に戻るのです。
 この「自分に言い聞かせる」ということが一番大事なんです。このことに心を留めてください。
 日本人は昔から「言霊(ことだま)の力」というものを信じていました。これは偉大な伝統です。
 クリスチャンの諸兄姉は、すべて聖書の言葉を神の言葉と信じているでしょう。そうであるならば、どうぞ日毎に聖書の言葉を口ずさんでください。大きな声で語ってください。それが「み言葉の告白」と言います。
 そうすると、神のみ言葉が私たちの魂のどん底に定着するのです。如何なる時にも、その聖なる神の言葉は私たちの魂から離れません。信念になってきます。潜在意識から離れません。
 聖書のみ言葉がすっかり私の人格として成型されてしまうのです。こうして標準化したクリスチャンが出来上がる。それは決して糸で吊るされた心のない人形のようなものではない。魂を持った生きた神の使者です。神の言葉がその人の中に内在し、生きて働くのです。
 神のみ言葉の人格化、それが本当のクリスチャンです。《く》


コネチカットの町外れの教会で 

 昨夜、(一九七二・六・二七)NHKのFMで、アメリカのコネチカット州の小さな黒人教会で収録したという礼拝の模様を聞いた。これは、世界の各地の生活と民族感情にむすびついたキリスト教音楽をテーマにしたシリーズものの最終回であったらしい。私は残念ながら、この最終回の黒人教会のものしか聞けなかったし、それも三分の二くらいで、始めの方は外出していて聞いていない。
 この教会は、何とかという町の町外れの川っぷちに建てられた貧しい教会で、そこに二十人程の信者さんが集まり、形式的な司会も式次もありはせぬ、会衆の中より自然にわきおこってくる告白と讃美が、およそ西洋風の教会では考えられもしないような打楽器の波にのって唱われる。
 これは本当に感動的な集会。こんな騒々しい集会は宗教的で無いという人もあろうが、日本でも柘植不知人先生のリバイバル集会など、さすがに慎ましい日本人でも手を打ち踊り上り声の限り唱って時のたつのを忘れたらしい。まして、直情的な黒人の人々の集会だ。ものすごいエネルギーである。
 途中、一婦人の異言がでる。解説者の小泉文夫氏は、
 「この婦人は平素はごく物静かで声のやさしい人だが、この時ばかりは黒人特有のボリュームのある声だった」
 と言い、また
 「語る言葉は時折英語がはいるが、ほとんど何を言っているかわからぬ。アフリカ時代の黒人固有の叫びが出るのか」
 と(この辺は引用としては正確を欠くが、このようなことを)言っていた。潜在心理的に説明すればそうともとれよう。
 私らの耳で聞くと、あれは正しく異言である。変声のしかたと言い、音節の出かたと言い、日本人である私どもが経験する異言と少しも違わないのが不思議な程だ。
 そのあと、牧師の短い説教。これもまた、威勢のいい説教で、ドスのきいた言葉が機関砲のようにポンポンでる。それに会衆の「オーオー」とか「アーメン」とか言う声がひっきりなしに相和し、これもまたすぐにでも歌になりそうである。
 私は、静寂な瞑想的集会も好きだが、こういう沸きかえるような集会も又大好きだ。
 是非とも一度、こういう教会を訪問して、共に歌いたいと思う。その内、必ず行く。こういう素晴らしい取材をしてくれた小泉氏に心から感謝する。(1972.7.14「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)



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by hioka-wahaha | 2011-04-12 13:06 | 日岡だより

No.482 「聖潔の教え」について 2011.4.3

「聖潔の教え」について 

 クリスチャンたる者、誰でも清い生活を送りたい、神様の聖さに満たされた品性を得たいと思うでしょう。しかし、
 その事について確信を持って教えて下さる方は案外少ないのです。
 いろいろ異論もあります。そんな生活や、人が保ち得る品性があろうとは思えないという方々も多いのです。
 いわゆるキリスト教界(!)に於いて、その事をはっきり語ってくれるのは、聖潔派ですが、その聖潔派の中でさえ分裂が起こり、相当昔の話ですが、財産問題で争いが起こったりして、「何が聖潔だ」とがっかりさせられたこともあります。
 聖潔派の中での問題は、「私は信仰によって完全な聖潔の心や生活を体得できるはずだ」と、その教理を信じている人はあっても、実際に「私は清められている。ほら、この通り」と、自信をもって語ってくれる人は少ないのです。
 また、聖潔のことなど問題にしない人々もいます。そんなけちくさいことは言わないで、堂々と聖霊の力をもって大胆に生きようではないか、というがむしゃらなタイプです。カリスマ派、また手島先生のマクヤ流ですね。
 聖潔派の人々の問題点は、自分の行動や心の在り方について反省しすぎるため、律法的に過ぎ、或いは亦、自分の生きざまを誇りすぎて、人を見下し批判するタイプの人たちが出やすいことにもあります。
 私がお勧めしたい聖潔的信仰の在り方は、イエス様の臨在を体得して生きて行く道です。次の御言葉をあなたのものにしてください。
「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」(ガラテヤ 2:20 文語)
          *
 ここで、信仰ということについて、ご留意願いたいことを付言します。
 信仰という事柄は、一種の神秘体験です。「信じます」と告白しさえすれば良い、ということではありません。
 勿論、信仰を口で告白すると、信仰そのものが自分の内に実現することは屡々体験でき、また客観的にしばしば確認できたことでもあります。しかし常にそれが実現するとも言えません。やはり聖霊による神秘な事件です。
 「信じます」と告白して、信じたつもりになることではありません。既に私はイエス様を信じている、というその私の事実が私自身のこととして確信できるという、その事実です。
 今、この原稿を作っている時に、伊予三島真光教会の故・金田福一先生の「キリストの内住」という古い本が、古い書籍の棚の中から出てきました。
 これです。「キリストの内住」、イエス様が私の内に生き生きと生きておられる、その「内面の真実」です。それが金田先生の強調されるところです。
 平明に信仰を淡々と語る金田先生は最も私の信頼出来た先生がたの一人でした。
          *
 キリスト信仰の第一番は、イエス様の十字架の死により、私の罪は消された、ということです。
 イエス様は私の罪をご自身の背に背負って地獄に下ってくださった。そこで、イエス様は一旦地獄で罪と共に死んで下さって、そこから復活された。古今、地獄の底まで行って、そこから地上に帰って来たのはイエス様お一人だけです。
 イエス様の十字架の傷跡は地獄に対する勝利の刃です。これこそ、地獄から地上に隠れて上がってくる悪霊どもへの勝利の剣です。事実、この勝利の剣は悪霊どもへの厳しい武器です。悪霊どもは震え上がって飛び退いてしまいます。
 さあ、この霊的武器をもって、悪魔の私たちをだまそうとする戦法に打ち勝ちましょう。
 悪魔の語ることは常に偽りです。悪魔の言葉にだまされないためには、いつも聖書のみ言葉と私たちの内なる魂に語りかけてくださる聖霊様の言葉に注意を傾けることです。
 以上のことを言い替えれば、常に聖書の言葉をよく学んで、それをあなたの良心とするのです。いざと言うとき、恐れの起こる時、悪魔が誘惑してくる時、常に聖書のみ言葉に学んでいる魂には、あなたを護る良心が出来上がっています。安心してご自分の良心に従いなさい。
 そして、とても打ち勝てないと思うほどの強い恐怖心や、悪魔の誘惑が私たちを襲う時が来ても、イエス様の十字架の血潮により断固として勝利を宣告しましょう。《く》


祈りのコンサート 

 大分宣教協力会の委員の先生がたから、東日本大震災支援の合同祈祷会を開こうと言う提案がありました。そして素晴らしいアッピールを作って下さった。言わく、「祈りのコンサート・大分」!
 コンサートという言葉は音楽の演奏会などに使われますが、元々は「一致したことを共同で行う」という事だそうです。
 そこで「祈りのコンサート」の提唱です。教会活動というものは凡てコンサートだ、と言って良いのかも知れません。
 毎月11日、また他の日でも、教会合同で、また各教会で、出来ることから始めようというプランらしい。私は大賛成です。当教会でも早速始めましょう。又、合同の集会にも参加しましょう。
 礼拝そのものが一致のコンサート、地域の教会もコンサート、教会の信徒の皆さんもコンサート、各部会や、任意の小集会もコンサート、各御家庭でもコンサート、いやそれぞれ分かれていても共通意識で一致の祈りを捧げている、コンサートの教会です。神様の恵みに満たされて、日本の全教会の凡てがコンサートされますように祈りましょう。《く》

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by hioka-wahaha | 2011-04-05 10:30 | 日岡だより