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No.476 トミさん、召天一年を感謝! 2011.2.20

トミさん、召天一年を感謝! 

 トミさんを天に送って、もう一年たったか!感慨無量である。私たちのように愛しあった夫婦は、世間にそう多くはあるまいと思う。これはもう、神様の恵みであって、僕らが決して無理をして愛し合う努力をしたわけではない。神様がくださる夫婦愛に満たされて日々を過ごしたのであった。
 一年たった今も、応接室にある彼女の写真に向かって「トミさん、どうね。天国の様子を聞かせて」などと語りかけている。
 私もぼつぼつ90歳、彼女にじかに会える日も近いなあと喜んでいる日々である。《く》
 

【証し】
喜び喜べ 
                                        阿部たかえ 

 40年ほど前のこと、当時、父(釘宮牧師)の経営していた印刷会社でタイピストとして働き出して、2、3年目くらいのことだろうか。
 社内での仕事のほとんどは、母がマネージメントしていた。実際、企画力と押しの強さは社長以上で、皆をたばね、能率的に仕事をさせるのがとにかくうまい。
 新しい社屋もできて、働く環境はいうことなし。
 給料はまだ安かったが、タイピストという仕事をやっと一人前にこなせるようになって、今からまだまだ腕をあげるぞー、という時だった。
 とにかくこの出来のよすぎる母が、私にとっては「目の上のたんこぶ」。
 母はとにかく「嫌われ者」であることを武器に社員をまとめていたわけで、何かしら問題が起こると、私は皆の不満を母に持っていくパイプ役で、とても嫌な役まわりだった。
 皆の不満は私の不満となり、仕事が辛くなり、私はとうとう会社をやめたいとまで思うようになっていった。
 人間的にはなかなか母とうまくいかず、辛いことも多かったのだが、おかしなことに、信仰については良き指導者であり、よき手本であって、相談相手でもあった。
 結局わたしは、悩みの張本人である母に相談をもちかけたのだ。
 
 「ねえ、母ちゃん!」「私は会社辞めたいんだけど、どうかなあ」
 心の中では自分がいなければかえって皆うまくいきそう……とつぶやきながら、
 「どうしていいかわからんのやわ」「タイピストが減ると会社も困るわなあ」「やめんほうがいいかなあ」
 しかし、もうよだきい……と思う。
 「やっぱり、やめよう」
 
 考えてみれば、本当に自分勝手で、母はこんなの相手にしていられないと思ったかもしれない。
 しかし、母は私にこう言ったのだ。
 「孝枝ちゃん、祈ってみよ。イエス様が答えてくれるまで祈らんと」
 イエス様から答えがあるまで自分で祈れというのか、これはまたどうしたもんだろう。
 わたしは声も出なくなってすごすごと帰った。
そんな祈りはしたことがなかった。
 
 仕方がないのでその日からとにかく祈ることにした。これが私のいいところで、みょうに素直。
 3日もたっただろうか。
 朝、職場に来て何も変わってないし、別にいいことがあったわけでもない。でもなんか嬉しくて、やたら口のあたりがにやけてくる。
 お昼ごろ私は気がついた。
 昨夜、ピリピ人への手紙4章を読んだ。1節から何度も、何度も。祈りながら。その時に父のメッセージを思い出していた。
 
 「喜び喜べ」これはイエス様のご命令です。命令なのですから「はい」と聞けばよいのですよ。
 どんなにつらくても、苦しいときでも、悲しいときでも、イエス様が「喜べ」とおっしゃるのですから「喜ぶ」んです。
 そうすると、本当に心から喜びがわいてきますよ。主の喜びがね。
 
 「そうか、わかった」「イエス様が喜びをくださったので、わたしはとても嬉しくて、仕事も楽しいし、母にもだれにも腹がたたないし、なんか心の中から喜びが沸いてくるんだ」
 悩みの結論は出たも同然。
 急いで母に告げにいった。
 「祈りがきかれたよ」「私は心が変えられたみたい」「祈りってすごいのね」
 母は即座に答えた。
 「そうよー!」
 いつもの母の口調に腹はたたなかった。2人で笑った。
 
 それから私は結婚して長女が生まれるまでタイプを打ち続けたのだが、これがわたしの初めての回心というべきものだったにちがいない。
  
 「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」
       ―ピリピ人への手紙4章4節―


【あとがき】      
 母は2005年5月に脳梗塞を起こし、半身マヒとなりました。その数年前から認知症を発症していたこともあり、いわゆる「寝たきり」の状態になり、介護職や訪問医療の方々のお世話を受けながら、その後5年をすごし2010年2月21日に天国に旅立ちました。
 直接には気管支にできた癌が死因でした。何度も肺炎を起こし、出血し、覚悟をしながらも、たくさんの方々のお祈りに支えられ、ふだんは不思議に平和に過ごせました。徐々に反応が少なくなる母でしたが、思えば母とむきあった濃密な時間だったと思います。
 最後にこんな時間を与えられたことを、今では感謝の気持で思い返します。元気な母を今はまだ思い出すことができませんが、いつか天国で再会できます。
 お世話になった方々にあらためて感謝を申し上げます。(釘宮せつこ)
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by hioka-wahaha | 2011-02-22 13:37 | 日岡だより

No.475 日本国は基督を要す 2011.2.13

日本国は基督を要す 

 これは内村鑑三先生の言葉です。明治34年出版の「所感十年」に載っています。キリストを基督と漢字で書くのも明治らしさを感じますが、何よりも「日本国」というのが異様でしょう。明治人の習慣かも知れませんが、特に内村先生の文章には多かった習慣のようです。
 現代の私たちの世代で、日本という言葉を「ニッポン」と発音する機会は滅多にありませんね。大抵「ニホン」です。
 しかし、日本国と改まって言えば、やはりニッポンコクでしょうね。日本を何時ごろから「ニホン」と言い習わしはじめたのか知りませんが、多分、大正中期以降でしょうね。「ニッポン」という発音に恥ずかしさのようなものを感じ始めた日本庶民の気分が表れています。
 改まっては「ニッポン」だが、平素の日常語では「ニホン」のほうが柔らかくて日常会話では打ってつけである。そういう庶民意識がよく表れています。
 さて標題の内村先生の語彙ですが、内村先生が「日本は基督を要す」と書かないで「日本国は基督を要す」と書くには、それだけの抜き差しならぬ心理的要素があります。我が愛する日本のこの国にはどうしてもキリストが必要だ、このイエス様が無ければ日本は正常に立って行けない。いつかは滅んでしまう、という危機感があったことは明らかに見てとれます。
 明治大正の時代、内村先生が見て「日本国家の問題点」は、欧米文化の影響で惰弱な民主主義に流されることと、妙に頑固な日本帝国主義に傾く危険性と、この二つの傾向だったと思います。
 内村先生が第一高等学校の教員の時、式典で天皇陛下の御写真に頭を下げる時に壇上で、「これは礼拝ですか、単なる挨拶ですか」とこだわった話は有名ですが、これで「非国民内村鑑三」の名は全国に広がりました。興奮した日本主義の青年学生たちが内村邸に向かって投石活動をはじめ、内村先生の奥様は生命の危険も感じたとさえ言われていますが、そうした中で内村先生は動じることなく、基督者として誇りを保って些かも動じることはありませんでした。
 更に、大正の頃、アメリカで排日運動が起こるや、一番にこの問題に取組んでアメリカ国民に向かって得意の英語で、反対意見を発表したのも、当時としては目を見張る異色の活動でした、先生の英語はカーライル張りで重厚ですし、長年のアメリカ滞在の結果、アメリカ英語にもなじんでおられる、そういう効果もあって、後に内村先生の英文「余は如何にして基督信徒となりしか」が欧米における出版記録を出した先駆けとなったわけです。
 内村先生の凄いところは、キリスト教の伝道者でありながら、欧米の文化に惑わされず、日本人国民の骨髄に合ったキリスト教の信仰の神髄を注いでくれたということです。(しかも偏狭な日本主義者の批判に屈せず大胆に福音を語りました)。
 内村先生の愛したのは「二つのJ」でした。一つはJesus の J 、もう一つは Japanの J でした。「この二つのJ、どちらのJ を、どちらの J よりも深く大きく愛するか、その比較はしようが無い、比較を問われると悩んでしまう。私は、二つのどちらも、同じよう深く大きく愛する」と言っています。
 内村先生の「日本国と基督」という文章を以下に紹介します。
 
 日本国は基督を要す、彼に依るにあらざれば、その家庭を潔むる能わず。日本国は基督を要す、彼に依らずして、その愛国心は高尚なる能わず。基督に依りてのみ真正の自由と独立とあり、そは彼は霊魂に自由を与うる者なればなり。基督に依らずして大美術と大文学とあるなし。そは彼は人類の理想なればなり。キリスト降世二千年後の今日、我らは彼に依らざる真正の文明なるものを思惟する能わず。(明治34年5月「所感十年」より。仮名遣いは原文を改めました) 《く》
  

成功の法則 (先週よりのつづき)

 もうひとつ書きそえたいことは、「睡眠時間」の利用です。睡眠は肉体が休んで魂がさめている時です。信者にとっては最良の祈りの時間だと言えます。そこで、まずできるだけ充分の睡眠時間を取ることと、その睡眠の前に意識的「祈り」の時間を持って、「祈り」の残映、余韻を睡眠時間にくりこし、無意識的祈りの中で、「祈り」を深く打ち込むということをするのです。
 切迫した危機に際して取る態度としては、D・カーネギーの法則が最良です。
          *
(1) まず状況を大胆率直に分析して、最悪の事態を予測する。
(2) その最悪の予測を我が身に甘受すると決心せよ。
(3) 右の最悪の事態を少しでも緩和させるための方策を考えよ。
(4) その方策で為すべきことを箇条書きにし、為すべき順番をきめて番号をつける。
(5) その番号順に実行する。
          *
 これは、信仰の無い人でもできる魔術的公式です。この公式を前述の「祈り」をもって実行すると驚くべきことがおこります。
 二十一日の集会で申しましたが、こういう実践的明快な信仰指導のみでは、軽薄な塩ぬきの甘ったるい信仰になることを恐れます。いつも深刻な顔をして、十字架宗教の権化のような顔をしている人に、「求めよ、さらば与えられん。信ずるものには凡てのことを成就せん」というキリストの御言葉通りの「御利益」のある信仰をおすすめしたい、そう思って書きました。(1972.5.25「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2011-02-15 16:20 | 日岡だより

No.474 確かな信仰 2011.2.6

確かな信仰 

 「あなたは確かな信仰をお持ちですか」
 と問われると、「さーて」と身構えして心配なさる方も居られるかもしれませんね。
 昔のキリシタン迫害みたいな時代に逆戻りして、あのような時代でも「わが心の内に在るイエス様への信仰を、しっかりと守って行けるだろうか」と案じる方も居られるでしょうか。
 私は大東亜戦争の最中に、警察や裁判所の法廷で、はっきりとイエス様への信仰と戦争反対の意志を述べた男ですから、上記の質問にも「当然、そうした確かな信仰を持ってくださいよね」と答えるだろうと思われるかもしれませんが、案外そうでもないのですよ。
 確かな信仰というのは、案外、私たち人間の側の信念ではないことが多いのです。それは、しばしば神様からの賜物であります。この神様からの賜物は、信ずる者には誰にも、与えてくださいます。ある人には、まだ小さいかもしれないが、ある人には大きな賜物をくださいますよ。
 
 第一コリントの第12章を開くと、聖霊の賜物の一覧表がどっさりと出ています。パウロは言います。「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。その務めや働きは種々あるが、主は同じである。すべてのものの中に働いて、すべてのことをなさる神は同じである」と。(第一コリント12:4~11参照)。
 この中で特に大事な賜物は、その9節にある「信仰」ではないかと思います。
 他に賜物として挙げられているのは、知恵の言葉、知識の言葉、癒しの賜物、力あるわざ、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解く力、等々ですね。
 パウロは、その中でも特に「預言の賜物を求めて欲しい」と言っていますが、もちろん私たちも大いに求めたいですね。
 私は信仰の初期に、こういう教えは全く知らない時に、「癒し」の賜物を頂けたのです。これは本当に感謝でした。尤も、初めのうちは自分の病気の癒しについてだけでして、他の方々のために癒しを祈って上げようなどとは、恐ろしくて口に出来ませんでした。
 しかし、その内に他の方々の病気のためにも、癒しを祈ってあげますと、やはり癒されるではありませんか。驚きましたねえ。そして、次々に信徒の方々や、また未信者さんの間でも、癒しの現象が起こるようになりましたから。
 それとは別に、御霊の賜物ですが、一番、驚いたのは最初に異言の賜物を頂いた時です。何処からか、車で帰ってくる途中でしたが、ベラベラ口と舌を用いて出てくる異様な意味の分からない言葉に、私はたまげました。私は気が狂ったのかと思いました。60年ほど前のことです。
 
 こうした事は、本当に有り難いことですが、それでも信仰者として、最も頂きたい賜物はなんでしょう。それはやはり信仰の賜物です。
 とは言え、私たちは既にイエス様を信じる信仰を持っているのですから、ここで、わざわざ「信仰の賜物」とは何でしょう。
 私どもの心の中にある信仰というものが、私の内にどっかりと坐っているというような確信。私の心の底に信仰があるんだぞ、というような、改めて言挙げして言えるものがある、「確信」とでもいいたいものです。この「確信」を求めたいですね。
「求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。(マタイ7章7、8節、文語)
 然り、アーメン! 確かな信仰を求めましょう。《く》

 
成功の法則 

 五月二十一日の集会で挙げたH・C・マター氏の成功の法則を参考の為に書いておきます。
          *
(1) 神を信ぜよ。
(2) 自分自身に信念を持て。(神に救われたものとしての自覚が必要)
(3) 特定の目標を定めよ。(自分が見、感じる事ができる明確な目標)
(4) その目標を紙に書きとめる。
(5) その文章を毎日くりかえし読む。(カトリックの祈祷書のように祈りの台本に使うとよい)
(6) その目標に向って仕事をする。(人に公表したり、準備したり・・・・・・・・・)
(7) すぐにできる事はなんでもせよ。
          *
 これをバカ正直に実行すると、必らず効果がありますので、今すぐはじめてみましょう。なお、私どもクリスチャンにとり、「祈り」とうまくかみ合わせる事が必要ですのでよく工夫してください。
 ついでに書きますが、普通「祈り」と言うときは、声に出して祈る通常の形を指しています。しかし「祈り」には、このほかに「黙想」と「行為」の二つがあります。神様の前に祈るとき、しばしば啓示される事、約束させられること、気がつく事、思わせられたことがあります。それに関連して、行為を伴わしめないと、「祈り」が「祈り」として完成しないことがあります。こういう場合「行為」が一つの「祈り」なのです。(つづく) (1972.5.25「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2011-02-09 18:55 | 日岡だより

No.473 祈りの秘訣 2011.1.30

祈りの秘訣 
           ― 主 に 学 ぶ ―

 先日の夜、祈りの秘訣について主が教えてくださった。言わく、
 
 「幼子のごとくなれ」(マタイ18:34)

 それはどういうことか、「神様に甘えなさい」ということです。
 預言者のような、使徒のような、模範的祈りは出来なくてもよいのです。
 幼な子のように、父なる神様に、長兄であるイエス様に、甘えて祈るんです。
 着物も顔も汚れで一杯、泥遊びしたまんまの姿でそのまま、構わないで、幼子のようにお願いするんです。
 神様はたまらなくなって私たちの祈りに耳を傾けて下さいますよ。
 拳(こぶし)を挙げて、空を叩いて、神様に脅迫でもするような面構えで祈ったこともあった。そのような失礼な祈りも神様は聞いて下さった。
 祈りの思い出は多い。ともかく全力を尽くして祈ることである。《く》
 
 
自在な心に 

 「我死なばコイノボリをば立てよかし、ガイセンしたるしるしばかりに」というある人の歌を思い出します。コイノボリのひるがえる五月となりました。我々の心も五月ばれのような自在な心になりたく思います。
 神様のなさることは、時々わからないことがあります。「今わが為すところ汝ら知らず、後悟るべし」というキリストの言葉もありますとおり、私どもは最善を為したもう神様を信じていきましょう。(1972.5.3)


心の重心を神に 

 「われに来たれ、我なんじらを休ません」(マタイ11:28)
 休むとは単なる休憩ではありません。コマがよくまわると、子供たちは「澄んだ、澄んだ」と言って喜びます。そのとき、一見コマは停止しているかのように見えます。実は、そのコマは最高の姿で運動しているのです。これを動中静ありなどと言うのです。
 冒頭の聖書の言葉で、イエスは、重荷を負うている者、苦労している者、悩んでいる者、迷っている者に安息を与えようと言っています。
 しかし、それ以上に、この言葉は、いそがしい現代人に、頭の回転の速い文明人に、仕事の多いビジネスマンに、意欲に富んだ青少年に、流行に追い回される女性に、本当の安定を与えようとするのであります。
 最高度にいそがしい世の中の低俗な生活の真ん中に立って、いつも澄んだコマのように安定した活動を為すことができる、そういう人になるためには、まず心の重心をまっすぐに神に向ける。それが秘訣です。
 青年は将来を想うて不安であります。壮年者は現在の生活の責任におしひしがれそうであります。老人は月日のたつことの早さに焦りを覚えます。
 こういう一人一人に、キリストは「われに来たれ」と言います。本当の安息と安定と真の活動力を与えるためであります。
 聖日(日曜日)を大切にしてください。出来る限りの努力を払って集会に出席してください。また出席をはばむ障害の無くなるよう切に祈りましょう。
 高貴にして雄々しい人生を送るための第一の礎石は信仰であります。その信仰を人は一人では捉えにくい。守りにくい。集会の必要なるゆえんであります。(1972.5.12)
 
 
人生成功の秘訣 

 軟体動物というのがあります、骨がないんです。くらげなんかそうです。生物としては相当下等ですね。それかといって、全身これ骨といったエビ、カニ、昆虫類もそうですが、こういう骨が外に出てしまってギクシャク動いているのも、少々不格好ですね。
 キリスト教が苦難礼賛の誤った十字架信仰におちいると、ギクシャクした禁欲主義の冷たい人間をつくります。骨はやはり内にかくれ、豊かな筋肉が上をおおうと、理想的人間像が出来上がります。
「むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように」(第一テモテ6:17)
 この肯定的な聖書の言葉をきくと、私どもの心は明るくなります。この人生で、家族、友人、金、物、必要なもの一切を豊かに与えたもう神に、私どもの希望をおく。これこそ人生成功の秘訣です。(1972.5.19)
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by hioka-wahaha | 2011-02-01 15:31 | 日岡だより