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No.472 信仰生活の実際 2011.1.23

信仰生活の実際 

 信仰生活の内がわをしらべると、こういう世界がある。
(1)神に密着して生きる(神秘性の濃い霊的な世界より、ただ信心していますというような心理的世界までいろいろ程度の差はあるが…)
(2)律法的な神の教えに従う。愛の実行。
(3)神の善意、愛、摂理、導きを信じる。(少なくとも初心の人は信じていることにして生きる。)
(4)礼拝生活をともなう。形式的讃美、祈祷等の習慣化。
(5)祈りの力を体得する。(次節参照)
 まだまだ、いろいろに言えようが、気のつくことを挙げてみた。(1971.11.7)


祈りについて 

 「祈り」ということで、ちょっと書きたい。
 「祈り」とは「い・のり」である。
 「い」は強勢の接頭語である。しいて言えば「いのち」の「い」である。
 「のり」は「祝詞(のりと)」ののりだ。お宮の神主さんのあげる「のりと」ののりである。
 「のり、のる」のヤマト言葉は
 「宣(の)る」「告(の)る」「乗(の)る」「伸(の)る」というように漢字があてられている。
 「狼火(のろし)」「呪(のろ)い」も同じ語源であろう。
 「糊(のり)」という名詞も同じ語源から来ているかもしれぬ。
 だから、神霊に糊のようにべったりはりついてた心理状況がある。何ものかに、乗(の)り、また何ものかに乗(の)り込んでいくような気概がある。ノロシを上げるような活発な精神状況がある。伸(の)びやかな心の上に、体をのばして前進するというような前進的ムードがある。
 そして「宣言」する。「告知」する。サタンへの「呪い」である。それが信心生活の「法(のり)」でもある。
 祈祷にあらわれる外面的姿はまず「宣言」であろう。宣言して敵陣地に乗りこんで敵のものを、領土をぶんどるのである。信仰的確保にはこの姿勢がいる。(1971.11.7)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)


信仰の原点は「復活」 

 一九七二年も、早や二旬をすぎました。新年に決心したことも又もや夢のまた夢と消え去って、ほろにがい虚無と絶望の人生にあともどりしかけるときです。自力の決心や信念に期待をかけると人間はいつも失望せざるを得ません。「しかし、神に望みを置くものは裏切られることがない。」―――この聖言のとおりに、神のみに信頼をおいてこの一年を生きましょう。
 信仰の原点は、「復活」ですね。イエスは「我は生命なり、よみがえりなり」と言われた。イエスの本質は「生命」です。そして本当の生命は、死んでも尚も活きる……復活する生命、なのです。
 あなたの人生の一切が死にひとしい状況であろうとも、その中より(手塚治虫かく火の鳥ではないが)不死鳥のごとく飛び立つ大生命の素(もと)こそ、キリストの命、聖霊なのです。この中によって、私たちは、毎日、毎時、再出発するのですよ。
♪我らがイノチは 神のイノチ
神のイノチが躍動すれば
我らが人生 歓喜と力
内よりあふれて 再発進!
 という私の一昨年の作詞作曲をもう一度うたいましょう(影か柳か勘太郎さんかのフシでも唱える)(1972.1.19)


本当の信仰 
 
 「信仰」という言葉は、語感から言って少し適切でないように思う。「神を真実とする」と言ったらどうであろう。
 両親の言いつけ、妻の要請、国の法律、学生の言い分、科学の推論、どれもこれも尤もであって、教養の無い私にはどれも一つとして反論できはせぬ。
 けれど、それら凡てにまさって、私は神を真実としたい。私はマルクスや毛沢東にまさって、神を真実とする。私は日本民族や天皇にまさって、神を真実とする。ニュートンやアインシュタインやトインビーにまさって神を真実とする。私は民主主義やヒューマニズムや平和主義にまさって神を真実とする。
 どれ程、世間が大事にし、国が重んじ、新聞や国連が推賞しても、それよりも神を重んじよう。私にとって、それよりも神が大切だ、神が真実だ、神の側につこうと、断言しよう。金とか、生命とか、独立とか、科学とか、階級とか言いだすと、人はすぐ迷う。
 たとえば、学生諸君にとり、学校生活において何が大切であろう。「成績」か「友人」か。否、大切なのは「神」である。たとえば、結婚生活に於て、何が大切か。「妻」か「子供」か、「幸福な家庭」か、否、「神」である。
 神といってもバク然として、掴みにくいでしょうが、まず「神」を求めなさい。神の実在がわかるとき、はじめて、本当の信仰が生じるものです。(1972.3.9)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)


御名を呼ぼう 

 「イエス・キリスト様!」と、御名を呼びまつるとき、主はここに来臨したもう。イエスの御姿を想い、その伝道、十字架、復活の英姿を想い浮べて、その臨在を乞いねがってください。キリストの臨在は、私どもの生活と人生に写し絵のごとく、移り香の如く影響を与えて、私どもの人格に聖と力と喜びを生じせしめます。(1972.4.5)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
※先週まで【過去の週報より②】と題していましたが今週より体裁を変えて、一つ一つのタイトルを独立させました。書かれた日付はタイトルの最後に記載。 
 
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by hioka-wahaha | 2011-01-25 15:51 | 日岡だより

No.471 「聖化」と「強化」 2011.1.16

「聖化」と「強化」 

 大抵の場合、キリスト教においては、義認の信仰が第一歩である。義認の信仰とは、イエス様の十字架のあがないにより、私の罪は消えて、私は神様の前に義人と認められた(完了形である)、という信仰である。
 人によっては(かなり少ないと思うけれど)信仰の第一歩から、神様の前に清められたという信仰を与えられて、後に述べる聖化の信仰に一挙にはいる人もいるかもしれない。
 信仰の成長の経過を簡単に記すのは困難だが、まず第一がイエス様の身代わりにより「神の前に義人と認められる」という義認の信仰であろう。第二が聖化の信仰である。言い替えれば、義人と認められる段階を越えて、聖い人になる、という段階である。
 それから、「信仰者として強く生きる」ことのできる「強化」という段階がある。まだまだ「聖い人」とは言えないが、信仰の「強い人」にはなっているなあ、と賛嘆される人になれたよ、という信仰の段階である。
 「聖い人」と「強い人」との関係は、どちらが先に到達できるか、その辺が難しい。ある人は先に「強い人」になり、ある人は先に「聖い人」になって、それから「強い人」になる。そして、いずれにせよ、どちらに先になったにせよ、その次は「栄光の人」になるのである。
 しかし、栄光の人になっても、まだ「強い人」か、「聖い人」には、なっていない人もいるかもしれない。そういう人には、栄光の人になった後も、更に加えて「強さ」にも「聖さ」にも到達して頂きたい。そのようにして「クリスチャンの完成」に至るのだと言えようか。
 これはまあ、そのどの領域にも達していない落第生の私が減らず口を叩いているわけだから、恥ずかしいし、恐縮の至りだが、恥を忍んで、教理的理屈をこねているわけだ。
 
 ちょっと横道に逸れるが、信仰の成長を勧める「聖化」を強調する文章にはよくお目にかかるが、信仰の「強化」を励ます文書は少ないように思う。
 「聖化」の分野には当然「強化」が含まれて良いと思うのだが、「聖化」を目指す時には、兎角、自制的に、且つ内省的になりやすい。突進的に前進するより、控えめに用心しいしい進みやすい。突進し爆進する決死の前向き姿勢が衰える。聖化を強調すると、どうも豪傑風の姿勢が衰えるのである。しかし、信仰者の生き様には英雄豪傑風の姿勢が欲しい。
 例えば、内村鑑三先生の生き様を見ると、日本愛国主義に立ち向かう雄々しい姿がある。当時のクリスチャン、誰も内村先生の応援が出来なかった。
 
 太平洋戦争の最中、東京で日本宗教者連盟のようなものが政府のお仕着せで造られたことがある。その時、会場の周囲のロビーではほっつき廻る警官のサーベルの音がしたと言う。
 その中の会場では全国から集まった僧侶、神官、牧師たちに、「皆さんは今日から、各神社、寺院、教会の主管者として、政府に記録されます。慎重に進退されたい。公務員になった訳ではないけれども、みなさんの立場は確認されます」と言うようなことになったらしい。
 私の教会の牧師先生が東京から帰ってきて、以上のようなことを信徒の皆さんに告げて、大いに気負って気炎を上げていたことを覚えています。
 これまで敵性宗教の牧師として睨まれていた牧師が、急に身分が認められ、社会的にも安定したという安心にホッとしていた感じが見受けられました。戦時中のキリスト教の牧師の不安な時代の一挿話です。
 
 ともあれ、こういう時に、時勢の動きに惑わされないで、堂々とクリスチャンらしく、また牧師らしく生きることは、難しい時代でした。
 さて、その時代、私は昭和20年1月に刑務所を出て、大分に帰って来ました。幸い、従兄の親類にまず兵役召集など滅多に来ない職種の会社支店長が居て、私はその会社に就職できました。これは有り難いことでした。
 そして、終戦。終戦じゃない、敗戦ですよね。私は即座に会社を辞め、伝道の準備を始めました。《く》
 

【過去の週報より②】   (1971.9.26~1975.8.20)
       
■一九七一年一〇月一〇日 (大分通信No.2) 
<神話の中における神>(つづき) 
 ところで、生物の進化や人間の成長を見ていると、精神を持たぬ肉体はあるかもしれぬが、肉体を持たぬ精神は無いように思われる。精神は高度に発達した肉体の中に発酵するもののように思われる。
 神は神話的表現を抜きにしては語りにくい。宗教というものもそうだろう。神話は神の肉体であろうか。それを離れては神意識は発酵し得ぬ「肉体」であろうか、冒頭の猫の話ではないが、高等の抽象能力があれば、神話をぬきにしても、神を想像できるのかもしれぬ。
 しかし、それはやはり弱い思考力にはたえられぬだろう。神話的にロマンチシズムの中で無くては、神の英気はかおって来ぬようにおもわれるのだ。(九・二一)
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by hioka-wahaha | 2011-01-18 15:51 | 日岡だより

No.470 日の丸の旗 2011.1.9

日の丸の旗

 お正月が来ると、昔は祝日で各家共々に日の丸の旗を掲げたものだ。祝日と言っても昔はお正月の「四方拝」など神道的色彩が濃い祭日などもあって、私たちクリスチャンはちょっと遠慮したくなったものだ。
 しかし、日の丸の旗は、こんなに単純で、簡潔、いや完結的で、すばらしいデザインはないと思う。手の加えようがない。
 昔、小学校で習った、「白地に赤く日の丸そめて、ああ美しや、日本の旗は」という唱歌のメロディーが今でも耳の底に流れて、日の丸の旗は本当に良いなあなどと感じるのは、戦時教育を受けた者たちに共通の潜在意識なのか、それとも、単に年を取ったせいなのか。
 内村鑑三は、「私は二つのJを愛する」と言った。二つのJとは、「JAPAN」と「JESUS」である。
 私たち日本のクリスチャンは、当然のごとくイエス様を愛するが、それとともに日本を愛するものでありたい。
 本当のクリスチャンは自分の祖国を真に愛するものである。経済力や軍事力を求めるのでない、真理において祖国を愛するのである。
 日の丸を見ながらそんなことを考えた正月だった。《く》


【過去の週報より②】 (1971.9.26~1975.8.20)
       
■一九七一年一〇月一〇日(大分通信No.2)
<五十才前>
 私はもうすぐ五十才になる。
 五十才と言えば、昔は「人生五十年」と言ったものだ。
 ここあたりで、私に肉的人生は終りとしたい。
   × × ×
 人間、年を取ると、グチっぽくなり、しかも、あきらめムードにおちいる。青年はそうではない。グチを言わず、あきらめもせぬ。
 老人が意地を張って、私はまだ若いのだと口さきで言ってみたり、事毎に若ぶるのは勿論イヤだ。
 肉体的に年とったのは本当だから、素直にそれを受け入れよう。しかし、その上で……
 私は、尚も青年の気ハクを持とう。青年の夢を持とう。青年の求道心を持とう。

<聖書に証されるキリスト>
 私は、名も金も家庭も健康も友人もいらない。私は、神と共なる孤独を覚悟しよう。私は、ひとりぼっちでよい。真理を求めて、生きつづけよう。
 教会が何と言おうと、聖書が何と言おうと、私の心の芯がナットクしないものに、盲目的にひれ伏すことはしない。それは真に、神の喜びたもう処ではない。
 たとえ、教会の教え、聖書の言に背反しようと、内なる心に直指したもう神の言に従うこそ、信仰である。
 教会や聖書に客観的真理の権威づけを委ねて、それに信頼するとき、その時信者と称する人の心は安泰かもしれぬ。しかし、それは教条主義的信仰であって、人まかせ信仰である。人まかせ信仰でなく、自分自身の信仰を持つためには、自己の心証を大事にせねばならぬ。
 自己の魂の内証を捨てて、信仰などというは、姦婦の愛の告白にひとしい。
 しかし、人が書や、教会による傍証を捨て、禅宗における如き師匠の印可の如きも捨て、全くひとり立って、自分の信仰を把持するとき、誰かそれが偽りの信仰ではあるまいか、悪魔に魅入られて異なる福音に陥っているのではあるまいかと案ぜぬものがあろうか。
 そのような、おのれ自身に対する信仰的不安をふまえた上で、尚かつそれを乗りこえて確信させずにはおかない神的衝動に内より突きあげられて、私の信仰はたしかめられるのである。
     * * *
 聖書の言の前に這いつくばって、その権威の前に犬のように一語一句従っているというのはパリサイ根性であって、ドレイ的信仰である。
 人が内的信仰に従ってイキイキと活きているその生活の中に、キリストを発見する事ができる。そのキリストを、聖書が一言一句証している、それが真の神の子の信仰である。
 信仰とは、我らの中に活き給うキリストである。
 聖書がキリストを証言してくれる。さかさの探索法を使って聖書の中にキリストを探そうとすると、活きたキリストは出て来ない。神話的、教理的、夢幻の如き、化石の如きキリストがでてくる、その意味では聖書は誤り多い人間の言である。

<神の存在を宇宙論的に説明す>
 人間が思うということは、宇宙の一部が思うということだ。そのことは宇宙に思うという機能が潜在しているということにほかならぬ。(人間は間違いなく宇宙の一部であるから)。人間が記憶し感覚し愛し悲しむということは、宇宙にそういう心的機能があるということだ。
 人間が人格を持っているということは、宇宙も人格をどこかにひそみ持っているということだ。
 トインビー(英国の歴史哲学者)は、宇宙の背後に精神的実在を直感する、それは信じるがしかしキリスト教でいうような人格的神ではないという。人格的神でないという事が、ミケランジェロの絵のように肉体を持ってヒゲをはやしたような生物ではないということなら、そのとおりだが、人間の人格(ペルソナ)から推測できるような心的人格をも否定するならそれは誤りだ。
 我々が知る限りにおいて、人間は現在地上に存在するものの中で、最も高度に進化した存在である。この人間の進化曲線の目に見えぬ過去、あるいは未来の極点に原因あるいは創造者としての神、到達点としてのキリスト、神の子の像を想像できないだろうか。とはいえ、やはり聖霊の啓示による外はない。

<神話の中における神>
 「不思議の国のアリス」という誰でも知っている物語の中にでてくる話。何でも猫だったかな、そいつがニヤッと笑って、その顔が消えて笑いだけが残ったという話。
 顔を消して笑いだけを残しておく、そういう映像を頭の中で描いてみると、理屈としては不可能な筈だが何となく分かるような気がする。
 肉体を持たぬ精霊のようなものを空想するのは、そういう抽象力のせいであろうか。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2011-01-11 15:59 | 日岡だより

No.469 新年の感謝 2011.1.2

新年の感謝

 昨年天に送った妻の、今日は誕生日です。天国で地上に生まれた日を懐かしく思い出しているだろうか、それとも地上のことを思い出す暇もなく学びに精を出しているだろうか、などとたわいもないことを考えています。
 世間では、昨年妻を亡くした私は、いわゆる喪中欠礼はがきなるものを送らねばならぬのでしょうが、もともと年賀状をこちらから出す習慣がないうえに、はて私は「喪中」なのか?と思ってみたりなどして、そのままにしておりました。前回の日岡だよりに書きましたとおり、いただいた年賀状は有り難く、控えてくださった方々のお気持ちも有り難く、受け取らせていただきます。
 ともあれ、新年おめでとうございます。今年私は、もうすぐの誕生日で89才となります。
 イザヤ書40章30節に「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」とあります。その後に「まして老人は・・・」とでも続くのでしょうか。しかし、聖書はこう続きます。
 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)
 ハレルヤ! 《く》


【過去の週報より②】(1971.9.26~1975.8.20)
1976年に教会堂が建てあげられ、「キリストの福音大分教会」となります。その週報「キリストの福音」は1977年1月2日より始まり今に続きます。1971年から1976年にかけての発行物は発行も保存も、飛び飛びです。 
      
■一九七一年九月二六日
<東パキスタンの殺人者は誰か?>
 九月二十日の朝日新聞夕刊の三面に大きな写真が載った。それは「飢えに泣く東パキスタン難民」と題して、悲惨な八百三十万人の様子を伝えている。
 東パキスタンの内乱について、私はくわしいことは知らない。政府軍が正しいのか、反乱軍の方が正しいのか、私にはよく分からない。フランスのドゴール時代の文部大臣マルローが、反乱軍の義勇兵に志願したというニュースも、昨日あったばかりだ。いろんなことを考えると、反乱軍側の方が正しいような気もする。しかし、そんなことはともかくとして、この政治のことも軍事のことも何も分からず、ただムチに追われる羊のように、おろおろと逃げまどうばかりであろう最下層のこの民衆たちのいたましさ。
 四分の一頁の紙面にかかげられた、生後五カ月目の赤ちゃんの写真は、余りにもむごい。肉がこけてしまって骨と皮だけの――あのガンジーそっくりな――赤ちゃんの姿は見るにたえない。涙をこらえ、興奮をおさえ、息をころして見つめていると、それは西欧絵画の十字架のキリスト像そっくりではないか。
 ここに、現代の如実な十字架にかかりしキリストがいる。このほほの落ち、目のくぼみ、あばら骨のあらわな生後五カ月(今ぼくらが新聞で見ている頃には、もう生命も無くなっているのではなかろうか)の赤ちゃんを見つめつつ、私は現代に生きる文明人の責任を問われる気がする。
 アメリカや日本では、食糧がふんだんに余っている。そのあり余っている文明の余沢の中で、人間は肥えた豚のように(今日アメリカでは、急進的黒人たちは白人を白い豚とよぶという)ぶよぶよむくんで、享楽とじだらくと偽の自由・平和の中で酔いしれている。
 ぼくらが、おいしくないといって食い残し、最近ではネズミすらも引いていかない一斤のパンを夢にしつつ、かの西ベンガルの沼地で人々は飢えて死んでいく。
 この人を死においやる殺人者はだれなのだ。西パキスタンの軍隊か。東パキスタンの反乱者か。ソ連か。アメリカか。否、……果たして、このぼくではないのか。君ではないのか。
 日本の余った米を送れという声もある。そういう事をどういうわけか日本の政府は取り上げない。人づてに聞けば、いろいろな国際関係のつばぜり合いの中で、送りにくいものらしいし、また実際に出荷したところで、インドの悪徳商人や政治家の間で手からこぼれる砂か水のように散ってしまい、最後の目的たる難民の手許には届かないのだとも聞いた。
 そういうことを聞いても、やはり私どもは一握りの米を送りたい。インドに向う風があるならば、風船に乗せてでも送りたい。そう思うのは子供らしい世情にうとい願いであろうか。
 世界中の民が、共にうれいあい、助け合うべき時代が今来ている。交通機関や通信機関の発達はムダなことではない。ぼくらはかつてのビアフラや、今日の東パキスタンの惨状を我が片手、片足の痛みの如く聞き、知ることができる時代だ。それなら又、彼らを救い、彼らの痛みをとどめようと、心のうめくのも当然ではないか。

■一九七一年一〇月一〇日(大分通信No.2)
<人間を改革せよ!>
 人生とは、平均的に見て、苦しい不如意な淋しい処である。
 そこを喜々として生きる。充実して生きる。不動の生き方をする。そういう生き方は、人は知らず、私には信仰なしにはできない。祈り抜きにはできない。聖霊のご加護なしにはできない。
 活き活きとした人生、その人のまわりで空気が光りかがやいて見えるような人、喜びのうずまきで周囲をなぎたおしているような人、そういう人でなくては、本当の革命はできない。人の心を変え得ない。
 人間の心をますます改革しなくては、道路を作っても事業をおこしても、国際経済や軍事同盟に手を加えてもダメだ。世界の最大の仕事は人の心の改革である。

<キリストに求めよ>
 一切の解決を、キリストに求めよう。
 難関に立って、キリストを忘れ、他に救を求めるは冒涜の業である。
 すべての智恵と力は、キリストの内にかくれてある。
 今も活きて、この宇宙にみちみち、霊界にみちみち、そして我が内にみち給うキリストこそ、私の解決者である。
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by hioka-wahaha | 2011-01-04 10:14 | 日岡だより