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No.464 秋川集会の恵み 2010.11.28

秋川集会の恵み

 先週は恒例の東京秋川集会への旅行だったが、最近足腰がとみに弱くなってきたことと、昨年東京駅での乗換えを間違えたことを周りにさかんに心配されて、今回は次女のせつこに連れられて行ってきた。なーに一人でも大丈夫と思っていたが、実際は「同伴」でなくまさに「連れられて」行ってきたようである。釘宮先生、そろそろ隠居かなあ。
 さて、秋川集会では、主日礼拝、ミニ集会、そして近くの兄弟宅を訪問などして過ごしたが、嬉しかったことは秋川集会を開く赤坂家の長男S君の奥さん、I子さんが洗礼を受けたいと言ってきたことである。
 もう20年ほどになるだろうか、S君が当教会に研修生のように滞在していたのは。2人のお子さんを連れ、良いご一家となっているのを見るのは嬉しいことだ。I子姉は私の話を熱心に聞いて受け入れ、そして赤坂家の風呂場で洗礼を授けた。秋川集会を守る長女の文(あや)姉が感激にあふれた声で祈った。3姉弟にそれぞれの子供、お母さんの律子さん、長年共に暮らす相馬さんもそろったその夜、ここに礎を築いたお父さん、亡き赤坂兄弟の思い出話などを語って更けた。
 今回、羽田と立川の間をバスで移動したのだが、レインボーブリッジや、遠目に見る新宿のビル群など、電車とは違う景色が楽しく、次回もこれで、と思ったことだった。《く》


【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年五月二日
<十字架の教理は>
 十字架の教理は、不条理の教理でありまして、言葉で説くことはオロカなことであります。しかし、このオロカなことをくりかえしていると、いつの日か必ず、「ウム」と分かる日が来ますので、このオロカな業が実は一番カシコイことなのだと神の子たちは知っています。何という不条理でしょう。それが福音の性格です。
 
■一九七一年五月九日
<こういう群になりたい>
 またぞろ悪い病気(?)がおきまして、集会形式を変えようかなどと思っています。
 第一、最近定例的マンネリズム化した集会に嫌気がさしていまして、集会をやめて「集団」化しようかと思っています。
 みんなぼつぼつ、信仰にコケがはえてきまして、ヘドロのようなものが精神生活にただよっています。
 福音的信仰、絶対的救いの確信、非律法的霊的信仰に安住して、ハナ風船をふくらまして昼寝しています。
 自分の信仰は立派なので、そうそう集会に行かんでもいいという自信家がいます。
 一週に一ぺん教会まいりするとあと六日間非常に気分がいいという霊的レジャー型は成績のいい方です。
 かく申す小生の方も、日曜の聖書講義一時間にフウフウでありまして、とてもセンタクもせんでもよい、家族も放っておいてよい、我が預言の声を聞け!というような意気がでません。
 悲しい沈滞が我が群にたちこめています。これを打破するには何が必要だろう。
 祈祷!とか、聖霊とかいう叱咤激励の声はごもっともであるが、中味はともかく言葉としてはチンプでありまして、我らを感激させない。
 五月五日、終日我が身を聖書と祈祷と黙想に委ねました。特にギリシャ語聖書の味わいは蜜の如く甘くあり、またサソリの毒の如く私の心を射ぬきました。以下はその時のメモ。
 三日、四日祈ってみて、少しは顔が輝いていないだろうかと鏡を見る。断食して祈れば少しはマシな人間にならんだろうかと考える。そういう根性は余りにもシミッタレです。そういう偽聖者根性を根こそぎ刈り取りなさい。伝道効果をあげようとか、無理にも判りやすく説教しようとか、そういう集会意識を捨ててしまおう。
 時を定めず、処を定めず、時に応じ処に拠って、志を同じくするものが集う、その集団において神の声をききたい。
 「随所において主を拝す」そういう群でありたい、と。
 
■一九七一年五月二三日
<聖書の学びについて、祈祷について>
 学校の勉強でも予習は大切です。まして、聖書を学ぶこの「学校」では予習を忘れぬようにしましょう。讃美歌などは一度うたってみておいてください。(本当を言うと、一度といわず二度も三度も、二十ぺんも三十ぺんもうたいますとね、何とも言えぬ韻(イン)がついてきます。喉が笛のように鳴って歌がさえてきます。霊唱ともいうべき神秘なひびきを帯びてきます。)聖書も開いて読んでおきましょう。これも音読がよいのです。昔は、聖書など今のようにたくさんあるわけではありません。教会に一冊、村長さん宅に一冊、町の商人の家にマタイ伝分冊が一冊、そんな具合だったでしょう。それで礼拝や集会のたび毎に一人の人が聖書を読んできかせる(ルカ四・一六、一七参照)、それをみんないつしか覚えこめるように、朗誦の仕方もいろいろ工夫され習慣化されていたでしょう。仏教の読経、イスラム教のコーランのように。現代人は、聖書を虫メガネでのぞき込むように研究することを知って、朗誦して聖書の文体のリズムを体得することを知りません。旧約聖書のくりかえしの多い文章など特にそうですね。文語聖書で朗読なさることをおすすめします。
 さて、「主の祈り」ですが、定形化されたものは、讃美歌五六四番にのっています。聖書記事としてはマタイ六・九~一三、ルカ一一・二~四の二つの並行記事があります。この二つの並行記事の差異や、その前後の事情を読みくらべて、不審な点や気のついた事をメモしておいてください。
 それにもまして準備しておいてほしい事は次のメモ
①目下のあなたの祈祷生活の実態(時間・回数・場所・内容・霊的所感)
②今、感じている祈祷上の困難(祈るための困難、形の上で、心のことで、それら一切)
③祈祷に関しての聖書記事で特に感銘していることば
④祈祷に関し、これまで教えられ、又経験した言葉や事例
        *
 さらにさらに、それにもまして準備してきてほしい事は、みなさんの「祈祷」それ自体です。(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2010-11-30 12:18 | 日岡だより

No.463 アウグスチヌスの格言 2010.11.21

アウグスチヌスの格言

 「愛せよ、そして汝の欲するところをなせ」
 このアウグスチヌスの格言はよろしいですね。この「愛せよ」という言葉が大事です。本当の愛である必要があります。
 本当の愛とはキリストによって発する愛です。そのような愛を発することのできる人は誰でしょうか。
 内にキリスト様がお住みくださっている人です。そのキリスト様が愛を発するのですよ。
 はて、如何にしてキリスト様が私の内にお住みになって下さるでしょうか。
 ……さよう、あなたが一言、「イエス様、私の内にお出でになってください」と言えば良いのですよ。
 その一言でイエス様は喜んであなたのうちにお出でになって下さいます。あとはあなたが、イエス様が閉口してお逃げ出しにならないよう気をつければよろしいだけです。
 あなたが「イエス様が私の内に居られるとややこしくて、堅苦しくて、困るなあ」などと言わなければよろしいのです。
 
「そりゃ、言いませんよ、思っても言いませんよ」
「いや、思ってもいけませんよ、イエス様には思っただけでも、あなたの心は筒抜けなんですから」
「えっ、それはむつかしいなあ……」
「いやね……。それなら、イエス様、あなたが大好きです、と言っておるだけでも、それでもよいのですよ」
「へえ、そうですかい。そんなら、やさしいですなあ。それを実行しましょう」
「そうそう。やってください。毎日、毎時間、できれば毎分。起きてる時はいつも………」
 
 ……こんな会話を思いついて書いてみました。落語か漫才みたいで、上品ではないですけれど、案外受けるんじゃないかなあ、などと思ったのですが、どうでしょう。
 信仰を堅苦しく考えないで、こういう風に楽しく毎日の生活の中に繰り込んで、「イエス様、あなたが大好きです」と口癖になるまで、やってみるのもいいですね。
 そして、そういう心の中にイエス様は喜んでお住みになり、その人の心や体をだんだんと変えてくださることでしょう。
 この会話のあとで、この人、癖になり調子が良くなって「イエス様大好きです」と言い続けました。そしたら奥さんから
 「いいじゃないの、気分がいいなら。あんた、そのうち信心も本物になるわよ、そして運も向いてくるわよ」と言われました。
 ・・・本当? 《く》

 
在天者祈念礼拝
 
 先週の主日礼拝は在天者祈念礼拝だった。先に天に召された方々の写真を飾り、ともに礼拝する恵みはなによりであった。
 今回驚いたことは、祈念礼拝の御案内を送らせていただいたところ、そのお返事に訃報があったことである。土岐武子姉の御案内をお出しした土岐賢治兄、そして林正貴兄、新田千代姉、林ジュン姉の御案内をお出しした林正貴兄の御長男の輝夫さん。
 土岐賢治兄は別府から足しげく教会に通ってくださった。体の衰えから宇佐の息子さんのもとに移られてから、まだ一度もお訪ねしないままだったのが悔やまれる。教会にある写真から御夫婦の写真を探して今回いっしょに飾らせていただいた。
 林正貴兄は、いつも語るとおり、この教会のいしずえを築いた方と言っても過言ではない。鶴崎集会の会場を提供してくださり初期の信徒となった。御長男の輝夫さんは毎年のように写真をもって在天者祈念礼拝に御出席してくださっていた。
 昨年の11月に亡くなった江良昇兄、12月に亡くなった国井キノ姉、そして今年2月に召された我が愛する妻トミさんの写真もともに飾った。
 懐かしい方々の顔をともに眺めていると、我が教会の天における軍団も充実してきたなあと悦に入った。ますますこの地上に残った私たちの戦いを支えて欲しいと祈ったことである。
 礼拝後、有志で別府霊園での墓前礼拝を営んだ。いつも寒い墓前礼拝だが、この日は珍しく暖かく晴れていた。別府湾を望み讃美歌を歌う。彼我の境がうすい。《く》


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by hioka-wahaha | 2010-11-20 09:03 | 日岡だより

No.462 天に在る聖徒の祈り添え 2010.11.14

天に在る聖徒の祈り添え

 御生前、イエス様を信じる信仰に生きて居られた方々は、今天国に召されて、三位一体の神様の御栄光のそばに、そのご祝福に満たされて、お過ごしのことでしょう。
 今日は、特に天国におられる方々を覚えて、その方々と心を合わせて、主を誉めまつる礼拝を献げたいと願って居ります。
 もちろん、今日だけではありません。毎週の主日礼拝のみならず、毎朝の早天祈祷会、週日の祈祷会、またしばしば個人的に、特に会堂で祈りたいと願うそれぞれの方々が、会堂に詣でて祈っております。
 そうした方々の祈りがしばしば答えられて非常な恵みに浴することがあります。そうした時、先に召されて、今、天にある方々のお祈り添えを感じることが多いのです。
 今日は特に当教会の信徒一同、天にある聖徒の皆さんに感謝の言葉を差し上げるとともに、今後共、天にあって、この教会を愛し、御援祷くださり、信徒一人一人を守護天使として見守ってくださるようお願いいたします。
 父なる神様、救い主イエス様、聖霊様、この祈りを御前に献げます。アーメン。《く》
 (在天者祈念礼拝にあたって)


【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年四月四日
<受難週>
 この日より、受難週に入ります。輝かしい復活祭の日曜日(四月十一日)を目前にして、主キリスト様のご受難の日々をしのび、断食や克己的修行をこの週にする人が多かったのです。形式主義に流れる恐れはあるけれどもやはり良い習慣だったと思います。
 どうぞ、みなさんもタバコをやめるなり、酒をやめるなり、テレビの娯楽番組を見るのをやめて良書をひもとくなり、病床の友に手紙を書くなり、小さいわざでもよい、イエス様へのご恩がえしのつもりで試みてはいかがでしょう。
 特に、金曜日を祈りぶかく、慎んですごすことは意義ふかいことだと思います。

■一九七一年四月一一日
<主はよみがえられた!>
 毎年、復活節(イースター)ともなれば、口ぐせのように言う
ことですが、この国ではもうクリスマスは俗化してしまって、どうかするとお祭りさわぎのクリスマスに教会すらも妥協してしまって本当にイヤです。
 イースターは西洋では(特にラテン諸国では)俗化して鼻もちならぬ風俗になっているようですが、日本ではまだまだ純粋さを保っていまして幸いです。
 復活節とは、単に開祖の奇蹟的復活譚を回顧して、自慰的信仰生活の季節風をあおることではないのです。
 「主は実によみがえりて、我らの中にも現われ給えり」と叫ぶ日のことを言うのです。今日!

<勝利の生活を求めて(二)>
 祈祷の第二の要点は、聴従ということです。
 祈祷の第一要点は静聴ということだけれども、これは何も深山荒野に行って一人森閑として祈れなどと形だけのことを言っているのではない。
 最近、今橋淳先生のお母さんが緑内障で失明寸前に至ったとき、東京の今橋先生に電話をかけられた。電話機の向うで愛をもって叱り激励なさる息子の今橋先生の言葉の中に神の声をきいた。激痛と不安のどん底で神の声をきく。これも静聴です。体はあわてふためいていても、心のカラがわれているのです。
 それは息子の今橋先生の言葉の中に、真理を聞こうとするお母さんの意思がしっかりしているのと、今橋先生の「手術はしてはならぬ。活けるキリストを信じなさい」という言葉に全く従おうと決心されたからです。
 本当を言うと、神の声を聞くことと、全く従うということは全く一つのことでして、全く従うから聞けるのでもあるし、聞いたからこそ従えるのでもあります。
 かくて、今橋先生のお母さんの緑内障は全くいやされた由を、先生の個人証誌で拝読しました。このように、今も「我らの中に現われ給う」キリストこそ、実に復活のキリストであります。
 「主、きたりたまえ!」
 
■一九七一年四月一八日
<勝利の生活を求めて(三)>
 「神はじめに天地をつくりたまえり」これが聖書の一番はじめに出てくる言葉です。
 神は無より有を呼びだし給う創造者であります。その神は今も尚働き給う。天地自然造化の神として。また、我らの内によき業を為さしめんとして働きたもう内在の神として。
 「創造的精神」という言葉は、最近のはやり言葉です。しかしもともと、利己心、表現欲、征服欲、出世欲より触発された創造的発想法だの人格転換術だのというものは、サタンの入れ智恵でありまして、それによって生じるしばしの達成感・幸福感は果実のみのらぬ仇花にしかすぎません。
 本当の創造的精神は神にのみ由来します。神の創造霊が私どもの内に働き、それがはじけるように活躍するとき、「みよ、古きはすぎ去り、新しくなりたり」というような人生がおこるのです。(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
■一九七一年四月二五日
<愛が義を包んで>
 預言者ホセアは紀元前七百年代の人で北朝(当時ユダヤは南北朝の二国に分かれていた)に生まれた。
 残念ながら奥さんが多情な人で、生まれた子供も自分の子か人の子かわからぬ始末。あげくの果て三人の子供を家において若い男と逃亡してしまう。そういう荒廃した生活の終局はテレビでも見るような具合で、遂に男にだまされ、ドレイに売られ、他国にいって体を売る最低の惨状―――
 ユダヤの律法では、そういう女は有無を言わさず捕えて石打ちの刑で殺したっていいのです。それをホセアは金を払って買いもどしてきて、また妻とするのです。許し得ないものを愛し抜こうとするホセアの生涯。
 このホセアが出現するまでは、ユダヤの宗教は律法のきめつけのきびしい宗教でした。そこには、神の正義が高調されて神の愛が説かれませんでした。
 愛が義を包んで、正義の要求を受け入れつつ、悪と罪をゆるしていこうとする弁証法的な愛の働きは、ホセアの家庭的悲劇を通して教えられるのです。
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by hioka-wahaha | 2010-11-16 09:33 | 日岡だより

No.461 キリストの信仰により 2010.11.7

キリストの信仰により

 ピリピ人への手紙、第3章9節を拝読しましょう。
 「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。
 このお言葉の中で1行目から2行目にかけての短い句、「キリストを信じる信仰による義」というお言葉を、私の解釈ですが、原文から直訳的に訳しますと、「キリストの信仰による義」となります。
 「キリストの」の「の」は、原文は「所有格」です。ですから、「キリストの持っておられる義」ということになります。
 くどいですが、大切なところですので、ご注意して、読んでください。「自分の信仰ではなくてキリストが持っておられる信仰」というお言葉になります。
 本当の「信仰」はキリストが所有される信仰です。このキリストの信仰に私たち自身を埋没させれば、そこに私たちの信仰を発見できます。
 私たちの弱い小さい信仰にビクビクしないで、イエス様の信仰に私の信仰を預けて、大胆に信じて生きて行くのです。《く》


 
【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)

■一九七一年三月一四日
<花より愛でにし我が子よ!>
 これは明治以来、多くのクリスチャンに愛唱された讃美歌である。特に一九〇三年版においてはフォスターの名調に合わせて、いわゆるヤソぶしと冷笑(?)された特有のこぶしをふるわせて老人たちが歌った。四部合唱で器用に歌う教会音楽風の讃美歌とちがう、ああいうクリスチャン演歌調も今活かされてもいいのではないかと思う。一九三一年版の讃美歌では木岡英三郎の模範的伴奏曲がついて誰もうたわなくなってしまった。
 私は今、あたらしい日本人のうたう、心の讃美歌求めている。
 
■一九七一年三月二一日
<不惑の年>
 孔子は四十にして惑わずと言った。私は四十をすぎてから迷いを生じたように思う。二十三才の晩秋回心してより十数年、私は何の迷いもなくまっしぐらに私の人生を進んだ。
 私は今も私の回心をつゆだに疑っていない。あのとき私の胸裏におこった魂の革命は、パウロやアウグスチヌスやルターや内村鑑三におこった神の干渉波と全く同じである。
 しかし、人間は鼻持ちならぬペダンチックな野郎で、そういう体験にすぐ教理をくっつけ権威づけをやり、そしてその外側の装飾に固執する。
 その固執より離れようとする活動が四十代の私の惑いとなった。
 
<年配者よ!>
 年間で最も商売の忙しい時期でありまして、しばしば本職の「伝道」の方をおびやかされます。いろいろ不行届きのことが多いのですが、ごカンベンください。
 若い時の信仰は偏狭で馬車馬のようにセッカチで鼻息があらい。中年になると、世間に妥協して灰色の(白でも黒でもない)信仰生活に堕しているくせ、自分では最高の信仰のつもりで頑固に自分を守ってゆずらない。
 年とって、世間というものを十分知った年配で、もう一度青年のように求道生活にもどろうではないか。マホメットは四十すぎで回心して立教した。石田梅岩の霊的目ざめも中年以後である。年配者よ!若がえれ。
 
 
■一九七一年三月二八日
<復活のキリスト>
 ブルガリヤ地方では、牛乳を軒先につるして自然発生の乳酸菌をつくり、これを食べて世界一の長寿村を作っています。その乳酸菌が体内に入って他の有害菌を退治して健康を保つのです。
 キリストもまた復活して私どもの心の底に内住して、私どもの心に巣喰う肉欲・傲慢・悪を退治し、病気や小心をも追い出してくれます。
 キリストの復活が単なる昔話なら、何にもなりません。でもキリストの復活は過去一回きりの昔話ではなく、今も私どもの内におこり、脈々として生きるイノチであるのです。(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
 
 
■一九七一年四月四日
<勝利の日々を送る(一)>
 日々の生涯を勝利の人生としよう。勝利の人生とは何ぞ。人に勝つことではない。サタンに勝つことである。サタンに勝つには、勝利者イエスを見上げることである。
 「我すでに世に勝てり」こうイエスは言った。そのイエスの心を、我が内に迎えるとき、私は私を制することができるのである。
          *
 信仰生活の第一歩は「祈り」にある。祈りの模範の一人はサムエルである。
 「しもべ聞く。主よ語りたまえ」
 こう言って神の声をきくとき、サムエルの祈祷の第一課が始まった。
 祈りとは勝手気侭に神様におねがいすることではない。祈りとは無念無想とか称して半眠りになってただ坐していることではない。祈りとは、強烈に思念をこらして万事心のままに成就せしめるという心霊術ではない。祈ると何となく気分がすがすがしくて健康上大いによろしいという人がある、そんなことでもない。
 祈りとは、まず第一番に、神意は何か、神は何を語りたもうか、それを求めて心の耳をすますことを言う。騒々しく主よ主よ!とわめきたてて霊的気分をかきたてることを祈りとは言わない。「静まりて神の言を待て!」(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2010-11-09 09:20 | 日岡だより

No.460 死のからだ 2010.10.31

死のからだ

 ローマ人への手紙第7章、特にその後半は、使徒パウロによる痛烈な人間の肉性に対する忌憚なき攻撃であることは、少しでも聖書に慣れた方々はよく承知しておられることでしょう。こう、パウロは言うのです。
 「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
 わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙第7章22節~24節)
 手厳しい言葉ですが、本当は己が罪の意識に苦しむパウロ自身の魂の真底からの嘆きの叫びです。死ぬにも死にきれない血を吐くような叫びです。
 私自身、福岡の刑務所の独房の中で苦しみ悶えたのがこれでした。自殺しようにも自殺する力もない、無力感のどん底で苦しむのです。それが死のからだと言うものです。《く》

 
 
【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)

■一九七一年二月二八日
<信仰の三つの型>
 信仰に次のような三つの型があるようだ。
 第一番は修業して真理の門を開く方である。自力の修行一本槍でやるわけではない。いつかは真理の方より働きかけてくる聖なる光により心眼を開かれるのであるが。
 第二番は信心ひとすじの人である。おのが罪と無力に絶望しきってただひたすら主の救にすがるタイプの信仰である。
 第三番は聖霊の濃密な干渉に人格が一変する、新しい聖なる血汐に体中の血液が入れかえられてしまった底の人である。
 どの型の信仰も正しいのだと思う。すべては主のご恩寵である!
 
<詩篇第八〇篇について>
 「ゆりの花のしらべにあわせて」うたわれた詩篇だという。何という、うましい素晴らしい詩篇であろう。
 先週の週報にも書いたとおり、ヘブルの詩は情感いっぱいの詩である。だから、ここにあるのは、歴史ではない、神学ではない。神にそむいて、苦しんで、人にさげすまれ、人にうばわれ、こらしめられて、そのドン底で神を求めて、その御顔の光に照らされた経験のある人でなければ、とうてい書くことのできない詩がここにある。我らの魂が、これらの詩篇に全く心の底より共鳴共震するときの素晴らしさ!
 
<無畏心>
 「あらゆる種類の恐怖を
 投げすてることによって
 あなたのエネルギーが充満する
 そしてエネルギーそれ自身が
 根本的な内的革命をもたらすから
 あなたはただ
 それにまかせていればいいのである」
    ――― クリシュナ・ムルティー ―――
 この詩句を畏友J君が送り届けてくれた。
 おのれを捨て、カラッポにして、無私の我を貫通して働きたもう神の御手に一切をゆだねよ……そのように言うは正しい。しかし、どうしておのれを捨て、おのれをカラッポ(虚)にするか。瞑想か、ヨガか、行か。
 いや、おのれを捨てるとは、案外手ぢかのこと。
「恐怖をすてる」ことである。
 右の詩句を式にすると次のようになろう。
心-恐怖=エネルギー→エネルギー×全托=自由

 かつて………
 旧師手島郁郎は言った。
「信仰とは神による無畏心である」と。
 手島先生については、いろいろ批判もあるが、キリスト教信仰にこういう男性的ストレイトな信心を発見したことはえらい。
 昔時、信仰とはかたくなまでの屈従心によって、文字通りにキリストのいましめに従おうとすることであった。この道すじは、時には聖フランシスのようなすぐれた聖者を生みだしたが、又、トルストイのような悲劇的人物をもつくりだすのである。忍耐と剛気の精神のない近代人の幣である。
 そこで宗教的改革者→バルトの系譜にみられるようなキリスト論的受容という屈折したみことばの受入れがはじまる。それは福音主義的信奉と言えるが、しかしイエスや使徒たちの信仰とは水準のちがいが感じられる。
 今こそ、新しい、そして復古的な福音信奉が必要である。キリストの血の力がダイレクトにのぞんで来て、あらゆる恐怖心が霧散して、私は一個の枯骨になりきり、そして内的エネルギーに復活する、そういう福音の力が必要である。その時、かのシベリアの一寒村に死んでいったトルストイの悲劇は二度とおこらないであろう。(一九七一、二、一六)(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
■一九七一年三月七日
<終末論>
 終末をごく短時日に予期していたパウロや初代教会の人々の思わくはすっかりはずれて、ローマ体制は延々と続く。教会はローマ帝国に勝ったと言えるが、逆にまたローマ体制にのみこまれて、それに妥協してしまったとも言える。そのあらわれこそローマン・カトリックのゆるぎなき姿である。
 当然すぐにも到来すべき終末の遅延に即して、却って信者たちの終末観は純化する。自分たちが生活の上でアンノンとくらして文化を享受できるその時代の中に、終末を感じ取るのである。そして、その時代に反逆するとき、まことに終末的人生がやってくる。これが実践的終末論である。
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by hioka-wahaha | 2010-11-02 12:08 | 日岡だより