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No.455 三井文勝君、ご祝福を祈ります! 2010.9.26

三井文勝君、ご祝福を祈ります!

 先週9月23日、三井敏嗣兄の兄上である三井文勝師の牧師就任式および按手礼に参加してきた。広島県の大竹バプテスト教会主任牧師として招聘され、このたび赴任したのである。
 三井兄弟の兄として、当教会に時折出席されたので覚えておられる方もあろう。柔和な笑顔の、ついでに言わせていただければ童顔なので、ついうっかり三井兄弟の弟さん?と思い間違ってしまう。
 神学校に入学したい、とお話しを聞いたのはいつのことだったろう。このたびの式典でいただいた経歴を見ると着々と神学校での学びを果たし、その後も教会奉仕を通じて経験を積んでおられた。
 そして、最近記憶力の衰えた小生のことなのでお許し願いたいが、私が洗礼を授けたことを忘れていた。経歴を見てびっくりしたことである。
 だが、種を撒き、育てたのは神である。見事に実を実らせ、そして今度は次世代の実を育てるために神の器として用いられていくのだ。文勝君、いや三井文勝先生、今後の働きのうえにご祝福を祈ります! 《く》

  
愛国の預言者エレミヤを想う(2)

 矢内原先生の「余の尊敬する人物」ほど、当時の私の魂を打った本はありませんでした。この本に載せられた人物を参考までにあげますと、エレミヤ、日蓮、リンカーン、新渡戸稲造です。続「余の尊敬する人物」ではイザヤ、パウロ、クロムエル、内村鑑三です。
 特に仏教者である日蓮の名が出てくるのは、矢内原先生の深い意中がうかがえます。この本の出された日中戦争の時代、いわゆる国粋主義者たちのいらざる批判介入を避けるためにも、仏教者としては無類の愛国主義者だった日蓮の評伝を入れておくことは、出版元岩波書店共々安全策であったに違いありません。
 しかも、為政者である鎌倉幕府の圧迫にめげずに、真理のために戦った日蓮こそ、先生にとり、共感に堪えない人物だったことでしょう。この日蓮の評伝を書いた末文だったと覚えていますが、
 「誰が真の愛国者であったか、後の歴史で明らかであります」とありました。これを書いた時の矢内原先生の武者震いが目に見えるようであります。
 私がこの本を買ったのは、ちょうどしばらく東京に滞在していた時でありました、私は十八歳、慣れない東京のど真中でキョロキョロしていました。折しも銀座の教文館でこの本に出会いました。岩波新書(赤版)の第一号だったのです。
 大分に帰るには、当時飛行機などありませんから、JR、じゃない、国鉄のつばめにでも乗って帰るのです。その特急つばめの車中で、この本をじっくり読んだことでしょう。
 この本で、私は初めてと言っていいほどの感銘で、エレミヤに触れたのです。旧約聖書中の預言者の一人として名前だけは知っていましたが、この強烈な個性の人物にぶっつかって、私は震え上がりました。そして、日々が経つうちに、私の中に異常な興奮が起こりました。
          *
 日蓮が北禍来を予期して元の来冦を予言した時のように、エレミヤはバビロンによるイスラエルの北禍来を予言し身悶えして叫びました、ああ、この愛国の預言者の生涯。私は奮い立つ思いでした。エレミヤの後に続いて、「私は小さい者だから、大預言者の真似をして高ぶっているとそしられる恐れはあるけれど、私も叫ばざるを得ません」と立ち上がろうとしたのでした。
 その時、私の口に思わず出た言葉は、
 「義を知りて、この世にあれば、我も又、
  一小預言者とならざるを得ず」。
 五七五の和歌調の私の歎声です。私の二十歳の時の述懐です。一小預言者! 僅か二十歳の若僧が何をぬかす。引っ込んでおれ。そう言われるのは、判りきっています。「身のほどを知れ」と嗤われるでしょう。
 日本が軍国主義に邁進している時代です。当時の、日本の社会の雰囲気は今の人には、到底、想像つかないでしょうが……、「一億一心」と、よく言われていました。日本人は上からの権威の唱導にうかうかと従いやすい。七十年ほど前の国内の雰囲気です。しかし、
 私は集会などで、言ったものです。「私は聖書に従って言います。戦争は止めるべきです。神様の御旨に反します。多くの牧師やクリスチャンが、『戦争に協力せよ、飛行機を献納せよ』などと、政府に煽られて教会でしゃべっているが、これは聖書に反しているよ。絶対いけない。『あなたがたの戦いは、あなたがたの内なる罪から出るのだ』と聖書にある(ヤコブ四・一参照)。戦争は悪から出るんです」と。
 私は、このことを考えに考えて、クリスチャンや牧師先生がたに、言って回りましたが、多くの先生がたから、忠告されました。
 「釘宮君、そんなことは今は言わないほうがよい。危ないよ、今は忍耐の時なんだ。」
 私はこの「今は忍耐の時だ」という言葉には随分迷いました。牧師先生がた皆さんがおっしゃるので、本当にそうだろうかとも思いました。もし、そうであるなら「戦争はしてはいけないよ」など言わないですむ。牧師先生がたが言うのだから、黙っておこうか、そうすれば私は神様のまえにも責任はないような気がする。余程、そうしようと、何度思ったか知れません。《く》(つづく)
 
【おしらせ】 (◆は当教会の行事)
◎10/14(木)PM7:30~ 大分カルバリチャーチにて「ゴスペル・タイム」   
・サックス奏者:ロン・ブラウン  ・ゴスペル歌手:レミー・K・エイブラハム  ・スピーチ:滝元明師  
・チケット:一般1000円・学生500円(小学生以下無料) 連絡先097-569-5163
◆10/10~11:秋の信徒一泊セミナー(別府照波園にて) 
◆11/7幼児祝福式 
◆11/14在天者祈念礼拝・墓前礼拝
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by hioka-wahaha | 2010-09-28 12:57 | 日岡だより

No.454 愛国の預言者エレミヤを想う(一) 2010.9.19

愛国の預言者エレミヤを想う(1)

 あの大東亜戦争、今は太平洋戦争と呼び換えているが、あの戦時下で、クリスチャンたる私どもが生きるのは、なかなか生き苦しかった。いや息苦しかったと書き直したいほどに、そう、息も満足に出来ないような不自由さを感じたものです。
 だから信仰の弱い人たちは、教会に行くのも止めたでしょうが、信仰とは不思議なもので、どれほど周囲の人々から白眼視されても、弱々しく世間の隅っこで生きているような老婦人などでも、日曜日には毅然として教会に行ったものです。
 それでも教会自身に対する政府筋からの干渉は厳しい、日曜礼拝の唯中で東方遥拝をせよと言う。
 九州の大分では天皇様の居られる遥か東京に向かって敬礼を捧げることを東方遥拝と言う。だから学校などでは毎朝、教員も生徒もみんな運動場に集まって、国旗掲揚、天皇の居られる皇居に向かって遠く礼拝する、それが戦時中の学校行事の第一番でした。
 さて、私の行っていた教会でも東方遥拝をすることになりました。時々、教会の礼拝に警察の刑事がスパイに来るんです。信徒はともかく牧師はビクビクです。そうした時、私は頑固です。牧師、信徒一同、東京のほうに向かって、「最敬礼」ですが、私は黙って突っ立っていました。
 極端に言うと、これだけで警察に引っ張られる可能性は充分です。私自身が私の責任で警察に引っ張られるのはともかく、教会の責任者である牧師の迷惑は当然のことです。牧師も責任者として、また参考人として警察に呼び出されるのは目に見えています。私は、その辺でもう教会出席を止めることにしました。その旨、牧師先生に挨拶に行きましたら、先生もホッとしていました。
          *
 こういう時に、私を励まし、自信をつけてくれたのは、旧約聖書のエレミヤ書です。
 私がエレミヤのことを知り、聖書のエレミヤ書を学んだのは、矢内原忠雄先生のお陰です。矢内原先生は内村鑑三先生の直弟子ですが、当時すでに内村鑑三先生は天に召され、矢内原先生は独立で聖書研究会を指導されていました。
 時代はもう日中戦争が始まっています。政府の正式呼称はまだ支那事変でしたが、天皇が宣戦の布告をすると、国内的には正式に戦争になります。
 国内はもう、戦争気分で、国民は「勝った、勝った」で浮かれている時代でした。その後、対英米の宣戦布告をして大東亜戦争になります。アメリカから言わせれば太平洋戦争です。アメリカのほうが、視野と呼称がはっきりしている。これがアメリカが勝った原因だと私は見ています。
 矢内原先生の、その当時出した本が「余の尊敬する人物」です。出版は岩波書店です。この本で私は目が醒めるのです。
 あの時代、こういう本を出すとは矢内原先生の覚悟はともかく、岩波書店の岩波茂雄さんの覚悟も大したものです。岩波は既に岩波文庫を出していましたが、それに続いて岩波新書を出しました。この本は、その新しい出版スタイルの第一陣として世に出されました。
 この「余の尊敬する人物」に、預言者エレミヤのことが出てくるのです。内容には随分、矢内原先生や、出版の岩波さんの考え深さもうかがえる編集になっています。
 この時、同時に出したのがクリスティーの「奉天三十年」ですが、これも矢内原先生の翻訳です。当時の矢内原先生や岩波さんの覚悟が目に見えるようです。
 
 私が今も持っている古い「奉天三十年」を見ますと、初版の発行が昭和十三年十一月十二日ですが、この本は昭和二十一年二月二十五日第七刷発行となっています。日本敗戦の翌年、その頃の私の日記を見ると、母と一緒に畑に行ったなどとあります。平和ですね。
 ぼつぼつ、戦災孤児たちと一緒に、防空壕跡などで共同生活を始める頃です。母におむすびを作って貰って、時々持って行ってやっていました。《く》
 

 (1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(7)

 その頃、十一月二十三日はニイナメ祭と言って祭日であり免業日であった。その三日前から私は、第二章の後半に書いた地獄的自問自答に明け暮れていた。その絶望的状況のまま三日目を迎え、休日のほとんど終日、苦悶のうちに暮れる。
 私は今でもその時を思い出す。もしその時私のそばに時計があったなら、ジョン・ウェスレーと同じようにその心に不思議なあたたまりを覚えた時刻を正確に言い得たと思う。不幸にして、刑務所の中でそばに時計はない。それは夕暮れ時で、窓の外の桐の枝に雀が集まってくる頃であった。
 私は宝物をさがすような目つきで、聖書を開いた。その時、コリント人への手紙の中に、「キリストすべての人に代りて死に給いたればすべての人すでに死にたるなり」という聖句が私の目を射た。そして、いつもとは違って、その聖句が私の魂にぐいと入り込んできて、有無を言わせず私の「本質」にその通りですとうなずかせる大きな力を働かせたのである。
 神の言葉の最大の特長は、言葉がそのまま実現するということである。ワッと来て一挙にそのとおりの事態を造りあげてしまう。「キリストすべての人に代りて死にたればすべての人すでに死にたるなり」と聖書が言うとき、その言葉がそのまま私の魂の中で実感として体得される。
 だから、三日前の、原理的に人が救われる事を承認するが自身の事は信じられないというのとはまるで反対に、人の事はどうでもよい、神学はどうでもよい、理窟はどうでもよい、とにかく私はすでに死んでいる、罪に染んだ古い私はもう死んでいる。死んだやつのために今更なげく事はない。すべては過ぎ去った。今私にある生命は新しいキリストの生命であると実感する。そのような事実が突如として私の中に起こったのである。(つづく)
   (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-09-21 11:00 | 日岡だより

No.453 われ聖なればなんじらも聖なるべし 2010.9.12

われ聖なればなんじらも聖なるべし

 口語訳聖書では「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」とあります。ペテロの第一の手紙第1章16節にあるみ言葉です。
 しかし、標題にした「われ聖なれば、なんじらも聖なるべし」とある文語訳の聖句は、私たち年配の者の心には焼きついています。
 口語訳のみ言葉は分かりやすい点は良いのですが、心に訴える強さでは文語訳にかないません。聖句を暗唱するときには文語訳のほうが良いですね。
 神様を信じ、イエス様を主と仰ぐ私たちは、そのみ言葉を心にしっかりと抱いて、日々に従い行く者でありたいです。
         *
 その時、この「聖なるべし」というお言葉は、なんと気高く私どもの心に響いて来ることでしょうか。
 とても私たちには、及びもつかないことであるですけれども、しかも天の神、主イエス様のように聖(きよ)くありたい。
 この望みは、絶対ですね。主を信じ、主を愛する私たちの当然の願いです。とても達し得る境地ではありそうもないけれど、しかも是非とも与えられたい。
 イエス様、あなたの聖(きよ)さを、私どもにお与えください。お分かちください。
 切にお願いいたします。
 私の貧しい理解ですが、神様の愛と義が一つになるとき、それが聖なのだと思います。
 その聖の何百万分の一でも良いですから、神様に頂きたいです。神様、是非! 《く》
 
 
(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(6)

 ああ、この人間の心のきわみなくあわれな卑怯さよ! しかし私は遂に追いつめられてこの質問、お前は果たして信じているのか、信じていないのか? という執拗な訴究にまる一日悲しみもだえた。そして遂に私は答えた。「私は信じる。彼を信じるものはその信仰により救われるという事を。しかし! それは一般的真理、信仰の法則として承認しているというにすぎず、私ひとりのことについて言えば、私は信じていない!」と。
 こう心の中で答えた時、その一瞬、私の前に地面がわれて奈落の暗黒の底が開き、地獄の炎がメラメラと燃え上がって、私はそのどん底に突き落されていった。その霊的事態を私はまざまざと手に取るように見た。私は悲鳴を上げてころびまろび、「我は生まれざりし方がよかりしものを」と言い、しかも自ら生命を絶つ気力も、また生きながらえていく気力も失せて、ヌレ雑巾のようにペッタリと地べたにはいつくばっている自分を見た。私はこの絶対的な絶望状況の痛ましさを、いま思い出すだけでも胸がつぶれる思いがする。
 後年、私が多くの人に挑戦するたびにこのことがおこった。かってジョン・ウェスレーがモレビアン派の人に問われ、わが内なる声であれかこれかと問われたように、今度は私がその魂の中軸にグイと問いかける。そうすると歯医者に行って虫歯をつつかれた患者のように多くの人が悲痛な叫び声をあげる。見ていて痛ましいけれども、こうするより他に手はない。霊的外科治療である。
 たとえば、ある青年は長い信仰歴(?)を持ち、神学校に行き伝道さえしていた人だったが、不幸(或いは幸いか)にも病を得て病床に呻吟する時、私は問うた。「君は救いの確かさを持ったか。信仰とは一般的教理を承認しているとか、洗礼を受けているとか、教団に属しているとかいうこととは違う。神と直接顔と顔とをあい合わせてみることである。神とのプライベイトな交渉、愛の交わりのあることである。そして魂の壁にその愛のしるしの聖痕を受けていることである」と。
 彼は不治の病の宣告を受けたよりもまだ驚いて、私からもらった苦汁をなめ、私をうらみ神をうらみ、ついに山に逃れて自殺しようとさえした。このような人が、確実に見事にタシカな信仰に突入していく時、私は「この汝の兄弟は死にてまた生き、失せてまた得られたれば、我らの楽しみ喜ぶは当然ならずや」と神と共に喜ぶのである。
 また、ある人はこうだった。私の挑戦の言葉を聞いて、彼の心はくらく沈み、外に出てみれば、太陽は明るく花は咲きかおっていても、しかし太陽はドスぐろくよどみ花は毒々しくしおれているかのごとくしか感ぜられず、もんもんの日を送って昼はフトンをかぶって泣き、夜は野良猫のごとく外をさまよい歩き、神との対面を待った。神よ、あなたの息吹きにふれ、神よあなたの胸に抱かれ、あなたの心臓のコドウをきくまでは、私の魂は休みを得ませんと迫った。鹿の谷川の水をしたいあえぐがごとくわが魂は活ける神をぞしたう、と旧約聖書の詩人はうたうが、正にしかり、死んでいる神ではない、哲学者の神でも神学者の神でもない、活きている庶民の神と抱きあい、彼のひざに憩い、彼の永遠の乳房に吸いつくまでは、我らの魂はあえぐが如く苦悶するのである。

          三
 
 それは昭和十九年十一月のことだった。その頃はすでに敗戦前夜であった。福岡市には既にアメリカ空軍の空襲があっていたかと思う。私は数え年二十三才であった。聖フランシスの回心と同年である。私はその前後、宮崎安右ヱ門の「聖フランシス」を読んでいた。自ら托鉢乞食をしていた宮崎安右ヱ門の聖フランシス伝の文章はみずみずしく、ことにその序文を書いていた西田天香の文章が格別に印象的であった。
 当時、私は刑務所の厳正独居房にいて、封筒はりとか手袋かがりとか軽作業をもらっていた。退屈な独居生活であるから、雑役(同じ囚人であるが兵隊で言えば班長のようなもの)のウケがよければ仕事をたくさんくれる。ウケが悪ければ仕事を少ししかくれない。
 仕事のひどい雑居部屋の連中にしてみれば、免業日は仕事は無いし、映画や講話などもあって、結構楽しい日なのだが、独居房の囚人は時間をもてあます。厳正独居の囚人には映画も講話も何もない。風呂も一人一人バスに入る。何かの拍子で呼び出されたり、検診を受けたりすると、それだけで嬉しいヘンな生活である。
 (つづく)
   (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-09-14 14:41 | 日岡だより

No.452 主よ、来たりませ! 2010.9.5

主よ、来たりませ!

 三位一体論はキリスト教神学の中で難しい論議だと思います。私はもともと神学校なんかには、てんで行っていない素人牧師ですから、こうした論議にはついて行けません。
 ですけれど、素人だからこそ大胆に言ってみる度胸もあります。三位一体論は人間自身を顧みて見ればよく分かります。
 人間は神に似せて造られた存在ですから、人間自身をよく見ると、その似せられている箇所がよく分かるのです。
 人間自身の中心である「私自身」は、人間の中のどの部分にありますか、調べて見ようにも、どこを調べて良いか分かりません。「私自身」はどこにも、見つかりません。
 同じように神様ご自身は、どこにいるのか、宇宙全体どこを捜したらよいのか見当がつきません。総宇宙、もろもろの宇宙と言い替えましょうか。これは神様の体のようなものですが。神の造られた天と地を指してます。
 似た姿ですが、「私自身」も、この宇宙に似ています。「私自身」が、この私の中の何処に居るのか、それこそ全く見当がつきません。私は行方不明です。
 しかし、「私自身」が私の中に存在することは明らかです。私を離れて、私の外に私が居るとは思えません。
 
 神様が天地を造られた時、どこにも材料は無かったはずです。神様は無から天地を創造されたのです。
 しかし、ただ一つの例外、人間だけは土から塵(ちり)を取りあげて造られたとある。塵(ちり)というのも、最も小さい物という意味であろうか。何も、つまらないもの、打ち捨てられたゴミやつまらないものということではなかろうと思う。
 
 創世記を読むと、人間以外の生物はすべて大地の自動生産力によって生み出されたように見える。
 しかし人間だけは前述のように、神様の御手によって土の塵を材料にして造られたのである。
 そして造られた人間は、神の息を吹き込まれ、生きたものになったと聖書にある。
 息は聖書では霊であり、イノチである。
 息はイノチの表現であり、証明ではあるが、そのものではない。
 赤い血にしても然かり。イノチそのものは見えないのである。それはイノチの表現であり、証明ではあるが、イノチは見えない。
 イノチはもともと神の息であった。息は神の分身である。そして人間の子孫に長々と引き継がれ、永続して今日に至っている。
 しかし、人間の始祖アダムは罪を犯した。そこで、罪は人類の子孫に遺伝され、人類は罪の保管庫になってしまった。
 この人類を罪より救うのはイエス様以外にはない。イエス様はキリストである。
 僕は大胆に言うが、キリストとは神が人の世に生まれた、そのお姿である。神様がそのまま人間世界にご意志をもって降臨された、それが人間の世界では処女マリアの体にイエス様が宿ったということになる。
 イエス様が神様の独り子という表現は誤解を生みやすい。神様が女性のようにおなかにイエス様を宿してこの地球に産み落された? そんなことではない。
 直言すれば、神様ご自身がこの地球にお生まれになったということである。
 天におられる父なる神は霊なるご存在であって、姿はない。その姿こそはイエス様に見ることが出来る。父なる神様は霊的ご本尊(良い言葉ではないが)として、昔もイエス様の当時も、現在も天に居られる。
 今はイエス様は天に帰って居られる。父なる神様の側に並んで居られる。そんな風に考えるのは迷信である。
 父なる神様は霊なる存在で、形としては見えないお方である。その父なる神様が地上に降臨なさると、イエス・キリストとして私たちには見える。だからこそ、イエス様は神様ご自身である。(ここは私の極言であるが、ご理解乞う)。
 イエス様は言われた、「父と私は一つである」と。もし、私が今、天国に行ったら、そこにイエス様が居られて、私をウェルカムして下さると思う。
 「イエス様、神様は?」と問うたら、ご自分をさして言われるだろう。
 「ここに居られるじゃないか」
 私の信仰によれば、父なる神様は、全宇宙(この天文学的宇宙ではない)、ご自身の創造されたこの総宇宙を見下ろされ、かつ共存して、御祝福くださる。
 その息吹のもとに私たち凡てのクリスチャンは健康で、楽しい、戦闘的な神の国の兵士として、この地上に生きている。そして来たるべき「主の日」を待ち望んでいるのである。ハレルヤ! アーメン!
 私たちには、この叫びしか無い。
 「マラナタ!(主よ、来たりませ!)」《く》

 
(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(5)

 ああ、あのころは私も苦しかったな。当時私は、二十才くらいの青年、大きな店舗を守り、株の配当や何かで生活は至極アンノン気楽太平、静かで平和で、私の生涯における最も楽しかるべき時代であったが、実は私の一生において最も苦しいさびしい時代であった。この悲しさは酒も女も金もなぐさめる事はできない。里見弴ではないが、私は「墨汁一斗を飲み込んだような気持で」野良犬のように精神の寒夜をほっつきまわる自分を省みて声もなく泣いた。
 はじめの方で書いたが、聖パウロの言葉「私はイエス・キリストを信じる信仰、この信仰によって私は救われた」―――この言葉が私の心に決断を迫った。こういう時、返事はキェルケゴール風に、「あれかこれか」しかない。人間はこういう時、たしかな返事をする事を恐れてその返答を明日にのばしていく。(つづく)
   (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-09-07 15:06 | 日岡だより