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No.451 本を読む癖をつけよう 2010.8.29

本を読む癖をつけよう

 私の一家は、しばらく別府の山辺のほうに住んでいました。父が喘息で、医師に転地療養を勧められたからです。
 私は当時、小学校就学前だったでしょう。近くの家に小学6年か、中学校1、2年くらいの兄ちゃんがいて、よく我が家に来てくれました。
 それは、私のために父が買ってくれていた幼年雑誌を私に読んでやるためです。私はそのお陰で読書の喜びと、その習慣がついたのだと思いますが、今でもその兄ちゃんを思い出します。
 今思えば、彼の住んでいた家は貧民窟の長屋の一軒でありました。その子は自分の家では子どものための本や雑誌を買ってくれる余裕はあるはずもなく、私のために本を読んでやる奉仕の形で、少なくとも本が読める、その喜びの故に来てくれて居たのでありましょう。
 彼が途中で「ああ、腹が減った」と言って、自分の家に帰り、お釜からご飯をすくい、鍋から味噌汁をすくって、そのご飯にぶっかけてムシャムシャと食べながら、「ああ、おいしかった」と大口をあけて喜ぶ様子を聞いて、子どもの私は羨ましくてなりませんでした。
 わが家で私がそんなことをしたら、一返に母親から叱られます。「おなかが減ったなら、おなかがへったと母ちゃんに言いなさい。いつでも、ご飯くらい食べさせてあげます。自分で、勝手にご飯を取って食べるなんて不作法なことをしてはいけません」という訳です。
 ところで前記のように、その彼がよく我が家に来て、私のために本を読んでくれました。そのことを私の父や母も喜びますし、「あの少年は良い子だねえ」と褒めていましたが、私も喜んで彼の読書奉仕に耳を傾けました。
 後々の私の読書狂も、この少年のお陰だったのだなあ、と今にして思います。私の幼年生育期の大恩人ですが、その後、私ども一家は大分市に移転、その恩人の少年には一言の感謝もせず、別れっぱなしです。申し訳なかったなあと、よく思います。
 ともあれ、良い信仰の書物に触れることは、人生途上において言葉に尽くせぬ恵みですし、信仰のために大きな助けです。現代はテレビ等の情報源は多いですが、それにしても書物がやはり一番ですね。そしてもっとも大切な書物は聖書です。《く》
 
 
(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(4)

 彼は言う、「聖書の言葉は私をあざむいた。私は聖書を読んだら浄い立派な人間になると思ったのに、かえって罪ぶかい強欲な自分を思い知らされるのみで、あたかも聖書の言葉はカミソリの刃をのみこんだように私の内側でアチコチの肉皮を斬りさいなんだ。この死の体より我を救わんものは誰ぞ。私は一に一を足し二に一を足して三とするように、自分自身を義人にしあげ聖者にしたてようとした。そしてその結果は全くあべこべで、ますます自己不満自己絶望におちいってしまうだけであった。私は零の零、落第坊主だと一人さびしく泣いた。しかしその時になって、やっと少し分かりかけてきた。ああ、私は本来ゼロではないか、ダメな死の体ではないか。ヤセがまんするな。頑張るな。神の大愛の前にへたばってしまえ。私はこの死の体を踏み台としてその上に立ち高く両手をあげて主の救いの手を仰ぐのである」
 私がキリスト教の信仰を求めていた時に、非常に参考になった、というよりは、私の魂を叩き激動させた本が三つある。その一つが如上の原田氏の雑誌。次にジョン・バンヤンの「恩寵あふるるの記」。もう一つは石原兵永の「回心記」である。後の二冊の本は二つとも今も新教出版社から出ているから御一読を望む。
 ジョン・バンヤンは三百年ほど前の英国の人である。時代も国柄もだいぶへだたりのあることであるから、この人のことは割愛しよう。石原兵永は今も生きてキリスト教の無教会陣営で活躍している第一線の人である。この人の「回心記」は、現代ふうな一人のインテリが内面の苦悩(神と真理から突き放されているという自己罪責感)から、突如救われていく、(しかもいわゆる神秘経験というべきものではなく)、めんみつな記録である。
 私は一つの魂が回心する前後についてのこれほど詳しい胸にせまるような文章を他に見たことはない。そこには外面的な苦悩、貧乏、病気、不和といったようなものは何一つない。平凡な英語教師の純粋な心の内面だけにおこる、しかし想像を絶するような肉を斬り血をしたたらすが如き激しき苦闘の精神史がある。ゆえに、具象的なこの世の救いやテレビ化され得るような劇的な救いを求める人は、この本には失望するであろう。しかし真に人間の魂の奥底における安定、解放感を求める者には、まだまだ長い間よき伴侶の書となるだろうと思う。これは日本のキリスト教界において古典となっていい本だ。
 とはいえ、今私はその「回心記」という本を、誰かに貸し出していて手もとに持っていない。だから、その文章を引用することもできなければ、またその必要もないのであろう。ただ、私はこの本にある一つの重要な「断層」について語りたい。
 石原兵永がなんということもなく、内村鑑三にふれ、その聖書研究会に列席し、前節の原田美実氏の述懐にみられるような苦渋に満ちた精神生活におちいっていく……。そのあたりの記録が半分か三分の二かつづく。それを読む時私は人の文章を読むような気持がしなかった。あたかも自分の日記を見るような思いにかられて、体はこきざみにふるえ、汗のにじむような感動でそれを読んだ。
 ところが、そのような苦渋な内面の葛藤が追いつめられしぼられてくる極限で、突如文章が切れる。彼もついに書くことができないのだ。そして次の行にいきなり、怒濤のような平和、喜び、確信が彼の内にみなぎり、ペンからほとばしり出るのである。私は目をみはる。何事が起こったのだ。私はできることならその一行あいている紙の中身をはいでみたい思いだ。「父子不伝、不立文字、直指人心」といわれるある事態がそこにおこっているのだ。その一行の空間の秘密! 私はそれにむしゃぶりつくように求めながら窓ガラスに頭をぶっつけて外に出られないハエのように苦しんだ。蟻地獄の中で蟻がいくら這い上がろうとしてもズルズルともとの処に(地獄の底)すべり落ちてしまうように。
            (つづく)
   (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-08-31 16:05 | 日岡だより

No.450 御霊に燃やされる―イエスキリスト福音の群夏期聖会― 2010.8.22

御霊に燃やされる
        ―イエスキリスト福音の群夏期聖会―
 
 去る8月12日~14日、イエス・キリスト福音の群の夏期聖会に、上木兄と同道して参加して参りました。会場はイエス・キリスト福音の群宮崎教会、講師は生駒聖書学院・学院長の栄義之先生です。
 栄先生のメッセージは、クリスチャンたるもの、イエス様の御霊の賜物を頂いて、日々の生活に勝利せよという熱烈説教でして、心を燃やされました。亦、伝道の使命感に後押しされて、何処へでも出かけて行く、兵士的クリスチャンの姿を魂に印刻されて、武者震いさせられたことです。
 いつもながら、宮崎教会の優れた設計の会堂に感嘆しながら、聖会の霊風に身を委ねつつ、2泊3日の日程を終えましたが、信徒の皆さんの親身なご奉仕に安んじて少々我が侭に過ごしましたが、感謝に堪えません。
 最終日、上木兄に付き添って頂きながら、青島まで観光旅行の付録を試みましたが、何よりも青島の、あの不思議な波風岩の隊列に「自然の不思議な営み」と口ずさみかけて、「あ、そうでない、これこそ神様の妙なる恵みの御業」と称えたことです。
 やはり、旅は楽しいですね。特に主にある旅は。信仰の友と共に、主を称えつつ往く旅は。《く》


(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(3)

 友よ! ウェスレーは後にメソジスト教会をおこし、世界はわが教区なりと叫んだ宗教的偉人である。その彼がなんと答えていいか分からなくて閉口したのである。そして深い激しい不安が彼をおそう。
 ハンス・ブルンスという人の「回心の前後」という本を見ると(新教出版社刊)、「回心の瞬間を知っている人はまれである」というが、(私はそれほどまれだとは思っていないが)、ウェスレーはその希有な例の一つであるという。
 前述したように、ジョン・ウェスレーはモレビアン派の著しい信仰体験にふれて大きな驚きと不安におそわれて以来、さて、どれくらい期間がたったのか私は知らないが、それほど長い期間ではないらしい。一七三八年五月二四日「夕方私はあまり気が進まなかったが、アルダスゲイト街の集会に行った。誰かがルターのロマ書講解の序文を朗読していた。八時四五分ころであったか、キリストに対する信仰によって神がわれらの心の中になしたもう変化が語られた時、私の心が不思議にもあたためられるのを感じた。私は私のたましいの救いのためにキリストにのみ信頼したと感じた。私の罪と死から救い給うたという確信が与えられた……」かくて現在一千四〇〇万人の信者をかかえるというメソジスト教団の開祖(?)ジョン・ウェスレーが生まれたのである。
 こういう例をあげればキリがない。アウグスチヌスの告白録を見ると、彼の回心の記録が出てくる。ルターの経験も有名だ。一世紀前のフィンニーが聖霊の注入をうけて回心したという話は有名である。
 私は若い時より、切にこのような「救いの確信」を求めた。回心とは異常な霊現象ではなくて(それを伴うこともあるけれど)神に直接ぶっつかったような奥深い魂での経験である。汚辱にみちた人生、罪意識にさいなまされる心、神から全くみはなされたという魂のノイローゼからすっかり解放される(新約聖書で救いと訳されている原語は多く「解放」という言葉である)―――いや解放されたという確信が突然胸の裡にわきおこって来る経験、これを回心という。
 キリスト教世界では次のようなことがおこりやすい。いや多くおこっているのだ。
 「ただ信ずれば救われる。だから信じなさい」「ハイ信じます」―――こうして信者が製造される。彼の信じるというのは「神は実在する」という教理の承認であったり、信じたと思いこむことであったりする。「神は唯一なりと信ずるか、悪鬼もかく信じてわななけり」と聖書のヤコブ書に出てくる。そういう信じ方なら悪魔でもそう信じているのだ。
 私が回心する寸前はこんな具合であった。「ただ信じなさい。信ずれば救われる」このキリスト教の常套語はまた当時の私の唯一の道標の言葉であった。「私はイエス・キリストを信じる信仰によって救われた」と、コリント人への手紙だったかな、聖パウロが書いている。この言葉が私の心を探った。私は自分がキリストを信じているのかどうか分からなかったのである。信じているなら救われているはずであるし、信じていないなら救われていないはずであるという論法である。ところで果たして私は信じているのかどうか。信じたいとは思っているが、またキリストが私の救い主であるとナットクし承認はしているが、そしてまた信じているとは思っているが、どうも信じているという確かさが無いのである。信じているという確かさは、救いの確かさである。それは前に述べたウェスレーが聞いた言葉「あなたは心の中に神の証しを持っていますか。あなたが神の子であるという証しを聖霊によってあなたの心に与えられていますか」ということと同じである。
 今ここに、原田美実という人の個人雑誌「基督」第二〇号がある。ずいぶん古い雑誌だが、内容は今に至るまでも決して古くない永遠の真理の輝きを放っている。この人は始めキリスト教の牧師をしていて、のちに教会を出て(あるいは追い出されて?)独立伝道をしていた人で、ほとんど世に知られることのなかった快男子であった。
 さて、今述べた雑誌のことだが、その号は特集号になっていて巻頭言から裏表紙の広告に至るまで一つのテーマを取り扱っている。いわく「キリスト教の信仰の根本問題――救のたしかさ」。その終りのあとがきでこう言っている。――「信仰信仰といいます。ただ信ぜよ、信ずる者は誰も、みな救われん、と太鼓を叩いて叫んでいます。然り、唯信ずるだけに相違ありません。しかしながら経験から言いますと、なかなかそうアッサリと行かんものです。ただ信ぜらるるまでは、なかなか、太鼓や歌調子では行かぬものです」
       (つづく)
      (※以上は1971年の文章です。)
 
【おしらせ】
◎小冊子「神は愛なり」・・・内容は昨年日岡だよりで連載しました「主の御名を呼ぼう」です。釘宮トミ牧師夫人の召天記念に、釘宮牧師の書き下ろしのあとがきをつけて小冊子化しました。印刷が少々粗くなってしまった分が残っています。ご希望の方に無料でお送りしますのでお申し出ください。(一冊は送料も無料)
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by hioka-wahaha | 2010-08-24 16:50 | 日岡だより

No.449 8月15日! 2010.8.15

8月15日!

 今回の本紙の発行日はちょうど8月15日です。「ちょうど」と言うのは、先週の本欄で書きました敗戦記念日のことです。「敗戦」という字は好きではありませんが、しかし素直に「敗戦」を認めることは良いことですね。相撲でも、将棋でも、はっきり自分の敗北を認めることは、次回の再起と勝利を期待させるすばらしい姿勢です。
 日本は、それまで日清、日露、第一次世界大戦参加、上海事変、満州事変と連戦連勝だったというわけで、負け知らずで威張って来ました。少なくとも日本国民はそのように政府から聞かされて、心が驕っていたのです。
 私はまだ、その頃は少年期、当時の少年雑誌に心を奪われていました。当時の少年雑誌と言えば、講談社の「少年倶楽部」です。毎月、心を躍らせて発売日を待ったものです。何よりもあの頃の講談社の社長には小国民(当時子どもたちをそう呼んだ)に対する愛情と教育感覚が溢れていました。
 「少年倶楽部」に連載した山中峰太郎の「敵中横断三百里」など、その頃の少年で読まなかった子は居なかったでしょう。(因みに山中峰太郎は陸軍士官学校出身の、そしてクリスチャンだったという変わり者ですが、この人の軍隊物は人気がありました。体も精神も軍人向きでない男が軍隊に入って、当時は男子国民の義務でしたからね、そこで苦労するユーモラスな物語など。この人の信仰告白自叙伝は読ませるものがありましたが、私は失って今、持っていません、古本を捜しています。)
           *
 さて、文章を8月15日に戻します。この日は、新聞などでは「終戦」と呼んでいます。私はこれには反対です。冒頭に書いたように「敗戦」です。
 あの日のことを思い出します。戦争は末期になっていました、ということは我々国民はだれも知りません。新聞、雑誌、ラジオは完全に政府に統制されています。(書き添えますと、当時にはまだテレビはありません。早いニュースはラジオだけが頼りです。空襲警報などラジオにかじりついたものです)。
 どんづまりの昭和20年8月になっても、「なあに、アメリカ軍が来たら、本土決戦だよ。日本に上陸させて、そこでコテンパーに負かしてやるんやわ」、などとうそぶいていました。
 だから、8月15日、「今日は重大放送がある」と、ラジオが言うと、国民は、殆ど「いよいよ、本土決戦か。」と、心を決めたものです。そこへ正午だったか、「天皇様のお言葉です」とアナウンサーの声、「ええっ?」と思っているうちに、聞き馴れないヘンなアクセントの日本語ですよ。我々は初めて天皇の日本語を聞いた訳です。
 「ははア、皇室人というものは、こういう話しぶりをするものか」と感心しているうちに、「どうも可怪しい、何を天皇さん、しゃべっているのか、分からん……」。
 しばらくして、「アッ」と思った。どうも、日本は負けたと言ってるらしい。しばらくして、叫びというか慟哭というか。そして「怒り」の声も起りました。
           *
 その時、私は大分駅前の日本通運という会社に勤めていて、その会社の中で皆でラジオを聞いたのですが、「なんと言うことか」という声が上がりました。「敗戦宣言」への批判です。しかし、それは一人の男の声だけだった。あとはみんな押し黙っていた。声など出るはずはない。日本が負けるなんて、考えてみたことも無かった。前代未聞のショックです。
 これは今の日本人には思いも寄らない不思議な当時の日本敗北にたいする日本人一般の対応でしょうね。「なんということを言う。日本は負けたなんて日本人の言うことじゃないよ。死んでも言えんぞな」。
 天皇さんを悪くいう人はいなかった、総理大臣以下、何をしているのか。天皇に負け戦宣言をさせておいて、自分らはこっそり黙っている。今まで我々国民が苦労して戦時下を支えて来たのは何の為か、怒りが込みあげてきて、総勢で「コンチクショウ」という声も起った。
 しかし、次の一瞬、一同呆然として腰を抜かした感じです。それまで「一億一心、勝ち抜くんだ」と言っていた気合が風船玉のように抜けてしまって、仕事も何もする気が無くなってしまう。特に私の働いていたのは、当時としては国鉄に結びついた国策的な会社ですから、いったんお国が負けたなどという状態になると、仕事をする気も、まったく無くなってしまうのです。
 社員一同、がっくりして仕事に手がつきません。みんな、やる気をなくして、会社の外に出ました。いつもなら無断早退ということですが、何も考えないまま、庶務に届けもせず、家に帰ってしまったのです。
           *
 ともあれ、「戦争反対」の意図をはっきりと持っていた私は、戦争を止めるという政府の宣言には賛成でした。しかし、祖国が遂に戦いに敗れたという事実には、悄然としました。自分の「非戦論者」としての立場はとにかく、自分の国が戦いに敗れたことについては厳しい観念と、今後への不安と、自分自身、如何にこの国を支え護って行かねばならないかという「身の丈の合わないような」不相応な使命感ですが、心は緊張し震えました。
 当時の私の気持ちは、幕末の頃の吉田松陰などの尊皇論者に似ています。この国を支えるのは自分たちだという使命感です。しかし、私には「自分たち」という同志がいませんでした。
 あの大東亜戦争中、私の一番参ったのは孤独感です。正直、あの時代、日本の戦争体制に疑問を抱く人は一人もいませんでした。少なくとも私のまわりには、私の非戦論を理解し、私を応援してくれる人は一人も居ませんでした。教会の牧師だって、当時の国策に反対する20歳の若増など迷惑至極、近寄ってくれるなという、私への態度でした。
 しかし、私は恐れませんでした。孤独ですが、キェルケゴールではないが、「勇士は独り立つ時、強し」です。私にとっては、ただ一人の肉親である母の存在だけが心配でしたが、これも神様に委ねました。
 その頃の私の作った和歌に(短歌ではないですね)、「義を知りてこの世にあれば我れも亦、一小預言者とならざるを得ず」というのがあります。私は現代日本のエレミヤなんだと、自分に言い聞かせていました。そのような私に近づいて、共感する人も、励ましてくれる人もいませんでした。
 私が刑務所にはいってからは、かつて父と信仰の友であった牧師さんがたも、家に一人残る母に慰めに来てくれる人はいませんでした。こういう時の政府官権の怖さは今の北朝鮮などと同じでしょう。当時のクリスチャンや牧師先生がたを非難する気は毛頭ありません。
 クリスチャンなんて者はアメリカの手先だ、死んじまったほうが良いんだ、というようなその頃の世間の目に抗して生きることは容易でありません。お米や繊維品などが配給制度になると、クリスチャン家庭への割り当てが忘れたふりをして他に廻されるなどということも起ります。こうして飢餓感というものが、一時的でなく半年も1年も続くと、本当にお腹と背中がくっつくような気持ちになるものです。
 こういう時にも、「いつも喜んでいなさい」というようなみ言葉に立って生きる力はどこから出ますか。信仰です。イエス様を心の中心に頂き、イエス様が私の霊力を振るい立たせてくださる信仰、私は前年の11月23日の夕刻、その信仰を神様から頂いていました。
 信仰とは自分の心で決心することではありません。それが端緒かもしれません。しかし、その信仰が心の中心に滲み入ってくると、イエス・キリスト様が私の中心に棲んで下さっていることが分かってきます。極端な場合は、本当にイエス様が私の魂のどん底に突き込んでくることを全身が震えあがるほどに体験することがあります。
 そうして「歓喜」が起るのです。宗教体験としては日本の日蓮さんが「歓喜の中の大歓喜」と告白していますが、さあ、クリスチャンの皆さん、日蓮の真似ではない。日蓮さん以上の「歓喜の中の大歓喜」を頂こうではあませんか。どなたから頂けますか。私たちの主、イエス・キリスト様に外なりません。アーメン、ハレルヤ! 《く》
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by hioka-wahaha | 2010-08-17 16:07 | 日岡だより

No.448 日本国民精神の作興を祈る 2010.8.8

日本国民精神の作興を祈る

 来週の主日は8月15日で、敗戦記念日です。終戦ではない。大日本国の屈辱的敗戦を祈念する日です、私は呼びかけているつもりなんです。この小さい「日岡だより」では全日本人に周知させるには全く力量不足で恥ずかしくて残念ですが。
 ところで、この文章を書いた翌日、キリスト新聞第一頁の論壇(社説)を読もうとしたら、その大見出しになんと「65回目の敗戦記念日」とチャンと書いてあった。その執筆者である湊(東京女子大前学長)先生に向かって遠く頭を下げた。「ご免なさい。先生がとっくに敗戦と使ってありましたね」と独り言したことです。
 さて、次の問題語は「平和」です。今、「平和、平和」との掛け声は地球上を覆い尽くしている感じですが、なぜそんなに「平和、平和」と叫ばねばならないのでしょうか。今すでに、世界は「平和」じゃありませんか。
 勿論、平和と言ってもトルストイさんなどが言ったかも知れない理想的な永遠の世界平和を唱えているわけではありません。
 地球上あちこちに国境争いや種族間の問題は無いことはありません。しかし、通信、交通、運送、これらが国際間に一応無事に運用されている以上、これを平和と言わずして何を平和と称しましょうか。今は世界は「平和」だと言ってみても、誤りではありません。
 現代、大国間同士が戦争すれば、多分お互いに核爆弾の叩きあいになりましょう。そうしたら、各国の企業や市民の財力で作り上げた、各生産機能も一斉に崩壊され、市民の住宅や全財産、彼らの贅沢な生活堪能物資もすべてを含めて、一挙に吹っ飛んでしまうでしょう。
 そんな馬鹿な戦争をおっ始める国があったとしても、打って返すように原子爆弾で打ち返され、地球上あらゆる国々に戦火の嵐が吹きまくることになるでしょう。
 そうなると、政治に目覚めた人民諸君の非難の声が全世界から上がり、各国政府はあわてて平和宣言でもしますかな。
 以上、幼稚な紙芝居風に描いて見ましたが、要するにこの発達した贅沢三昧の社会を擁する国々は、もう戦争なんかコリゴリ、一切するはずがないんだ、と簡単に書いてみたわけです。
 戦争など、そんな愚かなことをする政治家は世界から無くなりますよ。要するに先々のことはともかく、現代の世界を見てください。かつて地球が経験したことの無かった平和が今、全世界にもたらされています。過去の地球の歴史にこんなに平和が全地球を覆いつくしたという時代があったでしょうか。
 我々の棲むこの地球はこれまで、こんな平和な自分を見たことは、歴史上一回も無かったのです。ですけれど、こんなにも潤沢無類な平和が続く時、かつての地中海世界を握ってローマの平和を造りあげたローマ人たちが、自らの果てし無い享楽に身を投じて折角の高度な文明社会を荒塵に帰したように、目を覆うばかりの悲惨な文明がこの地球を襲う時が来るかもしれません。これは又、人類の英知を信じかねる一小牧師の悲観的見通しですが、こんなことを言っては、多くの人から叱られそうですが、
 聖書は言います。「人々が平和だ、無事だ」と言っているその矢先に、突如として滅びが彼らを襲ってくる」(第一テサロニケ5:3)。念のため、もう一度、書きます。使徒パウロが書いた書簡の一部ですが、言わく「人々が平和だ、無事だ」と言っているその矢先に、突如として滅びが彼らを襲ってくる」(第一テサロニケ5:3)
 パウロが言っているのは、主の日のことです。地球最後の日です。かつて内村鑑三先生や矢内原忠雄先生が、預言者のごとく叫ばれた、「日本は滅びる、世界は滅びる」との、その言葉のように、時が近づいていると言うのはあまりに悲観的予測でしょうか。しかし日本は今、危機に面しています。
 その現象の一端は国民精神の道徳的崩壊現象です。日本では大正12年に「国民精神作興詔書」という法律が発布されたことがありますが、今日、一牧師として「国民精神作興」の声を高く上げたいのです。
 民族の道徳的廃頽こそ、現代の世界の推移を示す上で最大の恐怖です。それが世界を滅ぼすのです。国としても切羽つまって国民道徳刷新の訴えを広く国民に示すべき時が、もうそこに来ているのではないかと思います。いかがでしょうか。《く》


(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(2)

      *   *   *
 一八世紀の英国に帰って、私達は一人の人物の「信仰歴」を見よう。
 彼の名はジョン・ウェスレー、彼は大学の神学科を卒業してすでに教会の司祭であり、また母校の教理学の教師!であった。
 彼はある時、伝道の為にアメリカに行こうとして大西洋上にあった時、暴風が彼らの船を襲う。彼は顔色をなくして恐れ戦いている時、同乗しているドイツのモラビアン派の人々は牧師も信徒も子どもたちも平和で勇敢で沈着で愛と喜びにみちているのを見た時、彼らの信仰と彼の信仰の質的相違をまざまざと思いしらされたのである。
 ウェスレーは立派な神の子になろうとしてなれなかった。平時にはそのように見せかけていたかもしれなかったが、死がかいま見える非常の時にはそんな見せかけ信仰はいっぺんに化けの皮がはげてしまった。しかるに、あのモラビアン派の人々はどうだ?
 ウェスレーは彼らの指導者から聞いた、その時の胸をえぐるような、しかも彼がなんと答えていいか判らない当惑させられた言葉の一つ。
 「兄弟よ!あなたの心の中に神の証(アシュアランス)を持っていますか」
 ウェスレーはそれまでそんな事を考えてみもしなかったのである。
            (つづく)
 (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-08-10 16:18 | 日岡だより

No.447 日本古代の宗教意識を想う 2010.8.1

日本古代の宗教意識を想う

 今朝の早天祈祷の最後の時、エレミヤ51章を拝読した。ここで教えられるのは当時のイスラエルの人たちが偶像に心が傾いたことである。何故だろう。
 日本では朝鮮から仏教が入った時、日本の民衆は金で造られた仏像の美しさに心を奪われたと、当時の記録にあったように記憶している。それでは、それまでの日本人の宗教は大和の伝承の神道であったとして、たぶん原始的素朴な信仰スタイルであったのであろう。神像等があったとしても華美なものではなかったのであろう。そこで朝鮮から来た仏像にびっくりしたのだ。
 さてそれでは、その古代の大和民族が拝んでいた対象は如何なる物であったのだろうか。
 例えば、大木をご神木と唱えてこれを拝んだりしたのだろうか。あるいは石を、特に大きな特色のある岩などを拝んだであろうか。あるいは、既に太陽や月や山を拝む習慣ができていただろうか。
 それらの対象の奥に、なんらかの目に見えないものを想像して拝むという信仰も発生したかと推測できるが、そういう傾向は各民族の原始宗教のなかにも見られるかも知れない。
 目に見えない大地の底に、あるいは天空のかなたに、無限者の存在を尋ねた古代人が居たとすれば、これは興味深いことである。
 時間の移り変わりや、またその流れの基礎にどういうエネルギーがあるのか。どういう法則があるのか。そういう点に目を留めた宗教意識はあっただろうか。月日や年月の変転、そこから暦と、それにつらなる運命の変転を占う宗教の発生も伺うことが出来る。
 それを更に突っ込むと、時代の趨勢の背後に偉大な神の意志を悟ろうとしたイスラエルの預言者たちの宗教が生まれる。また更に、人類の終末的運命を読み取ろうとする使徒たちの信仰の源流を見い出すことができよう。《く》
 
 
(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(1)

          

 「衝撃の告白、私の初体験!」というヤツを書こうと思う。
 ハンセン氏病作家北条民雄の小説の名前を借用すれば「いのちの初夜」である。
 別稿「目ざめ」の中で言えば、第一回の回心の記録なのである。できるだけ、くわしく書いておきたいのだが、その前文として私の「事業を活かす信仰」という小冊子の中の一文より少し抜き書きする。
      *   *   *
 僕は商家に生れた。父は本当にすばらしいクリスチャンだったが早く死んだ。父の兄にあたる伯父も無教会派の豪の者だった。
 この伯父は、父が死んだあとの我が家の商売を無私なる心で後押ししてくれて、僕がどうにか少年期を終える頃に死んだ。僕の母は善良だが根ががんこな、そしてぐちの多い教会信者。僕は母の故に教会信仰を嫌い、父や伯父の気風を受けついで預言者風の信仰を求めた。
 僕はひとりっ子として育ち、ひとりっ子らしく気弱い惰弱な人間だったと思う。そしてわがままだった。僕は小説家になりたくって進学を嫌った。
 母は僕を商科系の学校に入れたかったのだが僕はそれを避けた。進学しようと思えば、どうにか試験に受かるだけの学力はあったと思う。母はいつまでもそれを惜しがる。
 僕はそんな時に、否定的な態度をとることにがんこであった。気弱な人間が無理に豪傑らしく振る舞おうとするとそんなふうになるのらしい。
 はじめに書いた無教会の伯父は、大きく店をはっていた。伯父が死んで、僕の従兄がそのあとをついだ。従兄と言っても親子ほど年の違う人で、今考えれば本当に僕のためによくしてくれたと思う。その従兄の店に僕は商売の見習いに行った。商売の世界は僕にはなじめなかった。一年ほどすると、まったく息もつけないような気持になって家出をしたことがある。
 少年時代以来の親友M君が厭世哲学におちいって、敢然と(と僕にはそう見えた)自殺したのもその頃のこと。その影響から僕はますます暗い人間になった。折から日本は太平洋戦争に突入するという時代。僕は内村鑑三やガンジーやシュバイツアーの文章にあおられて反戦論者となる。
 僕が刑務所に入れられたのは、兵役法違反と出版言論集会結社取締法違反。いったい何をしたのですかと問われると、いつも困る。兵隊に行きたくないので自殺しかけたのだが、そう白状するのはまるで意気地なしのようでどうも恥ずかしい。
 僕が自殺するについては、吉田松陰などの影響もあって天皇や為政者への諫死という気分が多分に強かったのだが、そういうことを今言っても人は分かってくれまい。
 刑務所の中で僕は回心する。「愁いある獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」―――とうたった、僕のあの経験を今も忘れ得ない。
 僕の父は破産した逆境のさなか、きたない倉庫の中でむしろをしいて祈っている時、火事になったかと驚かされるほどの不思議な光芒の中に主の臨在を拝して回心したという。それほどの濃密な霊的風光ではなかったにしても、僕の当時の回心は明確であった。 *1

           

 もう一つ、書きそえておきたい。これも私の古い文章より借用する。
 キリスト教でいう「回心」とは何か。
 一般的宗教用語としての「回心」という言葉とキリスト教でいう「回心」とはちょっと違うように思う。また同じくキリスト教の中でも、普通の月並みな教会で使う回心と聖霊体験した人の使う回心とは大いに違う。
 私が「回心」という言葉を使う時は、ハッキリした瞬間的体験として使うので、これだけでも、ある人々にはショッキングであるらしい。私はしばしばこの体験を語って、月並みな信仰で満足しているまじめな信者さんに挑戦しておどろかせ怒らせ、また当惑させ悩ませた。これをしないと本当のキリスト教的な意味でいう伝道はできない、と私は思う。(つづく)
      (※以上は1971年の文章です。)
 
*1 「事業を活かす信仰」あとがきより。同じ文章が日岡だより381号に記載されています。
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by hioka-wahaha | 2010-08-03 09:42 | 日岡だより