<   2010年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

No.429 私の父と伯父のこと 2010.3.28

私の父と伯父のこと

 私の伯父、釘宮徳太郎は大正初年の頃だろうと思いますが、大分市公設市場の場長をしていました。大分市の公務員である訳ですから、あの傲頑な性質の伯父がよく勤まったと思います。後日、商工会議所の専務になった時にも、東京の商工省に行って大臣の執務室に挨拶もせずに入って行ったという噂もあったくらいです。
 しかし、その頃、私の父はこの伯父に散々いじめられて、どんなに怨んでも当然のような時期でしたが、父は急激な聖霊体験で信仰に入った時です。
 如何なる伯父の迫害にも、ニコニコして悠然と対応する父に伯父はすっかり魅せられて、聖書を読み始めます。そして父の通う教会に行くのは残念なものだから、東京遊学時代に聞いていた内村鑑三先生の無教会主義に没頭します。
 その後、彼が出したしろうと作りの伝道雑誌が「日毎の糧」です。公設市場の場長が作る雑誌らしい名前でした。その後、彼は本当に信仰が分かってきます。そこで改題した名前が「十字架の光」です。生活と商売の場で毎日がチャンチャンバラだったと、ある人の批評にあります。
 そうした彼が、その後、また改題する題名が「復活」です。彼の信仰の推移がよく分かる題名の変化です。彼は世と一切妥協しませんでした。
 彼の妻、私の伯母ですが、その妻が天に召された時には、その葬儀を自宅の広間で自分が司会し、自分で告別の聖書講義をしました。毅然たるものでした。これが私の伯父、尊敬する伯父です。《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
【日記】2(1969年)

8月24日(日)晴
 聖日である。早朝、主より説教主題をたまわる。いわく「われを仰ぎのぞめ、さらば救われん」。これは有名なスポルジョン回心の聖句であるので、参考までに彼の伝記をひもとき、彼の偉大な生涯に感嘆した。されど主よ、汝はスポルジョンを啓発したまいしその同じエネルギーを投じて、この小さき僕を育てたもうのであります。感謝である。
 集会は定刻開会。人っ子ひとり来なくても、秒針を見つめるようにして定時カッキリ開会するのは、私の二十年来の習慣である。十数年前、町村会館における伝道集会での妻のほか一人も来会者なく、夫婦二人でおごそかに且つ感謝をもって開会祈祷したことがある。ああいう時の、神気せまる感動は伝道した者でなくては分からない。
 本日の集会説教では、不思議な霊感あり、それ程感動しなくてもいい時にも、涙がこもり、不覚にも何度か泣きそうになった。会衆の諸君も同様であったらしい。
 閉会後、記念撮影、同勢九人の少人数であるが、これを「小さき群」と思わず、「大いなる群」の一尖兵なりと心得よとは、本日のお示しであったのだ。
 午後、釘宮保兄より私の病気につき問合せの電話あり。ご心配ありがとう! されど、傷つきてもなお、前衛の兵士は行くべきなのであります。
          *
 昨日刈った坊主あたまに加え、今日はむかし愛用していた一灯園風のひっぱりを着た。これを着ると、何となくスッと体が大地にはまりこむみたいに落ちつける気がする。
 本日の夕刊を見ると、来年の万国博では、カラヤンやリヒテル等、大物来演で文化の洪水、これらすべてを見たり聞いたりしていたら、それだけで数万円の金がかかる。文化とは何か、現在の文化は消費文化である。キャバレー文化である。ピアノの音より、たくわんをきざむ包丁の音の方が芸術的だと言って西田天香師は芸術家諸君のひんしゅくを買ったことがあるが、しかしやはりその問題の提起は今もなお近代文化の胸もとにアイクチのようにつきつけられているのではないのか、そしてそれら解決をまともにつけようとしない怠惰な老成文化人どもの足もとにフォークゲリラふうの歌声がわきおこってくるのではないのか。
 今、あえてひっぱりを着用する私の意図の一つはそのあたりに因を発する。
 
8月25日(月)晴
 心臓病と人はいう。しかし私は至って元気である。私の安否を気づかいK兄来る。私を思う真情に涙ぐむ。私に対する五カ条、ないしは七カ条の評言直言、ありがたくて泣けた。ここまで私を知っていてくれる彼の魂を私は熱愛せざるを得ない。私もこれでいつ死んでもいいと思った。
 
8月26日(火)晴
 昨夜、福島県のK君より来信、病み上がりの弱い体のうえ、田舎で商売はうまくゆかず、多大の借金をかかえ、今月末が瀬戸際とのこと。この九州の果てより、この私なんとして助くべきか、力無きを嘆ず。ともかく祈って手紙をかく。且つ、電報を打つ。
 「(我なんじの患難と貧しきを知る……されど汝は富めるものなり)。ナンジノウチナルムゲンノトミニメザメヨ」クギミヤ」
          *
 終日多忙、されど凛々たり。ある用事でカトリック幼稚園の園長さんと懇談す。ひろい敷地にカトリックらしい清潔な園舎のたたずまい、空気まですがすがしい。それより転じてパルプの悪臭ただよう工場地帯を通りぬけ、火力発電所の構内を歩く。晩夏の空も秋のごとく、つよい日ざしも心なしか涼しい。そこを私は一人祈りつつ行く。
 「分け入っても分け入っても青い山」
 この山頭火の句がよくわかる。山頭火の如く、我が旅路は山また山の様ならずとも。
 
8月27日(水)
 最近は、不思議に心地よく目がさめる。
 「死」を日毎の友のように思い始めてから、心気もさえ、かつ肉体も好調のようである。12時すぎには必ず就寝するのも体のためによいのであろう。以前は、夜半2時、3時でないと寝なかった。祈祷のためならよいが、単なる読書欲(たとえそれが神学書であろうと、聖者の伝記であろうと)のゆえの夜更かしであるから、なおさら悪いのだ。
 6時半起床、洗顔は坊主あたまだから、頭の方もいっしょにガリガリあらう、これは肥田春充先生の筆法、もっとも他のことはああいう偉丈夫のするようなことはできない(肥田先生は川合信水翁の弟、在野の哲人また仙人というべきか)。
 朝祷、ひとりまだ敷きっぱなしの床の上でいのる。近しい人、はなれし人、去り行きし人、はるかなる恩人、未見の先輩、ビアフラやネパール等の全世界の貧しき人々、また全地に散りて宿れるかくれし聖人たち、それら多くの人を思っていのる。(つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-03-30 09:35 | 日岡だより

No.428 腹から流れ出る生ける水とは(下) 2010.3.21

腹から流れ出る生ける水とは(下)

 先週に続きます。もう一度、ヨハネによる福音書第7章37~39を開きましょう。
 「……イエスは立って、叫んで言われた」。なんと言われたか。「わたしを信じる者は、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
 生ける水とは何か。それは聖霊様です。「イエスを信じる人々が受ける御霊」です。
 この腹はもちろん肉体的な腹ではない。人間の奥深い所に隠された深い心、魂、霊と呼ばれる深層意識です。そこから「生ける水」が湧き出てくると言うのです。
           *
 有り難いことです。聖霊様は神様から直接頂けるのですが、その頂ける場所は私たち人の心、その奥深い所だと言われます。決して簡単ではない。浅い表面意識にではないが、しかし、私ども人間の心に直接下ってくださる聖霊様、この聖霊様をお迎えできる喜びをなんと感謝したらよいでしょう。
 まず悔い改めてイエス様による罪の赦しを受ける。これは「義認の信仰」です。その信仰の基礎の上に、イエス様による「聖別」の恵みを受けましょう。聖別のみでなく「聖化」の確信を得ましょう。
 聖化とは自分で自分を聖めることではありません。イエス様の御手に委ねて、イエス様の聖なるご人格と一体とされることです。この聖化された「私」から、生ける水が溢れ流れ出るのですよ。ハレルヤ! 《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
われを仰ぎのぞめ、さらば救われん8
                   (1969年8月24日礼拝説教)

 私は今度この機会に小さな雑誌を作ろうと思います。小さな雑誌です。定形封筒に入れたいので小さな形にします。そこで題を考えた。はじめ「イエスの弟子小さき群」とするつもりでした。
 ところが、昨夜祈っていてどうも「小さき群」というのは良くないと気づいた。イエスは或る所で「汝ら恐るな、小さき群よ、汝らに御国を賜うことは天の父の御心である」という御言を残された。私は「小さき群」という言葉はもともと好きです。だから、「小さき群」と決めたかった。しかし、今のイエスの御言をよくよく拝して深く考えさせられた。
 御国を賜うことは父の御心であるという。御国とは何か、千よろずの天使が集う天の聖会であります。無数の天使の祝会だとヘブル書に書いてあります。この天使の大いなる群なのです。ですから、決して小さい群でないのです。小さき群というのは、小さき群よ恐るな、お前達のこの小さき群は目には小さいようだけれども、お前達の属する御国は大いなる軍勢、天使の集会なんだよ、おまえたちはこの大軍団の一千分隊なんだよ、ということであるわけです。
 ですから、「小さき群」とは書くまい、我々は本当は「大いなる群」なのだと昨夜悟らされたのであります。そこで「大いなる群」と題名を決めてみると、今までのような悲しげでない、勇気凛々、勇気百倍して、私の晩年の第一歩を印すべき個人雑誌が始まるんだと嬉しいのです。
 私達の目に見えるところは小さい。先にプリントに書いたように、例えば、時には除名しますよとか、キンシン命じますよとか偉そうに書いてありますけれども、あれはこの大分福音集会と称して目に見える団体で、私が一応責任者としてとるところの仮の規定です。
 しかしながら、目に見えないイエス・キリストの弟子という「兄弟団」はこれは宇宙的な厖大なる大いなる群なのであります。私達はイエスの弟子である。そして兄弟である。この兄弟団には何の規約もない。主イエス・キリストの弟子兄弟団という名前、それ自身が規約であります。主イエス・キリストの弟子である、と言う者は、当然お互いに兄弟だ―――その霊的な結びを持っている大いなる不可視的なエクレシヤ、それ自身がこの規約であります。
 この大いなる全宇宙に満ちわたる神様の力はこの地球上だけでないかもしれない、銀河系を飛び出してオリオン星座からアンドロメダ大星雲、あるいはそのかなたまでに居り、手が三本足が五本ナメクジ怪物のような知的生物がいるといえども、そういうすべての生物をひっくるめて神は我々の王である、キリストは我々の主であるという、そういう大いなるキリストの弟子兄弟団の一員であるとして、私達自身を今日はおぼえたい、また、この日を記念したいと思うのであります。(終わり)   (第一稿は吉田一行兄の筆記による)
 
【日記】 (1969年)
8月23日(土)晴
 神よ、私ほどあなたに愛されたものはいないのです。然るに、私の魂は不従順にして、あなたにそむき、怠け、あなたの仕事に対し手をつかねてサボっていました。私のフィールドには(伝道の場にも、家庭にも、事業・交際の面にも)雑草は生え、いばらはしげり、花はしぼみ、果実は落ち、野狐がちょうりょうする始末でした。
 かくて私は、あなたの前に泣きむせんで、あらたに再献身を誓う時、あなたは更に私をもたげてベッドに投げすて、
 「汝は心臓病だよ、再起不能!」
 とサタンに言わしめます。されど主よ、汝に召され、万事は(善きも悪しきも)最善のこととかわります。
 あたかも、昨日、旧「大分集会」解散の挨拶と、新「大分集会」の規約・信条等を送りました。これらはすべて、僅かの時間に推敲もなく書かれた私の拙文であります。言及すべくして句たらざる処、言うべからざるして駄文を草せしところ、「信条」などと大上段ふりかざして書きつらねてはみても、多くの神学者先輩諸氏より非難囂々たるは必然の小文でありましょう。
 しかし、この文章は西洋の法律学者が書く如き理路整然たる宣言文ではないのであります。日本の古武士が最前線に飛び出て「やあやあ、我こそは……」と一番乗りの気勢を上げて、自軍の戦闘の由来と必勝の信念を敵味方に宣明する、そういう息詰まる際の、用意も考えもなく腹の底からほとばしり出る雄叫びなのであります。
 あの文章の字面を穿鑿して、いろいろ批判読みされては困る。その内にあるもの、私を通して、主が言わんとしたもうた処、それが諸兄姉の心にそそぎこまれるように。
        *
 本日、頭を坊主刈りにする。17日の日曜日、旧「召団」解散の宣言の日より心に思い定めていたことである。決意をあらたにするという程のことで、別にさして他意はない。(つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-03-23 12:05 | 日岡だより

No.427 腹から流れ出る生ける水とは 2010.3.14

腹から流れ出る生ける水とは

 聖書のヨハネによる福音書第7章37~39を開きましょう。
 「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」
 ここで「生ける水」とは聖霊のことをさします。私に言わせれば「聖霊様」です。私は聖霊とは勿体無くて、呼び捨てには出来ません。そして、大げさかもしれませんが、しばしば御聖霊様とも呼びます。御聖霊様は生きた神様、独立した個性的な神様です。
 さて、この生きた神様、聖霊様は信じる者の腹から流れ出る、とはどういうことでしょう。
 この腹は、もちろん肉体的な腹では無さそうです、言語的には、そうした一般的腹、腹部や胃や、腸もさすこともありますが、もっと内面的に「あの人は腹ができている」。「一つこれは腹に収めてくれませんか」。などと使う腹のことでしょうか。
 私の持っているギリシャ語辞典では「人間の隠された奥深い場所、つまり心のこと」とありますが、単純に心とは言えません。深い心、魂、霊と呼ばれる深層の意識をさすと、私は考えてみています。
 そこから「生ける水」は湧き出てくると言うのですが、もっと学びたいですね。(次号に続く)□《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
われを仰ぎのぞめ、さらば救われん7
                              (1969年8月24日礼拝説教)

 人を死刑にするのに、これは罪人である、カタリである、謀反人である、人殺しである、と言って死刑にするのならわかる。しかし、これは主である、これは神の子である、と言って刑死させるようなことが人間の歴史にあったでしょうか。
 ところが、イエスはそういう歴史をお受けになったのであります。ここでイエスの素晴らしい人生がある。イエスのすばらしい生涯の終りがある。そこにキリストに対する神の御言の成就があった。神の御言の成就はキリストの死により成就されたのであります。
 さて、今から2百年ほど昔、1806年頃、イギリスのある片田舎で17才頃の少年がお母さんから勧められて教会に行こうと思いましたが、途中が吹雪でなかなか行けません。そこで近くのメソジスト教会に行きました。あいにく吹雪で牧師さんが来ておりません。それで近くの肉屋さんか洋服屋なんかの小父さんがおりまして、聖書を開きました。イザヤ書45章22節です。
 「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」
 この風采のあがらん人は、10数人の人が集っていた小さい集会で、ここの箇所を開いて朗読して10分ほど説教をしたそうです。単純に話をしてしまったら職業説教家でないものですから、もう言うことがなくなってしまった。困ってしまった。そこで、今まで来たことがない少年がつくねんと座っている、その彼に向かって「おい、そこの若い衆、お前さんは何か苦しんでいるね。見上げるんだよ。ルック・アップ。イエス様を見上げるんだよ。そうしたらお前は救われるんだよ」と言った。
 その時わずか17才のスポルジョンは、そこでキリストを仰ぎ見ました。そして、まことに救われました。
 その単純な決定的な信仰によって神は彼の霊に聖書の御言と聖霊をもって印したと言われます。このスポルジョンは、それから信仰に入って20何才でロンドンの大教会の牧師になって50才で死ぬまでに世界最大の説教者になった人です。
 彼は信仰に入った時に、別に光に打たれたわけではなかった。すばらしい形で病癒されるなどして救われる人もあるでしょう。しかし、スポルジョンはそういう型ではなかった。ただイエスを仰ぎ望め、そこにお前の救いがあるんだよと言われた時にハッと気づいた。その時に世界有数古今稀な大説教者が生まれたのです。
 それから一生彼は何度か躓きかけたそうです。苦しかったそうです。そのたびに奥さんが行ってスポルジョンよ、神の主の御言に立て、御言を離れるな、そして主を仰ぎ、望み見ましょうと言って、祈って祈って一万何千人も入る大会堂、孤児院等を経営する大伝道者に成長したのであります。
 ですから、今日私は「我を仰ぎ望めさらば救われん」という御言をはじめ読みました。これはイザヤが言った言葉です。地の果てとは何も地球の果てのみではないのです。地の果てとは今まで少しも神の御言を聞いたことのない地の果てということです。
 今現にこの集会室にいても実は今まで神の御言がよく聞けなかったという地の果ての人がいるかもしれません。そのように多くの地の果ての人がいる。さあ、我を仰ぎ望め、必ずあなたは救われる。この御言がスポルジョンを救った。今の私達もまたこの御言に帰って行きたいのであります。
 私達はともすれば逃げて地の果てにまで行きたくなる。しかし、地の果てに行くとも海の果てに行くとも、黄泉の底にくぐるとも、天のあげばりの彼方に行くとも、神は我々を追いかけたまい、神の御言をもって我々を被いたまい、神の御言の亜麻布をもって私を縛りつけて守って下さる。
 主よ、それならばどうかいっそう主と共に私を布に包み、また彼と共に復活せしめ、私をオリブ山にて主の御栄光を仰がしめたまえと我々は主の前に願わざるを得ないのであります。
 みなさん! 主を仰ぎ望もう。そのとき、本当に私達は主の弟子となるのです。私達が主イエス・キリストの弟子となるについては、いろいろな道すじ、いろいろな回心の型があります。あるいは、ジョン・バンヤンは汝の義は天にありという言葉を道端で聞くともなく聞いて心で感じたというだけのあのすばらしい回心をしました(このバンヤンの書く「天路歴程」は聖書に次ぐ世界のベストセラーと言われます)。
 ルーテルはこうでした。我々はおのれのヘソを見ていては救われません、我々は天を仰ぎ見るべきである、我々の義なるキリストを仰ぎ見るべきであると言って、ルターは救われました。そういうふうにいろんな回心の形もありますが、すべては一つである。一体であります。
 自ら我は主イエス・キリストの弟子なりという者は主イエスの子供であります。汝ら聖霊によらざればイエスを主ということ能わずとパウロは言いました。我々はイエスを主と呼び、我々をイエスの弟子と呼ぶ時に、真に我々はイエスの弟子、イエスのものであります。(つづく)

※「日岡だより」は教会ホームページの「日岡だより/縦書き」のページから印刷用画面をダウンロードすることができます。印刷して保存したいかたはご利用下さい。
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-03-16 10:46 | 日岡だより

No.426 妻トミさんを天に送って 2010.3.7

妻トミさんを天に送って

 妻を天に送るなんて、私にとって容易なことではない、このことを、つくづく感じました。
 妻の帰天以来、もう2週間たっているわけですが、未だにその事実に私の心は慣れません。どうかすると彼女のベッドのあった所に向かって「トミさん」などと声をかけようとする自分に驚くのです。
 教会の講壇下に妻の顔写真を置いてありますが、私は毎朝の早天祈祷会で彼女の写真の顔を見るわけです。そのたびに私は「トミさん、おはよう。イエス様、バンザイ」などと、私の普段の習慣語で妻に語りかけます。
 「『イエス様、バンザイ』とは可笑しいですね。『イエス様、ハレルヤ』じゃないんですか」、という声もありそうですが、もちろん、「イエス様、ハレルヤ」のほうが本当でしょうが、私とトミさんとの間では、「イエス様、バンザイ」と言い交わすことも多かったのです。
 講壇下の彼女の写真は3月一杯置かせていただいて、4月になったら、自宅の壁に戻そうと思っています。我が家の床の間は、今まで妻の病室にしていましたが、今後落ち着けば本来の客間に戻そうと思っていますが、そこには私の父と母の遺影が掛けられています。
 私の父も母も良いクリスチャンでしたので、その脇に妻の写真も置かせてもらえば、クリスチャン家族の写真の並びになります。将来、今後も私たちのクリスチャンとしての家族の顔を並べさせて貰いたいと願っています。《く》


人の死と、その魂の行くえ

 私は牧師として、信徒の方の死に巡りあうことは屡々です。一番古い経験は22、3歳の頃、飛河さんでした。未亡人で、母の友人でした。
 家庭訪問のつもりで、お宅を訪問すると、そのお宅の家の西側が空き地でしたが、そこに飛河さんが家の壁に向かって、しゃがみこんでいました。
 声をかけると返事がない。私の耳を体にあてると呼吸音がない。「大変だ、死んでおられる」と私は驚いて、しばらくの間、背中から手を置いて祈っていました。
 私の手から活ける神の命が飛河さんの体に流れ込んで行くのが分かるのです。しばらくして、
 「あっ、こうしてはおれない。うかつだった」。
 私は飛び上がるようにして、隣家の方に声をかけた。「飛河の奥さんが死んでいる。息子さんが会社に勤めに出ているはずだ、その方にも知らせねばならない。医師や警察へも知らせなくてはならん」。
 そういうことに私はしばらく、と言っても僅かの時間でしょうが気づかずに放っていたわけで、やっと近所の方々の大騒ぎになったのでした。
 その夜のお通夜に参席して、私は思わず亡くなったその方の額に手をあてて祈った。そこでびっくりした。
 あの家の壁に向かってしゃがみこんでいた飛河さんの体に手をあてて祈っていた時、私の手から何かジンジンするような命の流れが、飛河さんの体に流れ込んでゆくのを感じていたのだ。
 それが、今、夜になって、お通夜の席に寝かされている飛河さんの遺体には、ジンジンと流れていた電気のような流れが全然止まっている。これはどうしたことか。私は驚いた。そして「あっ」と気づいた。
 あの時にはまだ、飛河さんの体に私の祈りの力を受け入れるイノチがあったのだ、それが今は、途絶している。私は人間の肉体にあるイノチの力の流れに気づいてびっくりした。私のこうした神秘な世界についての初めての発見であった。こんなことを教えられたことはまだ一度もなかった。ただただ、不思議な体験であった。
           *
 その後、私はスエーデンボルグやサンダー・シングの本を読んで、こうした死後の世界の神秘を学ぶようになる。しかし、その頃は、何の予備知識もないから、ただただマゴマゴするだけで、面食らっていた。
 あの家の壁にもたれて倒れ込んでいた飛河の小母様の体にドンドン命の流れが流れ込んでいたあの感覚を私は今でも忘れることはできない。
 その後、古後さんの奥さんや、最近では中野兄の奥さん高代さんなどの例で、確かにそうした霊というか命の流れを感じるのは、その後では慣れてしまった経験になったが、当初のころは驚くというよりは感動の時であった。
          *
 人の体が死んだ後、5時間か何時間が分からないが、しばらくすると命の霊は去って行くようである。
 こうした説明はチベット仏教など、説明がくわしい。エジプトの古い宗教書にもくわしい。真実かどうかは別として。
 時々、死んだ筈の人が、意識がよみがえって生き返ることがある。医学的は仮死状態だったと説明するだろうが。こんな話がある。ある人が死んだ。その人の遺産の問題で遺族の間で激しい争論が起こった。ところで、その争論の行われたのは、故人の枕もとであった。
 後にその一旦死んだ筈の人が生き返って、あの枕もとで争論していた遺族の連中に、あの争論のことを繰り返して、「情けない」と不満を言って、その人々を恐縮させたと言う。
 それはともかく、死んだ人の霊(魂)はどこへ行くのか? 神に愛される人は、天国に行く。神の愛に背いた人の霊(魂)は地獄に行く。神の福音を聞いたことがなかった人は、ひとたび煉獄に行く。
 煉獄には慰めの場所と火の場所とがあると言われる。慰めの場所で訓練を受けた人は天国へ昇れるのかも知れない。キリストの福音を聞いただけで、まだはっきり分からないで、信じて居ない人はどうなる? いやあ、それどころでない。キリストの福音なんか、まだ聞いたことのない人。日本で言うなら、徳川時代、それ以前の人たち、まだイエス様の福音を聞いてもいない、そうした人たちはどうなる? 地獄に行くほかない? それは余りにも不合理、神様の愛の法則に反するのじゃないか、という人もあろう。尤もです。
 そうした人たちのために神様は煉獄を作られた。煉獄というと、地獄の一歩手前みたいだけれど、実は天国と地獄に分かれる前、その一歩手前の場所です。そこは厳しい戒めの場所でもあるが、また慰め、励ましの場所でもある。じっくり反省し、そして人生の終わりの覚悟を決める場所である。ここで神様の慰めに預かろうと決心するならば、そこから煉獄の慰めの場所に行って信仰の学びを得て、天国への決断場所におもむくのです。そこに於いて、天国はあなたのものになるのです。
 これを救いへの「セカンド・チャンス」と呼びましょうか。信仰のしっかりしなかった人たちのために救いの確認を願う地上に残る人々にとって、つまり彼らの救いの最後の機会を執り成したいと願う人々のために良き導きの言葉にならないでしょうか。《く》
※以上はキリスト教界の定説ではありません。つまり釘宮の私説です。
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-03-09 12:24 | 日岡だより

No.425 妻トミさんを天に送る 2010.2.28

妻トミさんを天に送る

 先週2月21日主日の朝、妻トミさんを天に送った。86才だった。
 自分の妻をトミさんなどと「さん」づけで呼ぶのは旧日基系の大分教会の牧師・宮松治先生の影響である。先生はよく自分の奥さんを「さん」づけで呼んだ。講壇の上からの説教でも、また普段の日常会話もでも。だから私もつい、宮牧師の真似をして自分の細君をトミさんなどと呼ぶようになった。
 トミさんの誕生日は大正13年1月2日、生まれた所は現在の大分市鶴崎・七軒町、幼い時は同じ大分県の東国東郡、安岐町の祖母の側で育ったようだ。
 やや成長して、父が営林署の署長だったので、あちこちの転任にくっついて廻った。福岡や鹿児島など。女学校は宮崎の高鍋に通ったという。その後、女学校を出ると、大分の岩田高女という現・岩田高校の前身女学校の、今では言えば短大みたいな補習校に通った。
 私が初めて彼女に会ったのは、鶴崎集会においてである。その頃、鶴崎町(の中央通り)西町の林正貴兄宅にて開いていた小さなキリスト集会に来てくれたのである。当時写真館をしていた松村さんの奥さんに奨められたのらしい。
 この松村さんの写真館は奥に引っ込んでいたが、その表にあったのが木南さんの婦人服の店。その後、大石さんも来始め、後に私の妻になる簑浦トミさんと木南さんと大石さんが、鶴崎集会の三羽ガラスになる。キリストの福音大分教会の創世記である。
           *
 わが妻、トミさんは求道者としては抜群だった。もっと良い指導者についたならば、もっとすばらしいクリスチャンになっただろう。私の手許では気の毒だったね。しかし、私によくついて来てくれた。
 一時は私を世界一の牧師と思ってくれていたから、嬉しい。しかし気恥ずかしい次第。そこで、後に手島先生やチョウ・ヨンギ先生などに接して、「世界は広いな、わが旦那さん以上に凄い牧師さんがいたのか」と驚いたわけだが、しかし天下の牧師先生の奥様がた、やはりご自分のご主人にそこまで傾倒することは良いことです。わが女房にそこまで傾倒されて、頑張らない旦那さんはいませんよ。
 トミさんは、子供にとっても良い母親だったと思うし、だから家庭も幸福だった。中年期のわが家の貧乏はひどいものだったが、トミさんはそれに負けなかった。たった一度だけ、近所のお店にツケがたまりすぎてこれ以上行けないと言って泣いていたこともあったが、そういうことはたった一度だけだった。
           *
 独身時代、私は大分県立聾学校の教員だったが、そこにもよく尋ねてくれた。こういう時、私に決して女性感覚を与えなかった。これは無二の信仰の師として私に接してくれたお陰だったと思う。
 だから鶴崎の集会を終わって、毎週私を鶴崎駅に送ってくれる、その鶴崎駅のプラットホームまで送ってくれるが、その時、私は女性と二人で歩いているという警戒感を全く抱かなかった。そういう心配をさせない自在感覚があの時のトミさんにはあったと思う。
 何よりも立派だったのは、その求道精神だった。当時、私と彼女との間に学生諸君や青年期の恋愛同志の間の交換日誌みたいなノートを交わしたことがある。私は今でも、求道者の指導にはあの交換日誌が良いと思っているが。
 信仰上の悩み、疑問、探求、好奇心、すべてを包み隠さず書く。それを牧師のほうは真っ正面に受けとめて返事を書く。牧師としては、下手をすると、非常に危険な方法ではある。だから本当はすべての人に推奨できる方法ではない。しかし、トミさんにはこれが向いていた。非常に効果的だった。
 時々、彼女が気取ってカッコ良いことを書いてくる。私はすぐ、その一文の下に書く。「あなたは、こんな言葉をどこで習ったんです。今のあなたにはこんなことを言えるはずがない。信仰成長のために先輩のかたがたの信仰を見習って真似ることはいいことですが、しかしこういう発表文章だけを人真似して、これを書いたり公表することは知識過重に引きずられて、ついには陥没しますよ」、と書き留めたこともあります。
 こういう言葉は口で言われると、反発を感じて抵抗されるのですが、ノートに書かれると、じっと考え込んで自分を見つめる良い機会になるんですね。こうしてやや過酷な私の訓練を素直に受けながら、トミさんは成長して行ったかとも思います。
 トミさんの回心は1951年(昭和26年)1月8日、明確なコンバーションだった。もちろん、私は自分のことのように喜んだ。そして、その年の11月18日、当時、別府不老町教会の野町良夫先生より洗礼を受ける。(ちなみに私は野町先生とは非常にウマがあった。その3年前の霧島聖会での野町先生の熱血説教は忘れる事ができない)。
 1952年1月、トミさんの親しい信仰の友であった大石美栄子さんが静岡県三方が原の聖隷保養園に行く。
 その12月にトミさんが私の元にきて、結婚する。
 1955年の4月から、大分市県庁裏の町村会館にて毎週日曜の集会を始める。この年の10月、木南真佐子姉が回心。その後も少数のメンバーでも明確な回心者が生まれる。これは感謝でした。
 1956年9月、私はそれまで6年奉職していた大分県立聾学校の教職を退職する。年金の資格が取れる寸前に、思い切って退職。私の気分は上々だったが、妻はどうだったでしょう。黙ってついて来てくれたトミさんに、今も感謝!
 1957年1月、町村会館の集会は30名を越える。同年4月の復活節に、妻トミさんを同伴、熊本の辛島町の手島先生の聖書集会に行く。「神の幕屋」偵察のつもりだったが、異色ある手島先生の聖書講義に圧倒された。私の信仰にも大影響を受けましたが、その後離脱、みなさんにご心配かけた。すべて、こういう時トミさんと同行二人。《く》

〔御礼〕
 巻頭に記しましたが、妻トミさんを天に送りました。主日の早朝のことで、そのまま棺に納めて礼拝堂に移してもらい、信徒の皆とともに主日礼拝を守りました。翌22日に前夜式をフルゴスペル・イエス・キリスト教会の永野誠治牧師に、23日に葬儀を大分カルバリチャーチの橋本守牧師に司式をしていただき、葬儀ではチャペル・ノアの広田勝正牧師に祝祷をしていただきました。
 ここ5年は脳梗塞の後遺症により自宅で、介護職や訪問看護の方のお世話になりながら過ごしていました。一昨年に気管支に腫瘍が発見されてから、何度か命の危険をくぐりぬけ、奇跡的に2年間を過ごしました。
 妻の顔は息がなくなってから、刻一刻と変化して穏やかな穏やかないい顔をしていました。「すぐに火葬に附してしまうのが勿体ない」思いでしたが、天国への凱旋を、ハレルヤ! と叫んで棺を送り出しました。
 こうしてトミさんは天に在すイエス様のもとに帰りました。結婚して57年でした。天における再会の日を待ちつつ。(釘宮義人)


※連載中の「われを仰ぎのぞめ、さらば救われん」は今週は休みます。
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-03-02 10:13 | 日岡だより