<   2010年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

No.420 ハイチのために祈りましょう 2010.1.24

ハイチのために祈りましょう

 今、大変なのはハイチです。大地震に襲われて既に12日目、復旧は殆ど不能、暴民化して略奪に明け暮れている民衆たちの前に、商店主たちは武装自衛せざるを得ないと言います。ところが、治安活動の主体となるべき警察は全く為すすべもなく呆然と市中を見守っているだけだそうです。
 ハイチは嘗て昭和30年のころ、信仰の先輩S兄が日本政府の移民政策の波に乗って張りきって太平洋を渡って出かけて行ったドミニカと境を接する隣の国です。私はすごく親近感を覚えるのです。
 この二つの国で一つの島を形成しています。大きさは九州と四国を合わせたくらいの大きさです。
           *
 情報によると、電気、水、食料、医療物資が不足だと報道されていますが、これは今に始まったことではないと、現地に詳しい日本からの宣教師による記事も見ました。もともと、それらの社会必要物資が不足している国なのです。今はなんとしても早急に、十分な救援物資を送りこむ必要があります。
 世界第二のお金持ち国の日本は今こそこの必要に答えるべきでしょうが、それはともかく、私たち日本のキリスト教会がまず一番に立ち上がりたいですね。
 勿論、既にご承知の日本国際飢餓対策機構が実務にはいっています。必要なことは私たち一人一人のクリスチャンがこの機構の働きに応じ、祈りと拠金(献金)に努力しましょう。《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
われを仰ぎのぞめ、さらば救われん2 
                                  (1969年8月24日礼拝説教)

 本文に入ります。
 「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。」(マルコ14:43)
 このように主はおのれの生命を捨ててまで弟子らを愛しているにもかかわらず、主がもっとも愛したユダ(イエスの弟子たちは漁師がほとんどです。当時、漁師はもっとも学問の低い人々です。ですから、経理に明るいユダに全財産をゆだねて、ユダよ、ユダよ、と可愛がったのです)、弟子たちの中で一番頭の良いすぐれた前途ある人物だったのでしょうが、そのユダという男は、主の愛を十分に受けとめ応えることができない。三百デナリをもするナルドの油をムダなことに使うよりか五千人のパンを買って社会事業のようなことをしたらどうかとか、またこんな小さな集会をするよりか大きな大伝道かラジオ伝道でもしたらどうかとか、そんなことばかり考えている人です。そのユダがイエスを裏切るのです。
 「イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、『わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け』。」
 さて、神様の地上に於いてのなされ方ほど突発的な偶発的なハプニングなことはありません。つねに私どもは神様から事前に導かれて、何か計画的に取り扱われているように思いますが、その時、その場において、もっとも最善なことをはたし、その事によって過去の意義をもすっかり転換させてしまう能力者が神様です。
 神様はコンピュータのように十億年の前からこれこれしかじかと予定を立てているわけではないのです。パウロは「神はあらかじめ定めたる者を義とし、義としたる者に栄光を与えたまう」と言う、そこでいわゆるカルビニストたちは、神様が一から十までコンピュータのように予定を計画してすべての歴史、人間の救亡を遂行なされたと信じた。神を全能者だと機械的に信じ、固定化したロジックで信条を押しすすめれば、神様というものも、案外そんなものかもしれない。しかし、それは人間の頭で作りあげた神です。そういう神観念は、人間のサル知恵であります。
 神様の知恵はいつも流動的で、十億人いれば十億人、三十億人いれば三十億人、そのほとんどの人が神様のいうことを聞かない人ばかり。もし三十億人の中の二十五億人の人でも神様の言うことを聞くのであればですよ、神様も予定を立ててあれをこうしようと、これをああしようと計画もし、実行も出来るでしょうが、三十六億人の人が今地球上にいるのですが、ほとんどの人が神様の言葉をきかずに、行けと言えば帰るし、右に行けと言えば左に行くといったようなわがままな人間ばかりを使って神様に何の計画が立てられましょうか。
 神様は創世記の始めに目に見えない天国を受肉(インカネート)したすばらしい天国をこの地上に創ろうとなさったのです。それが神様の計画はその第一ページからくずれ去ったのです。神様はそういう意味では歴史の失敗者です。なぜ失敗したか。人類が神のいうことを聞かなかったからです。そうしてそれから起こることはすべて神様の御旨に反して、人間の罪と、人間の反逆と、人間のおろかさから起こるところのハプニングばかりであります。
 しかし、神の知恵はほむべきかな、この人間のいまわしいハプニングを通して、神は彼の計画を刻々につくりかえ、これを遂行し、そして過去に起こった人間の罪悪の事件の意味のすりかえをやって、地上の歴史の前途を修正しながら人間を何とか一人でも救おう、一人でも多く完全に救おう、この許し難いユダをも救おう、と努力し血の涙を流したもうのが、神の愛だと私は信じる。
 神様はこのような混乱した地上の全体の進行を把握しながら、神様の計画を遂行したまうのです。ところがサタンは違う。サタンは非常に計画的です。この知恵が人間の智慧を絶します。
 例えば、今私のしている会社ですね、これでは今後の事業としては小さいではないか、もっと、四、五軒集まって大きな会社を作らんか、そのためには政府が一億円貸してやる、という話があります。大変良い話です。その案を作る役人も非常に善意でするんです。みな一生懸命にしてくれるのですが、その結末はどうなるかと言えば、東九州○○会社というようなヘリコプターを使って仕事をするような大きな印刷会社に生まれ変わるかもしれない。そうなってしまうと、大分のあの会社はなかなか良い会社ではないか、一つあの会社を乗っ取ろうではないかと言って東京の大○○印刷が触手を伸ばす。そうして大○○印刷東九州支社ができますと今度は、アメリカの○○プリンティングコーポレーションという会社が目をつけて、日本のあの会社は非常に良いそうだと言って、アメリカから乗っ取りにやってくるようになるかもしれない。(つづく)
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-01-26 12:47 | 日岡だより

No.419 われを仰ぎのぞめ、さらば救われん 2010.1.17

(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)

われを仰ぎのぞめ、さらば救われん
                            (一九六九年八月二四日礼拝説教)

 今日は御参集ありがとうございます。先にお手紙を差し上げましたとおり、ここに主イエス・キリストの弟子兄弟団と名を改め、この集会を大分福音集会と命名し、皆様とともにこれを確認したいと思います。主よ、どうぞ、この事の運びを許し、今後を守りたまわんことを。
 それでは、今日ここに主イエス・キリストの弟子兄弟団大分福音集会の開会を宣言いたします。
 「天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし」とイエスは仰せられました。我々がその名称をいかに変えようと、また集会の形式をいかように変えようとも、その基盤にあるものは厳然たる宇宙の法則、神の生命であります。
 神の御言葉を基本に学び、私たちの信仰は神の御言葉によって活気づけられるということは昔も今も変わることはない。私は集会を改組しますと言いますが、テキストは先週の続きのこのマルコ伝第十四章をそのまま用い続けます。
 マルコ伝をテキストとして開いてからすでに半年近くになりますね。神様の御言葉は非常に不思議でありまして、毎週毎週説教者としての私個人の感情や集会の諸君の事情にかかわりなく、順を追ってくるマルコ伝のテキストで結構時機にかなった聖書講義ができるのです。だから、今日、ここで語られた聖書解釈は今日だけのものでありまして、いつでもどこでも通用するというようなものではないかもしれません。
 世には、立派な牧師や学者さんがする立派な聖書講義があります。それはどこに出しても恥ずかしくない立派なものですが、そのような講義は私にはできません。私の説教は極端に言えば、一九六九年八月二十四日午前十時半、今日この集会においてのみ意味のある言葉であるということができます。ですから、同じテキストで全く別なことを言わされることがあるのです。たとえば、先週も、この大分集会と夜は鶴崎集会とで語らされましたが、それぞれ同じ聖句によりますのに、違った言葉が語らされます。
 さて、今日は、旧い集会を解散して、新しい集会を始めると言いながらも、このマルコ伝を引き続き用いて語れるということは非常に有り難いことだと思います。
 聖書ではしばしば時代という言葉をアイノーンという言葉で表現しておりますが、世とは一つの断絶した時代を指します。たとえば、明治維新の前後というように、一つの断絶したエポックをさします。
 それを宗教的にもっともっと長い目で、二千年、三千年、五千年とふんで、人類が無知蒙昧なる時代から成長してきて一つの膨大なる大文明を作りあげ、そしてまた自らの文明に破れて滅んで行きます、そのような何百万何千万年のリズムをもって、人類が興亡していくようなアイノーンという「時」がある。それらそれぞれの時代がうたかたの如く興亡していくかのように見えるけれども、「見よ、天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし」とおおせられたその大真理に私たちは立って、この真理の中に生命の根源をたもっているのであります。
 そのことを思う時に、小さなこの釘宮という移り気な男が、今度また集会を解散という。何と先生は変わりやすい人だ、今日来てみれば、頭は丸坊主にして、またぞろ昔の一灯園まがいのヒッパリを着ていると、いろいろ感じなさるでしょう。
 けれども、私のこのむらぎな移り気な心というものは、逆に言えば、非常に時の兆しに敏感である、また我々自身の信仰の成長・衰亡の動きに敏感であるということであります。その予兆にさきがけて打って出る、新しいものを作りあげていくという私の心がけに他なりません。今生まれしみどり子の如く、主の新しいキリストの弟子となって生きていきたいと思うのが、それがこの度の私の考えでございます。今日の集会は人数が多かろうが少なかろうが、実は大事なエポックメイキングな集会であると、心に銘じて私は準備したのであります。
 からし種一粒ほどの信仰をも百倍、千倍にしたもう神様を私は信ずるのであります。ここに一粒の真珠があれば商人は全財産を売り払ってでも買いに行くと主は仰せになったが、それは我らに対する訓戒としての比喩であると同時に、また主ご自身がここにたった一個の小さい真珠の如き魂を見つけ出した時、全宇宙に充満したもう神の全財産を投じてでもその魂を買おうとされる御心の物語であると私は思う。
 イエスの愛とはそういう愛なのです。この神様の愛がこの小さな私たちの一人一人に、自分で考えてみても何もないようなちっぽけな魂だけれども、この魂を畑の中にかくれている神授の如くに思いなさって、そのために全宇宙に、天界に、霊界にキリストの体に満ちあふれている全部の宝を持って来て、私たちを救おうとなさったということ、そのことに十字架の意義がある。私たちの救いがある。
 これほどに私たちが愛されているということ、これこそ天国であります。私たちの財産、知恵、地位、能力、何でこれを勝ち得ましょうか。神が私たちを愛してくださるからこそ、向こうからただ一方的にいらしてくださるからこそ、私たちは救われるのであります。
 私は永遠の昔から今に至るまで、このだれも顧みることのなかったところの、この畑のどん底に埋もれているでくのぼうの如き者であったけれども、これを大切に古代出土品のカケラを博物館に収納でもするように私たちを取り扱ってくださる神様の御愛に生かされているのであります。
 これはまことに小さい集会であります。あるところには千人も二千人も集まる集会もあろうけれども、この大分の片田舎にわずかに少数の者がそろうて、よそ目には意気も上がらず、だれの目にもとまらず、ケシ粒のような集会をいとなんでいるように見えるけれども、ここに主のいつくしみあふれる眼はとどまりたもうて「我汝を愛す」と語りかけてくださるということを信じるからこそ、何の恥じらいもなく、悲しみもなく、疑いもなく、ここに僕らは集会を営むことができるのです。本当に有り難いことだと思います。(つづく)

〔あとがき〕
 この文章を書いた頃は非常に移り気な頃だった。小さな集会だったから、教会と呼称するのは遠慮して「集会」と称していたが、確かにまだ小生の私宅の前庭の空き地に建てたトタン屋根の家、畳敷きの小屋だったが、これを利用して、玄関の引き戸を開けると、すぐ狭い上がり口があって、そこで礼拝した。
 開会時刻が厳格で、S姉が1、2分遅れてきて、会場に入れなかったことがある。S姉はそのまま玄関の戸の外で礼拝が終わるまで二時間ほど待っていた、その頃は私の聖書講義も時間が長かったから。思い出せば、我がままなセンセイだったと、恥ずかしくもあるし、懐かしくもある、そういう時代でした。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-01-19 15:46 | 日岡だより

No.418 「新年おめでとうございます」 2010.1.10

「新年おめでとうございます」

 「新年おめでとうございます」と表題を書きましたものの、本当はこれは先週号に書くべきだったですね。先週は、うっかり「新年の挨拶」を忘れてしまったんです。遅れまして、改めて、「新年おめでとうございます!」
 もっとも「新年って、聖書にあったかな?」と考えて、旧約聖書を開いてみると、あった、あった。イスラエルの歴史では「新年」が二つあって、もともとの秋の収穫が終わった後の新年と、捕囚後にはバビロニア暦が入ってきて、春の新年というのもあった、などと言う。これは面白いです。日本でも二つあった。新暦と旧暦。農業をする者たちにとっては旧暦のほうが便利がよかった。
 私の家は戦前、肥料屋をしていたので、大分市周辺の農家がお得意だった。旧暦の正月には、やってきた客に、店ではお茶とお餅とお菓子をそろえてふるまう。だが、客は不満げである。「なぜ酒を出さないのか」というわけである。
 番頭さんが恐縮して説明する。「へいへい、どうもすみません。私の方は主人がクリスチャンでありましてな、酒は駄目なんです。」
 「ああ、そうか。お前とこ死んだ旦那はクリスチャンだった。いい男だったよ。そうだ、そうだ、酒は出さなかったなあ。それでも愉快ないい旦那やったなあ」と笑って、「いいや、いいや、酒はいいよ」となる。この、
 死んだ主人というのが私の父だったのである。《く》


(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
 
二号続刊に際し、神の死と再臨
 
 「我ら兄弟」の第一号は一昨年の8月に出した。それ以後、一年半眠っていたわけだ。「雑誌三号」などと言い古された言葉がある。三号どころじゃない。第一号でそのままおしまいになりそうだったのだ。こういうテイタラクはもう20年以上の悪癖。慣れた人なら「またか」と言う。何でも長続きしにくいのは私のくせ。原稿を書いて、雑誌にする頃には、もうイヤになっているのだ。私はかつて、こういう原稿書きを排泄作用に例えた。出す時は気持がいいが、出してしまえばくさくてかなわぬ。
 この程度のことを書いて、世に公表する。何の役に立とう。そう思いかけると、どれもこれも破り捨てたくなる。だまって引っ込んでいろ。それが一番いい生き方なんだ。
 でもやはり、私という人間のこの思想、この信仰、一通りは聞いてもらいたい。分かってもらいたい。これも根強い欲求である。自分で自惚れているほど、毛色の変わったユニークな思想ではないかもしれぬ。しかし、それかといって、ありきたりの並の品種でもなさそうだ。この頃はやりの、国道沿いで戸板ならべての果実販売。「自家栽培のぶどうだよ。気に入ったら買ってくれ」―――この式でまた「我ら兄弟」を続刊したい。
 はっきり言う。私の信仰は正統的キリスト教をはみ出している。異端説を聞くのが怖い人は、私を拒絶しなさい。イエスはユダヤ教の異端で、パウロはエルサレム教会の異端であった。ルターはカトリックの異端だし、内村鑑三は西洋キリスト教の異端であった。他の局面を捉えて言おう。グノーシスにも真理はあったろう。モルモン宗にもユニテリアンにも真理はあったろう。
 信仰とは、ある教理を信じることではない。「真実」にふれ、「真実」に密着し、或いは「真実」を求め、「真実」を仰いで生きることだ。「真実」こそ、神である。神とは人間が勝手に作った心像ではない。人間を引きつけ、人間をかりたてる力。人間の中心に住む力。人間をおおう力である。
 「神は死んだ」とニーチェは言った。ニーチェは狂死した。しかし、その言葉は預言者のそれのごとく私にひびく。たしかに二十一世紀に神は死ぬであろう。ヨーロッパ人の神も死ぬ。日本人の神も死ぬ。キリスト教徒の神も死ぬ。共産主義者の神も死ぬ。すべての民のすべての神は死ぬ。死なねばならぬ。
 キリストの再臨とは、神の死のあとでなければ、実現不可能である。あなたが神であると思うお方は神でない。あなたが神とは信じられない処――東洋的には無と言おうか――に、神の復活がある。それがキリストの再臨である。
 すべての存在が――私をふくめて――無意味であった。そのむなしさの自覚が私の胸をむしばむ。そのむなしさの中で、すべての存在の――私をふくめて――存在の意味を再発見する。それが宗教だ。
 ニーチェによって宣告され、二十世紀において執行されたかに見える神の死。その死のかなたに神はいる。そういう神でなくては、絶望状況の私には手もつけられまい。そこに、私は「再臨」のパターンを見る。
 非神話化的手法にあって聖書をズタズタに切りさいなむ。かくして、神の真実は益々あざやかに浮き彫りされる。しかし、神学者たちよ……あなた方はあまりにも霊のことに無知すぎる。
 聖書に忠実であろうとして、聖書をセメントづけにしてしまう。たしかに一点一画も失われずに神の言は保存される。しかし、熱心なる人々よ、あなた方はあまりにも神の自由を知らなすぎる。
 そこで、無知無学異邦異端の友よ……我ら兄弟よ…希望と祈りをもって、また歩みつづけよう。
     (以上で「我ら兄弟」第二号の転載終了)
 
(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)

七転八倒、その中にも得るものあり
 
 「転んでもただでは起きぬ」
 これはよほどケチンボな人間を諷刺する諺であろうが、また転じて我らの人生訓として心に銘ずることもできる。
 達人はころんだらころんだで、只では起きないのである。名人は負けたら負けたで、只では負けて帰らないのである。
 私どもは、こけやすい(こけるとは転ぶの大分方言)、負けやすい無力無知の人間ではあるが、こけても負けてもそのたびに何かを拾ってくる人間になろう。
 私は子供の時、ハードル競走がいやであった。それ程高いとも思えないハードルが、いざ走ってみると目の前に波のように高まってきて、こわいのである。これがこわいからと言って走ることをやめてしまえば、もちろんハードルに足をかけて失敗することもない。しかし、思い切ってハードル・コースを走ってみると、必ず一つ二つはハードルを蹴倒してしまう。時には自分もつまづいて転んでしまう。この例でわかるように何ものか、新しいものに挑戦するとき失敗がある。その失敗にこりずに「何くそ」と努力を続行すれば、何ものかを獲得できる―――これが人生の秘訣である。(一九六九・八・一八)
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-01-12 12:40 | 日岡だより

No.417 神の恵みは天地にあまねし 2010.1.3

神の恵みは天地にあまねし

 「あまねし」とは古文調だが、現代文なら「あまねく」だろう。すみずみまで行き渡る、という意である。「神様の恵みは全天全地に行き渡って居るぞよ」と言う気持ちである。
 以前、主日礼拝の説教題に使った言葉だが、後で少し後悔した。天地という言葉は現代人には軽いのである。
 今の人には「天」はあの「空」に過ぎない。空は地球を取り巻く空気の層である。その向こうに月や太陽や沢山の星があるわけだけれど、それ以上には感覚は伸びないかもしれないから。
           *
 神様の恵みは天地に充満しているのである。いえ、恵みと言うより権威と言いましょうか。
 そして充満なんぞではない。天地を包み込んで居るのである。
 天地と言っても太陽や銀河系どころではない。私たちが宇宙と言ってきている、この宇宙を包含している大宇宙です。
 この宇宙の外は大暗黒宇宙だという説もありますが、それらの大暗黒宇宙を更に包み込む我らの宇宙外の総宇宙というものを想像してみましょう。(イザヤ書34:4参照)
 極度な壮大な世界が見えてきます。いや、もう見えません。概念的に想像するだけですが、それらの総宇宙と言えども神様がひと吹きすれば吹っ飛ぶのです。消えて無くなります。《く》


(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
 
主の囚人
 
 主の囚人という言葉は、パウロの好んで使った用語である。
 これには二重の意味がある。
 主に囚われた人という意味と、
 主を信ずる信仰の故にこの世の権力に囚われの身となっている人という意味と。
 キリストを信じて生涯を敬虔に過ごすものは、必ず迫害にあうだろう、とパウロは言った。形どおり牢屋に入れられずとも、この世から辱められて囚人的生涯をおくることを、殊更のことと思うまいとする初代教会の指導者たちの姿勢がうかがえる。
 私が若い日、大分刑務所から福岡刑務所に移送される時、囚人服を着せられ手錠をはめられ、編み笠をかぶせてくれず、素顔のまま大分駅に連れて行かれた。大分は私の故郷である。その故郷の駅頭に囚人である自分をさらすのはつらい事であった。
 プラットフォームに連れて行かれた時、おそれていた事がおこった。同じ町内のある奥さんが来ているのである。その人は私を見ると、本当に困ったようすで目をふせて、よそを向いた。それは、身にしみる程ありがたい、婦人らしいやさしい心づかいであったが、それにしても私の心は同じ町内に残る母を想い、波立った。しかし、それと同時に、
 「我らは天使の前にも衆人の前にも見せものの如くされている」というパウロの言葉が思い出された。その時の私はまだ、キリストを信じているとは言いがたかったけれども、しかし主の御言葉にいざなわれ、主の御言葉にとらえられて、ついに恥辱の縄目をうけ、駅のプラットフォームの上で衆人の環視の中にいるということに、一種の言うに言えないすがすがしさがあった。
 私はあの時の、感動を忘れまいと思う。

 
信仰の根っこ(ある手紙)
 
 ご職業についてのまどい、もっともなことと存じます。人間の心は、あわれなもので、少々の風にも林の梢のようにゆれます。しかし、梢の端々はゆれても、時には小さい枝は折れることはあっても、根っこはどっしりと大地に根づいています。
 信仰とは、神のお約束に根づいていることであります。風が吹いても、水が流れてきても、根っこと下部株は身じろぎもしないのであります。風で枝がゆれ、梢がさわぎ、葉が散っていくのは、肉体を持った人間としては当然なことであります。それに目をとらわれ、まどわされ、及び腰になり、浮き足だつことはないのです。
 私たちの信仰が、一時手島先生に指導されて、頭でっかちで神経質で厳酷で息のつまりそうだった信仰をすて、自由な解放感を得、また生活の豊かさ、能力、歓喜を得たことは、大いなる祝福でありました。しかし、その反面、自由は懶惰となり、豊かさは肉欲の充足となり、歓喜は偽りの信仰をはらむに至りました。何よりもいけないのは、信仰によって苦難が来る筈はない、神様を信じて悪いことが起こるなら信じない方がまし、信仰は必ず繁栄と平和と健康をきたらせる……などという俗信がわいたことです。
 そして、イエスの御足跡をしたう、完全への熱望、聖さへの希求、神への服従の精神が失せてしまいました。おのが腹を神とし、おのが恥を光栄とする悲しい俗信――それは我らの内側にしのび入ったサタンの毒気の為せるわざであります。そういうサタンの誘惑に対する無防備な心が手島先生の周辺にはあります。「霊的である」ということの美名にかくれて。
 Nさん、困難をおそれまい、欠乏をなげくまい。不如意を悲しむまい。それらのサタンの攻撃に屈従しない力を、主のもとで養おうではありませんか。祈って、主の愛にひたりなさい。その時、いかなる困難も私どもを引き離すことのできない吸引力をもって、主の愛は私どもをとらえてはなさないでしょう。
 
 
 以上は、釘宮義人個人誌「我ら兄弟」第2号よりの転載です。文章は1971年3月頃より以前に書かれたものです。次回で終了します。なお、「我ら兄弟」の第1号が見つかりましたので、第2号が終了後、続けて転載していく予定です。
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-01-05 17:03 | 日岡だより