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No.411 イエス様の十字架は真実であった! 2009.11.22

イエス様の十字架は真実であった!

 トリノの聖骸布というものがあります。イタリアのトリノにあるカトリックの教会に保管されているある人の遺骸を包んであった亜麻布のことです。
 そのある人というのがイエス様ではないか、というのが長い間の論争の元になっていましたが、昨日の新聞の報道では、まさに事実ではなかろうかという記事でありました。
 というのも、長い間その亜麻布に記されていた文字が非常に薄くてはっきりしなかったのが、今回コンピューターの画像処理でくっきり浮かび上がってきて、本当に十字架刑で死なれたイエス様に巻かれていた亜麻布であることが分かったそうです。
 イエス様の当時、使われていたアラム語やギリシャ語、ラテン語などで、執行された十字架による処刑のことや、イエス様のお名前「ナザレのイエス」等、きちんと書かれてあったそうです。
 この聖骸布には包まれていた人物の血液や汗などの分泌物が、あたかも写真の現像液のような効果を現して、その人物の背格好や、傷や、写してくれて居るのです。その写真を複写印刷したものを私も拝見したことがあるのですが、実にイエス様らしい面影が推察できました。これはもう、本物だ、と言っては、勿体無い、失礼千万という感じですが、そのような思いをした記憶があります。
 今回の報道で益々その真実性が伺えてなりません。なんという身震いするほど、感動的な発見でしょうか。イエス様の御肉体に本当に直接触れることが出来るような感じです。イエス様の実在を疑う学者連に対して厳然たる証拠が出てきたわけです。《く》

 
(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
 
無公害世界
 
 牛や羊は、神様が人間のために造ってくれたものである。だから、これを食うのは人間の当然の権利である。というような西洋かぶれしたキリスト教的自然観に、私は幼い時より反発した。日曜学校で宣教師が創世記の天地創造のお話をしてくれても、そこの処が不可解である。宣教師がいくら躍起になって、人間がすべての被造物を支配しなくちゃなりません、そう聖書に書いてありますと力説しても、私はいよいよそれが変に思われ、かえって牛や羊のみかは、米でも野菜でも木でも、それを人間が勝手に引っこ抜いてきて、自分のために都合のいいように使っているだけではないかと、心の内に思いはつのる一方であった。
 太陽を兄弟と呼び、月を姉妹と呼んだ聖フランシスの気持は、日本人には親しみやすい情操だと思う。聖フランシスのような人は西洋には少なかったのではなかろうか。私の心に日本古来のアニミズムの残留がまだ生きているのだと言われればそれまでだが、私は天地自然のすべてに生命が通っているかの如くに同胞感を感じるそういう感じ方を尊いと思う。
 昔、山奥の寺で一人の僧が、コンコンとわき出る水をひしゃくにくんで、ひとくち喉をうるおすと、あとに残った水に「ありがとうございます」と礼拝して、それをそばの草木にかけてやった、などという話がある。こういう世界の消息がわからないままでいると、その内今の物質的合理主義文明は発狂してしまうだろうという事に気づいてほしい。
 たとえば、にわとりだが、今のにわとりは体ひとつがやっと入るだけのバータリーの中に入れられて、濃厚飼料を無理矢理につめこまれ、大量生産の製卵機械に身売りされている。このようにして卵や鶏肉を人間に給餌する今の文明は必ず復讐されるだろうと思う。化学的人工飼料や鶏舎から解放されて健康な長生きをする鶏だからこそ、健康的鶏卵が人間にプレゼントされるのだということを私は夢想する。なぜならにわとりと私たち人間とは本来兄弟なのだからである。
 たとえば、つぎに米だが、今の米はふんだんに化学肥料と農薬を浴びさせられ高能率に栽培されている稲の私生児ともいえる。こういう米を作れば作る程、農民の心は荒れすさび、これを食べる消費者の体はむしばまれていく。
 いつの日か、稲は健康な土壌にたくましく育ち、自然肥料と人間のいつくしみの中に成長して、少々の干ばつや害(?)虫に負けない強い植物となり、そして人間に健全な食糧をおかえしするという日が必ず来るであろう。なぜなら、稲と人間は本来兄弟なのであるから。
 そのような調和と秩序が自然と人間(いや、人間をふくめての自然というべきか)の中にもたらされる時、我々はそれを真の文化と呼びたい。それはあるがままの自然ではなく、人間が参画し、人間が手助けする進化的自然である。無公害の世界とは、アダムとエバの時代のエデンの園にかえることではなく、あらゆる被造物があらためて有目的再創造、互助相関的進化活動をいとなむ果敢なる場所である。
 そこに於いてこそ、人間の英知はくまなく発揮され、まさしく創世記にいうが如く自然界における人間の支配があらわにされるであろう。人間の文化はいまだに、その文化発生以来の収奪性文化の本質をかえずにいる。今こそ、われわれはわれわれの文化を育成的、再生産的、本当の意味での開発的文化を変質せしめなくてはならぬのだ。(1971年頃の文章です)
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by hioka-wahaha | 2009-11-24 11:31 | 日岡だより

No.410 先立ち行きし江良兄よ! 2009.11.15

先立ち行きし江良兄よ!

 この11月10日、午前6時47分、我らの愛する江良兄は天に帰りました。
 この前、大分ゆふみ病院に入院したばかりだったと言うのに、もうそんなに急に天に召されたのですかと、神様を恨みがましく思わずにはいられなかったのでしたが、もともと大分ゆふみ病院そのものが、そうした緊迫した患者さんを迎えるためのホスピス病院だったのです。
 私は早速、大分ゆふみ病院に向かいました。ベッドに近づくと江良兄の遺体がそこにあります。私は思わず泣きたくなって、その上に顔を伏せます。私は思わず「江良兄!」と彼の名を呼びます。そうなると私は自然に彼の魂を見るのです。と言っても彼の姿を私の視力で見るわけではありません。しかし、信仰の目で見ます。
 そして私は彼に語ります。仏教的に言えば「引導」です。引導は文字どおり「手引きして道を導く」ことです。私自身、イエス様におすがりしつつ死んだ魂を神の国に導こうと思うのです。
 死んでいる人の耳は案外しばらく生きていて、聴力が残っているらしいと言われます。大分におられたカトリックの神父さんでしたが、ポーランドの出身の方がおられました。ポーランドでは亡くなった信者さんがいると、その耳に口を寄せて「おおい、天国へ行くんだぞう」と叫ぶんだそうです。そこで、私も真似をして死んだ方の魂に呼びかけるのです。必ず私の声を聞いてくれる筈と信じています。《く》

 
(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
 
人類のこれから
 
 ボールディングに従うと、世界の文明は破局に近づいているようである。
 第一に戦争である。単なる大国気分や、領土拡張論や反共十字軍的戦意にあおられて、ほらあなにこもって海草を食べつつ、核戦争に狂奔するということになりかねない。
 第二に人口の増大である。個の生目の尊重が、人類全体の衰弱、あるいは集団自殺をまねきかねない。新しい形の間引きがいる時代が来はしないか。
 第三に工鉱産業により排出される老廃物の公害である。地球の表面全体に死の霧がおそいかかりつつある。
 第四。右のすべてが、幸いにも万事うまく取り除かれた時、次に来るものは「退屈」である。爛熟期のローマ市民以上に、退廃した生活におちつくほかはないであろう。
 さはあれ、右のように想像の中で破局を予想する能力は地球上では人間だけのものである。そして、その予想される破局を回避する道を講じるのも、人間の能力のいかんにかかっている。
 この新しい型の能力は、凡そこれまで多くの人たちが考えてきた力、――― 腕力ではもちろんないし、計算力でも、語力でも、金力でも、軍事力でも、政治力でもない。
 敵を愛する技能、身を捨てて浮かぶ瀬を発見する技能、人を受け入れる技能、そういうこれまで聖人君子の道、この世の生活にはすべて役立たない空理空説と思われていた技能を、これからの人類は学習せねばならないだろう、とボールディングは言う。
 
公害問題の原点
 
 いなごが集団発生してコントロールを失い、雲のごとき大群となって大陸を横断して一挙に海に飛び込み、集団的ヒステリーというか、そういう状況で一種の集団的自殺行為をすることがある。そのようないなごの大群に一過された農作地帯こそあわれなもので、実も葉もくきも根こそぎやられ、一帯がまるで丸裸にされてしまう。
 今の日本の消費物資の濫費をみていると、まったく日本列島をいなご族が狂奔しているような感じがする。かつて軍部が国民をあおって好戦民族にしたてて、おしまいの頃はその国民の熱気に軍部の方が追いたてられて、ウヤムヤの中に国を挙げて敗戦に突入したように、今はテレビコマーシャルにあおられて大衆があれを買いこれを買い、とめどもなく貪欲に身をさらしている時、そのうち国全体・民族全体がどこかへ吹っ飛んで行ってしまうのではないかという気がする。
 今、大企業が方々公害問題で追いたてを食っているが、本気で追い出してしまうと、それもまた困るという心情が民衆の内部にある。逆に居座って益々もうけてくれという大衆投資家や、まだまだ紙やプラスチックを使いたいという大衆の消費欲望の熱気が企業の生産態勢を勇気づけるのである。
 貪欲は、徹底して身を破滅させるまで食いつくすという形で、自己処罰する運命を持っている。パウロが貪欲と偶像崇拝を直接結びつけるのは意味が深い。そう言えば、清貧の僧(良寛の如き)が、無心に仏像を拝むのを偶像崇拝とは呼ばず、かえってキリスト教の聖職者が地位獲得・教会堂建設に躍起になって身も心もいかれてしまう、それをこそ偶像崇拝と言うべきかもしれない。聖フランシスコが金を極度にきらい、僧房も石で建てさせなかった意味もそこにあろう。民が偶像をさけ、真実の神を求める時、貪欲は止むのである。
 コリント第一書7:31に「世に用うる者は用いつくさぬ如くすべし」(これは口語訳よりも文語訳の方が良い)とあるのは、そういう貪欲に対する戒めでもある。
 若い時は性欲や歓楽に、中年では事業欲や子供の教育に、老いては物欲や政治欲に執着し、むさぼり、それを極度にまで追いつめて味わい利用しつくそうとする。
 看取せよ。看取せよ。「この世の状態は過ぎゆく(Ⅰコリント7:31)」、永遠の相に汝の目をとめて、この世のことは「用いつくさぬ如く」、余地を残し、おつりをかえし、物も自然も時間も労働も神のために残しておけ。
 これが公害時代における民への預言者的発言ではないかと思う。
 

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↑11/8在天者祈念礼拝


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↑墓前礼拝

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by hioka-wahaha | 2009-11-17 12:43 | 日岡だより

No.409 「我ら兄弟」No.2より「十字架の言(ことば)(つづき)」他 2009.11.8

(1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
十字架の言(ことば)(つづき)

 神は、宣教の愚かさをもって信じるものを救うをよしとされた。だからと言って、単なる宣教の言葉が人を救いはしない。十字架の言が人の心を捉えるのである。
 
 十字架の言とは何であろう。それは初歩としては
(1) 十字架についての言(説明・感想)である。これは聖書や神学を勉強したり、自分で考えたりすれば分かる。
(2) 十字架よりの言(思想)。人間の思想ではなくて十字架それ自身が発する独自の思想。各自に与えられるとき、きめこまかな相違がある。これは神よりの一方的恩寵的体験であるが、また我々の側において祈りと冥想も大切である。これなくしては、深みある信仰生活は得られない。
(3) 十字架されたる言、ある聖句やその他の語句が、本来の意味を打破して、キリストの血で新しい意味を持つ。御言葉うち開けて光を放てば、おろかなるものをさとからしむとパウロがいう経験である。磔殺されたる言ともいおうか、十字架に封じられたる言ともいおうか。キリストの死と生そのものになりきって私の内になぐりこみをかけてくる言である。これこそクリスチャンを日毎に刷新せしめる霊語なのである。
(4) 十字架する言。伝道者の口より出でて、むなしくは帰らずといわれる必殺の語剣である。人の魂をキリストの名に、キリストの血に、キリストの復活に射とめ釘づけ殺してしまう言葉。これなくして強力なる真実の伝道はできない。
                 (九月二日朝、大分キリシタン殉教公園にて)
 

殉教者の血
 
 英語で殉教者のことをマーターと言う。これはギリシャ語のマルテユスを語源としている。マルテユスは訳すと「証人」である。例えばヨハネ黙示録第十七章六節を開くと、大淫婦バビロンの都は、聖徒の血すなわちイエスの証人の血に酔いしれていた、と書かれている。そのイエスの「証人」という字こそマルテユスなのである。
 初代教会は殉教者の血によって開拓されたと言ってよい。現今流行の新興宗教のように、病気治しや、金もうけなどの御利益宣伝により、信者を増やしたのではない。使徒行伝にはまだ多分に新興宗教のような奇跡ものがたりが載っているが、その後の書かれていない続使徒行伝時代においては「更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ……あざけられ、むち打たれ、しばりあげられ……石で打たれ、さいなまれ、のこぎりでひかれ、つるぎで切り殺され……(この世は彼らの住む所ではなかった)」とヘブル書第十一章に書いてあるような苦難にみちて、かつて、イエスが「彼らは……地の果てまでも、わたしの証人となるであろう」と弟子たちに約束されたように、まさしく多くの証人―――殉教者たちが輩出したのである。そういう殉教者の血が刑場のまわりに集まった群集の中に回心者を続々とおこしたのである。
 
 
殉教者の精神
 
 殉教者という言葉の原語は、もともと証人という意味であるということはさきに述べた。私はだから、その言葉を殉証者と訳したいと思う。
 死ぬということは、新しい生命に生きるということである。我々の生命はよろずのものの死(という生)の上にたてられている。それが、この世界の神的秩序である。その最底辺で、万物をささえるものが神の死(という生)である。
 よろずの生命は、互いに生死をかけていどみかみ合っているように見えるが、逆の見方をすれば、それぞれの生命を出しあって、大きい宇宙的複合的生命体を造りあげているともいえる。
 他の生命の為に死ぬとき、それは無償の行為である。我々の労働、研究、奉仕、その他あらゆる業は、本来個的生命の断続的な小出し―――つまり小さい死であって、それは無償の行為であるべきである。それが代価をもって買われる時、本来無償なるべき我々の死がサタンの金に横取りされているというべきである。
 神の国には、金は無いし、労働は凡て無償にして、喜びのわざである。
 父は子のために労し、子の成長のために、おのれの生命も金も名もいとわぬ。子が自分よりえらくなったと言って、それを嫉妬する親はいないし、子をさしおいておのれの名誉を求める親もいない。無償の挺身の業は親の子に対する業によくあらわれている。
 すべての人が無償の愛にめざめ、神と人とのために生死を賭すとき、そこに真の神の国がある。
 無償の愛とは何ぞ、殉証者の精神である。
 
  
異(こと)火(び)
 
 積極的な生き方の力、信念の魔術、潜在意識で金をもうけよう、などというアメリカ流の実践心理学には、二つの面がある。
「汝の信ずるごとく汝になるべし」
「すでに得たりと信じて求めよ」
「からし種一粒ほどの信仰にても山を移すべし」
 右のようなイエスの教えに全くそっている正しい面がある。それは、人間心理よりみた信仰の達成のメカニズムである。
 しかし、何を信じ、何を求めるかという事で、アメリカ流の御利益心理学はサタンの陥穽に陥っている。御利益と快楽にいざなう甘いささやきをもって、我々を自己催眠のワク内に連れ込み、ビアフラの飢餓を、ベトナムの悲劇を、黒人のなげきを、人の罪を、キリストの血を、十字架の御わざを、殉教の血汐を忘れせしめる異火である。それは決して聖霊の火ではない。
 
 
 以上は、釘宮義人個人誌「我ら兄弟」第2号よりの転載です。文章は1971年3月頃より以前に書かれたものです。次週も続きます。
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by hioka-wahaha | 2009-11-10 10:40 | 日岡だより

No.408 「我ら兄弟」No.2より「悔い改め」他 2009.11.1

(1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)

悔い改め

 律法の本質は福音である。そのことが分からないと、律法は形式化し、過酷となり、魂の冷却室になってしまう。
 福音は律法に血液を通わせ、新しい息吹をあたえる。その新しい律法に体を服従せしめるとき、クリスチャンの能力が外にあらわされ、内に秘められる。
 人がはじめクリスチャンになったとしても、実情は日毎に罪をおかしやすいものである。故に、ルターの言うように、クリスチャンの全生涯は悔い改めの生涯であるべきである。
 もし、われわれが純乎たる心を持って、キリストの新しい律法に従い、日毎に一日の自らを省みるとき、この欠け多く過ち多い肉なる我に嘆ぜざるを得まい。そのとき我らは、主の前に懺悔して御血汐の限り無き贖罪に預かるほかは無いことを痛いほど思い知る。
 悔い改めの信仰の欠如が、ここ十年来の私の信仰の欠陥である。日毎の悔い改めが、日毎の聖別をきたらせ、日毎の聖別が肉の死を呼び、日毎の肉の死が、霊の勝利を生むのである。
 常に私をきよめ(武士が刀をみがくように)、私を選びおき、常にえびらにおさめる矢のように私を御そばにたずさえて、世を歩みたもう主よ!あなたの御思いのまま、今日も存分に僕を用いたまえ。
 
 
キリストの十字架

 キリストの十字架は、私たちに何を示しているか。学び得るままに、教えられし処を以下に書こう。
(1) 神は世を救うために、自らは天界に超然として住まわれて、「汝ら救いを得よ」と全能の御言葉を垂れさせられる、というわけにはいかない。神は愛だからである。愛は意思であるけれども、情をともなう。神は天地最大の多感のお方である。故に彼は、世を救おうとして、地獄の底まで泥もウジもかきわけてもぐりこむようにして、罪人を求めたもう、十字架はそのシンボルである。
(2) 神は宇宙の哲理だとか、法則だとか、形而上学的真理だとか、そういう雲か霧を掴むような方ではない。人間は神を原形として造られたのであるから、神は一面、超越的に人間以上のものであるにしても、他の一面では、最も人間らしい人間、人間以上に絶対的究極的な人格のお方なのである。故に、一節に書いたような神の下降運動は、歴史の中に突入してイエスの生涯と、その十字架の死というような、ごく身近な具体的実践の道をとりたもう。
(3) 神の愛と、神の正義とが、人の世に対し、果敢なる干渉をもつとき、愛が罪を包もうとして破れ、罪が凱歌をあげているとき、破れてほとばしる血汐が、神の正義を武装せしめ、誇る罪を一挙に葬り去る、という霊的ドラマの舞台が十字架である。
(4) 十字架上のキリストに、初歩の私たちはまず、殉教者のさきがけとしての彼を見る。それは教理的には浅い見方かもしれないが、正しい見方である。真理把持者がこの地上に生きる時、死にいたるまでのこころみに遭うのは、格別おどろく程のことではない。現に迫害や苦難にあう者にとり、十字架上のキリストは、どれほどのなぐさめ、また励ましであろうか。十字架は端的に苦難のしるしである。これを喜んで負うことを主は望まれたし、また事実、これを負うことにより、多くの事を神学者以上に真に理解でき、修道者以上にめぐまれ、冥想者以上に霊操を得たのである。
(5) キリストの死が、身代わりの死であることは、深遠なる真理である。私のかつての師・手島郁郎は代罰説を嫌ったけれども、私は代罰説を信じる。もっとも、罰のみかは、他の多くの事につき、十字架上においてキリストは私の身代わりとなりたまい、すべての事を為し果たし、負い尽くしてくださったと信じる。私の死も生も、私の恥辱も栄光も、私の愚かさも英知も、私の罪も聖も、みな彼の中にあるのである。私は、私の義を私の内に探さない。私は私の義をキリストの内に発見する。この心の中での信仰的振替作業は、最初の回心の日にキリストにじかに学び、今に至るまで我が内に確保している信仰の技法である。
(6) キリストの十字架は、前節の「身代わり説」を超えて、更に直接変革の力を持ち給う。その力を血汐と呼ぶ。
 「身代わり説」は「目に見えぬものを信じる信仰による内的確信」であるが、血汐はあたかもありありと見えるかのごとく注がれて、具体的なサタンの束縛より我々を解放し、我々をきよめる。それは、目に見える競技場にてこの世の君やその手下どもと戦うとき、どうしても必要な霊的武器である。十字を切って悪霊を払う儀式は、昔は決して単なる迷信や形ばかりの習慣ではなかったであろうと私は思う。
(7) キリストの十字架、見よ、それは汝の旗印である。本間俊平がかつて、伝道とは何ぞ、それはかしここそ汝の死に場所であると言って、ゴルゴタの丘を指さすことであると言った。正しい、それは本当に正しい。涙っぽい哀れな十字架ではない。積極的、殉教者的、動力源的十字架、その十字架を指して、あそこで一緒に死のうじゃないか、と死を目指す生き甲斐の宗教! そこには商売繁盛も病気回復も試験合格も家内円満も何もない。御利益や幸福はくそくらえだ。全世界をたぎるルツボに入れて聖化してしまうような十字架の磁場を、我らは目指すのである。


十字架の言(ことば)

 パウロによると、神の力とは、端的に十字架の言なのであった(Ⅰコリント1:19)。福音を語るにあたって、我々がすぐれた言語や巧みな言い回しを用いる時、福音は無力化する。
 パウロが、十字架につけられたイエス・キリストのことだけを念頭において語るとき、その語り口はこの世の智恵者の型と異なり、あの一代の博学(使徒行伝26:24)と言われたパウロの言葉もおのずから稚拙となり、愚者の物の言いぶりに似てくるところがあったであろう。しかし、そのたどたどしいパウロの言葉が、人々の心を粉々に砕き、これを吸い寄せ、これを神の召しとしての選びに釘づけしてしまう。パウロの宣教や日常談話の言葉のすべてが、不思議な能力←聖霊と言うほかはない聖なる把握力に裏打ちされていることに気づかずにはいられない。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-11-03 09:47 | 日岡だより