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No.407 「我ら兄弟」No.2より「いわゆる『聖書信仰』を抜け出せ」他 2009.10.25


(1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)

いわゆる「聖書信仰」を抜け出せ(つづき)

 聖書を民衆に解放しようにも、一般大衆は文盲であり、聖書は写本で非常に高価であったのであります。
 聖フランシスの弟子の一人が、詩篇か何かを所持することを願ったとき、聖フランシスがそれを感動的な言葉で拒否したことを記憶しています。
 多分その弟子は詩篇を持っていることを見せびらかしたかったのでしょう。金持ちの見栄張りなのです。そこをフランシスは見抜いていたのです。写本の聖書は何冊にも分冊されています。それを何冊も積み上げます。書斎に入ると、その聖書は宝物のようではなかったでしょうか。
 形式的クリスチャンにとっては、聖書こそ偶像になりやすいのです。内村先生の聖書中心主義も、そういう意味では危険なんですね。(つけ加えますが、無教会主義の人々には内村先生が偶像になりやすい。原始福音の人には手島先生が偶像になりやすい。その点、クギミヤ先生は大丈夫ですね。僕のアラを幾つでも探し出してください。)
 私が回心したとき、私の手もとには聖書はなく、私に教会はありませんでした。私をかかえこんでくれたのは、主の不可視的教会であり、私をささえてくれたのは、記憶している聖書の概要と聖書のなかの僅か二、三のうろ覚えの聖句でありました。
 聖書、聖書と聖書の言葉にしがみついて得々としている人々の信仰に、「ひからび信仰」の多いのは悲しいことであります。

 
求道者の願い

 三浦綾子さんが、今年から【注・この文章は1971年のものです】主婦の友にキリスト教入門記を書き始めた。彼女のりりしい信仰態度が、ここまで伝道の座を獲得せしめた。見習うべきことである。
 ただし、三浦さんの作品について少し文句を言いたいことがある。「氷点」でもそうだし、「裁きの家」が特にそういう印象を与えたが、人の性格が生まれつききまっていて、どうしようもないという考え方である。「氷点」で言えば、陽子は生まれつきやさしい娘のようだし、夏枝は生まれつき思いやりのない女のようである。
 なるほど、世間を見渡せば、そういう見方の方が正しいのかもしれない。人の性格は抜き去りがたいものかもしれない。しかし、そこを何とかして変質せしめられたい。化体したい。それが求道者の切なる願いである。

 
本当のことば(詩)

   天国にいきますと
   人が口で語るような
   ことばというものが無くなって
   みんな思いだけで話すんです。
   
   みんなの名前もありませんので
   おたがいに
   心だけで相手をさとるのです。
   
   天国にいきますと
   神さまのお姿も見えませんし
   お名前もありません。
   おどろいたことに
   イエスさまにもお名前がなく
   ただ心でお呼びするだけです。
   
   みんな衣を脱ぎ
   肉体も捨てて
   口もありませんし
   脳髄もありませんから
   ことばなんか使わないんです。
   
   私は悲しくなって
   思わず「イエスさま」と呼ぼうとしたら
   肉体もなく口もありませんから
   紙の無い障子を空気がぬけるように
   私の心は、肉体の無い私を通りぬけて
   目に見えぬイエスさまの方に吹き抜けて
   いったのです。
   
   そこで太陽が炸裂するような輝きがあって
   白光の存在が
   「私はイエスだ」と言ったように思えるの
   ですが、
   これはまだ地上に残っている私の言葉の意
   識でしょうか。
   天国にはことばは無いのです。
   本当のことばしかないのです。


今日より始めよ

 されど、今日よりの私は、生きかえりたる者のごとく生きよう。
 私がいかなる者であれ、私をこえて、より私自身でありたもうキリストの実在に生きよう。
「私の内に活きてくださいますキリストさま!
私以上に、より私そのものでいたもうキリストさま!
私の内にあって、私ならぬ私自身、私をして、真の私ならしめ、歴史以前の私をあらわにし、永遠の相の下の私を幽現せしめ、私を私にして活かしたもう、キリストの実存よ…」
 昨日まで(ああ、悲しき日曜日の昨日よ)、失敗しつづけてきた、この私に心をかける必要は全くないのだ。欠け多いこの私に気をくばることは何もない。私は我が内にある、新しい(日毎に新しい)キリストの生命に、眼を見ひらいて、驚きと讃歌と服従をもってつらなる。だから、今日以後、私は古い私、これまでの私の抜けガラに目をとめることはないのだ。私は信仰をもって、私の内にあるキリストの生命を拝す。
 古い抜けガラが、どれ程ボロボロであろうと、腐りきっていようと私はかまわない。毎日、ボロをはがされ、恥をかき、みにくい姿をさらそうとも、そういう外見には一切おかまいなく、私は内にあるキリストの生命に信仰の目を向ける。私の視線は私の外には向かない。私の内に向くのだ。外なるものはくずれども内なるものは日に新たなりと、パウロは言う。その日に新たなる内なる生命を信じるのだ。これこそ、一切を革新し、一切を支え、一切に力を与えるキリストの生命である。
 この全天全地に満ち満つる不可見の七つの教会の中を歩みたまい、その七つの星を手に握りたもうお方よ!
 あなたは全天全地に満ち満つる神的秩序の保持者であり、主宰者であり、神的活動の総指揮官でありたもう。
 あなたを信ずるという者は、一切の進行をあなたに委ねて、敢えて退転せざる気概を要す。
 昨日までこの世と妥協してきたから、今日もひとつ、これくらいの妥協をゆるしてもらおう、明日からは必ず神にしたがいます、などと言って今日一日をのばしがちである。昨日までの私に義理だてすることはない。今日という日が大事なのだ。今日より始めよ!

※釘宮義人個人誌「我ら兄弟」は1971年3月に第2号、12月に第3号が発行されています。第1号は所在不明。お持ちの方がいらっしゃいましたらおしらせください。
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by hioka-wahaha | 2009-10-27 10:25 | 日岡だより

No.406 「我ら兄弟」No.2より「霊覚について」他 2009.10.18

(1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)

霊覚について(つづき)

 感覚のにごりをぬぐい去り、これを敏感にするものは信仰であります。人間の感覚を通して脳裏に収めるすべての受像より、霊覚はその奥にひそむあるものを判断するのであります。霊能的受像も、また同じようにその判断の材料にしかすぎません。
 神様が人間にその五感を通じて悟らしめる種々の材料だけでも、豊富にすぎて困るほどであります。この地上には、神様の告知で一杯ではありませんか。この上、霊能的感覚があろうと無かろうと、さして気にとめるべきではありません。それが無いからといって、持っている人をうらやむのはこっけいであります。持っている人が持たぬものを軽蔑するならそれは悲しむべきことであります。

死即生

 「死ぬ」ということが、しばしばクリスチャンの間では、心理的な決断にのみ終わることが多いのです。心の中で「事毎に死にます」などと叫んでみて、一時的に甘い感傷的な安らぎを感じても、いったん世間にもどれば元の木阿弥になってしまう。
 「死ぬ」ということを、自力活動の停止、自己判断の停止、というふうに考えて、親鸞のように私は極悪深重の凡夫ですと、坐りこむ手もありましょう。それも一種の「己れ」の死でありますが、聖書の死は、もっと積極的に我々の日常に働きかけてくる死であるように思われます。
 聖書において、クリスチャンの死とは、イエスの死への一致であります。それを裏返して言えば(ネガをポジにするように)、イエスに従うことであります。
 「日々おのが十字架を負いて我に従え」
 この御言葉を拝しますとき、おのが十字架を負うとは、日々の自己否定であります。その日々の自己否定は、ストイシズムのような自己満足的自己否定ではなくて、イエスに従うことによる自己否定であります。つまり言葉としては、日々おのが十字架を負うことと、イエスに従うことの間に、時間のずれや順序があるように見えますが、実はひとつのことなのです。イエスに従うということが即自己否定なのです。
 そして、イエスに従うということは、即我らの真実の生であります。つまり、一度死んで、そのあとで生きるというように考えるのは、実際を知らないものの言い分です。本気でイエスに従って自己否定に生きてごらん。その事それ自体が、真実の生であることが実感できます。「死んで而して生きる」のではありません。「死即生」なのであります。

信仰を増してください

 弟子たちが、イエスに、「われらの信仰を増してください」と願ったとき、「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に抜けて海に植われと言ってもお前たちの言うとおりになるだろう」と、かえりみて他を言われるようなことを仰せられた。これは、あきらかに「信仰を増してください」という弟子たちの願いに対するイエスの好意ある拒否であります。(ルカ17の5、6)
 なぜでしょうか。信仰は人の責任分野であって、神が人に代わって信仰することはできないからです。
 ただし、信仰の最初の芽は神より賜りしものと実感せずにはおれない程の恩寵感を以て回想できます。キリストの(所有格)信仰によりて救われたりと言い切れるほどの絶対他力的信仰の実感があります。にもかかわらず、信仰は真実われら自身責任のことであります。そこで、「信仰を増してください」などというのはコッケイな話なのです。
       ×       ×
 似た祈りに
 「われらに愛を与えたまえ」
 というたぐいがあります。
 愛とは「愛する意思」と「いとおしいという感情」ですが、これもまた、神がわたしたちの為に代わることのできないことです。
 ただし、愛は人の本性にそなわっているものです。それが神にきよめられてサタンの手から解放されるとき、自由に愛の放射が可能となります。また、神の愛に刺激され触発されてますます愛が感動的情緒をおびてまいります。また、自らの意思で他を愛しようとするとき、不思議に「いとおしい」という感動がおこってくるものです。
 「愛の自らおこるまでは、ことさらに呼びさますことなかれ」というのも真理ですが、また一方、「愛せよ、さらば愛を知らん」というのも真理であります。

いわゆる「聖書信仰」を抜け出せ

 私の信仰の下地は、教会や無教会の集会・信仰書・聖書にありましたけれど、具体的に言って、回心の時点においては教会からも、聖書からも、遠ざけられている、戦時中の刑務所の中でありました。私はそれまで、熱心な聖書の研究者でありました。(聖書は研究しても分かるものではありません。聖書の研究とは内村鑑三の残した悪い言葉であります。もっとも、信仰が与えられてから聖書を研究すると滋味つきないものであります。)
 その頃、「この聖書一巻さえあれば我が人生に悔いなし」とたかぶった気分でいました。ところが、ひとたび刑務所に放りこまれてみれば、その聖書一巻が与えられないのです。坊さんがお経を丸暗記しているように、なぜ聖書を暗記しておかなかったろうと、舌打ちしたい気持でした。ギリシャ語原典はもとより種々の聖書翻訳書、たくさんの注解書を、机をはじめあたり一面に並べまわして、重箱のスミを針でつつくように研究していましたが、そんなことより聖書の一句でも頭の中にたたき込んでおくほうがよほど役に立つものだと、身にしみました。
 その時分、私がゾッとしたのは、聖書を記憶しようとしても、頭が悪くて記憶できない人はどうなるのかということでした。今は、日本は国民皆教育で文字は誰でも読めます。それで、「聖書にかえれ」などと言われても言葉としては何の抵抗もありません。ところが、「一文不知のともがら」にとっては、それは大変なことがらであります。記憶することはおろか、読むことすらできない文盲の人々にとり、「みことば」はどのようにして伝えられ、彼らのうちに「たくわえ」られていくのでしょうか。
 宗教改革は、聖書翻訳の仕事を抜きにしては考えられないでありましょうし、その時代的背景には一般市民階級における教育の進歩とグーテンベルクの印刷術開発があるとされましょう。当時の時代推移の中で、聖書をラテン語より各民族の母国語にとりもどし、みことばを教会の門扉の内より民衆の手に解放した宗教改革者の熱意には頭が下がりますし、その正しさも肯定します。
 しかし、その宗教改革者の尾ひれにくっついて、それまでのカトリック教会が聖書を教会内に独占したとして、今の我々が批難するのはいささか飛び上がりもののそしりをまぬがれません。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-10-19 11:15 | 日岡だより

No.405 オバマ大統領にノーベル平和賞 2009.10.11

オバマ大統領にノーベル平和賞

 今回の「オバマ大統領にノーベル平和賞」というニュースには、正直言って本当に驚いた。ノーベル賞委員会、味なことをやるなという感じである。
 ある新聞の記事では、その見出しに曰く、「実績より未来に託す」と。
 実際、核を実戦に使った唯一の国としてのアメリカが(その核の威力をまともに被ったのは我らが日本だが)、核軍縮への有効な第一声を放ってくれたことは称賛してよいと思う。
 もっとも、すぐに核武装を廃絶しますというのではなかろうが、そう声明を出されると一番に悲鳴を上げるのは日本かもしれない。
 昔、日本人には「親方日の丸」という言葉があったが、今は死語である。今は「親方は星条旗」かも知れない。その星条旗の国際的威力の象徴はドルであろうが、また核保有であろう。

 オバマ大統領まだ口で言っただけではあるが、この言葉には力がある。核保有でアメリカに追随したい国は、その穂先を遮られた感じだ。
 ノーベル賞委員会は、オバマを賞して「国際政策のために世界を導くスポークマンとしての役割を果たしてくれている」と言っている。これはオバマ大統領に対する絶賛と言ってよい。
 世界の平和のために、口を挟まないわけには行かないが、なんとなく口を出しにくい有力国家の核武装問題、それを「核武装はもう止めようや」といった感じのオバマ発言、大いに歓迎したい。《く》


(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)

社長バンザイ

 困ったことに、私はいつもいそがしい。印刷をやっている小会社だが、小会社といえども一応の株式会社、そこの社長業は目のまわる程いそがしい。いそがしいといっても、人目にはラクな稼業に見えるかもしれないが、そこはそれ水戸黄門が言ったとかいう、静かに湖面にあそぶ水鳥の目に見えぬ水中の脚のあがきで、年がら年中人と金と注文取りで頭をいため、夜もおそくまで計算機を打っているということが多い。
 こういう世俗の仕事を一定の時間のわく内にとじこめて、あとの時間を自分の時間として趣味をいかしたり研究したりするということが私にはできない。できないというよりは、したくないのだ。そういう生き方は、自分の仕事をいやしめ、ひいては自分の人生をいやしめることでしかない。
 いそがしいというのは、冒頭に書いたように実は困る。こういう原稿すら書くひまがない。かと言って、ひまになったからといって、原稿を書けるとはきまっていない。案外、私のような人間、今のように忙しいからこそ、たとえ一枚でも二枚でも書けるのかもしれぬ。
 「実業の世界」と人はいうが、金と物量ばかり気にしているこの世界は、まったく「虚業の世界」でしかない。
 この虚業の世界に生きることは牧師をしたり芸術家になったりする人生にくらべ、はるかに価値もなく、かつ下品に見える。しかし、本当の宗教や本当の芸術はコントンたる世界の底より芽ばえると私は信じる。
 ウソを言い、媚びを売り、税金をごまかしてまで妻子を養わねばならぬ裏街道人生の実際を肌にしみてみて、初めて宗教や芸術がわかる。
 この虚妄な人生を逃げないで、その虚妄な人生を世間なみに必死の面(つら)がまえで耐えて生きて、浮き世の哀歓をかみしめる時、詩がうまれるし、祈りも出る。
 だから、今の私には、今のこの貧乏会社の社長の椅子が修行の道場なのだ、冥想の座なのだ、恩寵の椅子なのだ。
 これから逃げだそうとはゆめゆめ思っていない。
 社長バンザイ!

キリスト・イエスにバプテスマされよ

 昔、ローマの酷刑に、ペストやコレラなどで死んだ奴隷の体をくくりつけて、その病気をうつして死にいたらしめる方法があったそうです。パウロが「イエスの死を身に負う」と言うとき、この死刑のことを彼は頭に思い浮かべていたのではないでしょうか。
 パウロは、その仇に「疫痢のごとき人物」とののしられていますが、伝道とはまさしくイエスの死を負って自ら死に、また死にたるおのれを他に与えて、人々を疫痢に感染したるもののごとく死なしむることであります。
 「キリスト・イエスにあずかる(文語訳・合う)バプテスマ」とは、原語では「キリスト・イエスにバプテスマ(浸(ひた))される」とあります。それは即ち「キリスト・イエスの死に浸される」ことであります。キリスト・イエスの死の体・十字架・よみにくだりたまいしキリスト・イエス、死の彼の真っ只中に沈没させられることであります。
 聖霊のバプテスマとか、火のバプテスマとか称される体験は、たいへんすばらしいご恩寵のみわざであります。しかし、それを異常に求めますとき、かえって横道にそれる危険が多いのです。サタンはそこをねらっていますぞ。クリスチャンにとり、必須の関門は「キリスト・イエスへのバプテスマ」であります。そのことを確信してください。
「もしわたしたちが、彼に結びついて(文語訳・接がれて、意訳・ひとつ生命となって)その死の様にひとしくなるなら、その復活の様にもひとしくなるであろう。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」
 と、パウロの言うとおり、キリストにあっての死と生こそ、クリスチャンの生命であります。

霊覚について

 智恵のある人は、世の中のからくりが分かり、先の見通しがきくだけ、思案も多く心配が先立ち、サタンの誘惑の餌食になりやすいものです。霊能的な人も同様で、益よりも危険のほうが多いのです。
 神の御旨を知ろうとして、霊能的な感覚に頼るのはよいけれど、それができなくても気落ちする必要はない。信仰と当たり前の感覚がありさえすれば、真理のあるところは匂いのように分かるものです。
 よい音楽と、いやしい音楽と、あなたはどこで聞き分けますか。本当の文学と偽文学と、あなたはどこで読み分けますか。それは霊的嗅覚でかぎわけるのです。予言だとか千里眼だとかいう霊能と違って、それはもっと根源的で普遍的な人間の感覚であります。これを霊覚と呼びましょう。(つづく)《く》
 ※釘宮義人個人誌「我ら兄弟」は1971年3月に第2号、12月に第3号が発行されています。第1号は所在不明。お持ちの方がいらっしゃいましたらおしらせください。
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by hioka-wahaha | 2009-10-13 12:18 | 日岡だより

No.404 奇蹟はあなたの口にある! 2009.10.4

奇蹟はあなたの口にある!

 「奇蹟はあなたの口にある!」
 ジョン・オスティーン先生の名著であります。残り少なくなりましたので、残部を全部背後の机上に積み上げました。みなさんに差し上げます。
 既にお持ちの方にも差し上げますから、奥さんなり、旦那様なり、息子さんなり、お嫁さんなりに、差し上げてください。決して無駄になりませんから。
 この本の中に書いてある言葉の中に、あなたが気に入った言葉があったら、それを口にしてください。
「ね、あの本に書いてあったね。神様は今、ご自身の言葉を実現しようとして見張っておられる」

 この本の著者のオスティーン先生の生まれたばかりのお嬢さんが起きて這うことも出来ないようでした。しかしオスティーン先生は「大丈夫、娘のリサは起きて這い始めます」と信仰の言葉を口にして止めませんでした。そして遂に、待ちに待った日に、リサちゃんは体をひっくり返して歩き始めたのです。
 聖書には沢山の奇蹟物語が載っています。「しかし、あれは昔のことです。奇蹟の時代は既に去りました」と言う人もいます。しかし聖書は言います。「イエス・キリストは昔も今も変わりません」。イエス様の時代、初代教会の時代、弟子たちは幾多の奇蹟を見ました、死人はよみがえり、病人は癒され、足の不具の人は歩いて帰り、目の見えなかった人は、独りでズンズンと危なげもなく歩いて帰ったのです。今もそのことは起こります。私たちを、そのことを全能の主に求め、期待しましょう。《く》


(以下は1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」の連載です。)
主の御名を呼ぼう 17

 人為的と書くと、首をかしげる人もありましょうが、人間的熱誠と迫力で集会を指導することです。これも悪いことではない。昨年以来私は、万事に精神をつくし、心をつくし、力をつくし、人間としての能力を出しきり、しぼりきることの必要を主に教わりました。
 力を出しきった後の始末は、神様にたのむ、そういう(天理教の常岡さんばりですが)コツを去年以来習ったように思います。今度、倒れる前日までの夜となく昼となくつづく連続的集会と世俗の仕事の兼務を考えると、よくやれたと自分でも思います。それはそれで大切なので、今後もまた続けるつもりです。
 然し、それにもかかわらず、人力を抜けきり、熱っぽい感情的信仰をこえて、イエスの愛にのみ委ねきった、神秘的伝道の道の開かれる時が、来ているのであろうと思うのです。
          七、
 イエス・キリスト様、御名をお呼びいたします。
 イエス・キリスト様、ここにおいでください。
 イエス・キリスト様、あなたの愛に、あなたの生命に、あなたの血汐に、おろかなる僕の一切をひたします。
 イエス・キリスト様、あなたの中に住居(すまい)いたします。
 イエス・キリスト様、マラナ・タ(主、きたりませ)アーメン。
 (一九六八年七月三十一日 井上内科病院にて)
 
 <追 記>
 私は求道時代に明確なる回心体験(ウェスレーの言う瞬間的回心)を切に求めました。幸いにも主のご恩寵をもってその求めはかなえられ、昭和十九年以後、毎年十一月二十三日はその記念日となりました。
 然し、そのことはまた私の内にのこる肉の心に逆作用して、その御恵みを誇り、他をさばき、善かつ忠なる人々を遠ざける原因ともなりました。これは私の二十年来の伝道の歴史における傷となり、また痛みとなりました。今、心からなる懺悔をもって主の前におわびするしだいであります。
 瞬間的回心という鮮やかでドラマティックな経験は、その後の私の信仰態度に常に何かおこりはせぬか、一瞬後パッと変化しはせぬかと、異常体験を期待する悪癖をうえつけてしまいました。しかし、謙虚にその後の私の信仰体験をふりかえってみますと、その後の二回ほどの聖潔体験はまあ瞬間的と言えましょうが、それからあとは、もう直線的には方向転換せず、ゆるやかにカーブを描いているように思います。
 「大死一番」という言葉についても、これまで私が使ってきた気持には、エイッと「死」にとびこむような劇的予想があって、そのために肉なる意思と恐怖がいれまじってじたばたしているという感じでした。
 けれど、現在の私が知る「死」は、かつての日、ある御恩寵の日に始まった「死」が、今もなお私のうちに進行していて、それが最後のセンメツ戦にかかっているという感じです。ちょうどある病原菌が肉体に取っついて徐々にその病状をあらわし、遂にその死の凱歌をあげますように。
 ヤコブ・ベーメ(1575~1624)はその「魂の対話」の中で言います。
「そして、主を待つがよい。君の身のうえに、たとい何ごとが起ころうとも、それは、君を改心させるための、主のおぼしめしによって、起こされたものだと考えるがよい。こういって先輩天使は魂のもとを去った。魂は、そのときより、キリストの忍耐にならい、その歩みをはじめ、神に対する信頼と希望の中にはいって行った。魂は、日毎に強力となっていった。それにつれて、魂のよこしまな愛着心は、しだいにほろび行き、ついに魂は、偉大な恩寵の王国にむかえ入れられた。」
 ヤコブ・ベーメは、この著書の中で、神にそむいた魂がひとたびは神の火花を内に感じ、主のご恩寵にふれた後も、ふたたびサタンの巧妙な誘惑にかかって霊的浮沈のいくたびかをくり返して後、遂に徹底的に救われゆく様子を描いています。前述の引用文はその最後の節であります。
 その「………しだいに亡び行き」という言葉が私の注意をひきます。死がしだいに私の内に拡大され、生が満ち潮のように私をおそうてくる、それは主の御血汐により確立された私の内なる根源的死と生である! その御血汐においてゆるがざる「神に対する信頼と希望の中に」、私は生きるのであります。《く》(終り)
 注・文中のできごとは1968年のことです。
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by hioka-wahaha | 2009-10-06 11:30 | 日岡だより