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No.398 信念と信仰は違う 2009.8.23

信念と信仰は違う

 信念的信仰というものがあります。少なくとも、信念が加託されている信仰と言うものです。
 それは熱い信仰に見えます。改革者流の信仰にはそういうものがあろうかと考えます。
 悪いことではありません。しかし、危険だと思います。特に性格的に情熱的な人には、その傾向が強いでしょう。
 ルターなど、そういう危険性があっただろうかと思います。内村鑑三なども、そうだったかもしれません。ともかく感情の振幅が激しくて、行き過ぎるのです。
 それかと言って、煮えているのか、煮えていないのか分からないような、いわゆる知性派のクリスチャン信仰は頂けませんねえ。
           *
 私の恩師、手島郁郎先生は過激派のよい例です。私など、目を三角にして怒られましたが、それでも私の先生に対する敬愛の念は衰えません。
 時々、私も先生の真似なのでしょうか、時々カッとなって怒る事がありますが、私の怒るのは余り効果がありません。まだまだ手島先生には及びもつかないのですね。そのうちにしっかり怒れるようになりたいと思います。だれですか、「オーコワ、オーコワ」と言ったのは。ワハハハハハ。
 ともかく、信念というものは人にとって良きものです。しかし危険もあります。それは自力だからです。その点、信仰は違います、信仰は神様からの頂きもの、聖書において信仰とは、もともとキリストの所有です。ですから、自力では掴めません。信仰とはキリストからの賜物なのです。《く》


(以下は一九六八年執筆の「主の御名を呼ぼう」の連載です。)
主の御名を呼ぼう 11

「子よ、ここに憩え、何もせんでもいいんだよ。兄弟たちを見よ、姉妹たちを見よ、汝の無力の中に、いかにすばらしい転換前進を示していることか」
 そこで、私はこの暗示を神よりのものと思い込み、与えられし自由と平安の中で、あたかも砂糖の中に眠る蟻のように怠惰に過ごそうとする。水はひくきに流れ、人は易きにつく。私は毎日エアコンのきいた病室で、祈りもなく、勉強もなく、伝道もせず、ひねもすノタリノタリかなである。こんなことがあっていいものでしょうか。絶対にない。私はその事をこのヒゼキヤの書に学びました。
 人は、社会的に、霊的で「平安である」と自称している時は実は危ない時です。エレミヤの言う、偽預言者らが「安からざるに安し安し」と言う時です。うっかりと、我らの心の倉のすべてをサタンに下見させてしまう時です。人の内奥不可侵の至聖所はサタンの視線にあらされてはならないのです。
 集会で、私の説教最中、何ということもなく手すさびしている人があります。本当に心魂を打ち込んで聞いている人にはそんなヒマは少しもありません。ところが、どこか心がだれて(私の説教も悪いのでしょうが)無意識にハンカチをまさぐったり、よその子を目くばせしてあやしたりしている。ここまではまだいいのです。その下のクラスになると心はすっかり説教から離れてしまい、全然ほかのことを考えている。心は小学校の運動場のようなもので、1000人の子供がてんでばらばら遊んでいて、ちょっとやそっとの先生の声はすぐかき消されてしまう。こういうふうになるともう、その人の心の中の一切の宝ものにサタンの手先の売約済の赤札がはられてしまう、そういうことになりやすいのです。
「いや、それで結構です。今、私は平安なんですから」
 と、ヒゼキヤのように我々も言いたくなります。それを言わないためには、我々はもう一度主の御血潮のほとばしり出る十字架の下まで行かねばならないのであります。
          *
 イエスが病人をいやされたとき、「つつしみて誰にも語るな」と言われたのは何故でしょう。そのすべてのご意図を察することはできませんが、一つには、このヒゼキヤの愚をおかさないためであろうと思われます。
 主の大きい恵みを受けたとき、誰彼のみさかいなくふれてまわりたいものです。それはいい、あのスカルの女のように謙遜におやりなさい。ところが、しばしば得意満面になって、惜しげもなく主との秘密の会見の模様をばらしてしまう。これはしばしば、サタンの小手先にしてやられるキッカケをつくります。
 
  イエスの愛に委ねよ
        ―――あとがきにかえて―――

        一、
 イエス・キリスト様、御名を呼びまつります。
 イエス・キリスト様、ここに臨在してください。
 イエス・キリスト様、私をつつみ、私に住み、私に満ち、私に溢れてください。
 イエス・キリスト様、御名を呼びまつります。
 イエス・キリスト様、アーメン。
        二、
 今度の発病(ぜんそく)(注・1968年のできごとです)で、第二回目の発作のとき、主よ、あなたは妻の口を通して、血の最後の一滴までも死ねよと仰せでした。私もまた、主よ、死ぬのなら一度ここで死なしめてください、と祈りました。そして、もう一度ご用あらば生きかえらせてください。ご用なくばこのまま天に召してくださいと申し上げました。私は生き返るにしろ、天に召されるにしろ、いったんは死ぬのだと思いました。心のうちに死を期する(Ⅱコリント第1章9)とは、このことだなと思いました。
 発作がおさまったとき(単なるぜんそくでなく、心筋梗塞を伴っているので、たしかに危険な病状ではあったと思います)、私は死にてまた生き返りたる者の如き思いで刻々を生きました。私は二十数年ぶりに、死の門に近づいたのでありました。かつての死の門が、私を信仰に導く大きな契機になったように、今度の経験もまた私にとり、大きい影響を残すであろうとひそかに思いとっていました。
 ひとたび死にて、再び生きるものの声は、「枯木龍吟」するが如く、この地上に語られるでありましょう。その者の声は、死の谷にて枯木が放つべきもなき霊妙の声を以て吟ずるが如きであるでありましょう。(枯木龍吟という言葉は碧巌録に出てくる名句です。)
 しかし、人間とはバカなもので、本当に霊的経験としての「死」を経ないで、単なる感動的死で終わりますときに、一、二週間もするとまた元に舞い戻ってしまいます。多くの人が人生の危機に会い、一度はそれ相応にその人の機根に応じて改心して人生をやりなおしたりしたはずなのに、しばらくすると、また元の木阿弥に戻ってしまう。完全に戻ってしまわないまでも、生半可なことになってしまう、というのはみなそれです。(つづく)《く》


※以上は文中にもありますとおり、1968年、つまり40年ほど前のことです。この時の入院は神様の御恵みでした。多くの事を学び、しかも経営中の印刷会社の新社屋の建設を完成させたのですから、私にとり驚異でさえありました。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-08-25 08:03 | 日岡だより

No.397 敗戦記念日を覚えよ 2009.8.16

敗戦記念日を覚えよ

 私は八月十五日を「終戦の日」と呼んだことは一度もない。「終戦」と呼ぶのは重大な間違い、あの八月十五日、我々日本国民が等しく体験したのは、「敗戦」であった。
 さて、あの戦争を何と呼ぶか。当時は「大東亜戦争」と呼んだ。今は、政府も新聞も、多くの日本人も「大東亜戦争」とは時代錯誤であるとして、容易に呼べない。そして「太平洋戦争」などとアメリカさんの真似をして命名する。確かに、あの戦争はアメリカにとっては太平洋に主権を握ろうとする尤もな意気込みのある命名である。しかし、日本にとっては相応しくない。
 日本にとっては日清戦争以来の東アジアにおいて主権(少なくとも主導権)を握りたい、その野心に相応しい命名は「大東亜戦争」である。当時の日本政府のこの命名は間違いなく、あの十五年戦争の意図をよく表現している。十五年戦争とは昭和六年の満州事変以来の継続せる支那大陸における日本軍部の軍事行動をさす私の用語です。
 昭和十六年、十二月八日の真珠湾攻撃は、その戦術上の巧みさは誉めてよいとして、大東亜戦争を太平洋戦争に拡大してしまったのは失敗です。
 私はしろうとだから、言葉はもっと控えたいのだが、ともかく当時を覚える者として是非とも言っておきたいことがあります。
 あの真珠湾攻撃、マレー冲開戦、あのとっぱなの戦果の痛快さ。あの時、手を打って喜ばなかった国民は一人もいなかっただろう。
 当時、アメリカの日本に対する石油輸出禁止等、日本の死命を制するような執拗で侮蔑的な対日政策に欝憤を抱えていた日本国民のすべては、真珠湾攻撃、マレー冲開戦の戦果には、こぞって歓呼の双手と声をあげて喜んだものである。よもや当時の人々、これをお忘れではあるまい。

  非戦論者としての私の変遷 

 私は内村鑑三の影響を受けて、少年時代から絶対非戦論者であった。しかし、アメリカからの戦略包囲を受けると、愛国少年として内心的に非戦論の維持が難しくなる。まして広島・長崎の原子爆弾を受けてから、尚更のことだった。
 かつての日本軍部は支那大陸での戦争においては、一般市民に対する無差別爆撃攻撃と陸軍の駐留時において食料調達など無慈悲であったことは、復員してきた兵隊さんから、よく聞きました。そうしたことを、前線において反省し中止しようとする気配も努力も無かったようですね。
 そうした時代においても私の非戦論は、その主張は鮮明であった。しかもアメリカが、広島や長崎において、強烈な原子爆弾という全く非人道的な新式爆弾を投下し、日本の都会の数十万の一般市民にも無残な死を与える蛮行を行った時にも、私の非戦主義は変わらなかった。
 アメリカを良心的で民主的国家と呼びたいけれどあの広島、長崎の原子爆弾投下の事実を考える時、そして後のベトナム戦争の様相を聞く時、やはり疑問が起こるのは、どうしようもない。
 かつて、日本軍人が対支戦争において、支那の皆さんを劣等民族視してチャンコロと呼び、これを殺すことに何等の良心的痛みを覚えなかったらしいことよく似ていると思える。
 ここで懺悔、告白します。上に書いた日本人が隣邦民族、特に支那、朝鮮の人民に対して持っていた理由なき侮蔑心の醜さのことですが、当時の私たち一般市民にも(この釘宮さえも)確かにそれが心に内在していたことです。
 
  私たち日本人と隣国の人々との容貌について

 戦前、昭和十年前後、私は十三歳の少年の時代である。わざわざ意識して視るわけではないが、朝鮮の人を見る時、自分たちよりも低い民族のように見えた。今、このことを書くのは非常に申し訳なく感じる。当時の私たちの正直な感じを申しのべているに過ぎない。
 それに、あの頃は、朝鮮や支那の人たちの顔は一瞥してすぐ分かった。逆に彼らから見れば、私たち日本人もそのように一見して、日本人だとして識別できていたに違いない。
 この点、驚くのは、現代の私たちは、日本人、朝鮮人、支那人、お互いに顔だけでは識別が非常に難しいように思う。
 最近の韓国映画などを見ていると、一見して俳優の皆さん、私たち日本人と少しも変わらない。
 私はテレビを見ているだけで、言っていることなのだが、私にはそう見える。もし、皆さんとは異なっていたら、私のいうところは私の錯覚であるから、教えてください、私は訂正する。
 ともかく私には顔や歩きぶりなど特に韓国の劇映画では、日本の俳優さんと韓国の俳優さんと、少しも違わないように見える。これはどうした事か。私は驚くのである。
 それぞれの社会文化、文明度、風習、生活様式が似てきたからではあろうけれど、人々の容貌、話しぶり、歩きぶり、すっかり似てしまっている。
 国別の見分けが付かないというのは、私の識別力が劣っているのか、どうか。何か不審を感じてならないのである。
 しかし、私は神様が私たち中国、韓国の民族に日本民族を加えて、何事かを地球上になさしめようとされる御旨を感じる。
           *
 世界の終わりは近づいている。「世界が平和だ、平和だと、言っているうちに、世界に突如として滅びが襲って来るであろう」と聖書は言う(第一テサロニケ五・三)。
 今、事実、世界は平和である。今、平和運動は盛んだが、なぜ平和運動をしなければならないのか不思議に思えるほど、今の世界は平和で、しかも小国間の地境争いはともかく、大国間において戦争の起こりそうな気配は全然ない。
 戦争が起こっては困るのが今の大国間の事情である。国家や国民の経済は平和を欲している、今戦争が起こったら困るし、また戦争せねばならぬ切羽つまった事情は何一つない。今はそういう時代である。
 これはしろうとの私が言っているだけで、世界でも、専門家でも、だれ一人言っていないよう気がする。私は気が狂っているんだろうかと、心配でならないのだが……。
(追記、冒頭にあげた容貌的東洋人の一致観は将来における東洋人の民族一致を予想させますね。)《く》

〔あとがき〕
鳥栖での九州リバイバル聖会、大変恵まれました。最後には私が思いもかけず、大声を発して閉会の挨拶をしました。なんであんな声を出したのか見当がつきませんが、ただ私も興奮していたことは確かです。▼帰途の高速バスで、渋滞が続き、運転手さん、なんの説明もしません、私が運転手に聞いたら由布院に霧が発生していてすべての自動車がゆっくり運転なんです、と言う。私は車掌ではないけれども、その情報を乗客に伝えるという役目を自ら買って出て、おしゃべりしました、どう考えても私が車内で一番の老人だったと思われるのですがね。▼昔、私の通った商業学校で「いらぬ世話係長」とニックネームを奉られた先生がいましたが、どうも私もその一人になったのか、「いらぬお世話係」になっちゃったと顔を赤くしました。《く》

(「主の御名を呼ぼう」の連載は今週は休みます)
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by hioka-wahaha | 2009-08-19 10:37 | 日岡だより

No.396 主の御名を呼ぼう 10 2009.8.9

(一九六八年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 10

 英雄ダビデが、馬をたのみとせず戦車をたのみとせず、神エホバをたのみとして大王国を建設したのとは大きな違いであります。
 ところで、そのヒゼキヤのもとに、遠い国バビロンより病気見舞いの使者が来ました。バビロンとはイスラエルの始祖アブラハムが逃れて出て来たところ、遠い遠い国であります。ヒゼキヤは安心して、これに宝物の蔵、金、銀、香料等、家にあるものも国にあるものも何もかも見せたと申します。
 その事をきいてイザヤは言う。
「主は言われる。見よ、すべて汝の家にあるもの、先祖たちがたくわえたもののすべてが、バビロンに運びさられる日がくるであろう、云々」
 ヒゼキヤはよい王でした。預言者イザヤの言葉にもよく従順で、大国アッスリヤを退け、また大病を回復させていただきました。それだけに彼には一種の甘さがあります。信仰とはこんなもんだという、卒業気分があります。そうするといつしか信仰がだらけてくるのです。
 私らが人生の苦難とか、大患に見舞われ、それを主の御手により救われてハレルヤをうたい、ホッとしておりますときに、遠いサタンの本国より手紙と贈り物を持って見舞い客がやって来ます。これをくさいと見抜くのが預言者です。いかに良い王でも、霊的には只人であるヒゼキヤにはそれが分かりません。
 今度の私の大患(注・1968年のできごとです)は私の周りの群に良き結果をもたらしたようであります。特に最近のY君の革心ぶりには涙ぐむものがあります。これらはすべて私のせいではありませんので、私の無力のさらけだされたときより始まった事であります。贈り物―――プレゼントとはそういうものであります。
 このときバビロンの王がおくった贈り物とは何であったのでしょうか。多分宝石であったり香油であったり、そういう天恵の産物であったことでしょう。贈り物は、それ自体は誰が用いようと天与のものは天与のもの、良いものは良いものでありますが、それに添付してくる手紙が大切です。手紙とは、物ではありません。それは意味を持っています。メッセージを持っています。悪人の手紙はそれ以上に深い深いかくされた意図を含んでいます。それがこわいのです。
 ヒゼキヤのもとにおくられて来たバビロン王の手紙は何の変哲もない、やさしさの思いやりの言辞のあふれた外交文書であったことでしょう。ヒゼキヤは嬉しかったのです。有頂天になりました。
「バビロンの王メロダクパラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべてのものを彼らに見せた。家にあるものも、国にあるものも、ヒゼキヤが彼らに見せないものは何もなかった。」
 とあるとおりです。
 「こわいのは当面の敵アッスリヤやエジプトではない。腫れ物を生じる激しい痛みの病気でもない。汝が夢のように遠い国のように思っているバビロンであるんだぞ。」(これは歴史的にはエレミヤの時に民族大俘囚の恥辱をうける預言であり、またヨハネ黙示録に見られる霊的バビロンの潜在的国力への警鐘でもあります)とイザヤは言うのですね。この事がヒゼキヤには分からない。
 今度の私の大患後、すべての事態、人心の革新一切が私にとり夢の如くでありました。それは伝道者釘宮義人に対する天与のプレゼントでありました。私は、これにより益々はげんで主と主の民の為に尽くすべきでありました。しかし、人間とはヘンなもので、現実にはこんなときに、ホッとして、これでもういいのだ、我が版図も我が体も何とか安泰である。何とかこのまま、死ぬまで平和ですごせればいい、などというくらいの事しか考えない。この時、イザヤに叱られて、ヒゼキヤは言った。
 「あなたが言われた主の言葉は結構です」
 この言葉の真意は、ヒゼキヤは「せめて自分の生きている間、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからだと聖書は書いてある。
日本の総理大臣もそのくらいのところでしょうか。ともあれ名君ヒゼキヤにしてはバカなことを言ったものです。バカなことを言ったものだと歴史上の人物だから笑っておれるが、さて己が事となるとどうか。
 私も今度の病気のあと、不思議な平安がやってきました。第二回の発作の中で、
「死ぬべくんば、主よ今死なん。この駄目な人間はもうここで殺してください。もし主の御意に於てもう一度使おうと仰有れば、生き返らせてください。もし、もうこういう人間は不要だと言うのなら、ここで殺したまま天国(最低の天でしょうけれども)に送ってください。生くるも死ぬるも主の御旨のままです。」
 と祈ったものです。そのときから、私の魂に、外面的急迫した激しい情態にもかかわらず、湖水の底に沈む大岩石のような平安が生じたのです。
 発作がおわり、体が快方にむかいかける頃になっても、いやその後十日ほどたつ今になっても、その平安は失せません。その頃のメモを拾うと、
「死者まず活くべし」
「人間の無力こそ、神の始動点」
「人の力、肉の力を度外視せよ。神の力にのみよりたのめ」
「―――自今、死にたるものの如く生くべし。名づけて死者活人という。枯木龍吟、朽骨乱舞して死の谷に光をみたす。」
「谷の百合か、シャロンの花か
岸に生うるあしか
風にそよぎ、雨に打たれ、泥にまみるる如くに
力うせて、智慧も意地も、絶え果てしこの身に
神の愛のしげくそそぎ、死にたるものを活かす 不思議なる生命よ
その生命に生きる この不思議なる我が身よ」
(これは当時の即興詩曲でして、その大要のみ、曲はY君へのテープに録音してみた。それも最初の私の唇をついてでた瑞々しい霊唱には全く及びもつかないが、じかに聞いたのはKさんのみである)
 以上のように、一個の平安があり、しかも体がややに平常に復してくると、人間はバカなもので、ゆるみが出てき、傲慢さえ生まれてくる、それがこわい。
 しかし、正直に言って、私はもう以前の私ではない。人間の智慧、気力、はったり、カモフラージュで、演出さえまじえてやる集会はもうできない。これまでは、少々祈っていなくても、霊的充満がなくても、何とか人力でもってごまかしてやってこれた。しかし、もうだめだ。
 ここで私の魂は、ペタリンコと座りこんで、どうにでもなれ、主よ、あなたがやってください。私は無力です、とすてばちになって無為にすごそうとする。それが平安だと思いこもうとする。与えられし平安を却って怠惰、無為、無気力の為の盾にしようとする。そしてこの「平安」のプレゼントの傍らに、いつの間にか「手紙」がついている。(つづく)
(この文章は1968年に書かれたものです。)
 
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by hioka-wahaha | 2009-08-10 11:52 | 日岡だより

No.395 主の御名を呼ぼう 9 2009.8.2

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 9

 ペテロが三度主を否んで以後、どこをほっつき歩いていたかしれませんが、その時の魂も多分断絶状況であったでしょう。イスカリオテのユダはどうだったでしょう。イエスを売って以後のユダの心理状態ほど人間の共感を呼ぶものはありません。何人にも洞察できるような感じがします。しかし、あの時のユダの心は断絶状況とは言えないのです。その証拠は、彼が自らくびれて死んだ!ということです。断絶を経験したものは知っています。「もう生きていても甲斐がない、もう生きていても甲斐がない」と思いつつも、自ら死ぬ気力も出ないということです。自殺する者はまだ自殺することに希望を持っています。本当の絶望者には自殺も不可能なのです(ヨハネ黙示録9章6)
 聖書に出てくる典型的な断絶状況は実はイエスのそれです。イエスが最後の十字架上で「我が神、我が神、なんぞ我を捨てたまいし」と叫び、「われかわく」と言って水をほしがり(与えられたものは酢きぶどう酒でした)、遂に「事おわりぬ」と、がくんと首をたれるまでの様子を見ていると、そこにはいつもの高揚された神威かがやくイエスの姿はありません。
 実に十字架上のイエスを見ていると、イザヤ書53章のメシヤ預言は、目前にいたものでなければ書くことのできないような驚くべき洞察であったことが分かります。「我らが見るべき美わしき姿なく、うつくしき貌(かたち)はなく、我らがしたうべき見栄えなし。彼はあなどられて人に捨てられ、悲しみの人にして悩み知れり……」その彼の最後をイザヤはかくうたいます。「その代の人のうち誰か彼が、生ける者の地より絶たれたりしことを思いたりしや」。
 イエスは死にて三日目に復活したそうであります。その死の三日間を「陰府(よみ)にくだり」と使徒信条は信仰告白しています。ですからイエスの死は、生ける者の地より絶たれ、天国やパラダイスに三日間ご休息になったのではなく、救われざるものの死して行くべき処、霊の獄(ペテロ一書第3章19)にとどまられたのであります。イエスが「我が神、我が神、なんぞ我を捨てたまいし」と言うのは、詩篇第22篇の朗誦でもなければ、何かもっと次に名言神句を吐くための前口上で、そのあと息が苦しくて絶句した(よくそういう浅薄な解釈をしてすましている人がいる)というのでもない、正真正銘、彼の魂の底からほとばしり出た本音なのです。
 そこで彼は「我かわく」と言う。イエスは水を欲しています。彼自身何度か預言した「川々ともなって流れ出るであろう活ける水」を欲しています。それは神の生命の象徴であります。しかし、その水は与えられません。却って人は面白がって酢いぶどう酒を飲ませようとします(詩篇第69篇21参照)。そこには、生けるものの地につける全き絶望、神的世界との恐るべき断絶があります。そこで彼は「事おわりぬ」と言う。彼の人間としての生の一切に幕が下りるわけです。
 私は、そのあとの記事をヨハネによる福音書で読むと異常な興味がわきます。
「一人の兵卒、鎗にてその脅(わき)をつきたれば、直ちに血と水と流れいず」
 この事実は真実であると証するとヨハネがわざわざことわるのは、どういう事でしょうか。この血と水はイエスが人の子として生きた全生涯の結晶であります。それが今もろくも一人の兵卒の手で無残にも散っていきます。それはあらためて聖霊によりて保証され(ヨハネ第一書第5章6・7)、弟子たちの魂の中にイエスの血と水として脈打つまでは、十字架上よりしたたりおちて、いたずらにゴルゴタの丘の上に吸いこまれるのみであります。
 イエスの死は、単なる受難ではない。パリサイ人やピラトによって殺されたのではない。間違って殺された無実の罪ではない。彼は神にのろわれたのであります(ガラテヤ書第3章13)。そこに言いようもない悲惨凄絶な、神とその御独子イエスとの間の、人類を救わんがための苦闘と葛藤があるのです。日蓮が竜の口で大信心を以て白刃をけちらしたという古事などとは次元が天地の如く違う複雑微妙な神界の摂理が働いているのです。
 この不可思議、信ぜざるものにはばかばかしい限りのイエスの断絶状況が、私たちの断絶と神秘な生きた関わりあいを以て結びついてくることがあります。パウロの好きな言葉を使って言えば「イエスの死に合わせられたり」です。
 私の体験を言えば、さきに述べたような神との断絶が三日間(そう、イエスの陰府も三日間ですが)続きました。その時、福岡刑務所の独房の中で生ける屍の如く、息をしているのが不思議なくらい、天日くらく死気辺りにみつるの思いで過ごしていました。三日目の夕刻、パウロの言葉が目にとびこみました。
「我ら思うに、一人すべての人に代わりて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり」(コリント二書5章14)
 このお言葉は、目にだけでなく、魂のどん底に飛び込んできて、原子爆弾のように閃光を放って大暴発しました。
 その時になって、私はまだそれまでの「断絶」と言っていた状況がいかに甘っちょろいものであったか分かって来ました。イエスの死が目の前にあらわにされると(ガラテヤ書第3章1)その事が分かってきます。そしてイエスの死の徹底絶大な吸含力が私の断絶状況を吸いとってしまって一つにしてくれるのです。
 断絶、断絶、と言っている間は、まだ私が地下の底にあって生きています。イエスの死に合うとき、その地獄にうめいていた私それ自身が死んでしまうのです。いかなる罪意識の追跡も、聖なるものへのコンプレックスも一瞬にしてふっとんでしまいます。
 そして、「もはや我生くるにあらず、イエス・キリストによりて生くるなり」という自覚と頌栄が心の底よりわきおこるのであります。私にとっては、信仰とはそのようにして分かって来たのでした。
 

ヒゼキヤ、バビロンの使者に宝物蔵のすべてのものを見せる
                                 (列王紀下20章12~16)
 
 ヒゼキヤはユダの列代の王の中では、信仰のあつく、祈りぶかい人であり、また貯水池を造り、水道を建設するなど行政家としても、優れた名君であったようであります。
 このヒゼキヤの時代に、一度だけ一大国難に遭いました。それはアッスリヤの来攻です。その時ヒゼキヤはアッスリヤ王セナケリブに自分の王宮のみならず主の神殿の戸や柱より金などをはぎとって貢ぎ物としましたけれど、許されませんでした。そして、彼の治世の誇りであろうあの水道の傍らに立って、アッスリヤの使者はヒゼキヤとその神とその民を面罵するのでありますからたまりません。その時、彼とその国を救ったものは神であります。列王紀下18・19章を読むとよい。
 さて、当時のユダ王国の恐れる処は、北方の大国アッスリヤ、南方の大国エジプトであります。この二大国にはさまれて、どちらにつくともなくつかずともなく、日和見主義に生きたのが当時のユダの王たちであります。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-08-04 12:16 | 日岡だより