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No.394 主の御名を呼ぼう 8 2009.7.26

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 8

 庭の一株の花を見るとき、百人が百人その見る能力が違う。画家の見る目、詩人の見る目、庭師の見る目、農学者の見る目、寺男の見る目、大人の見る目、子供の見る目、―――それらをすべて夢みるものの如しと南泉は言う。夢は、影を見るのみで、その本体を捉えることができない。同様に、一株の花を見ていても、その「実体」を見る事ができず、幻の影を追うのみである。
 同様に、陸恆は肇法禅師の「天地我と同根、万物我と一体」の句をもってきたり、すばらしいですねェと、悟ったような顔をしているが、その実夢見るものの如く、猿が水の上の月をかきみだすのたぐいなのではないかと言うのである。
 これは恐ろしい、長年久参の弟子をかくもせせら笑う時、禅坊主の偉い奴の慈愛心がにじみ出てくる。先だって、Kさんが「分かった、分かった」と言って、悟った事の条々をさらしはじめた時、みんなのいる前で私がニヤリと笑った。これは見る人が見れば残忍な笑いでもあろう。しかし笑うほうにしてみれば、言うに言えない忍び泣きの笑いなのである。この師匠の嘲笑をみてギクリとした時、真の弟子たるものの孤独絶離の苦闘がはじまる。この瀬を通らぬとなかなか真理が分からぬ。
 「先生にバカにされた、先生にバカにされた」
 と言ってふくれる人が多い。バカにされる位、取り扱ってもらって幸いではないか。荒野でイエスが五千人の大衆に徒手空拳パンを与えようとした時、彼はその為す事を知っていて試みに「ピリポ、どうしようかね」と問うたとある。「師よ、二百デナリあっても足りますまい」とピリポは間の抜けた返事をする。その後で、イエスの五餅二魚の大奇跡がおこる。ピリポは恥ずかしくて顔も上げられなかったろうと思う。しかし、この時こういうからかい半分の質問をして、その内奥をたしかめる人物としてイエスに選ばれた光栄の重みを、ずっと後で悟ったことと思う。
 この前、N君に言った。
「おい、もっと伝道をしろよ、伝道を。伝道をすると、分からん事が分かってくる。」
「だって先生、何を言っていいか分かりません。なんにも無いんです。」
「無い袖は振れん、という奴だナ」
「ハイ」
「無い袖を振るのが伝道だよ、無い袖を振るのが信仰だよ」
「……………」
「伝道しようにもどうしようにも、手の内に何もありません、そういう無一物極貧の魂のまま、何かやらねばならん。そりゃ勿論、霊的能力、知識、経験、それらをたくさん持っていて悠々たる伝道をする大人物もいるだろう。その真似はできん。またその真似をせよと言っているのでもない。君にできる伝道のやり方がある、それが無い袖を振れということだ」
 「分かりません」
 そりゃ分からんだろう、分からん事を承知でこの残酷無類の師匠は弟子をいじめているのだ。こういう時、弟子の心は、猫にいじめられる鼠にように、あれを思いこれを思い、ああ答えようかこう答えようかと七転八倒して行き詰まる。
「教えてやろう。ストリップをやれ。ヌードダンサーは無い袖を振っているよ」
 ここまで言っても、機の来ぬものには分からぬものだ。こういう「落し」は禅好みであるが、こういう話のくずし方、引いてはここでいうヌーディストの生き方を、私は「御霊(みたま)くずし」と言う。御霊くずしにくずれた生き方、それが信仰の生である。
 さて、右の碧巌録の本文に対する「評唱」に曰く「これはたしかに解しにくい言葉である。活きた人物なら聞き得て無上の醍醐味を知ろう。死人の如き人物ならば聞いてかえって毒薬となろう。」これを殺人刀活人剣と言う。両刃(もろは)の剣(ヘブル書第四章一二)の如く彼を斬るか、我を斬るか、死活一瞬に別るる事態である。
 この文章の冒頭に書いたが、たしかに私の霊的古典の読み方は、盲へびにおじずのたぐいか、とにかく我流の無茶な読み方である。自分で分かったような気がしても、ここでいう陸恆のように、浅薄曲解して得たりかしこしとすましこみ、先輩諸師より大喝を食らうの体かもしれない。
 しかし、それでよし、と私は大きく息を吸って座り込む。悟り得たと思って、かえって「毒薬の如くならん」とも、その毒薬によって死に至ろうとも、よろしい。私はこの路をすすむのである。
 即ち「評唱」に更にいわく、
「南泉のいう大意は次のとおりである。虎児を捉え龍蛇を掴む程の腕が要るぞ。その辺の境地に至ってはじめて自ら悟ることを得よう。昔より言う、向上の一路、千聖不伝と」。
 然り、千聖不伝、父子不伝、師弟不伝のこの一路、人心に直指して悟らしむるこの心路を吾人は踏破しようではないか。
 
   断絶
 
 神との「断絶」を味わったことのある人は、この世で最も深刻かつ不幸なる体験をした人と言わざるを得ません。しかしまた、最も幸いなる人でもあったろうとも言わざるを得ません。自分の立っている地面が、足もとから割れて、メラメラと地獄の火の燃え上がってくる奈落に、石がくずれ落ちるように落ち込んでいく私を見るとき、(そして地は私を飲みつくすと再び固くその上を閉じふさぐのである、一切を断絶して……民数記第16章31~33)今や神との間に、万に一でも救われやせぬかと望みを托すべきくもの糸ほどのつながりも無くなってしまって、未来永劫まで神との間は全く無関係になってしまったという、絶望感・虚無感・無力感にうちひしがれる―――これを断絶というのです。
 この断絶苦に入ると、「我ふかき淵より汝を呼べり」(詩篇第130の1)というような深淵体験もまだまだ浅いものに感じます。なぜなら、この旧約の詩人にはまだ「汝を呼べり」といって、神を呼びまつる気力がありましたから。本当の断絶体験では、そういう神によりすがろうとする一条の希望も無くなってしまうものです。罪意識の深刻なるものとして、
「義人なし、一人だになし」だの、
「ああわれ悩める人なるかな、此の死の体より我を救わんものは誰ぞ」などというパウロの言葉、あるいは、
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なる故に
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」
 などと和讃にうたった親鸞の言葉などが、よく引照されるようですが、それも私の言う「断絶体験」から言えば、深みの足らない感じがするのです。(もっとも以上のパウロや親鸞の言葉は回心して以後の罪障意識から出ている言葉なので、それで当然であると言えるのですけれども)
 ダマスコ途上の回心寸前のパウロの魂は多分断絶状況であったことでしょうが、文章としては残っていません。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-07-28 09:51 | 日岡だより

No.393 主の御名を呼ぼう 7 2009.7.19

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 7

 確かさは、私にあるようにあって実はない。それが直覚というものである。私が赤と言い、彼も赤と言う。そして、赤と呼んで同じチューブの絵の具を取るとき、彼の直覚と私の直覚とは同じらしいけれども、しかし、もっと突き込んで言えば、彼の感じている赤と、私の感じている赤とまったく同じなのであろうか、そのへんが恐ろしい。
 私が中学二年生頃であったと思う。哲学入門という本があって、それに書いてある。ここに四角な箱があり、人も四角と言い、私も四角と思う。見てもさわっても四角であるが、本当は三角なのだという事はあるまいか、というのである。全く私はドキンとしたことを覚えている。
 (戦争中、大東亜戦争は聖戦であると人も言い我も思っていたが、やがてそうではないと思い知らされる。昔、太陽が地球のまわりをまわっていると思っていたがそうではないとわかってきた。物質は固い密着したものと人も我も思っていたが、原子物理学者に聞くと過疎も過疎、一メートルおきの針金の窓を風がふきぬけるような過疎ぶり、これでは、復活体のイエスが壁をつきぬけて部屋に入ってくるのは当然である。)
 このような内省が始まると、疑問はとどまる処を知らず、デカルトの言うように「我思うゆえに我あり」という最後の点まで追いつめられてしまう。単なる認識論であれば、それでもよいわけで、その「我思うゆえに我あり」を足場にして、また思案のヨリを元に戻していける。しかし、倫理や信仰の世界では、その「我」の存亡が問われるのである。これはきつい。
 だから、私が「イエスを主と呼び」、私の魂がイエスの真実を直覚していると信じていても、それが果たして真なりや、妄なりや、それを保証するものはない。
 その時、帰っていける言葉は二つ。
「イエス・キリストの(所有格)信仰によりて救われる(ガラテヤ書第二章一六)」
「我らの頼りて救わるべき名を賜いしなり(使徒行伝第四章一二)」
 恩寵をもって賜りし御名を呼び求めるのみである。その呼びまつるお方のご信仰が私を救うのである。「詮ずるところ愚身が信心におきてはかくのごとし。このうえは信じ奉らんとも、又すてんとも、面々のお勝手なり(親鸞)」と、私もまた言うのみである。
 
 
 
     大磁性を帯びよ
 
 鉄棒に磁気を帯びさせると、自分の重量の十二倍もの重さのものを引きつけて持ち上げることができます。しかし、磁気を抜くとピン一本だって引きつけることはできないのです。同じように、人間にも二つのタイプがあって、一つは言わば磁気を帯びた人―――自信と信念にあふれている人、こういう人には生まれながらにして勝利と成功がついてまわるかのように見えます。そういう人がいる反面、もう一つのタイプの人間、それは磁気の抜けた人です。こういう人は不安と恐怖のかたまりでして、する事なす事失敗と挫折の連続です。ときには良い事があっても、これは何かの偶然だろう、次にはもっと悪い事が起こるかもしれぬなどと心配しています。
 もう一つの面で磁石について言われることは、永久磁石のように内に磁力を包蔵しているもの、電気コイルで一時的に何万ボルトの磁力線を出すものの二つがある、ということです。私は特にこの後者にサタン的なものを感じます。ヒットラーなどが持っていた人間魅力などはさしずめこの悪魔コイルの充電による能力ではなかったでしょうか。
 同じ電磁性でも、セルロイドの板をこすると紙片がくっつくというのはちょっと違うようですね。たとえば印刷工場では、紙にこの電気がおこってよく困るものです。これは静電気と言って、あの鉄や銅だけを吸いつける磁性とは異なるようです。何万ボルトの電磁石でも紙切れ一枚吸い上げることはできません。ところが静電気は髪を逆立たせ、布を吸い寄せます。同じようにサタンの大磁力は金や欲のある処で大威力を発揮しますが、幼児の指一本うごかすことはできません。
 神の側から来る電気は静電気に似ています。これははじめ人が神に造られた時より内に持っている神の霊でありますが、普通紙や化学せんいなどに潜伏している静電気のようにまだまだ至って弱いのであります。これがサタンの蛇にぐるぐる巻きにサタンコイルされて、通電されると、静電気の磁性はどこへやら追いやられて、大魔性を発揮する異能者となります。
 私たち求道者がカリスマを求めてあえぐ時に、このサタンコイルにぐるぐる巻きにされないよう気をつけてください。サタンの霊は何万ボルトの威力を発揮していかなる秘法めいた事をやろうとも、人の良心の一片をも吸いつける事はできないのです。
 しかし大いに求むべきことは、神の霊の大コイルに身をゆだねる事であります。神の磁力に満たされて、すべての良きものを持ち上げる大磁性の人になりたいものであります。(四三・七・二三)
 
 
    毒薬となるともいとわず 

 今、私は病床にある。(もう病気は治っているみたいであるが、どういう具合か、まだ入院している。まゆの中にいるサナギに似て、時が来ぬことには出るに出られず、思い惑っている状況である。)閑暇を得る。そこで、幸いにも碧巌録を読む。漢文であるから、なかなかむつかしい。頭をひねりまわして読む。しかし、こういう文章は余り親切な参考書を手にして読むものではない。読書百編意自ら通ずとか、眼光紙背に徹すとかいう読み方をしなければこういう文章の本意は分からない。もし読みとった意味が世に流布する一般の解釈や、大学者大師匠の言う処と違っていても恐るるに足らない。「彼は彼、我は我」である。
 碧巌録第四十則南泉一株花を読む。曰く、「昔、陸恆というお弟子さんが南泉禅師を訪ねた。陸恆は南泉の古い弟子であった。話のついでに聞いた。 <かつて肇法禅師が言ったそうです、天地と我と同根、万物と我と一体と。何と奇怪千万な言葉じゃありませんか> と。(奇怪千万などというのは多分禅の人の逆説的用語で、何とすばらしい言葉じゃありませんか、ということなのであろう。)その時、南泉は陸恆を召して言った、 <庭のあの花をごらん。世間の人の、あの一株の花を見るとき、ちょうど夢を見ているようなんだ> 」
 本文はそこで終わっているのであるが、南泉はそこでニヤリと陸恆を見て、「さて、お前さんはどうかな」と言ったことであろう。宗教を、言葉のいじりまわし、理窟のつけかえ、気分の持ちようくらいに心得ていると、この陸恆のように、先輩大師の千金の言葉を軽く分かった分かったと言って、したり顔で先生に対し質問の形を取って、悟りの見せびらかしをやる。(つづく)
 
 
  
※「日岡だより」が毎週郵送されていたのに、この7/19発行号から来なくなった、という方をご存知でしたらおしらせ下さい。
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by hioka-wahaha | 2009-07-21 07:06 | 日岡だより

No.392 主の御名を呼ぼう 6 2009.7.12

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 6

 そこで、雲の輝きをクレヨンで書き写そうなどと愚の骨頂である、と初めて気がついた。あの美の直覚をそのまま写す方法はない。1を1として数字で世間に流通させるような、ある代替法が必要だ。そんな事を幼い頭で考えていた。
          *
 さて、私がもともとふれたかった問題点は直覚である。大分県は園田高弘氏の尊父の絶対音感教育の発唱の地として、音楽県として自讃していい県であるが、この絶対音感というやつ、我々音痴には全く、前述の「理屈で分かって実感し得ぬ無限感覚論」に似て手がつけられない。赤を赤と知り、青を青と知るように、どうしてA音をA音と分かり、G音をG音と分からないのであろうか。詩にしても、絵にしても、人がいいというのに一向にこちらにピンと来ぬことがある。何を美と言うのであろう、何を詩と言うのであろう。
 この直覚力を伸ばす教育というのが、今、日本にはないのだ。いや、世界にもないのであろう。あるのはただ通俗的迎合的規格的機械反動的人間をつくる教育ばかりである。すべての天才をおしつぶし、学校と家庭と社会のミキサーにかけて、型押し機でブロックを作るように、次代の青少年を作っていく。少々言いすぎとは思うが、さりとて九〇%真実の評であろう。しかし、これ以上どうしようというのだ、教育界は悲痛な声をあげるであろう。今のままでやっとだし、今のままでいけば一応問題なし、混乱も起こらず、バランスもくずれない、これ以上の事をすれば必ずや大混乱、百鬼夜行の教育界になりはせぬかとの御心配である。もっともである。
 そこで私は何度か訴えた。文部省くそくらえという教育事業を始めようじゃありませんか。第一今の無味乾燥な学科目はやめてしまえ、少なくとも小学校中学校までは。それならどんな学科にするんです。「曰く、探険科、発明科、SF科、演劇科、おしゃべり科、……」ここまでくると誰もまじめに聞いてくれない。
 そこで仕方なく、相変わらずのキリスト教伝道一本やりであるが。さて、はじめの直覚という事にペンを戻そう。
 アダムスキーという人の本に「空飛ぶ円盤同乗記」というのがある。畏友久保田八郎氏の名訳である。高文社という出版社から出ていたが、今もあるかなあ。その中に、宇宙人たちの名前をつけるところがある。今、手許に本が無いので(今私は入院中であるので)うろ覚えのまま引照する。
「この金星から来た男を私は仮にファーコーンと呼ぶことにする。実はもっと別な、本質的な名の呼び方があるのだが、今はその事にふれない」
 そういって、アダムスキーは何人かの他の星の人々の名を仮名で呼ぶ。何故、実名を呼ばないのであろう。その訳は、
「彼ら宇宙人の間では、名のつけ方、名の呼び方、名のあり方が、地球人の我々と全く違うからである」
 とある。彼ら宇宙人たちは、テレパシーの達人でもある。ある人が存在する。その人の人格そのものの色、香り、波動が、赤は赤、青は青、モーツアルトの音色はモーツアルトの音色というように明確なのである。その個性がその人の名である。その存在そのものがその人の名である。その名を呼ぶとき、その存在がテレポーテーションして眼前にやってくる、そういう世界なのであろうと私は察した。こういう直覚の世界を私は赤ん坊が乳房を望むように夢みるのである。
 我々は名前をフチョウのように心得て、かんたんに子供に名付けする。シモンもそのように、かんたんに漁師の父親につけてもらった事であろう。しかし、それをイエスは訂正してみせる。「汝ケパ(訳せばペテロ)ととなえらるべし」と。
 私は何も姓名学者の言うように名を変えればいいというのではない。私自身、今のところ名前を変える気はない。この地球上の正しくフチョウにすぎぬこの名前、刑務所の囚人番号みたいなもので、それこそどうでもいいことだ。しかし、我々自身の内部の人格の名、それを何と呼んでもらえるか。
「神はもろもろの万象を、名を以て呼び出だし給う」
 ヨハネ黙示録にある生命の書にのせられるという、その我々の名、それが大事なのだ。そして、その事の逆の真理は、我々の唇が主の御名を呼ぶということにある。
 エリコにおいてイエスに盲目を癒された乞食の名は、バルテマイ、つまりテマイの子である。アンテオケよりパウロを連れに来た執事はバルナバ、つまり慰め(ナバ)の子である。我々は、我々が主と呼ぶものの子であろう。それが我々の名である。新しい名である。本当の名である。我々が神を呼ぶとき、我らは神の子である。反対にイエスはご自身を人の子と呼ばれた。人の子として死ぬべきであったからである。
 聖霊によらざればイエスを主と呼ぶことはできないとパウロは言う。また、聖霊によりて初めて人は神をアバ父よと呼ぶと言う。この事の真意は、主の御名を呼び、アバ父よと神の御名を呼ぶことは、聖霊の働きであり、故にまたここで言われる「御名」はさきに述べられた本質的根源的実存的な名、それ自身、それ自身の存在である名である、という事が分かる。呼べば、すぐその実体がここにやってくる神秘な名である。直覚的に把握すべき実存者それ自身なのである。
 私はかつて、小学校六年の時、人間には無限、永遠感覚はないのだと絶望したと書いた。しかし今、我らが主の御名を呼び求める時、彼、永遠者の臨在が我が内にのぞむのである。無限の能力に打たれるのである。
 ペテロ、ヨハネが美わしの門で、生まれながらの足なえの男をいやした時、このいやしの力は、ただ「イエス・キリストの御名による」と証明した。この時、ペテロもヨハネも、まやかし、ハッタリ、心理学的言いかえ、比喩を言っているのではない。彼らは正しく、イエス・キリストの霊的臨在を確信しているのである。「イエス・キリストの名によりて歩め」というのは、単なるおまじないではない。正しく、イエス・キリストの御臨在により、イエス・キリストの能力によりて歩めという事である。
          *
「主の御名を呼び求むるものはすべて救われん」
 とは言っても、内的直覚で主を何と知っているかが問題となる。サタンも光の天使の装いをして人をだます事、しばしばである。その偽天使をおがみつつ「イエス・キリストさま」と呼びまつっていれば、これはいけない。逆に大日如来さまだの、天地大父母さまだのと、口に称える名はそれぞれなれど、内的直覚で真実主を呼び奉っている人もあろう。赤を赤と直覚すれば、それを赤と呼ぼうとレッドと呼ぼうと、なんと呼ぼうとかまいはしない。
 かく知る時、宗教の普遍的救いというテーマで我々は知的満足を得るけれども、我々自身の持っている信仰については、私の今求め信じている主は、まことの主なりやという疑惑を生じる。しかし、ここで私は先に述べた「聖霊によらざればイエスを主なりという能わず」というパウロの言葉に帰る。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-07-14 17:03 | 日岡だより

No.391 主の御名を呼ぼう 5 2009.7.5

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 5

     直覚的認識による主の御名

 小学二年生の頃、エジソンの伝記を読んだ。
 エジソンが学校に行き始めたとき、先生がお母さんを呼んで「お宅のトーマス君は白痴らしい。とにかく学校では手に負えませんから、引き取ってください」と言う。「よろしゅうございます。学校の手に余りますようですなら、私の方に引き取って私が教育しましょう。しかし、うちのトーマスは本当に白痴なのでしょうか。いったいどんなふうなので白痴だとおっしゃるのですか」とエジソンの母は言う。先生はまぶしそうに目をパチパチさせて、「いやなにも白痴だと断定しているんじゃないんです。ただ、そんなのじゃなかろうか、例えば白痴とか、異常児だとか、と思うのです。たとえばですよ、奥さん、算数の時間にこんな質問をするんです。 <先生、なぜ1に1をたしたら2になるんです> これじゃ授業はできやしませんし、第一ほかの子供に悪いです。ほかの子供までポカンとして馬鹿になってしまいます。私は本当にお宅のようなお子さんを見たことがありません。」そこでお母さんはニコリとして立ち上がり、「よろしゅうございます。トーマスは私がきっと教育いたします。」
 以上の話は実話なのかフィクションなのか、いまだもって知らないが、幼い私の頭脳に異常な波紋をおこしたのである。1に1をたせば2、それは当たり前のことだ、しかしそれを、なぜ?ともう一枚皮をはごうとすると、どっこいそれは世界の軸を動かすような問題になることを幼いながらも察知したのである。
 幼い魂は思う、「だから、大人の世界ではあまりつまらぬ事は聞くものじゃない。不思議な事はソッと胸にしまっておくもんだ。学校だってそうだ、先生の気に入りそうな答えをしておけばいいんだ。それで○をくれる。なまじ本気になって答をさがしているとバカかと思われるだけだ」と。
 たとえば、図画の時間、私は向こうを飛んでいる雲の不思議な運動と色の変化に魅入られて、涙のこぼれるほどそれを描きたいと思う。しかし、画用紙は平面だし、色はクレヨンの十二色だけ。第一いろんな色があっても、光という色はない。一度ぬったら固定してしまう。いじればいじるほどにごってしまう。相手の雲は相変わらずゆうゆうと飛んで、さまざまの色調の変化を見せる。
 そこへ先生が来る。
「フン、フン。いい処へ目をつけたね。この下に山をかきなさい。それから、ほらそこの家、電柱。すると全体の構図が生きてくる。それからね、雲はこんなふうにかくんだ。この色でまわりの空をぬって、それからホラ、この色をサッと雲にぬると感じがでるだろう」
 私は先生のぬってくれる雲の色を見て感心してしまう。まるで「絵!」だ。図画の手本にでてくるような美しい絵だ。それが魔法のように先生の手先から生まれるとき、幼い私はびっくりしてしまう。そして内奥で叫ぶ、「違う、ぼくの欲しいのはこれではない。こんな美しい絵ではない。ぼくはあの、今動いている雲のあの輝きがかきたいのだ。色がなんだ、構図がなんだ。」と。
 しかし、しばらくして私の幼い魂は自分で自分に言い聞かせる。「これが学校なんだ。今、先生から習ったとおりに目の前の景色をかこう。そうすれば、先生も分かってくれる。点もよくなる。母ちゃんも通知表を見て喜ぶ。あの雲の輝きを描こう?そんなことはもうあきらめろ」。
 国語の時間にはこんなことがおこる。教科書を読む。
 「和尚さんと小僧さんが無言の行を始めました。一人の小僧さんが <たいくつだなァ> と言いました。その兄弟子が <こら黙っておらんか> と言いました。和尚さんが <黙っているのはわしばかりだ> と言いました。」
 幼い私は、和尚さんと小僧さんの表情、しぐさ、心の動きを想像していると面白くてたまらない。最初の小僧さんが一番に無邪気、和尚さんが一番に苦労性である。最初の小僧さんが、突然プーッとおならでもして、「ああ、たいくつ、たいくつ」と足でも投げ出したとする。子供の心はすぐその小僧さんの感情に移入して、やせがまんしている兄弟子や和尚さんをその小僧さんの目で眺めている。そこへ先生の声
 「この話で一番こっけいな処は?」
 「ハイ、小僧さんです」
 と、さき程から空想を続けている私は答える。
 「なにい?」
 と先生の不機嫌な声。「ホイ、しまった。ここでは和尚さんが <黙っているのはわしばかりだ> と言って自分も無言の行を破ってしまった処です、と答えねばあかんのだ」と思い出す。そのようにして大人の世界に妥協する。こういう子供を教育では順応性がいいと言う。
 国語の時間の熟語の解釈では目を白黒させることが多い。美しいとはどういうことか、きれいということです。きれいとはどういうことか、美しいということです。というような笑い話のようなことが起こる。うら悲しいとはどういうことか。よく分かる。よく分かるがどう言ったらよいか、字引を見ると、なんとか辻褄の合うような言葉がのっている。それをそのとおり言うと、先生は「そうだ、そうだ」とほめてくれる。しかし、私の心は物足りない。
 国語の時間とは言葉の入れ替えをする時間、段に区切って、切ったりはめたりしてまた元に戻す時間、楽しい文章が急に灰色になってしまう時間である。
 小学校六年の時であった。担任の先生が不在で、代わりの先生が来た。もう卒業前であったろう、無礼講な時間になってしまった。ある生徒が先生に質問した。先生が「何でも分からんことは聞いてみよ」と胸をはったからである。
 「先生、宇宙はどこまで続いているんですか」
 「うん、ずーっと果てしなしだ」
 「ずっと果てしなして、どういう事ですか」
 「―――」
 「わーい、先生も分からん、分からん」
 「こら、余りむつかしい事をきくな」
 私は、その時、不思議な奈落の底に落ち込んだような気持ちになっていた。
 「果てのない空間、無限、永遠……」
 私の心はポッカリ釜のフタがあくように悟った。
「人間には無限とか永遠とかに対する感覚が無いのだ。ちょうど盲人にものが見えず、ろう者に音が聞こえず、色盲に色の区別が分からぬように。しかも不幸なことに、人間は、理屈の上で無限とか永遠とかいう言葉だけを知っている。どんなに偉い人間でも、実はそれを推測や仮説で言っているだけの事であって、本当に感じ取っているわけではないのだ」
 その思想がとつぜん湧き起こったとき、私は喧騒な小学校の教室の中で、しばし深淵の底にいるような静けさを味わった。
 そして、私は初めて、1+1は2であることの秘密に気づいたのである。1+1は2である。これは何故かと問い得ないものである。赤をなぜ赤であるかと問い得ないし、我はなぜ我であるかと問い得ないように、それは直覚的に分かってもらわねばならぬ事である。(つづく)《く》
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by hioka-wahaha | 2009-07-07 11:21 | 日岡だより