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No.382 今、この教会に欲しいもの 2009.4.26

今、この教会に欲しいもの

 今、この教会で、足らないものは何か。
 第一、日曜学校である。昔から教会と言えば、まず、日曜学校賛美歌を歌っている、子どもたちの元気のいい声であった。次に、
 第二、あるようで、無いのが青年会である。青年が殆ど居ない。元気のいい、はつらつとした信仰を持った青年の群れがない。
 壮年クラスは無いことは無い。壮年クラスがもっと青年らしい元気を出して活動するとよいのかも知れない。壮年男子諸君、青年の気分を思い出せ。
 一応、盛んなのは婦人会である。これはどこの教会も同じであろうか。何よりも教会は女性が多い。そこで、食事やお掃除や、体を使って尊いご奉仕をなさって下さる。男子諸君、これに甘えてはならぬ。
           *
 さて、この奉仕部門というか、活動部門というか、目を広げ、手を広げてみたい。大分ゆふみ病院や、警察や、市の社会課などに問い合わせると意外に為すべき協力部門が沢山あることだろうと思う。
 相良姉妹がされているが、人生相談の電話での応答の奉仕、これはさぞ難しかろうと思う。特別な能力も必要ですが、聖霊のお助けを祈りましょう。
 かつては、行旅病者の介護、その病人が死んだ場合の、いわゆる「おくり人」の奉仕というのがあった。今はどこでしているのだろうか。
 私はかつて仏崎の海岸に流れついた海難か自殺か分からないが、その死者を運び上げて上野の墓地に死体のまま土葬したことがある。当時、大分市社会課長だった(後の大分県知事)立木さんが「おい、みんな、こんなことをしてくれるのは何も関係のない釘宮さんだけだ」と大きな声で課員一同に告げていたのを、この原稿を書きながら思い出した。《く》
 

事業を活かす信仰 9

 当時の僕の信仰は、聖化論に苦しんでいた。その線を突破したときの心境は、「我さらに汝を去らず」という文章に残した。
 信仰者といえども金の問題にはつまずきやすい。その峠を越すために、思いあまって一灯園に行ったこともある。一灯園風の生活は、ろう学校の教員をしながらもずっと続いた。神癒信仰に入ったのもその頃で、風邪になってもアスピリン一錠飲まぬ徹底ぶり。妻が乳癌になって苦しんだとき手術せよという医者のすすめを断って、妻に死んでもよい、手術は受けてくれるな、俺が祈ってやると頭を下げた。妻はつねに僕のよき伴侶者であり、僕の聴罪僧であり、僕の十字架の負い手であった。
 乳癌や盲腸や赤痢や、そういう難病が不思議に癒された。家出の父を呼び返したり、行方不明の精神病の息子を救ったり、そういう奇蹟的実話の多かった時代である。伝道者としての自惚れも出てきた。遂に教員をやめて独立にふみきった。今思えば甘い決心ではあるが、当時は大変な決意であったのである。
 ここで神はとんでもないことをなさる。僕を原始福音の手島先生に会わせたのである。この怪物級の伝道者に会った時、僕の自惚れはいっぺんに吹き飛んだ。それまで僕を世界一の伝道者と思っていた妻も、世の中は広いもの、えらい人物がいるものだとびっくりしたそうだ。僕は遂に手島先生を師匠として、その集団に信者さんを連れてとびこんだ。
 二年ほどして、僕は先生につまずいた。つまずく僕が悪いのか、つまずかせる先生が悪いのか、ともかく我の強い者同士が角をつきあわせたのである。
 僕はほうほうの体で逃げ出す。こういう時、手島という人は疾風の如き軍師ぶりを発揮する。一級伝道者を送って、信者さんを奪い去り、僕を独りぼっちにしてしまう。彼らはこれを「愛のムチ」と呼ぶ。職を捨ててまで伝道に専心しようとした僕が、信者さんを奪い取られてしまって、さあ、何をして食っていく?
 僕は、僕の生涯で目で見る事のできる師として二人の人を持つ。一人は一灯園の西田天香師、一人は手島先生。前者より無一物生活を学び、後者より霊的信仰を学んだ。お二人に対する尊敬と感謝は今も変わらない。
 僕は手島先生を離れて以来、数年間精神的放浪生活を送る。キリスト教以外の諸宗教に身を以てふれた。いろんな新興宗教の教祖さんが僕を幹部に欲しがって居候させてくれるのでさまざまの勉強ができた。霊媒や空飛ぶ円盤に興味を持ったのもその頃のことである。その頃、僕は十菱麟という妙な名前の人と知り合って、AZ運動という奴のお先棒をかついだ。その時の雑文に「ケチな根性じゃ救われません」というのがある。今読んでも面白い。
 僕は、とっくに、父がのこしてくれていた財産はたった一つを残して、食いつぶしていた。そのたった一つ残っていた財産というのは、借り手がひどいやくざな男で、そのような借り手が居住権を盾にとって居座っている以上、売ろうにも買い手がつかないという因縁つきの家である。その男が集会中の僕に出刃包丁をつきつけてきて僕に小さなケガをさせる、警察沙汰になる、というなりゆきで遂にその男が家を出て行った(人間的には憎めぬいい男でしたがね)。
 そこで僕は、その家を売った。金が手に入る。それをまた居食いする。当時の僕の信条は、好きなことだけする。嫌いなことは死んでもしない。命がけのわがまま生活、気迫に満ちたのらくら生活。伝道とは言っても、二、三人残った信者さんを相手に時折集会するだけ。そこで暇が多い。午後三時になると近所の銭湯に行く。大の字になって寝ている。その銭湯で奇妙な老人と知り合った。
 老人は僕のことを心配して、郊外に土地を買って家を建てろと言う。
 「よかろう、建てましょう。」
 「あっしにまかせるか。」
 「うん、まかせる。」
 老人は翌日より、外に出て土地をさがし、大工を連れて来、建築を始め、昭和三十六年の二月十一日、家ができたから早く移れと言う。
 新居に移転してすぐ、東京の十菱君よりAZ講演会を開くから来て話をしてくれないかと言う。同時に、K夫人が旅費を送るから是非上京してくれと言う。僕は承諾して妻と二人で東京行きの急行に乗った。
 出発する時、当時生れて満一才の末の娘をかの老人に子守りしてくれるよう頼んだ。そしていわく、
 「さてじいちゃん、じいちゃんの名前は何というの。」
 僕はそれまで、その老人の名を知らなかったのである。それから母に二万円か三万円の金をわたした。それが僕が家を売って残していた金の最後であった。僕は東京行きの切符だけ手にして旅に出たのである。
 当時の上京中の話は省略する。いよいよ、大分に帰ることとなる。途中、大阪におりた。会いたい人が五、六人いたのだが、みな都合が悪くて会えない。たった一人、スブドという宗教団体で名前を知り合っていた中島という人を訪ねてみた。孔研社というタイプ印刷屋でまったく忙しい。ほとんど話すひまはない。二十分そこそこで「サイナラ」と別れた。
 久しぶりに我が家に帰ってみると、金はもうまったく無い。近くの米屋や乾物屋などに、もうだいぶ借金をつくっている。この前こそ、家を建てて移ってきたこの一家に、金は一円も無いとはいかな街の商売人たちも思いもよるまい。そう思うと、おかしさがこみあげる。
 そんなある日、僕は末の娘をだいて小学校の運動場にあそびに行った。ぶらんこに乗ってゆれている時、僕の心に天啓のごとくひらめく思いがあった。
 「この子のために働こう。俺はこの子を養わねばならない。」(つづく)
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
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by hioka-wahaha | 2009-04-27 13:25 | 日岡だより

No.381 「塩狩峠」と旭川リバイバル 2009.4.19

「塩狩峠」と旭川リバイバル

 今日の日付のクリスチャン新聞ですが、礼拝室の後ろの棚においておきました。その3頁に、このタイトルに頂いた「『塩狩峠』と旭川リバイバル」と題した記事が載っています。
 作家の三浦綾子さんの出世作は朝日新聞の一万円懸賞小説の「氷点」ですが、更に三浦さんの文名を高め、確固たるものにしたのはこの外ならぬ「塩狩峠」だったでしょう。
 三浦綾子さんの偉いのは、最初から堂々と「キリスト教の福音を証詞するために書いた小説です」と当選時のインタビューの新聞記者にも語っていた姿勢です。ここまではっきり言う人は少ないですよ。
 もともと純文学の人たちは「……の為に小説を書く」なんて、目的小説を書くことを嫌います、恥とも思うでしょう。そこを「いいえ、私は福音宣教のために書いたんです」というのですから、文学界からは三浦さん、きっと異端視されたでしょうね。
           *
 「氷点」も「塩狩峠」も、イエス様を信じる信仰の故に、この世の遭難事故に処して、ある意味ではさして縁もゆかりもない、ただ乗り合わせただけとのいう人々のため命を捨てるという驚嘆すべき物語です。
 こういう「お涙頂戴」式の内容は、却って文学としては書きにくいものです。そこに体ごと、ぶっつかって書く三浦さんの作家魂には、並々ならぬ勇気を感じます。
 こんな事を、私が言えるのは私自身、恥ずかしながら、若いとき文学少年の一人だったからかも知れません。事実、あの朝日新聞の一万円懸賞には、私も応募しようかと心を燃やしたものですよ(笑)。《く》

 
事業を活かす信仰 8

A 兄
 第四信を送ります。
 西多摩の旅館は二月末完成の予定の由でしたね。ご成功を祈る。溢るるばかりのイエス様のご祝福を信じます。一切のものを豊かに、ゆすり入れる程めぐみ給う主を信じます。
 「利潤追求と社会福祉の両面のバランスをとって目的を果たせる事業をしたい」云々と書いてありましたお手紙に、ちょっと刺激されて第一信、第二信、第三信と書きつらねてしまいましたが、或いは連日食傷気味であったかもしれませんね。
 さて、お尋ねの土地の件、やはり別府の背後地より飯田高原にかけてが良いでしょうね、今いくら位の値段しているか近日専門家に聞いてみましょう。飯田高原で思い出したが、私の理想はああいう処に全寮制の学校をつくる事です、いつか実現したいですね。
 ところで、今この手紙を終わるに当って、最も残念なのは社会科学的な視点よりしての日本の中小企業のおかれている立場とか、またそういうモノゴトに目ざめている中小の事業家たちが、この歴史の中で自身をどのように認識し、かつどうあろう、或いはどうなろうとすべきなのか、という問題につきふれ得なかったことです。
 こういった面については、学者たちも活動家たちも不勉強のようです、なかんずく「目ざめたる事業家は何を為すべきか」という哲学が生れていないようです。さらに、それをもう一歩つき込んでクリスチャン事業家はいかにすべきかという問題にふれ得なかったという事です。
 では、A兄! 主にある平安をいのりつつ
    一月十七日 夜
 
  あ と が き 

 僕は商家に生れた。父は本当にすばらしいクリスチャンだったが早く死んだ。父の兄にあたる伯父も無教会派の豪の者だった。
 この伯父は、父が死んだあとの我が家の商売を無私なる心で後押ししてくれて、僕がどうにか少年期を終える頃に死んだ。僕の母は善良だが根ががんこな、そしてぐちの多い教会信者。僕は母の故に教会信仰を嫌い、父や伯父の気風を受けついで預言者風の信仰を求めた。
 僕はひとりっ子として育ち、ひとりっ子らしく気弱い惰弱な人間だったと思う。そしてわがままだった。僕は小説家になりたくって進学を嫌った。
 母は僕を商科系の学校に入れたかったのだが僕はそれを避けた。進学しようと思えば、どうにか試験に受かるだけの学力はあったと思う。母はいつまでもそれを惜しがる。
 僕はそんな時に、否定的な態度をとることにがんこであった。気弱な人間が無理に豪傑らしく振る舞おうとするとそんなふうになるのらしい。
 はじめに書いた無教会の伯父は、大きく店をはっていた。伯父が死んで、僕の従兄がそのあとをついだ。従兄と言っても親子ほど年の違う人で、今考えれば本当に僕のためによくしてくれたと思う。その従兄の店に僕は商売の見習いに行った。商売の世界は僕にはなじめなかった。一年ほどすると、まったく息もつけないような気持になって家出をしたことがある。
 少年時代以来の親友M君が厭世哲学におちいって、敢然と(と僕にはそう見えた)自殺したのもその頃のこと。その影響から僕はますます暗い人間になった。折から日本は太平洋戦争に突入するという時代。僕は内村鑑三やガンジーやシュバイツアーの文章にあおられて反戦論者となる。
 僕が刑務所に入れられたのは、兵役法違反と出版言論集会結社取締法違反。いったい何をしたのですかと問われると、いつも困る。兵隊に行きたくないので自殺しかけたのだが、そう白状するのはまるで意気地なしのようでどうも恥ずかしい。
 僕が自殺するについては、吉田松陰などの影響もあって天皇や為政者への諫死という気分が多分に強かったのだが、そういうことを今言っても人は分かってくれまい。
 刑務所の中で僕は回心する。「愁いある獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」―――とうたった、僕のあの経験を今も忘れ得ない。
 僕の父は破産した逆境のさなか、きたない倉庫の中でむしろをしいて祈っている時、火事になったかと驚かされるほどの不思議な光芒の中に主の臨在を拝して回心したという。それほどの濃密な霊的風光ではなかったにしても、僕の当時の回心は明確であった。
 戦争がおわる。「お前のような非国民は刑務所に送って使い殺してやる。」とどなった検事は追放になった。僕の刑を判決した裁判所はアメリカ機の空襲で焼失していた。
 僕は職業を求めなかった。食うことに興味がなかったのだ。僕は駅で、客に食を乞いもとめる戦災孤児たちを見た。
 僕は彼らの兄になろうと思った。子どもたちと共に駅のベンチに寝る、凍死しているルンペンを葬ってやる。白痴の少女の妊娠を知って中絶手術に連れて行ってやる、そういうことをしている間は僕は活動的であった。
 しかし社会事業というものは、所詮事業であって、僕にはなじめない。僕は伝道に志す。僕は祈る、そして「鶴崎に行け」という声を聞く。僕は鶴崎伝道にのりだす。
 鶴崎とは当時大分市郊外の小さな町で、今は大分市に合併されている。僕はその鶴崎に行くためにそこの高等学校の事務官になった。その後、ろう学校の教員に転任するが、とにかく不思議に職業は向こうからやって来た。僕はそれ以後伝道一本に生きた。職業は食うための内職ではあったが、その職業のために節をくっすることはなかった。悲壮ではあったが、雄々しかったと言える。(つづく)
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
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by hioka-wahaha | 2009-04-21 09:46 | 日岡だより

No.380 イースター(復活節) ハレルヤ! 2009.4.12

イースター(復活節)ハレルヤ!

 「イースター ハレルヤ!」と心から叫びたい。私の伯父釘宮徳太郎はこのイースター(復活節)が大好きだった。一般の教会のクリスマスの行事のように、盛大にこの日を祝った。伯母は小学校の先生をしたこともあっただけに、子どもの扱いも上手で、その上、東京のどこかの神学校に短期編入学をさせてもらって日曜学校の運営についても研究したらしかった。
 そこで、近所の子どもたちを沢山集めて賑やかにイースター行事をした。帰りにはドッサリ、おみやげの「復活節」と名前入りのお菓子を持たせて「ハレルヤ!ハレルヤ!」と帰すのである。《く》


事業を活かす信仰 7

 イエスの信仰の第三眼目は何か、
 『主の臨在が我らを救う』ということであります。それを裏打ちして我らの側からできることで言うなら『主の御名を呼び求むるものは救われる』であります。
 救いという言葉は、内的な魂の救いは勿論、外的、この世的、具体的な患苦逆境よりの解放を示します。パウロが「心に信じて義とされ口に言い表して救われる」と言っているのがこの事です。「心に信じて義とされる」―――この義認論的救い、まさしく親鸞的救いですが、それが世に勝つ信仰―――具体的現実的事態を改変していく力になるためには「口で言い表す」という事が必要です。
 この「口で言い表す」ということは信仰告白のことなのですが、信仰告白とは世に対しては前節で述べたような戦いと、主に向かっては御名を呼び求め、かつ、讃美することの二面の意義を持っています。そして世との戦いについては、すでに申しましたから、主に対する面を少しくわしく書きます。世に対しては、戦えば必ず勝つ、そういう必勝の原理があるのだと申しました。しかしその必勝の原理を、そのように顕現し得る力はイエスの臨在であります。イエスが我らと共にいます、イエスが我らの内にいます、イエスが我らの上にいます。そのような状況にあるからこそ我らは勝つのです。そのイエスの臨在を我らに実現せしめる秘訣、それはイエスを呼び求める事にのみあります。
 私はここでロマ書第一〇章一三節を引用します。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる。」主の御名を呼ぶとは、空虚なる処に向かって主の名前のみをカラ呼びするのではない。主の実存を呼び求めるのであります。私たちが子供の名を呼ぶとき、ただ口なぐさみに独り言するわけではない。「太郎さん」と名を呼んで、その当人の来る事を期待します。同様に、私達が主の御名を呼ぶときも、主ご自身のご来臨を求めて呼ぶのであります。
 「マラナ・タ(主よ来たりませ)」(コリント第一書第一六章二二節)これは初代教会の人々の日常挨拶語にさえなっていた言葉だそうですが、日常生活の事毎に、主よ来たりませ―――と祈って生きる信仰こそ、真に生きた信仰と申さねばなりません。私は今ここに、昭和十七年十一月に出版された古びた小冊子を持っています。「福音的称名序説」と題する本でして、橋本鑑という若い先生の「インマヌエル・アーメン」と称名して信仰に励んだいきさつや神学的洞察に富んだ文章を内容としています。この橋本先生は「信仰生活修練の行的一面のきわめて不十分なプロテスタント教会」の牧師としてその欠けたるを補わんとして一灯園(西田天香さん主宰)に身を托したことがあるそうです。そうそうA兄、貴君も私のすすめに従ってあの一灯園に、しばし身をよせましたねエ。私もその後何度かあの山科の一灯園に行って修行させてもらいましたが、お互いになつかしい事ですね。一灯園はご存じのように禅的色彩の強い処ですから、排他的気分の強いキリスト教の世界から、一灯園生活に飛び込むには単に形式的なことにこだわるようだけれども(読経とか座禅)勇気がいりますね。私もそれを経験したことですので、それだけに当時の橋本先生の真理探究の精神の激しさに感心するのです。さて、その一灯園の畑の小舎と称する生活水準最低の道場の主任、鈴木八重造さんより聞いた一言が機縁となり、遂に「インマヌエル・アーメン」の称名となったそうです。そのいきさつを私は鈴木八重造さんに会って直接きいたこともあります。
 さて、この「インマヌエル・アーメン」のこと。昭和十八年の秋、私は兵役法違反、出版言論集会結社等取締令違反で特高にとらえられ、刑務所に入れられました―――。食料不足と強制労働のきびしい囚人生活の中で、私を救ったのは、この「インマヌエル・アーメン」の称名でありました。一瞬一瞬、栄養不足と疲労の中で気が遠くなりそうな状況の時、長々しい祈りなど出来ません。入る息に主を念じ、吐く息に御名を呼びまつる、そのようにして一息一息に称名讃仰の生の営みをつづける時、看守や同囚の人々はみるみる私を驚嘆と畏敬と愛情をもって見るようになりました。私は、この事につき深く深く橋本先生に感謝したいと思います。その後、この「福音的称名序説」という本が再刊されて、日本キリスト教界に非常な反響をおこしたそうです。
 私が今度実際に、「御名を呼びまつる」ことを始めたのは、この橋本先生の本が大きい影響を与えています。私にはしかし実際に御名を呼びまつる時、「インマヌエル」という言葉はよそよそしすぎました。神学した人でなくては思いつかない呼び方です。それで、私は端的に
 『イエス・キリスト様アーメン』
 と呼びます。イエス・キリストの御名を呼び、その御臨在を乞い求める、そしてその御臨在がたしかに我に「然り」となり給う。そのような信仰告白でもあります。形式にはこだわりませんから、「イエス・キリスト様××君の病をいやし給え、アーメン。」などと短く希求の語が挿入される事もあります。声に出す事もあり、声に出さない事もあります。声に出す時は、遠慮せず腹の底からドッシリした声で「イエスキリスト様」と呼びます。「アーメン」は、刀で胸もとめがけてつき込むような気合で唱えます。私は「アーメン」は、あらゆるサタンの軍勢を退けしめる破魔の剣だと思っています。
 実行してみると分かるのですが、御名を呼びまつる毎に、不思議な静寂と、力が我が内に上よりそそがれ満たされていく事がわかります。こういう事は形式化すると、生命をなくし無力となりますが、心をこめて信仰をもって行動すると、すばらしい生活力の源泉となります。
 日毎の生活の一刻一刻に信仰の勝利を得るため、機にあう主の不思議な助けを期待して、タナボタ式の恩恵ならず我が内を通して働く神力を日夜経験するために、この福音的称名讃美の行は大いに力あるものであります。これが、第三の眼目の実際的方法論であります。さきに述べた、第一眼目、第二眼目が、この実際的方法を用いると、即座に我がものになりやすいのです。ですからこれは、実際経験に即しての信仰上の具体的すすめであります。(反面の真理、御名を呼びまつるというこういう行をしなければ救われない!という事は絶対にない!)
 A兄、これで第三信を終わります。これらはこの一月一日より一週間程、日毎に主より示された教えであります。今年になって、私の説教が単純明快になってきました。イエスの福音がいかに単純で、力あるものかが分かってきたからです。集会の霊的レベル・アップが目に見えて顕著になってきました。今年はいよいよ、勝利、前進の年である事が確信されてきました。そしてその勝利が、事業や経営の上にもとみに現れてくるでしょう。第二信に書いたような事業繁栄の道は、こういう「イエス・キリスト様アーメン」と事毎に称名讃美して一切を勝利、前進に導かれる新生涯の上にあると思います。
 A兄。今日は一月十五日、成人の日で、店は休みです。昨夜来、今日の午後三時まで書いてきました。願わくば、希望の神、イエスキリストの御名により来臨あそばして我らをめぐみ給え。
 愛してやまぬ貴兄と、御一家の上に主の御めぐみ豊かでありますように。祈りつつ。(一月十五日)(つづく)
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
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by hioka-wahaha | 2009-04-14 09:57 | 日岡だより

No.379 受難週を迎える 2009.4.5

受難週を迎える

 教会暦では、今日から受難週に入ります。イエス様のご受難の週にはいるのです。そして次週の第一日の日曜日が復活節(イースター)の日であります。
 私の両親たちの時代には、この日から克己(こっき)週間とも呼んでいたように覚えています。イエス様のご受難を偲んで、私たちも些かでもご苦難のほどを味わおうということです。
 そこで、大抵は第一日に断食、そして続く6日間も慎ましく節食の日々を過ごしたのでした。子どもながらも、私も少しくイエス様がお苦しみを背負いなさる愛の深さを思って、御身代わりの愛が少しく、分かったように思えたものです。《く》


事業を活かす信仰 6

 イエスが、この酒杯を飲めと言われるとき、それはイエスの血潮であり、イエスの苦難の杯であり、また今日我らが人生途上で会うイエスの名の故の迫害、苦患であり、また人生一般の苦悩、患難をもイエスにあずかる酒杯の中に投げ込み委託して飲み干すそれであるというふうにいろいろですが、それらの一切、イエスの名によって受け取る時、イエスの生命であるという事であります。
 ここらあたりで、私のペンはイエスの宗教の第二眼目に入りましょう。それは第一眼目がどちらかというと内的な霊的救いというような面に力を入れておりましたのに比し、第二眼目はすこぶる処世的能力の問題であります。曰く
『イエスは一切を肯定的、生命的に再創造する力である。これを一切アーメン化の原則と呼ぼう。』
 一切アーメン化の原則とは私の造語ですからちょっと説明を要します。アーメンという言葉は、確信、誓約、承諾、納得を意味します。それを更につきつめると「然り」であります。私はそれを「絶対肯定の霊語」と呼びます。
「然りと言うことはキリスト・イエスによりて成りたるなり。神の約束は多くありとも、然りということは彼によりて成りたれば、彼によりてアーメンあり、我ら神に栄光を帰するに至る(コリント第二書第一章十九、二十節)」
 ここを説明するとき、前述したイエスの十字架の血潮の項の最後の処を一緒にお学びください。いかなる最悪の事態、悲運、逆境をも、それをそのまま然りたらしめる、それはイエスの臨在の力です。
 別な見方からすれば、人生のあらゆる悲境を、キリストよりの酒杯として飲み干すならば、それがたちまち神の国にかわる。
 化学実験などで、ある液体に少量の添加物を加えると、みるみる色がかわったり、透明になったりすることがある。
 ああいうふうに、悲境、苦患という酒杯をイエスの手に委ねると、イエスから出る放射線がその苦い酒の味を甘い味へと一変させてしまうのです。
 かく一切の事を、悪より善へ、悲しみより喜びへ、暗黒より光明へ、惨敗より勝利へ、消失より獲得へ、後退より前進へ、孤立より伝道へ、俗物より聖化へと一変させたもうイエスのアーメンたらしめる力、これがイエスの宗教の力です。
 そういう革新の力の源泉は、イエスの十字架より来ます。十字架というと、何かメソメソした屈辱的な悲惨なものを感じさせやすいが、私の言う十字架はそういう情けない十字架ではない。私が唱える十字架は「勝利の十字架」であります。
 ちょっと横道にそれますが、私はここにアンリ・ペレイブ(一八三一~一八六五フランス)というあまり世には知られていない人の、すばらしい文章を引用します。
     *     *     *
「人もし我に従い来たらんと思わば、己をすて、日々おのが十字架を負いて我に従え。」
 このお言葉は、弱き我らにとり絶望的な響きを持っている。しかし、
「……我がクビキは易く、わが荷は軽ければなり。」
 かく仰せ給う主のお言葉を思い返す。かくて我は叫ぶ………
 「今こそ主の御言葉におたよりいたします」と。かくてあれほど嫌悪し逃げ隠れていた十字架を取り上げ、主に従います時に、私の心は直ちに歓喜にあふれ勇躍し始めます。
 私が十字架を負うや否や、主の御手が私を支えます。重き荷を背負うや否や、あなたがその荷の重さを取り去ります。私の小さき信仰に対し、無限の恩恵を賜ります。
 かくて私は悟ります。主の十字架を負うことこそ、この世における勝利の秘訣であると。
     *     *     *
 要約しますと、一切アーメン化の法則とは、十字架による一切の転質の法則―――つまり一切を勝利、獲得、前進、伝道、聖化へと革命する法則であります。
 私が今年の一月一日の朝、除夜の鐘を聞きながら、主の前に祈って、示され、且つ誓わされたことは、
「今年を勝利の年とする。」
 ということでありました。
「汝ら世にありては悩みあり。されど雄々しかれ、我すでに世に勝てり。」
「世に勝つものは誰ぞ、イエスをキリストと信ずるものならずや。世に勝つ勝利は我らの信仰なり。」
 これらのみ言葉が私に迫ってきました。
 私は思いました。さよう、我らは今年世に勝つのだ、世に勝つという前提には世と戦うということがある。
 戦わずして勝つといえるほど、世は甘くない。世と戦うということは、世を逃避しない―――ということだ。修道院のような処に逃げこまないで、この世の力、風俗、習慣の中にまみれて戦うのであります。
 「世に勝つ、世に勝つ」といくら心に信じて力んでみても、現実に世に出て行き、世と戦わなくては、その力は発揮できません。
 そんなふうにして折角持っているキリストの実力を発揮できず、無力をかこち、どうして自分の信仰はだめなんだろうとしおれている人が多いのです。
 弱い相手に勝ったところでどれほどの勝利の喜びがありましょう。強い相手に全力をつくして勝ってこそ、本当に勝利の喜びがあるのです。それをこそ「凱旋的勝利」と言うのです。さあ、諸君、前線におどり出られよ、これが今年の第一声でした。
 これは一面から言うと、商売をしてこの世とつきあいの多い私なればこそ、主の取り給う私への課題であったかもしれません。第一信に書いたような「ソロバン片手の聖者」になろうと思えば、多分こういう勝利の秘訣を身につけなくてはなりません。
 さて、ここで最大の注意を喚起したい。それは、「世と戦い、世に勝つ」というと、世間なみの戦争や勝負事と同じように見て、力まされば勝つ、力おとれば負ける―――そのような勝負事のように誤解しやすい。そうではない、決してそうではない。戦えば必ず勝つ、そういう必勝の原理なのです。
 生の法則が死の法則に打ち勝つとき、必ずやそういう必勝の原理が働きます。一度水泳を覚えたら、二度と忘れません。生来は水に溺れるという人間の性質に、新しい「泳げる」という法則の獲得をもって打ち勝つのです。これは水に飛び込み水にまみれ「溺れるぞ」という法則との戦いを経験しなければ獲得されません。
 しかし、挑戦して練習すれば百人が百人泳げるようになります。というふうに、実は「戦う」だの「勝つ」だのいう言葉はおかしい程、スンナリした真直なる信仰生活の道なのです。
 しかし、実際の経験としては、「戦い」と呼びたいほどの決意を要します、故にまた獲得すると、「勝利」と呼びたいほどの感激を与えられるのであります。(つづく)《く》
 ※この連載中の文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。
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by hioka-wahaha | 2009-04-07 14:48 | 日岡だより