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No.378 事業を活かす信仰 5 2009.3.29

事業を活かす信仰 5

 「親切受けるも親切の一つ」という言葉があります。同様に、前述のように本心における辛さをおこさせないようにするのも真の愛であります。それこそ「ひとにせられんと思うことを人になせ」の実行であります。「ゴールデン・ルールを実行すると、商品をただにして配っても足りますまい、そんな事は人生に不可能」などと言うのは、重大な誤りであります。客と商人が、社長と従業員が利損相反する、立場が矛盾するというのは完全な見方ではありません。そういう見方は、一見客観的で真理の一つであるが、現に、商売する時、ここで工場で働くとき、現実におこさないですむ事であります。たしかに矛盾を来たしやすい関係であるが、尚かつ矛盾させないですむ方法があります。ヤジロベエのように、危なっかしくとも、バランスを取りながらどちらも辛いことなく、どちらも立っていける道があるはずです。
 「御言葉うちひらくれば光を放ちて愚かなる者をさとからしむ」です。凡ての事態において、アーメンと肯定力を持つイエスの真理が働く時、今まで暗黒のようであった矛盾の場も光を放ち、我々のようなおろかな者をして、大学の智者にまさる智慧を開き給う。そのような矛盾解決の智慧を与えられて、企業の現場を聖化していく事、これが我々に与えられた「使命」であります。
 
A 兄
 だいぶ、字が乱れてきました。こんな事で読めますかねエ。書き直す元気もないのでこのまま出します。あしからず、ご判読ください。今日は経営学でした。今度は世に勝つ信仰の秘訣を書こうと思います。ではまた。   (一月十三日 午前一時半)

 
  第三信   絶対的勝利の信仰

A 兄
 第三信を送ります。昨夜は、土曜日の夜でしたので、日曜集会のための準備がいります。そんなわけでこの手紙を書くことを休みました。今日は、午前十時半より日曜集会、八、九人の出席で数の上ではまったくわびしい小さい集会。しかし本当に素晴らしい集会でしてね、出来るものなら一度来て参加してほしいものです。今日は集会後、子供を連れてスケート場へ。まだ、たった二回でして、すべっては転び、すべっては転び(こういう時、大分では「こける」と言います、どうです懐かしいでしょう。)―――あっちこっち「あいたた、あいたた」と言いながら、今夕飯を終わったところです。
 さて、第二信では経営問題にふれて経済的な具体的な事柄を書いてみました。ああいう方法論については、私の思い違いもあるかもしれない、考えの行き届かない処があるかもしれないと思います。しかし、その基礎となる信仰的な思想には大誤はないと信じます。今日はそういう基本的な信仰について書いてみたいのです。
 今朝の集会のテキストの一つに、マタイ伝二三章二六節を用いました。
 「盲目なるパリサイ人よ、汝まず酒杯の内を潔めよ、さらば外も潔くなるべし。」
 という処です。これは念を入れて読むと面白いイエスのお言葉です。外だけ美しくしておいて、内を汚れたままにしておくパリサイ流の偽善に腹を立てるイエスのお気持ちはよく分ります。しかし、かと言って、「酒杯の内さえ美しくすれば外も美しくなる」というのはイエスの比喩の行きすぎではないでしょうか。そんな不思議なサカズキがあったら一度お目にかかりたいものですね。たしかにいくらイエスのお言葉といえども、そんな不思議妙チキリンなサカズキはこの世の中にはありません。しかし、それに似たものはあります。それは生命を持ったものです。赤ちゃんをごらんなさい。内に病気があると外の血色もよくありません。内が健康だと外も素晴らしい色ツヤになります。血液がにごってくると、吹き出物だの何だので肌が荒れてしまいます。血液をきよめると外の肌も美しくなります。動物を見ても、植物を見ても、内を潔くすれば外も潔くなる真理が働いていることが分ります。生命を持ったものは凡てそうなのです。
 人間だけは、同じ動物の中でもたった一つ狂った体質を持っているバカな存在です。内がにごっていても、外側だけ化粧していれば人には分りません。そんな「腹の黒い、血液のにごった」人間がうようよしています。そういう魂の血液のにごった人間を外側から、精神修養や何ぞで救えるものではありません。魂を人間の内臓に例えるなら、心はその肌であります。魂がにごると、その肌である心もすさみます。すさんだ心を、肌を厚化粧でかくしてきれいに見せかけるように、修養や訓練できれいそうに見せかけることはできます。しかしそれは本物ではありません。いつかは、化けの皮がはげます。生命のない物質の世界では、内を潔くすれば外も潔くなるという法則はなりたちませんが、生命の世界―――特に高度に生命的の世界、生命的に革新された人間においてはそれがスッキリなりたちます。
 人間はそういう存在であります。そして、そういう人間の革新され方が、イエスの教えのなりたつメソッドであります。イエスの宗教の第一眼目は何か。
『イエスの生命力が我らの内にそそがれ、イエスの生命が我が生命となり、我らの内から罪がすすがれ、罪の力より解放されて本来の神の子の姿となる。』
 ということです。これを救いというのです。この救いを完成する力はイエスの十字架より流るる血潮に象徴されます。イエスは十字架につけられる前夜
『イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えていわれた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。」また杯を取り、感謝して彼らに与えていわれた、「みなこの杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ伝第二六章二六・二七節)』
 イエスは食事の時、後に聖餐式の型となったこの詩的言動をのこされた。この時、イエスはその翌日十字架上にて、肉を裂き血を流し給うことを、しかと予見なさりつつ語った言葉だと思うと意味は深い。
「私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与える私の肉である。よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉はまことの食物、私の血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」
 とヨハネ伝でイエスは言われる。その肉、その血を、イエスは最後の晩餐で、無理にでも弟子たちに、食わせよう飲ませようとなさるが如くであります。それが十字架の意味なのであります。それは我らの内にそそがれて我らの新しい肉となり、新しい血となるのであります。それはイエスの生命でもあるが、また我々自身の生命である、そういう不二の生命に日々更新されるのです。それが、イエスの救いであります。日毎の生活の秘儀であります。
「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それはキリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(ロマ書第六章三・四節)」
 とパウロが言うように、(イエスの生命であるその肉と血が我らに生きるという経験を「イエスにあずかるバプテスマ」とパウロは呼ぶ)イエスの生命を我らの内に実現させるという事態は、イエスの死を我らの身に負うということと表裏の一事実なのであります。(つづく)

 ※この文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。(連載中)
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by hioka-wahaha | 2009-03-31 11:47 | 日岡だより

No.377 事業を活かす信仰 4 2009.3.22

事業を活かす信仰 4

 ある事業が、一個の企業としての生命を得るためには、まずチャンとした背骨が必要です。それは目的ないし思想であります。思想性を確立した事業の経営、それがないと背骨のないクラゲのような事業になります。どこでもよい、波の流れに身をまかせて身近な餌で身を養おうとします。どうにか生きているには生きています。このたぐいには食いっぱぐれはないようですが、いつまで経っても浮草稼業です。食わねばならぬから何かしている―――この形態を「生業」と呼びます。
 普通、こうしたどうにか食っていけるというマイクロ事業を「生業」と呼びます。しかし私はそういうふうに、経営の現状や表面の形だけで「生業」かどうかを論じたくはないのです。私は、もっと目に見えない処にある目的性、思想性に目をとめます。従業員を千人もかかえて立派にやっているように見えるいわゆる「中」企業でも、中身はその日暮らしの、あてどない「生業」である処があるかもしれません。あるいは、現状はカアチャンと二人で食うや食わずの極小企業でも心では決して生業でない立派な企業であるという処がありましょう。
 よく経営コンサルタントが「こんな事じゃ生業なみじゃありませんか。早く奥さんにも十分の給料を出し、社長もロータリークラブで交際をひろげるぐらいの企業になってくださいよ」などとニコポン式に名前だけの社長連を激励しおだてあげるのは、よくある図。何とか食っていけます―――が生業、ゆっくりもうけて人をたくさん使っております―――が企業、という素朴な区分なのですね。
 私はそんなふうには分けないのです。さきに書いたように、食うや食えずの単一体の事業でも、生業でなくて企業である場合がある。
 企業とはまず何かを企てます。最初に社会の要求を探知します。それが市場(マーケット)です。市場の必要に応じ、それに対して与え得る商品なりサービスの供給を企画します。そこから企業が生じます。その時、当然見込み利益を考えています。何の社会連帯性を持った企画性なく利益のみ追求するなら、前に申したとおり生業で終わります。(もし利益の追求など全然眼中になく、ただ社会の要求にのみ応えようとするのは純粋企業で、社会事業、教育事業、土木事業等、国家や宗教団体等が手を出す事があります。)しかし、今我々が考えるのは一般市民が己が生活のための利益回収も予想した上での事業の企画であります。こういう考え方からすれば純粋な生業者も案外少ないのです。
 企業とは、社会の相互依存的連帯組織の中の、まだ満たされていないスペースを埋めて、より連帯的利益を図るところに生じる一小組織です。そこに事業の使命があります。その目的性をはっきり把握していないと、事業は中途半端な成長をしても、途中で萎縮して却って社会全体に害を与え、自らも枯渇してしまう例が多い。
 事業は社会の必要から生れます。そしてその必要を積極的にみたしてやろうと献身的に情熱的に奮闘した事業に繁栄が訪れます。こう書くとアメリカ的出世読本の線に近くなってイヤだけれども事実であります。
 アメリカの一時代前の異例な成功者群―――カーネギー、フォード、シューメーカー等―――の横顔を見ます時、彼らが善意と熱意と努力と着想の人たちだった事、特にアメリカ人らしいプロテスタント的善き人々であった事を疑うわけにはいきません。彼らがいかに善人であれ、社会主義流に言えば彼らは独占資本家でしょうが、それはそうに違いありますまい。しかし人間が天国に行った時(という事は本質的に見ればということ)彼らが資本家であったから神様に忌み嫌われ、一方がプロレタリアであったから愛されるという事はありますまい。どちらも一様に、彼が善人であったか悪人であったかという事でさばかれます。
 近代社会において、資本の自己充足的貪欲ぶりは、既に資本家をも手玉に取っているのです。資本の爆発的拡大貪欲性は資本家にとり「原罪」的であります。しかも彼らは、資本家側に属する経営者たちではありましたけれど真の資本家といえますかどうか。
 モルガンだの何だのという金融資本家たちに比べると、まだまだ随分と健康な香りがします。ともあれ、彼らの成功には、ホンモノの栄光があります。資本主義的原罪は背負っているけれども、尚かつ成功するに当然な健全な要素があります。社会の要求に応えて彼らはその全力を傾投したのでありますから。
 夏目漱石の言葉に「人は損をせん程度には、人に良い事をしたいものだ」というのがあります。僕は若い時はこういう生半可な言い方が嫌いで、この一句ある為に漱石の凡てを嫌悪して読まなかったくらいですが、今になるとこの言葉の深みもよく分ります。
 人間には個体的にも自己保存本能があり、種族的にもそれがありますから、自分の生活や、己れの家族、ひいては我が社の社員というふうに保存本能が働いて、損をしたくないのが当たり前です。しかしまた、それと同じくらい人にも損をさせたくない、人に気の毒な思いをさせたくない、人にも適当にもうけさせたい、とこう思っているものなんです、心の奥の方で。
 商売をしていると、お客、仕入れ先、銀行、従業員というふうにそれぞれの相手ができます。金を中心に考えるとこれらの相手さんと私とは凡て利損が相反して、腹の内を本当に見せてたらケンカになってしまいそうです。お客は少しでも良い品を安くほしい、私の方は少しでも悪い品を高く売りつけたい。従業員はできるだけ仕事を休んで賃金はできるだけ多くほしい、私の方は従業員をできる限りウンと働かせて給料はミミっちく払おう、とこういうふうに戯画化して表現すると、みんなそうだそうだと思うでしょう。お互い腹の内が見すかされたらケンカだよと述懐するような事になるのです。しかし本当にそうでしょうか、それは偽悪的な慨嘆で―――、そう言いつつ、そうありたくないのです。もっと心の芯までさぐってみますと、案外に心やさしき性根が出てきます。さきほどの夏目漱石の言葉のように、人間は案外親切好きなのです。いい事をしたいのです。人に損はさせたくないのです。いくら、値切るのが好きな人でも、それで向こうが本当に損をするのだと知ったら「辛い」でしょう。
 この「辛い」という言葉は日本人らしい表現だと思うのです。向こうをケおとすか、こちらがケ落されるか、そういう勝負の瀬戸ぎわで遂に向こうをケ落してこちらが商売に勝ったとしますね。すると辛いんです。辛いんならこちらが負ければいいではないか、と言われてもそうは行かない。それが辛いところです。辛いながらもその辛さをこらえて勝負していく、そういう処から商人同士が競争見積りの時「談合」して順番に分け取りして、辛さを克服してどちらもうまく行く道をさがす智慧が生じてくるのです。「談合」の法律上の善悪は別とします。
 ですから、商売人が本当に損をしていると知ったら、お客さんはその品物を買いながら心の中では辛いでしょう。商売人の方だって破損品を高く売りつければ、してやったりとほくそ笑むかもしれませんが、「本心」はやはり辛いのです。
 そういう辛い思いを相手にさせるのはやはりいけないでのす。ペニーのいわゆるゴールデン・ルール「凡て人にせられんと欲する事を人にしなさい」という御言葉に従う時、向こうさんの心の第一表皮でずるがしこく考えているような心に迎合するのでなく、そのもう一つ奧の、善い「本心」に従って、堂々と勝負すれば良いのです。
 そういう気持だからこそ、あの好本督は債権の一つ一つをタンネンに督促できたのです。狡くたちまわって、債権をうやむやにさせ、善人を苦しめて、悪人が舞台裏でニタニタ笑っているというような、そのような悪因縁の循環中に相手をそのまま残しておけるかという熱情がそれをするのであります。それでこそ、借金取り立て即伝道でありました。ここに生活と一枚の信仰があります。(つづく)
 ※この文章は1968年発行の「事業を活かす信仰」に少々訂正を入れて掲載しています。(連載中)

 〔あとがき〕
約40年前の文章でありますから、時代感覚にやや齟齬するところがあり、御了赦ください。この文章を書いた頃の小生は零細企業の新米のおやじさんで、その創業そのものが奇蹟でした。その中で主様に導かれ、教えられ、掴んだことを、そのまま書いています。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-03-24 23:38 | 日岡だより

No.376 事業を活かす信仰 3 2009.3.15

事業を活かす信仰 3

 日本の松下幸之助氏などそうですが、アメリカでも有名な立志伝的実業家たち、カーネギー、ワーナメーカー、ペニー、カイザー等々、社会構造のゆがみに目をとめないで、自分が成功してきた道に、善意と社会奉仕意識と信仰をからませて、絶対自信を捨てない人たちがいます。それでつい私たちも、ひがんでしまって彼らの凡てを否定したくなります。しかし、それはよろしくない。
 松下氏が、天理教の広大な本殿建築におどろき、そして社会の為に役立つ事業でなければ本当に成功しないと信念を持ったという話がある。これは、いろいろ批判しないで素直に感心して聞いていい話であります。私は、それは本当だと思うのです。
 ペニーが世界一の連鎖店を作った時、その商売の成功の秘訣はゴールデン・ルールの実行にあると言った。ゴールデン・ルールとは「人にせられんと欲することを人にほどこせ」というイエスのお言葉であります。これを聞くと私たちはまず噴き出したくなる。そして次に腹が立ってくる。なぜなら「何言ってやがんでえ。本当に人にしてほしい事を人にしてやっていたら、商売の品物なんかみんなタダにしてしまって、いっぺんに倒産さ。いかなる上手な事を言ったって、現に世界一の連鎖店を作っているという事が、それだけ人をだまして、金をしこたま儲けたという事じゃないか。笑わせやがるねえ。第一、なんてこうもアメリカ人は心の内省度が浅いのだろう。売った商品に傷があったら替えてやった位でゴールデン・ルールの実行をしたなどと、臆面もなくうぬぼれ、自己義認するする奴らだからナ」と思うからです。しかし、もう一度退って考えてみると、ペニーたちが、それほど頭のしかけの簡単な男とも思えない、もっと深い思想がありはしなかったか、と私は思うのです。
 ペニーなどは大体弁証たくみなドイツ哲学風の表現にはなれないアメリカの単純明快な男たちです。内的には、実際いろいろ苦しんだとしても、表現は「ゴールデン・ルール実行」一本槍でアヤも味もない。しかし、「人にして欲しい程、人にしてやっていたら、こちらがつぶれてしまう」というような子供でも気づくような問題に、よもや気がつかぬ筈はあるまい。この手痛い矛盾にマトモにぶつかり、これを超えていく世界を彼らは掴んでいるのではあるまいか、と私には思えたのです。
 大体、信仰には「あれか、これか」とキェルケゴールの本の名前ではないが、二者選一の決断を迫る面と、「あれも、これも」と二者を許容して矛盾せぬ高い境地があります。イエスのお言葉にも、時と場所によりこの両面を使い分けられるので、上っ面の言葉通りイエスの言葉を読むと、その矛盾に困るのですね。
 だから、金銭に対して聖フランシスのような絶対的発想法を取ると、それはそれなりに生き生きとしてきます。一灯園流の無一物生活はそれです。その一灯園の天香さんが宣光社として、物を預かり、金を活かす道を考える時、そこに「あれも、これも」の世界が生じます。「あれも、これも」の方が「あれか、これか」より思想的にはむつかしく複雑で、しかも行動的にはサタンにつけ入れられやすく、また行動を綱領化しにくいものなのです。
 「あれか、これか」の世界に生きるとき、人は彼を聖者のごとく敬ってくれます。しかし「あれも、これも」の世界に生きると、人は彼を偽善者と呼んだり、二重人格と呼んだり怪物と呼んだりします。人のみでなく、彼自身も人に呼ばれるが如くではなかろうかと思い惑うくらいです。ペニーなども、そういう人物の一人ではなかったろうかと思います。これは私の買い被りでしょうか。
 商売とは、人を押しのけ突き飛ばし、人を傷つけたぶらかし、奪い取り盗み取りする事と、人々は心のすみっこの何処かでそう考えています。「何故あんたワイを倒すんやと言うたら、後の人がワイを倒すさかい仕方ないんじゃと言う、まるでショーギ倒しです。」と西田天香は言う。人を倒さねば自分が倒されるから人を倒すんだと言う、この言い逃れで多くの人はそこから先を考えないことにしています。いっそのこと、もうワイ一人倒されっぱなしで玉砕しようか、そういう人も出てきます。
 私も若いときはそう考えました。終戦直後、米の無い時、私は日本国民の中、誰かが飢えて死ぬのなら、私が一番に死のうと思いました。そう思って「有り米」残らずはたいて戦災孤児たちに食わせてしまったら、それから後は、戦災孤児たちが私を食わせてくれました。死ぬはずの私がこうして生きているのは、あの時の戦災孤児たちのおかげです。だから、そういう玉砕的大死一番の生き方は、宗教経験に入る良い突破口であります。けれど、それだけに終わるなら、一種の厳酷主義に陥ってしまい、しまいには頑固で冷たい人間になってしまいがちです。
 そういう厳酷主義から脱出して、金銭の世界を真理の光を以て照らして生きようとすると、どうしても巨視的人間にならざるを得ません。
 視野を少しせまくして、人の事や金のからくりのことをあまり考えず、私一人が(または私一家)生きていければいいとすれば、スピノザがレンズをみがき、パウロがテントづくりをしたようにすればよいかもしれません。今でも素朴な宗教家が職業観を語るとき、右のような手職や単純労働を考えて、カンタンに「職業は神聖なり」とやるけれど、現実の職業はもっと複雑に社会的にからみあっていて、原罪的罪悪の網の目より脱けられなくなっています。(例えば学校の先生が、PTAや組合や補習教育や文部省の圧迫を逃れてゆく余地は厳密にいうとどこにも無いということです。)
 このような思想的迷路より脱却する道が必ずある筈であります。それを発見せずんば、ソロバン片手の巨聖にはなれません。
 A兄、貴君が旅館を始められると聞き、非常に喜んでいます。貴君が巨いなるものに成長されるよう、主がかえりみられている事を信じます。そこで、嬉しくなり、私の商売観を書いている中に、まだ稿半ばなのに時間がありません。今朝五時十分、徹夜で書いてしまいました、続きはまた書きます。
 みなさんによろしく、ひとりひとり、顔を想い起こしつつ祈っています。 (一月十二日)

 
  第二信   信仰的企業の可能性

A 兄
 第二信を送ります。
 昨日は、お手紙もらって本当に嬉しかったのです。殊に、いよいよ旅館経営に関連して、老人ホーム等今後の夢を聞くことは、本当に嬉しかったのです。相変わらずの貴兄の特質、お世辞をいうようでイヤですが、少年のような夢、青年のような実行性、壮年のような企画性、老人のような老練さを伺い得て、我が事のように誇らしげに思ったからです。貴兄の生来の着想の良さと行動力(一種の猪突性)には、「卵」以来カブトをぬいでいます。「卵」とは、まだ療養後間もない身で、鶴崎方面から別府の旅館街へと卵の仲買人みたいな事をしていた事です。あの着想はその後チャンと企業化されて今では農協や幾つかの会社が活動していますからね。とまれこうして昔への回想が始まると、貴兄との交わりの歴史には万感無量のものがありますね。
 それはさておき、貴兄の事業の夢を共々に僕も見ているうちに、僕の最近考えている事業観、経営観を書いてみたくなったのです。平常バラバラに考えていることも、この際、運良くまとまってくれるかもしれないし、まとまらずともバラバラのままでも今の貴兄に何らかの面でも少しでも役立ちはしないかと思われますし、運良くどうにかまとまってくれればコピーを取って公開的なものにするかもしれません。その時はあしからずご了承ください。
 前便を書き始めて半分ほどになった時フトこれは面白い、コピー取ろうかなと思い始めたのですが、さてどうなりますか、この際、この第二信からが大事な処ですので、うまく行くも行かぬも今日のこれからの文章にかかっています。(つづく)
     
1968年発行「事業を活かす信仰」より連載中

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by hioka-wahaha | 2009-03-17 11:37 | 日岡だより

No.375 事業を活かす信仰 2 2009.3.8

事業を活かす信仰 2

 商売の世界に於ては、商人自身の卑下感が余りに深く、或いはまた偽りの商業聖職論みたいなものでお茶をにごしてきたから、今まではうまく行かなかったがこれからは違う。さきに述べたような事を悟れば、真理への道は甚だたやすい。百姓や鍛冶仕事以上に、修養しやすい場所が商売にはあるのだ。僕は信じる。宗教の世界に聖者がいるように、お茶の世界には茶聖が生れ得る。また実際生れ得たのだ。同じように剣の世界にも剣聖があり得る。それと同じように、商売の世界にも「商聖」が住み得る。単に「暴利をむさぼらず、適正な利得を得て、以て貯めた財産の大半を慈善事業にばらまく――」というような中途半端な善人になる事を指すのではない。もっと怪物級の巨人級の商聖が出ていいはずである。僕はそのような商聖を切に待つ。待つ以上に、僕自身がそういう商聖でありたいと思う。』
 この文章を書いたのは四、五年前の事でして、現在の私の考えはこの文章ほど激しくはないが、根本の思想はかわりません。
 現在の私は、右の文章より少々やわらかくなっていますけれど、それはどういう点かというと、「何がなんでももうけねばならぬ、まずもうけることが第一条件」―――そうまでは言わなくなったということです。それについては一つの転機がありました。昨年の十一月末の資金繰りの苦しさは、昨年の中では最もきつかった。イギリスのポンド引下げの影響でしょうか、私のような小さい処にも微妙にひびいてきて今まで楽に割れていた手形を銀行が急に突き戻してくるのです。それをまた銀行が不親切にも(そういう時には得てして周囲の事情が凡て不親切な姿を呈するものです)金の要る日の直前に言ってくるのですからね、こちらは逆上しそうです。その最中に、会員のT兄も金が百万円足りません、祈ってくださいと青い顔をしてくる。このT君のことは他で書くつもりですが、工場がつぶれるかどうかの瀬戸際を祈って勝ちぬいてきた祈りの勇者ですけれども、この勇者がこんな顔をしているようではタイヘン、これもまた我が問題だ、一緒にかかえ込んで祈りぬいてあげなければと、私も真剣でしたね。そういう中で、日曜集会をさせられるのですから、説教者もつらいです。死にかけた我が子を居間に放っておいて手術室に駆け込んで人の子の手術をしているような気分です。その翌日の朝、T兄がまず「何とか通過しました、これで我が方は月末は大丈夫。先生の方はいかがです、え、いかんですねエ。」てなことで、センセイ心細い限りです。しかし嬉しい事です。これでT君の方の一関門は通過、まずは負い目は果たせたという気分でしてね、さあこれからだ。それから私は半日、部屋に引き籠もって祈りつめました。私はその時、囲碁の坂田名人の文章を思い出しました。おぼろな記憶ですのでもう一度読みたいと本棚をさがしてみたら、講談社から出ている「勝つための条件」という新書版の本でした。坂田さんは名人戦のタイトルマッチで二勝ののち三連敗して、つぎの一局を失えば敗北というカド番に立たされます。三連敗のあとですので、気分はすっかりめいっていて、もう勝てるという気は全然しなかったそうです。そこで気も落ちつかず、かといって何かじっとしておれない。そこで、これまでろくに見もしなかった昔の偉い碁打ちの棋譜を開きました。そうです。坂田さんの文章をそのまま引用しましょう。
「本に書かれている事は、たいへん幼稚で、その昔、棋聖といわれた人でも、今の技術には及ばない。しかしよくみると、昔の人はどんな息のつまるような大勝負をしているときにも、実に正々堂々と戦っているということでした。奇策をもてあそんでいない。こせついた処がない。これだ!と私は思いました。こんど落とせば四連敗、じたばたしても始まらない。そうだ、勝敗はもう問題ではない。ただ正々堂々と自分の力いっぱいの碁が打てればそれでいい―――。そのとき私の心は不思議に澄みわたりました。」
 かくして坂田さんの堂々たる奇蹟の逆転劇が生れるわけです。それを読んでいるとき、私の心もまた不思議と澄みわたりました。
「よっしゃ来た。俺も正々堂々とやろう。やるだけの事は力の限りやろう。それで倒れればそれも本望である。それ以上の事はこの俺には出来ないのだから………神さま、見ていてください、力の限りやりますから。負けた時は骨を拾ってください。ただ恥ずかしい負け方は、させないでください。勝っても負けても男らしくやらせてください。」
 とつぶやきました。その時から私のうちに新しい力がわきました。何も奇蹟的に大金が降ったり湧いたりして私は助かったのではありません。その時より私の内に、私のものでない或る新鮮な力、時々刻々私の内より泉のようにふき出し、にじみ出してくる力、その力が生れてきて、私を行き詰まりの谷間より救い出してくれたのでありました。
 右のような経験が、「シャニムニもうけねばならぬ」という破壊的な程の四、五年前の私の言い方を少しやわらげさせてきたのですが、つまる処、本筋は同じですね。よく考えると、山岡静山の「道」、鉄舟の「勝敗利損にびくつくな」とみな同じことを衝いているようであります。
 内村鑑三の「商売成功の秘訣」という凡そあのヒゲの先生にふさわしからざる題名の文章に曰く「……即ち成功を度外視して商売に従事することであります。そうすれば成功するものならば真正に成功します。失敗するものなら立派に失敗します。成功必ずしも名誉ではありません。失敗必ずしも恥辱ではありません。」内村先生の職業観はまだ古い西欧流の聖召観みたいなものに立っていて社会科学的苦悩の洗礼をあびていないから、我々から見ると少々甘すぎて気にはなりますが、然し言葉としては、間違いのないところです。
 ルターは「労働は祈祷なり」という有名な言葉を吐きました。ルターが考えていた労働とは、たぶん畑を耕したり、鍛冶屋がトンテンカンするような事であったでしょう。商人が、品物を運んだり並べたりすることは労働と考えても、売掛金を落さないよう付き合わせしたり、利子計算したり、執達吏をさしむけたり、自ら借金の取り立てに行ったり、そんな事を「労働」の中に入れていたでしょうか。私だって、そういう商人らしい働きの中に「労働」という概念を無理にあてはめようとは思いません。しかし、そこに「祈祷」があり得る事は疑えません。
 昔、法然聖人に狩人や漁夫たちが信心と生活の矛盾を問いただしました。当時、狩人や漁夫たちは仏教の殺生戒をおかす罪ふかい職業であると訓えられていましたので。その時法然聖人は答えました。「念仏しつつ、狩をしなさい、漁をしなさい。凡て念仏申さるるが如く生きなさい。」これは何という日本の宗教家の智慧ある賢い答えでありましょう。
 だから、私はルターの口まねをして言いましょう。「商売も祈祷である」と。そして法然の口まねをして言いましょう「祈らるるが如く商売しなさい」と。
 戦前イギリスに好本督という人がいました。途中失明して盲人運動などにも力をつくしたクリスチャン実業家でした。この人が日本の支店の番頭の不始末か何かで、巨額の取り立て不能債権ができて破産の危機にひんした事があります。その時、好本氏は日本に帰って何年かがかりでその債権を一銭のこらず回収した事があります。
 その時の好本氏の戦法はただ祈りと誠意でした。法律的にはもう払わなくてもいいかに見えるあやふやな債権かもしれない。しかし先方に良心があるなら、いつかは払ってくれる筈の債権である。私は今、ただ単に金を払ってくれと念ずるものではない。先方にまず良心の目ざめがおこり、人間が革命されよと祈る。いつかは彼が人間としての真正の心にもどるであろう。その時、おのずから債権も払われる事であろう。それが何よりも彼の為にも最善の事なのである、このような確信のもとに、祈りと伝道をたゆまず続けたそうである。こういう借金取りにはさすがに名うての「借り倒し屋」も降参したという事である。この熱心な道徳的確信、これが実業家好本氏を立たしめたのです。見習うべきものであると思います。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-03-10 12:45 | 日岡だより

No.374 事業を活かす信仰 1 2009.3.1

事業を活かす信仰 1

 日常のあくどい生活から遊離せず、この生活に密着して、この生活を聖化し栄化する信仰はないか。特に商売とか事業といわれる切ない金の世界が、信仰に於て、いかにして可能であるか。また、そのような強力なる信仰のその特質――そういったものにつき、A君という信仰の友に書き送った手紙のコピーである。
   昭和四三年一月十五日 夜    くぎみや



  第一信   商聖待望論

A 兄
 お手紙ありがとう。ご一家のみなさんお元気ですか。早いものでこの前お会いしてからもう七年になります。あの年に私は今の印刷稼業を始めまして既に七年たってしまいました。本格的に自分の事業と思って活動し始めてからも、もう三年たちました。最近になって事業をすることのコツが少しはわかりかけてきたように思います。借金に借金を重ねて、やりつけない事をやるのですからタイヘンですが、これが目下の使命と思い、ヤケにもならず、くたびれもせずやって来ました。
 「使命」というのはこうです。私の生涯の使命は伝道であると思っていますけれど、私は同じ伝道者でも商売の事が分る伝道者になりたい。日本の多くの牧師さん方は、自分が教会から月給をもらっているサラリーマン牧師でありますから、サラリーマンの気持はよく分ります。サラリーマンの家庭の指導はうまいし牧師夫人もまたサラリーマンの奥さん方の家計のやりくりの話なら見当がつくのです。しかももし信者さんが事業を始めたりすると、その人生経験がないから話し相手にされない。その月暮らしの月給取り根性では、その月の家計費が足りないという苦労話は分っても、月末の手形五百万円が落とせずに困っていて、おつきあいの新聞広告に三万円も払っているというような事は理解できないのです。何故あんなにお金があるのに(タマに訪問してみると一万円の札束を数えていたりしますからね)献金を沢山してくれないんだろうと心でつぶやくようなことになるのです。
 サラリーマン牧師では、どうしてもスケールが小さくなります。本来牧師には大商人のような、大事業家のような素養がいるのです。そういう素養づけの学校としては、今の商売はとてもありがたいのです。
 いつか書いたことですが、私は今、「信仰」と「事業」を二元的に分けて考えられないのです。倉田百三がかつて「生活と一枚の宗教」と言ったことがありますが、そういうことです。信仰と一枚の事業というのは、讃美歌を唱って朝礼をし正直一途に神様に叱られないような模範的事業をやり、もうけは社会の為に寄付していますというような、そんな形式的優等生型の事業を言っているのではないのです。金が一円もないような処から事業を始めた場合、そのような優等生型のようなことは言っておれないでしょう。虚々実々、剣ヶ峰に足をかけるような危ない処を通るでしょう。そのさなかにもチャンと生きているような信仰でないといけない。
 私が事業を営むに当って、最も感銘を受けたキリスト教の先輩は、本間俊平であります。この人の伝記が出ていますので、是非お読みください(福音館書店刊「本間俊平の生涯」)。これを読むとき、キリスト信仰を以て熱烈な事業―――それは秋吉台で大理石を掘るという山師的な側面を持つこの世の仕事です―――を営む明治の一クリスチャンの英姿がまざまざとまぶたに浮かびます。本間俊平は、大正より昭和にかけて何冊かの本を実業之日本社より出版して日本の大小の実業家たちにその思うところを訴えましたが、それらは忽ち当時のベストセラーになってしまいました。それらの本には世間を知らぬ牧師、神学者らの冷たい文章と違って、この世のつらさ、きびしさ、金のみにくさ、金の不思議な力を血と汗と涙で学びとった者のみが持ち得るアッピールがあったからでしょう。
 本間俊平という人は非常にユーモアのあった人で、面白い説教がいくらでもある。私が今でも覚えているのは
「諸君、道というものは大事なものです。道を外しては事業はやっていけない。しかるに多くの人はそりゃ反対だという。道という字は首が坂道にさしかかって苦しんでいる字である。道なんぞ大切にしていると首がまわらなくなってしまうという。そういう根性では本当の大事業人にはなれません。」
 よくこういうシャレをいって気焔を上げたものです。道といえば、山岡静山という人が言った。「人間の行為は道によってすると勇気が出てくる。しかし、少しでも策をめぐらすと、いつの間にか気ぬけするものである」と。この静山という人は山岡鉄舟の養父であります。この鉄舟の実話がまたおもしろい。
 鉄舟が剣禅一如の極所を得るに至った手がかりは、ある商人の言葉にあります。その商人(平沼専蔵という男ですが)の話すには「はじめの中は、物価下落のうわさを聞いてはあわてて売り急いで大損、その次にはどんどん相場が上がってきて、もっと高く売ろう、もっと高く売ろうと手控えているうちに結局大損してしまう、そんなことをしているうちに、私はハタと商法の気合というものを会得したように思われました。これから大きな商売をしようとするには、勝敗利損にびくついていてはだめだと思いましたよ。」この最後の言葉にガク然とした鉄舟はそれより座り続けて六日目ついに入悟して無刀流の極意を開いたのだということです。そうだ剣禅一如というが、商人にも商禅一如というべき境地があるに違いない、そんな事をこの実話は考えこませてくれましたね。
 私がある雑誌に「ソロバン片手の巨聖出でよ」と書いたのもそういう気持からでした。
 引用すると、『商売の世界にふみこんでみて感じるのだ。「士農工商」などと言っていやしめられた封建時代からの商人への不信感・不潔感は戦前派の僕らには今でも若干無きにしも非ずだ。そして、実際に複雑怪奇な商売の現実の中に生きてみると、いやらしくてたまらぬような事も多分に見聞きする。そのような中で、僕自身もまた結構かけ引き術策を弄しているというような始末―――。しかし、商人が偉そうに口をきく為には、「商売は社会流通機関の重要な存在として正当なる職業であり、商人は社会の公器である――云々」というような似而非商人道を奉じなくてはならぬというようなことはない。しばしば商人は、商売が人をだますタヌキかキツネ流の悪どい稼業と心得てその為に潜在的コンプレックスに陥り、却ってその故に反動的な見せかけの正当化、口先だけの義認化に浮身をやつす事がある。そういう子供らしいごまかし作戦はやめよう。(ごまかしというのは人をごまかしているというのでなくて、まず自分の心に対して偽っているのである。)
 商人はまずもうけるべし。宮本武蔵が如何に人物ができていても、剣術に弱ければ話にならぬ。まず剣術に強い事が剣道の達人となる第一条件である。商売の達人もまた第一に金もうけの名人であるべし。金もうけを恥じてはならない。また、金もうけにまつわる一種の臭気にへこたれてはならない。人間の(人も我も含めて)欲心のむきだしの裸になれて、僕らは実に真理を求めるには好都合な道場をそこに発見できるのだ。
 剣道はもともと、刀剣で人を斬り殺す「人斬り稼業」の連中がその無残な目標にかかわらず(いや却ってその非情冷酷の世界の故にか)、生命がけの真剣白刃の下でぬきさしならぬ求道の末に到達したものである。人を殺すのはいい事か悪い事かなどという倫理学上の問題は生命がけの白刃の下では吹っ飛んでしまう。そして彼の魂は一挙に「善悪・生死」の彼岸へ求道の道を天がけるわけである。
 最近、僕はひしひしと感じる。悪とか罪とか(いわれるような)の世界こそ、求道の場でありやすいものらしい。不思議に貴族づらした高級社会では容易に近づき得ない「真理」への近道がそこにひらけているような気がする。(つづく)

 *これは40年前に書いた小冊子「事業を活かす信仰」です。私の零細企業体験記みたいなもの、連載します。ご愛読ください。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-03-10 12:41 | 日岡だより