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No.369 「愛」という言葉について 2009.1.25

「愛」という言葉について

 去る1月22日の新聞紙上で、NHKの大河ドラマ「天地人」の主人公の直江兼続が持っていたというかぶと(胄)の写真が載っていた。そのかぶとの正面に「愛」という一字が大きく堂々と掲げられているのを発見して驚いた。
 これまで私は、「愛」という言葉は古い日本では不毛の言葉ではなかったかと思っていた。西郷さんの「敬天愛人」の愛という文字はともかく例外で、これは西郷さんが長崎あたりで中国の文献から真似してきたのだろうか、ともかく滅多にない日本における「愛」という言葉の使用例だと思っていた。この西郷さんの言葉以外には、「愛」という言葉は古い日本では発見できないようだと私は考えていたのである。

 ところが、冒頭にふれた直江兼続のかぶとの正面には、「愛」という文字が堂々と胸を張って構えている。私は驚いた。案外、古くから日本には「愛」という言葉や文字は使われていたんだなと、考えざるを得なくなった。新しい発見である。
 明治時代の伝道会などで宣教師が「皆さん、愛し合いましょうね」などというと、若い女の子たちが身をよじるようにして、恥かしげにクスクス声を落して笑ったという記事を読んだことがある。愛するという言葉は、公衆の真中で口外されると恥ずかしいという性的な印象があったということであろう。
 しかし、意外にも「愛」という言葉は過去の日本では案外使い慣らされていたのかも知れない、という感じを私は抱いたのである。ともかくこの直江兼続のかぶとを見た時、大きく感動した。
 そのかぶとでは、上に乗っかった「愛」という文字が、かぶとの全体の半分をしめる大きさで、周囲を圧して悠々たる存在ぶりなのである。
 この直江兼続のかぶとは、「天地人」のドラマの中で当然幾度となく出ているかもしれないが、私は今日、新聞のおかげで、初めてこのことを知った。
 「愛」という文字、武人の戦闘用のかぶとの正面に大きく掲げる文字としては似つかわしいとは思えないのだが、それを敢えて掲げる所に、この武人の真骨頂があるような気もする。それはそうとして、私たちクリスチャンの救の「かぶと」(エペソ5:17、6:17)にこそ、この言葉はもってこいの紋章だと思ったことである。

 私の狭い知識では、四百年前のキリシタン文書では「愛」という言葉は出なくて、もっと柔らかい大和言葉で表現されていたように思う。「愛」という漢語の言葉は堅苦しくて、当時のキリシタンの人々には使いにくかったのかも知れない。
 同様に現代の日本人クリスチャンにしても、「互いに愛し合いましょう」なんて言おうたって、どうも日常語でないし、なんとも扱いにくい言葉ではないかしら。「あなたを愛しています」というせりふは恋愛小説やテレビドラマでこそ良けれ、日常語では扱いにくい。
 私は今、妻が病床に寝ていて、彼女、理性もやや澱んでいる感じなので、枕元に行って、「トミさん、愛しているよ。いっぱい、いっぱい愛しているよ」などとややおどけ気味に話しかけているが、病気だからこそのことで、まともの時にはこうは言えまい。
 ともあれ、病床でなくても、こうして話しかけてあげると妻はニコッと笑みを見せるだろうな。みなさんもいかなる愛妻にでも、アメリカ映画みたいに面と向かって「あなたを愛しています」と言える人は少ないでしょう。このシャイな日本人でも、あっさり「愛しているよ」と言えるようになるためには、相当の地馴らしがいるような気がします。
 それはともかくとして、私は長い間、西郷隆盛が「敬天愛人」と残した言葉を見て、あの西郷ドンの脳裏に、どうして「愛」などという異国調の言葉が入りこんでいたのかと、不思議に思っていたが、案外日本人も昔から「愛」の一字を知っていたのかと、今回、新知識を得た感に堪えなかった。みなさん、堂々と「愛」の一語を使いましょう。《く》


広瀬画伯の個展を見る

 今、広瀬通秀画伯の個展が大分市上野にある大分市美術館で開かれている。(1月29日まで)。
 私は広瀬さん(と呼ばせてください)とは大分県立聾学校でしばらく同僚だった時、親しくして頂いた。その後、私は退職し、広瀬さんは緑が丘高校へ転任、そして大分芸術短大に行かれたのだと思う。
 先生が聾学校に来られたのは、他校に席が無かったので、とにかく広瀬さんという優秀な人材を大分県に残しておきたい。そこで一応、聾学校に行っておいて頂こうか。という大分県教育委員会の窮余の一策であったかもしれない。

 さて、今やっている先生の個展のことです。凄いです。先生がかねてから聖フランシスコに興味を持っているらしい事は分かっていた。しばしばフランシスコゆかりのイタリアのアシジにも行かれていたようだし、なぜだろうなあ? などと不思議に思い、また興味を持っていた。しかし今回、先生の個展をみて分かった。私は驚いた。先生の聖フランシスコ傾倒は本物である。
 フランシスコが情熱をもって、キリストの足跡を進もうとされている。その足跡を先生は同じような熱意をもって追っておられる。あの絵はその情熱が燃え上がっていて、私の心をも燃やすのです。
 今回の先生の個展で拝見する作品の一つ一つ、鬼気せまる感じです。エネルギーが画上にたぎっているのです。

 人物が体を前に倒して駈けている画面、あの構図は先生の描きつづける姿勢そのものを描いているように思えました。先生の生きる姿そのもの、それが絵になっている。それを、私は見ているだけで、先生の勢いに押されて息苦しくなるほどでした。全力疾走するランナーのごとし。
 これは単なる絵ではない、先生そのものだと私は受けとめざるをえなかった。その激しい息づかいが画上の聖フランシスコを通してもたらされる時、私はそこに先生のキリスト教的求道心の激しさを感じたのです。どのクリスチャンよりも、先生は真理を求めている。キリストや聖フランシスの画像を通して回心を求めている。その真摯な息遣いが私の胸に迫ってくるのである。
 生やさしい一般のクリスチャンの求道心などに比べものにならない気迫でキリストの心、フランシスコの心を求めている。そのエネルギーが画面を通して私の胸に痛いほど迫ってくる。
「先生、もうあなたはクリスチャンですよ」、と言いたくなったほどです。先生にジカに会いたいなあ、と切実に思ったことです。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-01-27 10:53 | 日岡だより

No.368 頂いた誕生日祝詞に感謝! 2009.1.18

頂いた誕生日祝詞に感謝!

 先生がたはじめ皆様から、私の誕生日のための御祝詞を頂きました。感謝します。特に永井明先生からは素晴らしいご祝詞をいただき、私の心は打ち震えました。左記のとおりです。紙面に公表しますこと、永井先生、お許し下さい。
           *
 ハレルヤ!
 初めであり、終わりである
 創造主の尊い御名によって
 八十七歳のお誕生日を
 心からお祝い申します。
 モーセは荒野において、現役のバリバリでした。
 戦う勇士でした。
 米寿→卒寿→白寿→百二十歳を目ざして下さい。
 そうしたら、ヨシュアのような後継者が起こされ
 ると信じます!
 そうしたら文句なく「ワハハワハハ」の世界が大
 きく開かれます。
 ここまで書いたとき、「行進」の音が
 聞こえたように感じました。
  二〇〇九年一月十四日
           *
 まさに祝詞というより祝詩でした。永井先生は本当に詩人だなあと思いました。
 私の心に岩に彫り込まれた不朽の文字のように打ち込まれました。
 先に書きましたように私の心は激しく震えました。記念という、その言葉のとおりに、私の心の碑に永久に記念され残されるに違いないと、深く思わずにおられませんでした。
  二〇〇九年一月十五日      釘宮義人


「行進」の音が聞こえる

              〔前文に引き続き〕
 私にも「行進」の音が聞こえるように思いました。私のような昔の人間には、行進とは軍隊のそれだと、瞬間に脳裏に浮かびます。永井先生がお聞きになったとおっしゃる、その行進の音も多分昔の歩兵部隊の行進の堂々たる足音でなかったでしょうか。
 そうです。軍隊も軍隊、天使たちの群れ、即ち天使軍のはずですよ。
 永井先生が私の誕生祝歌のこうした士気高き詩をお寄せ下さって、私は感動の涙で胸が一杯です。そして青年のように燃えています。
 昨年は私は「引退」と「後継者」とかいう言葉をよく、この「日岡だより」に載せましたので、先生も「クギミヤ先生、焼きが廻ったかな」と案ぜられたのかも知れません。
 もう言いません。書きません。いつ引退するかなとか、後継者が決まらんと安眠できないとか、そういう事は、今後けっして言いませんし、書きもしませんと、誓います。
 永井先生がお書きになっていましたが、モーセは120歳で死んで、後はヨシュアにゆずりました。
 現代医学でも、人間の寿命は120歳というのが定説のようです。そうすると、私はまだまだ33年生きることになります。アーメン! ハレルヤ!ハレルヤ! 《く》


打ち破ったぞ!リバイバル祈祷会

 先週の12日に行われた「打ち破れ! リバイバル祈祷会」の凄さ、これには又、驚きましたね。もともと、今回の祈祷会は「打ち破れ!」がスローガンでしたが。
 「打ち破れ!」には3つの段階があると考えました。つまり、1、個人の打ち破り。2、家庭の打ち破り。3、教会の打ち破り、です。
 元々、今回の祈祷会の企画は、どちらが言い出しっぺか、知らないけれど、橋本先生と、永野先生です。そして、お2人は当然のように私も企画に乗ってくれるだろうと決めていたようですし、そしてその会場には当教会が丁度良いというわけです。勿論、私は一言のもとに「OK、やりましょう。」これで決まったんです。
 実は申し訳なかったのは、私は同日に手束先生の高砂教会における「高砂アシュラム」に出席予定でしたし、既に常任講師としてメッセージも予定されていて案内状にも刷り込まれていました。これを今さらお断りするというのは、「言語同断」、それこそ手束先生に叱られるよと、後で気がついたのですが、後の祭です。
 しかし今さら、「先約がありましてねえ」とは、橋本先生や永野先生に到底言えません。本当に困りました。高砂アシュラムの方には全く申し訳ないけれど、私が居なくても、なんとか代役の先生をあてれば出来ないことはないだろうと、私は憶測した。
 しかし、大分のこの両先生の言われる祈祷会は私が居ないと、どうにもやりにくいだろうとは、当然推察できる。遂に私は、当教会でこの祈祷会をすることに決め、高砂アシュラムの約束をお断りすることに決めてしまったのです。
           *
 さて、その当教会におけるリバイバル待望祈祷会ですが、凄かったです。それぞれ3講師のメッセージも良かったです、私を含めて(エヘン)。ともかく、祈祷会そのものが抜群でした。
 橋本、永野先生は暴力的とまで言いたいほどに意気込んで、会衆を一人、一人、祈祷に押し込んでいる。そして皆さんは、ぶっ倒れ、祈らされるのです。橋本先生も、永野先生も、大胆不敵、掛け声をかけるようにして一人一人押し倒していたが、私もその状況に巻き込まれていました。
 私は20年前には、よくベニー・ヒン流の後倒しはよくやったものだが、私のはゆっくり、じっくり、柔らかーに、聖霊様に委ねて倒れて貰うのだった。
 ところが、両先生の祈祷打倒法は、圧倒的である。私は遠慮して両先生のやることは充分拝見させて頂き、そして倒れている信徒の皆さんのそばに行って按手祈祷をしてさしあげたことです。
 驚天動地の両先生の祈祷で倒れた信徒諸君が、魚市場に一斉にマグロが横たわっているような光景になっている有様は、正に天下の大饗宴である。証しを求めれば病気の癒された人も多かっただろうと思う。
 何と言っても、会場が当教会であるから、大会場で行われるチョウヨンギ先生や、ベニーヒン先生の聖会とは規模において比較にならないけれど、その演じられるミニストリーの現場は本当に強烈だったし、仰天した。
 何よりも私が最も驚嘆したのは、橋本先生、永野先生の、事前には些かも予想できなかった、霊的変貌である。圧倒する霊的パワーの強烈さには、私は傍観していただけだが、脱帽するばかりであった。《く》

〔あとがき〕
これまでは、東京や大阪の大きい教会や会場に行って、高名な先生がたの大技を拝見して感嘆してきたのであったが、そういう大聖会の模様を一地方の小さな教会で、地方の小教会(失礼!)の先生がたにより、こうした端倪すべからざる聖会の様子に接することが出来るとは何たる恵みであろう。
 いよいよ、日本でも地方の小さな2、3の教会が協力して、その地元の牧師たちだけで、驚くべき聖会が行われ得るという事、新しい聖霊様の働かれる時代が来つつあるという事、一新紀元を為し得た喜びに身震いがするような気持ちを味わったのである。今回は私は傍観するだけであったと言えるが、見ているだけでも、充分に与えられたものは大きかったと、改めてここに証ししたいのです。主に感謝!《く》
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by hioka-wahaha | 2009-01-20 19:02 | 日岡だより

No.367 神様のそばのきれいな川で 2009.1.11

神様のそばのきれいな川で

 ハレルヤ! 「新年おめでとうございます」。
 前号にも書きましたが、もう一度書きたいのです。
 「新年おめでとうございます」。

 さて、聖歌687番ご存じでしょうか。時々子どもたちが、「たん たん たぬきの」と、少々下品な替え歌で歌っていますが、本来は賛美歌です。
 私は子どもの頃、別府の旧日基の不老町教会の日曜学校に通っていましたが、お勉強が終わって最後に私たちが下校して家に帰る時、先生がこの曲をオルガンで鳴らして送ってくれたものです。
 ですから私は、これは「さようなら、神様が守って下さるよ」というような賛美歌の曲かと思っていましたが。

 かつて私は大分の聾学校に勤めていましたが、放課後先生がたと歓談していた時、急にピアノを弾いてくれと言い出す先生がたに促されて、高木という先生が「じゃあ、ミミミレミファを弾こうか」と言ってこの曲を弾き出したのです。
 私は「あっ、これだったのか」と驚いたものです。私はこの曲の名をミミミレミファと覚えてしまいました。
 今もこの曲を歌ったりすると、別府の不老町教会、そしてこの高木先生を思い出すのです。
 「神様のそばのきれいな、きれいな川で、
  みんなで集まる日の、ああ懐かしや。」
 という歌ですが、天国の命の水の流れのほとりに集まって、一緒に命の水を飲める喜び、その歓喜! 胸が高鳴る賛美です。《く》


ハイッと答える訓練

 元徳川将軍家につながる由緒ある家系のお姫さんが貧乏牧師のところにお嫁に行きました。小原鈴子さんといいます。大正年間のことです。貧乏そのものの中で立派にお子さんを育てあげました。ある人がその秘訣をたずねると、その秘訣の一つをこう語ったそうであります。
 「子どもがまだホンの赤ん坊のときから名前を呼ばれたらこちらを向くように、そして言葉が言えるようになったら顔を向けてハイッと答えるように教えましたねぇ。ほかの何ごとをほうっておいても、その応答ができるまでは一所懸命祈りながら待ったものです」
 最近ある講演家が言っていました、「ハイッ」と答える人には自己抑制の力があるのだと。私は「あッ」と気がつきました。前述の小原鈴子さんの言葉を思い出しました。人の言葉に対して顔を向けて「ハイッ」と答える人は、自分のことは後まわしにして人の言うことを聞こうとする、自分を押える心構えができているのです。そしてそういう人には「ハイ、何をしましょうか」という身構え、始動力さえできています。始動力のある人とはつまり腰の軽い人、すぐ行動する人、奉仕の人、頼りがいのある人であります。
 人間関係を造る第一は挨拶であります。朝晩いつでも明朗でハキハキ挨拶をする人、そういう人は必ず明るい人であります。そしてその逆も、また真なり。明るく挨拶するように努めている人はだんだん明るい人になっていくのです。挨拶は相手の感情をなごやかにし人間関係をうるおすというだけではありません、自分自身を造り替える力があるのです。挨拶は不思議に自分を変えます。
 ところで「ハイッ」は、それらの挨拶語の一つなのですが、案外人々に気付かれない特に大切なコトバであります。簡単明瞭でハキハキしているんです。自他を肯定する積極的で行動的なコトバです。このコトバを多用すると、必ず明るい積極人間になります。しかもご両親がたに対しては従順なお子さんになります。
 みなさん、一家そろって挨拶と「ハイッ」をくりかえし実行しましょう。行動をくりかえすと習慣になります。そして習慣こそ性格なのです。明るい挨拶ができ、何でもハイッと返事する家庭、そういうご家庭は全員そろって明るいテキパキした一家になることでしょう。そしてお子さんは必ず「お宅のお子さんは良い性格のお子さんですね」と評判されるようになるでしょう。
 人間の性格は3歳までにきまるとは言いますが、いいえ大きくなっても悲観することはありません。大人になったってそうです。明るい挨拶と顔を向けて「ハイッ」と答える習慣をつけましょう。性格は変ります。《く》


ハイッと答えた人たち

 聖書には神様やイエス様の言葉にすぐ「ハイッ」と答えた人が多数出て来ます。
 アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った、とあります。この文面の勢いから察すると、アブラハムは考える暇もなく、即座に立って出発した感じです。
 ペテロは漁師でしたが、網を打っている最中にイエス様から「わたしについてきなさい」とのお声を聞きました。ペテロは即刻、その網を捨てて、イエス様に従った。
 聖書には書いてありませんが、漁師は波と風に鍛えられて声は大きい、その大きな声で「ハイッ」と答えて、いそいそとイエス様にくっついて行ったことでしょう。
 旧約聖書のノアはどうでしょう。神様はいきなり山の上に帆柱もカイもつけない、大きな箱のような舟を造りなさい、と言われる。ノアの全財産を使い果たすかもしれないような大事業、しかも馬鹿げた、人の物笑いになりそうな計画、「私には出来ません」と辞退しても不思議ではない神様からのお言葉、しかしノアは一言の不審そうな異議も口にせず、「ハイ」とOKしたのです。
 すべての聖徒たちが、そうであったとは言いません。マリヤでさえ、さすがに天使の「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」という言葉には「どうして、そんな事があり得ましょうか」と反問しました。それでも天使の二言目には「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」とお受けしました。少々の疑問があっても、最後には御言の霊的威力の前にひれ伏すという感じです。
「ハイ、御言をお受けします。御言に従います」。こう言って御言に従うのです。
 ここで、大事なことを言い添えます。聖書の御言に、あなたの理性でもって無理矢理に従わせようとするのではないのです。神様からの直接の御言があなたの霊に響くとき、あなたは突然従順な魂になります。神様の聖霊が直接あなたの魂に語りかけるとき、奇蹟が起こります。あなたの魂は従順に御言に従わざるを得ません。
 イエス様が波の上を歩いて向こうへ行かれるドーデーの絵を逆にしてイエス様がこちらに向かって来てくださる。私はあわてて、これは絵です。絵です。本当のイエス様じゃありません、と手を振って否定しても、そのイエス様が私の胸のあたりを目指してやってこられる。そして遂に私の心に入り込んでくださったのです。そして一夜たっても、主は私から去っていませんでした。私は御言をその場で悟りました。「我れ更に汝を去らず、汝を捨てじ」(ヘブル13:5文語訳)と。こうして、即座に御言を思い出す力も神様の御愛によるのですね。《く》

〔あとがき〕
「ハイ」という用語のことですが、ある人の説によると、これは平安朝時代に漢字の「拝」から転用され、そして次第に慣用されたもののようだということです。ちなみにこの文章は、1984年7月に発行した「信仰手帖」という小冊子に載せたものです。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-01-14 22:22 | 日岡だより

No.366 2009年のご祝福を祈ります 2009.1.4

2009年のご祝福を祈ります

 新年おめでとうございます。昨年末は、私は忙しくて、というより段々老いこんできたせいか、仕事がはかどらなくて、主観的に「忙しい。忙しい」と言っているだけでしょうね。よそ目には多分、何もせずに食卓にくっついていて、ボンヤリとしているだけのことだったかも知れません。
 年賀状を沢山頂きましたが、私は年賀状を一通も書かなかった。改めて、お詫びして、「新年おめでとうございます」を紙上で申しあげる次第です。
   2009年1月1日
                釘 宮 義 人


主が希望を与えて下さる

 昨年の暮れ、越年祈祷会の席で、ひざまずいて祈って居る時、神様は私に「希望を持て、私はあなたに希望を与える」とお言葉を下さいました。
 なるほど、その時、私は憂欝の霊に捉われていて、希望など論外でした。平素の私でしたら「ワッハッハハハ」と笑い飛ばしてやるところ、それが私の秘訣のはずでした。そうすれば良かったのに……。
 ですから、その越年祈祷会で皆さんが祈っている時、その祈りの声が「ワァーッ」と熱する一歩手前、まだ少し静かな前哨戦の時、私もちょっと遠慮して、ひたすら静かな声で祈っていたんです。
 それはそれで良いのですが、どうも明るくなりません。その時、神様が私に「希望を持て、私はあなたに希望を与える」と語られたように思えたのです。
 それは、ちょうど越年祈祷会の席でしたから、私にはまず「来たるべき来年に対して希望を持て」、というように聞こえたのです。そして、
 「今夜の越年祈祷会の席では、お前さんは希望を語れよ。私は今夜の祈祷会のさなかで、あなたに希望を与える。来年のことじゃない。この祈祷会において、私はあなたに希望を与える」
 私は頭を床にくっつけて、神様の下さる希望を待ち望んだことです。
           *
 この時、私はヘンリー・グルーバー師を思い出しました。昨年の10月19日の夜の礼拝です。ヘンリー・グルーバー師を迎えての聖会でした。
 グルーバー師は歩行祈祷の提唱者として、また個人預言の賜物をお持ちの方として承知していましたから、その両方に期待がありました。
 事実、歩行祈祷については、翌日、私は先生にご一緒して頂き、またコースは同行の橋本先生に従って、九六位山に向かったのでした。
 九六位山という山については私は名前は知っていましたが、この山のことを語る人たちが何か思わせぶりに話すような感じを以前から持っていましたが、行ってみてその理由が分かりました。
 この山には、大分市一帯を支配しようとする意図を持っている霊的存在者が「鎮座」しているということでした。私がそのことを感じたというよりも、あの山の頂上にはっきりそのような掲示文もあったのです。鎮座しているというよりは、「俺はこの山を所有しているんだ、この山は俺のものだ」というような文面でした。そこで私は、これは悪霊の山だぞ、という印象を受けたのです。
 その時、私は即座に、この山の支配霊に対して退去を命じる祈りをしたことですが、こうした霊は、一度は出て行っても性懲り無く帰ってくるのが普通ですから、今後、真剣に、繰り返し、追い出しのミニストリーを重ねるべきだと思ったことです。このことはイエス様も教えて下さっています(マタイ12:43、44参照)
 日本伝道の難しさはこの悪霊充満の日本列島の特異さにあります。怖がる必要はありませんが、この知識をしっかり持って、霊的確信をもって対処する必要があります。問題は日本の多くのキリスト教会が、悪霊の存在について鈍感であることにあります。日本キリスト教界を啓蒙しなくてはなりません。
 私はあの九六位山の頂上から大分市を見渡し、また別府湾を見下ろして別府や日出、杵築の辺りを望みつつ祈った痛切な思いを忘れることはできません。環別府湾の都市と町や村々を救いたまえと主に祈った時、確かに主は小さな私の存在を顧み、祈りを聞いて下さったという確信、そこに大きな期待、希望が湧いたのでした。
 この1月12日に、市内一、二の教会が、当教会に集まって下さって合同聖会を持とうという話が急に持ち上がり、早速実現することになりました。
 実は、手束先生の高砂教会でのアシュラム聖会が、その12日に持たれるという日程が直前に分かったので、私も困ったのですが、橋本先生、永野先生と私の3人で小型の高砂アシュラムが大分でも出来るのだということで、これは喜ぶべき事じゃないかとやや無理な確信ながら、その確信に立って、この日程を了承したのでした。実はこの案がもたらされた時は、私は大きな声で、「賛成、賛成、やりましょう」と答えましたが、その後で高砂アシュラムの日程と重なることに気がついて、少々あわてました。
 高砂教会には事務室のスタッフにこの事を伝えて、手束先生によろしく伝えてください、と頼みました。手束先生に直接電話で申しあげるのは気が引けて、懇切(?)な手紙を書いたことです、呵々。手束先生、ご勘弁と、祈るばかりです。
           *
 さて、前述のヘンリー・グルーバー師による聖会において、私は大きな恩恵を受けました。グルーバー師より個人預言を受けましたが、その中で特に「この教会には、今後若い人たちが増える」という大事な預言がありました。
 元々、私が先生の預言に期待していたのは、私の牧師職について後継者の導きを聞きたかったのです。そして、私の意図としては、すぐにも今、私が引退したとしても、直ちに「待ってました」とばかり、あとを引き継いでくれるような人物を示してくれることでした。今、私の目に届く信徒諸君の中から、私の後継者が現れるんじゃないかという、私の期待に対して答えてくれる預言を待っていたのです。
 ところが先生の口から出てきた預言は、「この教会には、今後若い人たちが増える。その若者の中に汝の後継者がいるよ」という言葉でした。
 「若者が……?」
 私は一時、キョトンとする感じでしたが、次第に分かって来ました。私の後継者期待感は近視眼的でした。主のお考えは、天が地よりも高いように、将来を語っていました。私には何も分からなくてよい、一切、主に委ねなさい。すべては主がご存じである。ということです。私がまだ見ることも出来ない若者が将来出てきて、私の後継者となる可能性すらあります。ともあれ、私は主のなさることを期待するのみです。

〔消息〕
去る12月29日、永井明先生が、韓国からの黄錫千(ファンソクチョン)牧師先生をお連れして来訪、別府温泉などご案内し、また砂湯などを楽しまれて、翌日宮崎方面に立って行かれました。私も又、特に黄(ファン)先生の今回の旅のご平安をお祈りしたことです。先生は今は福岡市に定住されて宣教のミニストリーにしたがって居られます。《く》

〔図書紹介〕
「わたしが示す地へ」、レオ&フィリス・ケイラー夫妻の著作です。
 先生ご夫妻がアメリカから日本にお出でになって、大牟田の教会の応援をなさってから50年、現在はご子息のロバート・ケイラー先生が牧会なさる有明バイブル・チャーチで福音のお務めをされています。
 長身で、口を大きく開けて、魅力ある堪能な日本語で証しなさる。日本人牧師仲間でも人気一杯の先生の日本宣教の裏表、面白いと言えば、語弊がありますが、日本人の魂を愛して、今日までうまずたゆまず、ご苦労なさって来て下さった先生ご夫妻のいつわらざる物語です。興味深々、涙と笑いの50年、お読みになって下さい。《く》
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by hioka-wahaha | 2009-01-06 16:05 | 日岡だより