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No.365 2008年は行く 2008.12.28

2008年は行く

 今年は西暦2008年でした。西暦とは西洋の暦という意味ですが、西欧ではADと書いてキリスト以後を差します。「AD2008」というように。ADは Anno Domini (アンノ・ドミネ)の略語ですが、イエス様のお誕生から、2008年たっているという意味です。イエス様のお誕生は本当はBC7年だとか、8年だとかという説がありますが、とにかくイエス様のお誕生の年を第一年として暦年をきめているのです。(だから私の習慣としては、西暦とは書かないで聖暦と書きます)。
 ちなみに「紀元前」をあらわす記号BCは、Before Christ(キリスト以前)の略語です。中学校で西洋歴史を教わる頃からこの表記法を学びますね。
 ともあれ、この12月31日で、2008年は去ります。「二度と帰らぬ月日の流れ」です。
           *
 「月日の流れ」、これは時間ですねえ。時間というものを真剣に考えると、誰でも哲学者になるように思います。
 私は少年時代にアウグスチヌスの懺悔録を読もうとしたら、いきなり時間論が始まりますから面くらいました。とうてい歯が立たないとあって、読むのを諦めたことがあります。
 ともかく時間というものは神秘です。このアウグスチヌス先生だったか、こう言っています。神は時間の中で万物を造られたのか、それとも時間をもお造りになったのか、難問ですよ。
 実は、もう一つの似たような問題があります。それは空間です。似たようなレトリックで考えようとすると、神は空間の中で万物を造られたのか。それとも空間をも造られたのか、ということです。
 年の瀬を考えているうちに難問にはまりこんでしまいました。《く》


高山右近のこと

 大正末期だったか。昭和初年、大分市に高山保さんという市長さんが居た。私の伯父、釘宮徳太郎と無二の友人であった。
 この高山さん、家の事業としては印刷業をされていた。今もその会社は続いていて、大分市内で高山活版社として堅実にやっておられるようである。
 私は最近知ったのだが、この高山さんの直系のご先祖に高山右近がおられたのである。これには驚いた。
 右近はキリシタン大名として、歴史上有名である。細川ガラシャをキリスト教に導いたのも彼であるが、その他の大名たちも彼に導かれてキリスト教に入信している。
 しかし、その後の政治事情で徳川家康からマニラに追放され、翌年同地で客死する。その時、同地の信徒たちは殉教者としての盛大な葬儀をもって彼を葬ったという。
 この右近の直系のご子孫が今も日本にお二人生きておられることを私は最近知った。しかも、そのお一人はこの大分市に居られるというのである。
 私がその方を捜さない筈はない。調べさせてもらって辿りついた先には、なんと高山活版の看板があった。
 「あっ」と、驚いた。伯父の伝道雑誌「復活」の印刷所は高山活版社であったから。昔は高山活版社は大分市の中央通りにあった。最近、その姿を見ないので、「ああ、高山活版は廃業したんだな」と、一人合点していたのである。
 「そうではなかった、経営を続けていらっしたのか」とつぶやきながら、その会社を訪ねて社長さんに会い、確かにあのキリシタン大名高山右近の子孫さんであることを確認したのである。(尚、もう一人の子孫の方は島根県のほうにおられるということであった。)
 ともあれ、この大分市に高山右近のご子孫の方が一人居られたということに、私は感激した。後日あらためて、お宅を訪ねしてみると、かつて戦後のころ、私ども一家が一時仮住まいした家の2、3軒先であったので、これにも驚いた、なんということもなく親しみを感じたことであった。物資が不自由な頃とて、お互いに奥さん同志では親しい付合もあったかも知れないと思ったことである。
           *
 豊臣秀吉や徳川家康から、その人物や手腕を認められながらも、キリシタンなるが故に国外に放逐されざるを得なかった高山右近の悲運は歴史的にかなり知られていることであるが、彼の直系の子孫がその後も、今も尚、日本の国内に平和に暮らしていたということは、実に想像しにくい事実であった。(これには、徳川時代の政治体制というものが、庶民の人情が生活のすみずみに交流できる隙間の多い暖かいものであったらしいということが考えさせられて、私は妙に感動した。)
 とにかく、こうして高山右近なる人物が妙に身近に感じることになった。私の伯父は、当時の仲の良かった大分市長高山保氏を、右近の子孫と知っていたかどうか、疑問ではあるが。私はそういう話を伯父から聞いたことがない。
 伯父は伝道用として月刊個人誌を発行していたので、そうした話題を載せないはずもないし、私は亦よく伯父の集会や雑談会に大人に紛れてこっそり聞いていたので、私の耳に入らぬ訳はないのである。
 ひょっとしたら、あの厳しい戦時体制の下では、先祖が生々しいキリシタンであったことなど、話題にしにくい時代であったかも。故意に伏せていた祖先の類暦であったかもしれません。
           *
 私たち日本庶民生活の中にも、キリストの福音の流れが伏流水のように染み込ませられる可能性は充分にある。また、私たちは、家庭や、何げない日常の会話の中で、職場や近所のお付合の中で、福音の言葉を漏らし、投げ込み、膨らませる、会話技術を上達させたいものだと思う。
 私の父は話し好きだったそうで、お百姓さんに肥料を売る商売をしていたが、時々売掛が溜りすぎたお得意さんに厳しい取立て文句のはいった裁判所の公式文書を送った。市内でも有名なやくざ家業の男にも、それをやった。くだんの男、カンカンになってどなりこんできた。
 「野郎、ふてえ野郎だ、俺と知って、これを送りやがったのか」。
 「はい、はい、旦那のことを知らねえ奴はいませんよ」。
 あと、何を言ったか、知らないが、その男、
 「アッハッハッハ」
 と笑いながら、帰って行ったそうだ。
 父はどんな人も、神の子と信じていた。そして、どんな事も、神様のお指図で、こうなっているのだと信じていた。そして常に「神様、有り難うございます。感謝します。万事、お恵みです」。
 心でも言い、口でも言っていました。どんなひどいお客さんにも、心底からニコリと出来るのです。お客さんは一変してニヤリと笑いながら帰って行くのです。
 父は一時、あることから、兄弟を恨み、世間を恐れ、「神も仏もあるものか」と絶望のどん底に落ちて居た時です。
 そのような時に教会に行ったのです。その時の牧師さんは偉かった。あるいは、どうしてよいか分からず、せっぱつまって言ったのかも知れませんが。
 「釘宮さん。祈りなさい。祈ることだけは出来るでしょう。何もしなくてもよい。ただ、神様あ、と祈りなさい」。
 その晩、父は必死で祈りました。「神さん、あんたが本当に居るのなら、今晩出てきてください。あんたに会って文句言いたい。今晩中に出て来てください」。
 その晩、本当に神様が彼に現れたのです。そうとしか言いようがない経験でした。火事のような光に触れて、父は動転もしましたが、神様が分かったのです。生きる力が湧いたのです。
 信仰の秘訣は神様にジカに触れることです。この父のように。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-12-30 17:44 | 日岡だより

No.364 鹿鳴館文化?日本のクリスマス 2008.12.21

鹿鳴館文化?日本のクリスマス

 戦前、日本のデパートあたりで、クリスマス商戦が始まると、無教会の豪の者、伯父釘宮徳太郎が顔をしかめて嘆いていたものだ。
 「商売人ばかりがクリスマスを利用する」
 この伯父の家は大分市の南の丘の上、十字架形の平面図に作られた隠居屋で、近所の何処からも見える。そして大きなチコンキ(蓄音機)に賛美歌のレコードをかけて、聖書集会をするのだった。
 クリスマスには子どもたちを一杯集めてクリスマス子ども会をする。私より3歳ほど年長の従兄・釘宮大祐さんが童話の名手で、この兄貴がクリスマスの幼年向き説教をする。続いて子どもたちの待っていたクリスマス・プレゼント、おもちゃとお菓子の大盤振る舞いである。伯父の親戚の子である私も、この恩恵に預かるのが待ちどおしかった。
           *
 さて、先程の伯父の言葉、「商売人ばかりがクリスマスを利用する」、これは現在もそのまま利用できる風物詩批判であろう。
 今日、日本の新聞の広告や商店街を見る時、クリスマス広告が一杯、日本はキリスト教国になったのかと誤解する外人さんも出てくるのではなかろうか。
 これを私は鹿鳴館文化と称する。鹿鳴館とは何ぞや。百科事典を調べてみてください。日本人の明治以来の洋風文化崇拝気質の標本的建築物である。
 教会で子ども向けにクリスマス集会を開くと、近所の子どもがドンと集まる。しかし次週からは以前のまま、来てくれるのはホンの数人。しかし、
 このクリスマスだけに来てくれた少数の子どもたちを保持出来ない私たちにこそ問題がある。ここに私たちのやり直すべき問題があるに相違ない。《く》


クリスマスとは何か

 クリスマスという言葉を直訳すれば、キリスト祭でしょうが、多くの日本人の感覚ではキリスト誕生祝日です。この日が12月25日ときまったのは、一応AD354年のことらしいですが、でも本当のことを言うと、12月25日が正しくイエス様の本当の誕生日か、どうかは不明である、いや誤りであるというのが定説です。
 さて、クリスマスの定義を信仰的に述べてみたいのです。もちろん、キリスト教界の定説ではなく、小生の釘宮説です。とはいえ、教界の定説に反乱を起こそうとしているのでもありませんから、ご安心ください。また、興味深々たる好奇心を起こすほどの事ではありません。呵々。
 勿論、クリスマスとはイエス・キリスト様のご誕生を感謝、賛美する教会の礼拝儀式であります。しかし、それ以上に何かを語ろうとすれば、私たちが、それぞれ個人的確信として私たちの内にイエス様の誕生を記憶しているか、どうかということです。
 こんなことを言い出すと驚かれるでしょうが、ある意味で信仰とは記憶であります。あなたは、イエス様をあなたの救い主として受け入れた時のことを記憶していますか、この記憶がなければ、あなたには信仰が無いということになります。
 「ちょっと、ちょっと、脅かさないでください」
 という声も聞こえそうですが、いかがですか。ひょっとしたら、バプテスマを受けた時のことは、よく覚えてはいるが、いつイエス様を私の救い主として受け入れたのか、そんなことは分かりません、という方もおられようかとも思います。
 教会によってはバプテスマを受ける時になって授洗者の牧師先生から、「今、あなたの救い主としてイエス・キリスト様をあなたの心に受入れますか」と問われ、「はい、受入れます」という答えをしたら、ザブンとばかり洗礼槽の水の中に体ごと頭までも押し込まれるという勇ましい洗礼式を体験なさった方もおられるでしょうか。そういう方は幸福ですね。
 私などは「あなたはイエス様をあなたの救い主として信じますか」と問われて、「ハイ」と答えたら、さっと、「我、なんじに洗礼を施す」と一声、額に牧師の水に浸した手のひらを当てられて、多少ヒヤリとした、それで洗礼式終わりという簡素な洗礼式でした。そうした人も多かろうと思うのですが、あなたはいかがでした?
           *
 しかし、それは別として、霊的な経験として、イエス様が自分の魂に定着してくださった、その一瞬を覚えて居られる方がいましたら、感謝です。それが私に言わせれば、個人体験的クリスマスです。本物の信仰ですよ。それほどでなくても、自然に何時の間にか、信仰がそれぞれの魂に定着する方がいます。それこそ感謝なことです。
 本当は先に信仰がはっきりして、その後で洗礼、つまりバプテスマを受ける、それが本来でしょうね。そういう人もいます。
 実は何も分からずに、まわりの先輩諸君が、「信仰がはっきり分かってから洗礼を受けるなんて悠長なことをしていたら、いつ信仰に入れるか分かりゃせん。思い切って今のうちに洗礼を受けておきなさい。そうすれば、いつか信仰なんて分かる、僕もそうやった」なんて勧められて、飛込み洗礼を受ける人もいます。
 この教会では、決してそんなインチキなことはしません。「洗礼を受けたい」と言って来た方を「まだ早い」と引き止めた人さえ多数います。
 たとえば、「洗礼を受けたい」と感情に燃える人がいます時、結構なことだと感心しますが、しかし私は矢張り引き止めることが多いのです。私には、洗礼志願者の信仰が、単なる感情的なものか、確実な信仰か、分かるのです。信仰は自分の決心ではありません。
 神様から頂きもの、魂の奥底(そこが霊ですが)に、そこに霊的な信仰事実が起こっているか、どうか、私は見定めるのです。
 それでも本当は、信仰がいつ起こったのか、私にも分かりません。神秘です。分かるのは神様と本人だけです。いや、神様だけかも知れません。
 ともかく、信仰は聖霊様の働きです。本人も気がつかずに、信仰が湧いている人もあるでしょう。その神秘さに驚嘆します。朝、目が醒めたら、信仰が自分の心に湧いていて、びっくりした、などということもあるのです。
 先週の信徒メッセージで、相良姉妹が「偶像からの悔い改めと回心」について、信仰体験の証しをされたそうですが、「偶像からの悔い改め」そのものが聖霊体験です。まして、「回心」ということ、これも正に聖霊様の働きです。
 勿論、自力で信仰の決心をして、がんばって信仰の生活を送っているうちに、突然、聖霊様が働いて、回心がドカンと起こる。こういうことは中世の英雄的信仰の先輩に多かったように思います。信仰生活も豪傑タイプです。こういう方も凄いですね。
 弱さの中で、自分の弱さを自覚しつつの受け身信仰で、素晴らしい生涯を残される方も多いのですが、更に積極的に攻撃的信仰を送って、預言者や使徒たちの信仰タイプをまざまざと生きて行かれる豪傑タイプの信徒の兄姉たちもいますね。私の言う、クリスマス体験もいろいろですね。
 あなたはいかがでしょう。逆説的ですが、私が時おり、平凡タイプの聖人という、そういう人もいます。神様のお導きはいろいろであります。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-12-23 19:12 | 日岡だより

No.363 申命記と越年 2008.12.14

申命記と越年

 申命記は旧約聖書の第五番目におかれている。この書の記者はモーセである。「申命」とは「重ねての命令」の意味、元々は漢訳聖書の訳語である。
 モーセは60万のヘブルの民衆をひきいてエジプトを脱出した。その後、40年をへてヨルダン川のほとりに立った。約束のカナンの土地は目前である。
 そこで彼はもう一度、かつてホレプの山の下で与えられた律法の説明を重ねて民にするのである。
 モーセはしっかりと民衆に語っておきたかった。何故なら彼はもうすぐ死ぬからである。モーセはここで遺言を述べようとしているのである。その真意は民全体が今、歴史的転換時点に立っているという認識のもとに、まず越しかたを回顧し、そして神の律法の基本と原則をもう一度念を入れ、かつ民の未来展望を示して希望を与え、勇ましくせよ、雄々しくあれと励ましたかったのである。
           *
 さて私どもは今、早くも12月を迎えています。2008年、最後の月です。私どもが今、あのモーセのように此処に立っていたら、私たちは何を「申命(重ねて命令)」するでしょうか。
 私は今年の目標を、毎週の日曜礼拝出席が40名を越えると、掲げて来ました。ところが、残念! 最近ずっと20名の数字を越えた事がありません。
 さてそこで、この12月最後の週に来年の日曜礼拝出席を書く時、何と書きますか。私は腹を決めています。やはり「40名」です。
 重ねて、40名と書きますよ。決して気落ちしません。勇気を奮い起こして40名と書きますよ。そして、私のやり方ですが、自分に命令するんです。来年もやはり、勇気を出して、日曜礼拝、毎週の出席は40名を越すんだぞ、と命令するんです。《く》


主に喜ばれる信仰

 私は新聞の囲碁や将棋の解説欄を読むのが好きである。私は囲碁や将棋をたしなまない。だから専門の用語はさっぱり分からない。しかし全体の雰囲気がなんとなく分かる。勝負師の勝負師らしい秘密が伺えて面白い。
 ところで、ゴルフの紙上教室といった記事もこれまた同様に面白い。専門のカタカナ用語も出てきて、それがどんなことなのか、さっぱり分からないのだが、分からないままに、なんだかよく分かる、その上、信仰上にも為になる。先日の大分合同新聞にこんな記事が出ていた。

 「もしもスライスしなかったら、左にOBしてしまいそうだな」。
 スライスを持ち球にしてから1年ばかり、私の頭の中には、常にそんな不安があったものです。「もしもスライスしなかったら……」
 事実、そう思ったままで打った時、フックはしないまでもストレートに飛んでいってしまうことがしばしばありました。「あ…、やっぱり…」
 こうなるともう駄目です。アドレスに入った途端に、不安ばかり頭に浮んでミスの連続です。そんな時、プロにズバリと言われました。
 「駄目ですよ。初めから悪い結果ばかり考えていたんじゃ、よいショットなんて出ませんよ」。
 相談したわけでもないのに、私のゴルフを見て一目で見抜いたのです。
 「悪い結果なんか考えずに、よいことだけ考えなくちゃね。例えば、あの辺からフェードして、ボールの止まるのはフェアウエーの中央っていうふうに…」
 そう言って、その言葉通りのボールを打って見せてくれたのです。(こういう専門語は私にはサッパリ分からないですが、新聞そのまま、載せました)。
 プロの指導者は、こういう。「こう打つと決めてかからなければ、ボールだって言うことを聞いてくれませんよ」
 もちろんプロだから言える言葉ですが、その一言がきっかけとなって、私はアドレスに入る時、悪い結果は一切頭に置かないように努力し始めたのです。
 初めのうちは、どうしても悪い結果が頭にチラチラ浮くので困りましたが、慣れるに従って、ずうずうしくなり、よい結果ばかり考えられるようになりました。するとどうでしょう。ミスショットの数も信じられないほど減ってきたではありませんか。
 ・・・以上は新聞記事の転載である。
         *
 ヨブは言った。「私の恐れるものが私に臨み、私の恐れおののくものが我が身に及ぶ」(ヨブ記3:25)これは旧約聖書に出てくる恐怖吸引悪の原理である。
 イエスは盲人の乞食バルテマイに言われた。「私に何をしてほしいのか」(マルコ10:51)と。私たちのしてほしいと願うことが、私たちの身に成就するという法則を前提にしてイエス様は語られているのである。
 そうすると、あなたは言う。「本当だろうか。私はたくさん願ったけれども少しもかなえられなかった」。そこで、
 私は言う。それではイエス様のバルテマイに言った言葉は虚言だったろうか。イエス様は別のところでこう言っておられるのだ。「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と。
 上例でゴルファーがアドレスに入る時、ずうずうしくもよい結果ばかりを考えた。同じように私たちもずうずうしく、また厚かましく私たちの願うところはみなかなえられると信じようではないか。そういう信仰を主は喜ばれるのではないだろうか。あたかも子供が親に信じきって親の顔を仰いでなにものかを求めるように……。
 イエスは言われた。「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」と。然り、主よ、感謝します。その通りです。アーメン!(旧稿06.6.12)


〔図書紹介〕

        「天国は本当にある!」

 良い本が出ました。「天国は本当にある!」。私はこの言葉をキャッチフレーズにして、教会の門口に立てようかと思ったくらいです。
 天国のイメージについては私も実はこれまでかなり、いい加減な点があったことが分かり反省しました。天国という所は霊界であるからして、地面があるわけでもなく、家と言っても木造の家でもあるまいし、鉄筋コンクリートのビルでもあるまい。何かフワフワした掴みどころのないような世界、はるか向こうには透き通って見えるような家々、天使たち、童画みたいな柔らかな雰囲気、自由に思うままに想像はしていた、そんなところが霊界だろうと思っていた。
 しかし、この本を読むと、天国には天国の土地や川や山がある。川には魚が泳いでいる、そして天国の人はその川の魚を捕って食べるのだそうだから、これには私は「えっ」とばかり、たじろいで信じられなかった。
 いささか驚いて信じられないのは本当だったが、しかしこの本は私に天国を非常に即物的なものに教えてくれた。空中都市か夢幻村落のような天国ではない。真にまともに大地にどっしり造られている天国国家が紹介されているので、私は驚嘆した。ともかく、私にとっては天国のイメージが一変した。
 (「天国は本当にある!」447頁、かなり厚い本です。チョー・ヨンギ先生推薦、定価1600円。頁数に比して、安いです。著者・トマス・チュナム 小牧者出版社)

〔あとがき〕
この14日は東京に行っています。まず秋川集会を問安します。(問安という言葉は聖書に出てくる「安否を問う」という言葉から援用したものです。文語訳では新約聖書でもパウロ書簡の末尾のほうによく出ていました。口語訳になってからは創世記などにしか出てきません。現代の通用語では「ご無事ですか」というような、挨拶のことですね。)▼今回は東京に出かけましても、あきる野市の秋川集会以外の皆さんには、お訪ねする余裕がないかもしれません。その点、お赦しください。また例年の12月には各地の皆さんをお伺いしたこともありましたが、本年は日程が難しくなりました。来春になりましたら、お伺い致したく存じます。ご無沙汰している先生がた、兄姉がた、来年は是非そのお詫びを果たしたいです。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-12-16 13:21 | 日岡だより

No.362 大東亜戦争について 2008.12.7

大東亜戦争について

 もうすぐ、12月8日です。この日は大東亜戦争勃発の日、日本が口火を切った戦争であったから、責任は日本にあると、アメリカさんは言うだろう。言われても仕方はないが、当時を振り返ると、それほど簡単ではない。
 アメリカはアメリカ国内にある日本資産を凍結した。加えて日本向け石油の輸出を停止した。日本政府には、これが最後通牒に見えた。事実、そういう通牒も来たのだが、そこを一押しして交渉に持ってゆく外交感覚が、日本にはなかった。
 日本はバカ正直にアメリカの威し文句に乗って、いきなり真珠湾攻撃と慌てたのである。もっとも日本は、明治の日清戦争、日露戦争等、すべて宣戦布告抜きに不意打ちの攻撃をしかけて成功してきた前歴がある。これが日本の軍部の悪い癖でもある。
 しかし、こうした事はアメリカさんは先刻ご承知、待ってましたとばかり、これを逆手に取って「日本は卑怯なだまし打ちをかけてきた」とてアメリカ国民の戦意を昂揚させた。前述したように、実は資産凍結や石油の輸出停止等、厳しい先手を取ってきたのは、本当はアメリカなのである。
 更に、実はその次に、更に厳しい通牒がアメリカから送られていた。日本のある将軍、「こうなればもう、一か八か、やるほかないと思ったんだ」と述懐していたが、それほど計算抜きに、血が頭に昇った日本の参謀本部だったらしい。
 そして一時は大成功に見えた。真珠湾攻撃で大戦艦群沈没等で、まさに日本中「勝った、勝った」と興奮しましたね。しばらくしてフィリピンのマニラを落し、マレー半島のシンガポールまでも陥落させる。日本中が湧き返りました。しかし、これが大東亜戦争敗北の序曲となりました。《く》


平和論を考える(下)

  一、戦時下における非戦論者の実際的困難

 一国が軍事行動に入ったときその国にある非戦論者は何をなすべきだろうか。彼は可能な限り力を尽くして戦争の非なることを政府にも人民にも訴え続け、かつ自らはその戦争に協力しないことである。
 しかしながら現代戦は「総力戦」である。中国の竹林の七賢人のように完全に社会から脱離することは出来ない。非戦主義で刑務所に行っても、そこでの仕事は軍需品であることは前述したとおりである。戦時下においては、国民すべてはなんらかの形で戦争に協力せざるを得ない。どの個人も戦争体制に組み込まれる。徹底して戦争に加担しまいとすればその国内に生きておれない。それは甚だしく原罪論的である。私があの時、自殺をはからざるを得なかった理由の一つなのであった。
 昭和20年代の映画だったが、非戦主義のクェーカー教徒に当時の人気俳優ゲーリー・クーパーが扮した。彼の家族が敵軍に襲われる。それまでは絶対に武器を取らなかった彼が、決然としてライフルを手に持って家族救出のために前線に出て行く(カッコ良かったです)。要するにいざというとき、生易しい平和論では現実の事態には通用しないという事である。
 よくある、お母さんの平和論。「かわいい子供たちを戦争にやるな」。これが簡単に「子供達よ、戦争に行け」に変りやすい。一旦、戦争が始まると戦争に行かないのは非国民、よその子供が戦争にいっているのに、なぜお前のところの子供は戦争に行かないのか。クリスチャンというのは人が戦場で死ぬのを知らぬ顔で自分だけ命を助かればいいと言うのか。「人その友のために死ぬ、これより大いなる愛はなし」と聖書にあるではないかなどと言われる。
 すると真面目なお母さんが一番に「息子よ、お国のために戦争に行け」などとスパルタの母なみに子供を励ますようになる。労働組合の平和論も同じようなもの。労働組合が大政翼賛組合に一変するのは目に見えている。組合長は政府から勲章を貰って軍需産業生産拡大のため組合員督励に一生懸命になるだろう。時代が一転すると人間の主義・思想は簡単に変る。私は人間とは弱いものと知っているからそれを非難する気にはなれない。しかし、大衆は主義・思想に於いて一貫性に欠ける、そういう意味で大衆は信頼出来ないという痛切な認識が私にはあるのだ。
 戦争は狂気である。その狂気をあらゆる宣伝と教育機関をとおしてお上が国民に浸透させる。日本人はお上の煽動に弱い。日本人は農耕民族らしく一列右へならえ、自分で考えて自分で行動するということが無い。一般国民のほうが戦争熱に自らを煽って政府や軍部をたじたじとさせるということにすらなる。太平洋戦争末期、政府や軍部は戦争をやめたくてもそれを言いだしかねるほど国民のがわに戦争遂行の熱気があったと思う。だから戦争の責任はまさに国民すべてのものにあったとさえ言える。そんなときの国を挙げての圧力は大変なものである。それに耐え得るほどに、精神力、体力、機智、団結力をまだわが国の平和陣営は鍛練していないと思う。

   二、核軍備は地球全生命の敵

 さて、私は現代の平和論というものを詳しく知らない。素人の私にはどうも核の問題は平和論をとびこえた所、少なくともその最前衛にあるのだと思う。無理に平和でなくてもよい。ともかくまず核を無くすこと。これが先決問題だと思う。核軍備は万国人民共通の敵である。地球に住む全生命の敵である。「平和論はあとまわしでよい」と、こういうと叱られるかもしれない。それは戦争屋には都合のよい言い逃れ道を与えることになるかも知れない。それでも核を平和論の枠のなかに閉じ込めないで、「核武装廃絶」一本で目標をまとめるべきだという思いを私は捨てることができない。
 よく軍拡論者は敵国侵略の可能性の現実性を説く。しかし私は現代最も現実的な問題は既に配置されてある核武装そのものだと思う。どこかの国で現に戦争が行われているということ以上に、核武装は地球規模で危険である。ボタンひとつで地球上の生命は(人類のみではない)滅びてしまう。これは「未必の故意」の犯罪行為ではないか。
 たとえ共産党反対の人でも共産党の原潜反対の署名運動には参加したらよろしかろう。自民党の北方領土返還要求は大分筋道の立った話と思うがそれでもそんなことはあとまわしで良い。それほど自民党嫌いの人でももし自民党がソビエトの核ミサイル反対ののろしをあげたなら、これには協力しようではないか。いや、それが暴力団まがいの右翼だったとしても賛成しよう。たとえば人は火事を消している人が悪人だからといって、その消火作業に加勢することをためらうだろうか。だから右翼だって暴力団だって、それが核軍備反対ならその看板だけは賛成としよう。

   三、絶対に平和をあきらめない

 シュバイツァーが言ったことがある。「私は世界の将来に対して認識としては悲観的である。しかし希望としては楽天的である」。また「私は生命を畏敬する。どんな小さい生命をも殺すまいと努力する(つまり蚊だの蝿だのを殺さざるを得ないときにはやむを得ず殺します、とシュバイツァーは言うわけだ)」と。前者は逆説的で後者は不徹底に聞こえるが、しかし彼の言い分は正しいし、そして苦渋に満ちている。
 真の平和論者もこれに似た感懐を持つであろう。彼は現代に対しても未来に対しても認識としては悲観的であるかもしれない。しかし希望としてはあくまでも人類に対し世界に対し楽観的でありたい。いかに自分が非平和的な人間であり愛の乏しい人間であったとしても、また自分の弱さの故に、さまざまの事由で大なり小なりの戦争を黙過せざるを得ないような残念無念の時でも、なおかつ出来るだけ平和をきたらせるよう努力する、そういう人でありたい。
 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書5:9)と聖書は言う。しかり、絶対平和をあきらめない。常に聖書的平和の本質に立ちつつ、様々の平和論と出来るだけ「平和」でありたい、誤解を恐れず協力したい、かつ福音伝道と牧会からは手をぬかないということ。これが現在の私の結論である。(旧稿1984.10.21)
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by hioka-wahaha | 2008-12-09 00:00 | 日岡だより

No.361 神様と顔を合わせて話しましょう 2008.11.30

神様と顔を合わせて話しましょう

 旧約聖書の出エジプト記を読むと、神様はモーセに顔を合わせてお語りになったとある。
 モーセは神様の言葉を聞いただけでなく、何か返事を申し上げただろうか、はっきりしませんが、神様は又、なにか再び語ってご返事くださったでしょうか。神様とモーセは顔と顔を合わせて、もっとくわしい会話が持たれたに違いない。私はそんなことを思うのです。
 ともあれ、私は神様と顔を合わせて語りあうことができるかも? という可能性に気がついてから、寝ても醒めても、家の中にいても、道を歩いていても、心があせるのです。
 視覚的に見える訳ではありませんが、どうも私の目の前に神様がおっかぶさるようにお顔を出してくださっているようで、つい「神様あ、コンチワ」なんて声を出しそうなんです。
 別にまだ、ご返事は聞こえませんが、あせってもいませんが、どうかすると、つい私は自分の声で、「お前、今日も、ご機嫌かい」などと、神様の言葉を真似て、ラジオの中の会話みたいに問答しているんです。
 それは、いつでも、どんな時でも、私の前に神様のお顔が迫ってくる。見えませんけれど、そこに神様がおられる感じです。
 その神様の臨在感と言いますか、それを私はある所で茂木健一郎さんが、「クォリア」(質感)と呼んでいましたが、その茂木さんの質感という言葉を使いたいのです。質感をもって目の前に居てくださる神様のお顔を見たいのです。そして、その神様と語り合えたら、どんなにか幸福でしょう。ハレルヤ! 《く》


平和論を考える(上)

 かつて大分合同新聞に乞われて「平和問題」についての小論を書いたことがある。信仰的文章は別としてこのような文章を書くのは滅多にないことで、冷汗をかいた。以下はその時の訂正稿です。(1984年8月9日と8月16日の夕刊に載ったはずです。)

   一、戦時下の私の体験

 昭和15年頃だった。私は急激に非戦主義に傾斜して行った。もともと内村鑑三やシュバイツァーの影響があった所へ、矢内原忠雄の「余の尊敬する人物」を読んだからではなかったかと思う。岩波新書初期の赤表紙版で日蓮、エレミヤ、リンカーン、新渡戸稲造などの評伝であった。祖国日本を憂える矢内原先生の思いがそくそくと迫る名著である。「誰が真の愛国者であったか、それは後世の歴史で明らかであります」と、日蓮の章を結んであった。私は今でもその文章をまざまざと思いだす。
 私は涙を流して、興奮した。改めて聖書を引っ張りだし特に旧約聖書の世界に没入した。昭和17年3月29日の日記に「義を知りてこの世にあらば我もまた一小預言者とならざるを得ず」などと短歌風に私の感慨をしるしてある。
 けれど一方では、私は皇国教育で培われて天皇崇拝一杯の青年であった。天皇様のためには親も財産も一身も捨てて悔いない気持であった。そんなわけで、天皇の対米英宣戦布告があって以後、天皇の詔勅と良心的絶対平和主義の間にはさまって私の苦悩は極度に達する。
 当時、吉田松蔭を読んでいた。私は今でも松蔭が好きだ。彼がこんなことを言っているのにその時、気がついた。「殿様が誤った道をとったなら家来のとる道は最後は諌死しか無い」。私は天皇のために諌死すべきではないのかと、その時ふと思った。これが結局後に軍の召集が来た時、私が自殺を計った一つの要因になった。
 「馬鹿を言え。兵隊に行くのが怖かったからだろう」という人がある。それも20パーセントくらい事実だ。しかしそのくらいで自殺出来るものではない。もっとも兵隊にいってから苦しくて自殺する人が時々いた。体の弱い人にとってそれほど兵隊は苦しいところであった。さて、いま考えれば可笑しいことに自殺用の薬を飲みすぎて、自殺は失敗した。
 そこで、徴兵忌避ということになる。罪名は「兵役法違反、出版言論集会結社等ニ関スル臨時取締リ令違反」。私は刑務所にはいった。そこでさせられる仕事が軍用行嚢の縫製であったり、軍用飛行機の部品のネジ切りであったりした。「戦争反対で刑務所に来て、する仕事はやはり戦争のための仕事か」。
 その時、私の心は戦争に対して抵抗力を失った。深い挫折感があった。まったく絶望した。そしてそれまの非戦主義と思想ばかりを語って、キリスト教的罪責感に対する救いの確信もない形ばかりの信仰であったことに深刻な反省がおこる。
 数か月の霊的暗夜が続いた。信仰が分からなくなった。これまでの信仰と思っていたのは、みな単なる思いこみで、信仰でも何でもなかった。そして自分自身の、怠惰さ、エゴイズム、偽善、高慢、そんな罪に染み、罪と悪心に充満された自分に呆れ返った。もう駄目だ。その自己認識で私は刑務所の固い壁に頭をぶちつけて死にたかった。私はもう駄目だ、永遠に地獄だと思った。
 その極度の罪意識のドン底で、私はキリスト様が直接わたしの内に実存したもう信仰を与えられるのである。(それは昭和19年11月23日、福岡刑務所北三舎の独房においてであった)。
 正直に言って私は徴兵忌避、自殺失敗などのことを人に告白するのは恥かしい。しかし私の信仰体験を語るにはどうしてもこれらのことを言わねばならない、牧師なるが故のしばしばのジレンマである。
 以上のような経験から、私が平和論や非戦主義を語るに適任者であると人に思わしめるのかも知れないが、実はとんでもない。私の60数年前のその挫折経験は私に非常に屈折したしこりを残した。単純なロマンチックな絶対非戦論が信じられなくなった。
 だから戦後の平和運動に対しては「そんな甘っちょろいことでイザ戦争というとき果してやって行けるかよ」とシニカルに批判するかと思うと、「いやいや、ともかくいいことなんだ。何はともあれ一つ加勢するか」と参加してみたりする私だ。
 どうも一定しない。ふらふらしている。最近は、こうした問題から逃げっぱなしだった。ところで今回、急にこの原稿を書くことになってみて、どうも困ってしまう。次に書くキリスト教的倫理感の問題などその最たるものだ。

    二、平和論者としての私の内的矛盾

 あるとき私はカーテンを開こうとしてハチに刺された。私は思わずカッとなってそのハチを踏み殺した。小さなハチを何で私は怒って足で大仰に踏み殺すのだろう。私はその蜂に対して自分の心に憎しみが一杯で、愛の一かけらも無いのに愕然とした。
 かつてシュバイツァーの「生への畏敬」に感激したあの私はどこへ行ったろう。こんな些細な事でハチを踏み殺してしまうような非平和な私に平和論を主張する資格があるだろうか。
 問題は勿論ハチだけのことではない。正直に言って私はしばしば人に対して同じように憎しみの感情をいだく。もちろん殺したいほどではないにしても。ご承知のようにイエスの山上の説教に従えばこれらの心で犯した罪はすべて実際の具体的罪と同等の罪なのである。そのような厳しいイエスの倫理感に会えば、どのような人もひとたまりも無い。
 まして倫理感は家族、団体、会社、党派、国家とその規模が大きくなれば大きくなるほど稀薄になるので(ある人は言った。愛国心とは利己心を国家大にしたものにすぎぬ)、絶対平和非戦主義などということは現実の国際間にはまったく不可能なことに見える。個人の間の喧嘩も無くならぬのに、どうして(これは人のことではない。私のことだ)国家に戦いをやめてくれと言えようか(マタイ7:1~5)。
 しかし私は思う。理想というものは実現不可能だからといってその鼓吹を手控えるべきではないし、またその実現を求める努力も怠るべきではない。イエス様の山上の説教など、現実の人生において実行不可能の教えであろうけれど、これを誠実を以って聞き、かつ少しでもそれを実行したいと願い努力し、また信仰の助けによってすこしでも実行出来るようになるのが真実のクリスチャンなのではなかろうか。それがクリスチャンの喜びなのではなかろうか。同様な姿勢で、絶対平和・非戦主義の主張も同様に私達には可能なのではなかろうかと私には思えるのである。(未完) 週刊「信仰手帖」第3号1984年8月5日)
《く》
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by hioka-wahaha | 2008-12-02 11:26 | 日岡だより