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No.330 他山の石 2008.4.27

他山の石

 「他山の石」という言葉がある。辞典を引くと、
「よその山のつまらない石でも、自分の玉を磨くのには役に立つものだ」という意味です。
 床屋のおじさんの言うことなど、意外に自分の信仰を深めるのに役立つことがあるものです。まして、親鸞さんや日蓮さんのお言葉などから、大いに学ぶことが多いでしょうね。
 日蓮さんの名前など上げると、「あなた創価学会ですか」と、顔をしかめる人も多いかもしれませんが、私は創価学会の新聞など結構愛読してますよ。
 可笑しいですけれども、キリスト教の伝道新聞など、どれを拾ってみても、創価学会の聖教新聞にはかなわないと思う。残念です。
 キリスト教界には、信徒教育というか、信徒啓発のための新聞雑誌は多数あっても、未信者むけの伝道用の良い新聞雑誌は無いようです。
 創価学会の新聞で気がつくことは、信徒の皆さんが、信仰で勝利したという証しが多いことですね。
           *
 ですから、キリスト教界の新聞雑誌の寂しいのは、その記事や編集が下手というのではなく、キリスト様への信仰によって、世と悪魔に打ち勝ったという証しが非常に少ないのです。これは新聞社の責任ではなくて、信徒の我々の責任です。
 はっきり言って、要するに我々日本のクリスチャンに信仰の勝利、奇蹟の証しが無さ過ぎるのです。
 たとえ外面的な世間をあっと言わせるような大げさな奇蹟でなくても、内面的な魂の鋭角的回心など、そうした報道記事がどんどん出れば、キリスト教新聞ももっと魅力たっぷりの新聞になること、間違いないです。責任は我々一同にあります。《く》

 
百倍の実りあれかし

 ある時、娘が古林先生のメールをプリントアウトして持ってきた。拝見すると、古林先生の言わく、「イエス様のお約束の『100倍の信仰』を持とうではないか、100倍の信者が生まれる信仰を持とうではないか、その祈りを始めようではないか」とのチャレンジである。
 まさに、感じ入った。今、日本のクリスチャンは100万人と言われる。この100万人を100倍すると、なんと一億になる。
 一億は日本の全人口と言ってもよい。これには驚いた。日本人一億、総人口みんなクリスチャンになるとの夢を持つことは、それほど荒唐無稽ではない。
 一人が一年に一人の人に伝道して一人のクリスチャンを生み、そしてその伝道を年々歳々、繰り返して行くならば、7年で100人になる計算です。
 この伝道を全クリスチャンが忠実にやるならば、7年で日本全人口がクリスチャンになる! この計算、あまりに容易な感じがして、私はこの算術(僕らの年代は算数と言わない。算術という)は間違っているのではないかと、びっくりした。
           *
 マルティン・ルーサー・キングではないが、「私には夢がある」と叫びたい。日本人全部がクリスチャンになる、という夢である。
 これは不可能ではない。前文に書いたとおりだ。この信仰を持って、祈り、伝道しよう。まず、この祈りから始めようではないか。
 そうだ、毎日、祈ろう。食前の祈り。就寝前の祈り、起床時の祈り。勿論、集会のなかでの開会、閉会の祈り、あらゆる時に、あらゆる場所で、すべての祈りの中で、「全日本人、100パーセント、総クリスチャンになる」と祈りを始めよう。
 私に言わせると、祈りとは「意宣(いの)り」でもあります。私たちの意志を宣言するんです。神様の前に出て、宣言するのです。《く》


罪意識と聖化の恵み

 某日、某姉妹が来た。真剣な声だ。
「先生、祈ってください。神様に私の汚れた心を清めて頂きたいのです。私の心は嫉みや憎しみで一杯です。先生、祈ってください。」
 私は彼女の肩を引き寄せて祈った。
「神様、この姉妹の心根をいとおしんでください、彼女は魂のどん底まで、主によって清められたいと願っています。牧師の私でも、どうすることもできません、ただ、姉妹に寄り添って祈るだけです。あなたの清い聖霊の息吹によって、この姉妹の心を清めて下さい」。
 姉妹の、このような深刻な罪の意識は、既に神様からの恩寵です。本人は気がついていませんが。
 人は誰でも罪を犯しています。その罪を犯す原動力は、各自の魂の底にうごめく罪の思いです。
 その魂の思いの糸を引っ張って、更に罪を犯させるのは、巧妙なるサタンです。
 人の魂は、罪を犯すことに些か快感を覚えるものです。2度も、3度も、繰り返して、同じ罪の快感を味わう癖があります。
 とは言え、並行して、その罪を犯すことに内心、苦しむのです。それが良心です。
 しかし、人の良心はしばしば罪を犯すごとに、苦しむことに慣れてしまって苦しまなくなるのです。
 しまいには罪を犯すことに快感を覚える魂のほうが、良心を覆い隠して麻痺させるのです。こうして人は罪に溺れてしまいます。
           *
 しかし、ここで良心をつつき、覚醒させるものがあります。良心に従って生きる義人たちの姿もそうですが、もっと大きい力があります。
 それは聖書の義と愛の言葉です。特に聖書に残るイエス様の言葉です。この御言葉に触れる時、罪に慣れきった人の心も衝撃を受けます。そして目が醒めるのです。
 そのいずれの場合にも、実はその背後に神様の聖霊が働いています。聖霊様の働く時、人の心は高圧電流にふれて感電するように、神の霊気に触れて震え戦きます。
 どんな罪人、悪人でも、やはり神に造られた人の子です。神様の義と愛の言葉、またその義と愛に生きる義人の生きる姿に、霊の目は醒めます。
 上述のように、神の霊気に感じる隠れた感覚、言わばイノチの感覚というべきものが人間にはあるのですね。
 このイノチが普段は死んだ如くなっているのが、人間です。生きているのは肉体だけで、本当のイノチは死んだように眠っています。
 このイノチに覚醒を与え、罪の牢獄から救い出し、天国人の地位を与えるのがイエス様の救いです。
 イエス様は全人類の罪をご自身の身に背負い、十字架にかかられ、罪人として陰府に下り、3日間を過ごされました。それが「罪の贖い」です。
 そして、イエス様は地上に復活されます。この復活が無ければイエス様の救いの御業は成就しません。
 のみならず、復活されたイエス様は更に天に帰られる。そして、そこから地上の民たちに聖霊を送られます。地上における救いの完成は、この聖霊の御恵与によるのです。
 聖霊様は人のイノチを救われただけでなく、更に人の肉性にも御手を及ぼし、これを聖別します。ここにおいて、クリスチャンはイノチを救われただけでなく、肉の性質をも聖めて頂けるのです。こうして、地上におけるクリスチャンに対する神様の人類救済の御業は一応完結します。
 次は、天に帰ってからです。天においてこそ、今度は霊化した新しい天の肉体を下さるのです。クリスチャンの完成への道が始まるのです。
 ここまで来ると小生も書く手がにぶります。ワープロを休ませます。さあ、ご一緒に主を仰ぎましょう。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-04-29 12:58 | 日岡だより

No.329 信仰とは神とのプライベートな交わりである 2008.4.20

信仰とは神とのプライベートな交わりである

 「信仰とは神とのプライベートな交わりである」。この言葉を私に語ってくれたのは、年齢においても、信仰の経歴においても、私の後輩ではあったが、信仰そのものにおいては、真に私の先導者として、深い霊的洞察者として、敬愛してやまなかったS先生であった。
 もう50年ほど前のことであるが、私は先生といっしょに長野県のある病者の方を訪ねて癒しのご奉仕をした後、名古屋に下り、四国に飛んで、徳島県、高知県、愛媛県、大分へと伝道旅行をしたのであったが、私は先生にくっついて歩くだけで、聖書講義は時おり私もしたであろうが、本番の按手祈祷はS先生である。
 先生の按手祈祷には正に天来の趣があった。火であり、光であり、高圧電流の如きであった。特に吉野川のほとりの小さな町における集会では、悪霊がなかなか出て行こうとせず、家の中を逃げ回って、ついに旧式の風呂釜の中に閉じこもって、蓋をかぶって怯えているという、吹き出したくなるような場面もあったくらいだ。
 神様が直接、私たちと、私たちの問題に触れて下さる時、それをプライベートな接触と言おう。その時、悪魔を撃退する御業、奇蹟が起こるのである。
           *
 先週の主日の礼拝のあと、例によってあちこち自由な小集団が生じるが、私の居たグループで、私がふと「今、この教会で足りないものは何かねえ」と言ったものである。
 私は心の中で、「若い人が少ない」とか、「伝道の精神ですね」とかいう言葉を期待していたが、ところが思いもかけない言葉が返ってきた。
 「先生、それは奇蹟です」
 私はちょっと返す言葉を失ったが、その一信徒さんの言葉を「本当だ」と肯定するほかはなかった。
 まことに、教会に必要なものは三位一体の神によって起こされる奇蹟である。それが無ければ教会ではないと言えば、言い過ぎかもしれないが、しかし正にそのとおりである。
 教会において最も期待される、ただ一つの奇蹟をあげれば、会衆の全員に聖霊様が働いて、一瞬の回心が起こり、各自の心に確実な信仰が与えられる。これこそ、最大の奇蹟である。とは言え、
 一応、私たちの間では、まず奇蹟と言えば、だれでも真っ先に思うのは、神癒です。そう言えば、最近は信仰によって病気が癒されたという報告が、この教会でも余り聞かないねえ、と思っていた。
 ところが、先ほど「先生、それは奇蹟です」と私に返事してくれた兄弟こそ、最近のことだが、自宅でか、訪問先でか知らないが、ともかく「癒しの奉仕ができました」という報告をしてくれたばかりのことであったのです。
 なるほど、彼はその神癒の喜びを味わったばかりの時であったからこそ、「先生、それは奇蹟です」とはっきりした声で言えたわけだ、と納得したのだが、それに続く言葉は誰からもでなかった。
 そこで私は、そこに居た信徒諸兄姉たちにこう言うべきだったのだ。
 「さあ、みなさん、それでは奇蹟を期待して祈りましょう。何か皆さんに問題はありませんか。家庭で、職場や、近所付き合いや、いや教会のお互いの交わりの中で。事業で行き詰まった困っている人、家庭の不和、病気、子どもの教育、就職。それぞれ問題を持ち出して、心を合わせて祈りましょう。」
 この日の説教題がちょうど「心を合わせて、ひたすら祈ろう」だったですね。もってこいの場が出来上がっていたわけですから、すぐ祈り始めるべきでしたが、そうはなりませんでした。
 私もそれに気がつきませんでしたから、牧師としては失格ですよ、残念!
           *
 ここで、一転して書き改めたいことがあります。
先週のこの「日岡だより」では、2つの文章を載せてありました。一つは「信仰が深まる秘訣」。もう一つは「幸福であることの秘訣」でした。ご覧のように、「秘訣、秘訣、……」です。
 これは私の特徴かもしれません。ある牧師先生は私を評して「実技派牧師」と言いました。私はそれを知って、つくづく言い得て妙だな、と思いました。
 「笑えば必ず幸福になる」という私の作った小冊子は最もよく売れている本、これは「どうしたら笑えるか」という本です。この本の発行は10年前ですが、今や日本中「笑いましょう、笑いましょう」ですね。しかし、どうしたら不幸な時、腹の立っている時にも、笑えるか、その秘訣を書いてある本は、なかなか無い。それを十年前に私は、すでに書いてましたよ、ハハハハハ。
 私は小冊子しか作りませんが、たった一冊まともな出版は、CTCの古林三樹也先生の編集で、マルコーシュ・パブリケーションから出してもらった、「こうすれば信仰がわかる」です。本の題名からして、まさしく「……がわかる」、秘訣本です。
           *
 ところで「秘訣」の話は、ここで止めます。最も大事な信仰の神髄について語りたいのです。冒頭の言葉、「信仰とは神とのプライベートな交わりである」、これが本当の信仰です。実技とか、秘訣とか、この私の得意な分野は、単なる意識の整理法、便利ではありますが、信仰そのものではありません。
 信仰とは、魂の根底において究極の改変、その根底自我が聖霊の火に触れて死んで生き返る体験。それこそ、まったくのプライベート、純個人体験、激変する信仰意識です。聖霊体験と言います。
 これは、自力で体得しにくい経験です。歴史に残る聖人、聖者の中には自力で求めて求めて達成したかに見える人物の方々もいないわけではありませんが、まず我々には駄目です。
 とは言え、これを求める努力は必要です。聖書の学び、黙想、祈祷、これらはすべて、神を求め、イエス・キリストを求める努力の現れです。これらを続けているうちに、ある日、突然、神様のほうから私たちの魂に訪れてきます。
 そこで、私の先師T先生は「信仰とは神と人との協力作用である」と言われたのです。私はこの言葉を聞いた時、びっくり仰天しました。
 私は、それまで信仰とは「私は全く無力、善きものは微塵も無い。ただただ、神様の一方的恩寵によって救われるのだ」と信じていましたから。(勿論、この自覚も正しいと思います)。
 しかし、少なくとも神様の救いに対して「ハイ」と応答するだけの人間の側からの協力がいることは事実です。まして、「神様、有り難うございます。しもべはイエス様のお救いを信じます」と応答することは当然です。
 こうした人間のがわからの応答を、神様は、そしてイエス様は、如何にお喜びなさることでしょうか。
 言い替えれば、これはイエス様をお仕合わせにして差し上げられる最高のご恩報じです。(このことは、この度、松岡欣也先生が教えて下さいました。先生に御礼申し上げます)。
 私たちの信仰を見て、イエス様が大変喜ばれ、仕合わせになって下さる、この平凡な家族的(!)な幸福さを天において父なる神様を初め、イエス様、天使たちが、味わってくださるのだということ、これは、私たちの大変な親孝行だということを悟るとき、私たちにも天的な幸福がみなぎってくるように思います。
 私たちは今まで、自分のへそばかり見つめて「ああ、私は罪人だ、罪人だ」と、嘆いていたり、あるいは「もっと、もっと信仰を伸ばしたい。強めたい。まだまだ、信仰が足りない」と嘆いていたとしたら、しかし、もう顔を上げましょう。「イエス様、あなたを信じます。あなたに従います」と、叫びましょう。その時、イエス様は「おお、嬉しい。お父さま、地球で子どもたちがあんなに叫んでいます。私は仕合わせです」と父なる神様に向かって叫ばれるのではないでしょうか。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-04-22 12:42 | 日岡だより

No.328 信仰が深まる秘訣 2008.4.13

信仰が深まる秘訣

 信仰が伸びない、そういう嘆きを持っている方たちにお勧めしたいのは、伝道です。
 「とんでもない、今の信仰ではとうてい伝道なんかできません。もっと信仰が進んだら伝道します」。 と言う人もあろうかと思いますが、いや、それどころか、多いのではなかろうかと思いますが。
 残念ながら、そういう方たちは、下手をしていると一生伝道できないままに過ごすかもしれません。この際、お勧めします。ぜひ伝道なさい、きっと信仰が伸びますよ。信仰が伸びないのは、伝道しないからです。
 伝道と言っても難しいことではありません。「教会にいらっしゃい」と、おすすめするだけで結構です。個人的に対面して、「さあ、聖書を読みましょう。信仰とはね……」などと、ベテラン伝道師の真似は出来なくても結構です。
 ただ、出来れば、いっしょに教会にお連れしてきてください。伝道は牧師か、先輩信徒がしてくれますよ。
           *
 又、牧師が忙しくて、個人伝道めいたことは少しもしてくれなくても、その人が礼拝に出席して牧師の説教を聞いてくれ、教会の雰囲気にふれてくれるだけで、結構です。しだいに信仰の神髄に触れてくれるようになります。
 ヨハネの福音書第1章46節を見てください。「ナザレのイエスに会ってみないか」と言うピリポに、「あの田舎のナザレから、なんの良いものが出ようか」と反論するナタナエル。しかしピリポは反論もせず、ただ「来て見ろよ」と言うだけです。
 どうぞ、日曜の教会礼拝に誘ってください。それが伝道の第一歩です。さあ、やってみましょう。《く》


幸福であることの秘訣

 最初に可笑しな事を書きますが、目下、非常に精神状態不安定でありまして、この文章を書くのにも苦労しているんです。こう書いたら、
 「どうしてそんなに精神状態不安定なんですか」
 と、聞かれるでしょう、そこで答えざるをえない。 奇妙な答えでしょうが、
 「ハイ、答えましょう、実は非常に幸福だからで
  す。心が大変ウキウキしていて、落ち着いて書
  けないんですよ」
 「ヒヤー、そんなに幸福なんですか。どうして、
  そんなに幸福なんですか」
 と、ご質問が来そうですね。そこで、お答えします。だれでも、幸福でありたいことは、すべての人の望みでしょうが、その秘訣があるのです。それを次に簡単に書きます。
 「私は、自分で幸福で居ようと、決心したからで
 すよ」。
 こんな簡単なことはありません。人は、自分で決心したとおりになるものです。私は幸福である、と決心したら、間違って絞首台の上にあがっても、幸福でおれますよ。人間は自分で決心したとおりになるものです。
 「そ、そんなこと、私にはできません」。
 と、あなたは言われますか。
 そうでしょう。あなたは、そんなことは決心できない、と心に決めているからです。だれでも自分で、心に決めているようになります。
 決心と言っても、わざわざ足を踏んばって、意気込んで心を決めている、そんなんじゃないんです。
 心がいつも、そのように思っている状態です。つまり人の「心」の成りきっている状態を、私は決心と言い直しているんです。
 多くの人はいつも不安なんです。いつ、何が起こるかもしれない。表面意識では気がつかないけれども、内心ビクビクしているんです。
           *
 そこで考えてほしいのです。
 人は一体に物事を変えるのは難しい。職業を変えることも、家を建て変えることも、奥さんを替えることも(?)、難しい。
 まあ、出来ることは、シャツを着替える。机の位置を変える。朝の通勤道を変えて見る。そのくらいのことは出来るのですが。
 なかなか、物事を変えるのは難しい。しかし、案外、自分の心を変えることはやさしいのです。
 「えっ?」と反問も出そうですね。徳川時代の小話しの中の会話の一つにありましたよ。「ちと、無理な相談。魂入れ替えろ」って。
 長屋のご隠居やお店の主人が、店子や小僧に「魂入れ替えろ」と説教してみても、「ちと、それは無理だよ」というせりふですね。
 しかし、人に言って聞かせるのは無理でしょうが、しかし、自分で自分の魂に言って聞かせる分には出来ないことではない。それが私の言いたいことです。 とは言っても、「それこそ難しいです」という人も多いことでしょう。
           *
 この自分で自分に言い聞かせるコツは、私は愛媛県伊予三島で伝道しておられた金田福一先生から教わりました。
 金田先生のお話では、これはルターから学んだのだそうですが、私がいくらルターの本で捜してもこの事は出てきません。もっとも私はルターの本をさして沢山持っているわけではありませんが。
 この金田福一先生は稀代の純粋福音の語り手(!)でしたね。愛媛県の田舎で生まれた人です。学校もろくに出ていなかったと思います。
 川の中州の掘っ建て小屋に住んで、そこで「感謝します、感謝します」と賛美していた人です。
 私と一番、信仰の交歓ができた人でした。この方の文章にしょっちゅう出ていたのが、「信仰の言葉を自分に言い聞かせる」ということでした。
 岡山医大に入院中、お見舞にあがった私が病棟を捜して歩く時、サッと私を目ざとく敏く認めて「釘宮先生」と言いざま、ベッドにひざまづいて祈り始めました。そのような祈りの人でした。
 ともあれ、この自分に言い聞かせるコツは、自分の心を自分で開拓する一番の秘訣ですね。
 人が、自分の力で変えることの出来る一番の対象は、びっくりされるでしょうが、自分の心です。この秘訣を知っておくと、皆さんの信仰の成長、拡大、深化に非常に役立ちます。
 もう一度、書きます。人が自分で変えることのできる一番の対象は自分の心です。
 「エッ、それが一番難しいんじゃないの」
 と多くの方は、そう言うでしょうね。しかし、本当はやさしいのです。
 心を変えようと思えば、すぐ変わります。そう思ったとたんに変わりますよ。
 変わらないのは、自分が自分を変えようと思わないから変わらないのです。いや、そう思ったとしても、自分自身に「おい。変われよ」と言い聞かせていないからです。
 私の言葉を使えば、自分で自分に命令しないからです。私の人格変換の秘訣、「自己命令」です。
 しかし勿論、その前にあなたの人格の奥深くに潜んでいるサタンに捕らわれた魂が、イエス様の福音によって根底からの回心していなければなりませんが。
 イエス様に向かって、ひとたび窓を開いた魂には、「悪しき習慣、出て行け」等の自己命令が見事に功を奏します。こうして、弱々しいクリスチャンが、雄々しいクリスチャンに一変するのです。ハレルヤ! こういう方々が全国の教会に生まれると、日本の教会も一変しますね。日本の全教会よ、斯くあれ! と祈ろうではありませんか、聖霊様よ、働いて下さい。《く》

〔あとがき〕
今年の桜は、全国的に見事だったようです。私の住む大分でも、どこもかしこも、桜だらけで、驚きました。また、日本人は本当に桜好きだなと、呆れました。あの染井吉野という品種が出来てからだと思いますが、昔はこれほどではなかった。大分では別府湾に突き出た仏崎という小さな山に登って、淋しい花見でした、それでも男連中は酒を飲んで踊っていましたがね。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-04-15 14:01 | 日岡だより

No.327 忠実なる愛の生涯 中野高代姉を偲ぶ 2008.4.6

忠実なる愛の生涯 中野高代姉を偲ぶ

 去る先週の主日の朝、私たちの愛する中野高代さんが天に帰られた。
 その日の朝、午前3時過ぎ、大分赤十字病院から電話があった。
 「中野高代さんの容態が変わりました」。
 ご主人の中野兄、ご子息の権威君とともに、あわてて病院に行く。
「高代さんは……?」
 とベッドのほうをこわごわと見た。医師は「危篤です」と言うのだが、私の目には、高代さんはしっかりした呼吸をしているように見えた。
 私の「高ちゃん、生きてくれよ」という願望から来る錯覚かもしれないが、そう見えた。
 高代さんは、平素から感じていたが、表面は穏やかな優しい人に見える。しかし、
 「この人は内なる生命力が強いなあ」
 と何かにつけ思ったものである。だが、見た目には体も小さいし、骨も細い人に見える。
 事実、火葬にお送りして、最後にその亡きがらを拝見したとき、つくづくその思いを深くした。痛々しい思いがしたほどである。
 しかし、生前も、その気丈さは誰も認めるところであった。貧しくても家計を立派にやりくりしておられた。というのも、
 お子さんはご子息お2人だが、2人とも立派なサラリーマンになって、経済的にも孝行を尽くしておられるようで、安心していたが、過去は決して豊かな家計では無かったはずだ。
 実は、ご主人の中野兄には教会のスタッフとして働いてもらっていて、その報酬を教会の会計から乏しい給料しか出してあげられなかったのだが、これも牧師の私の責任である。
           *
 さて、ひるがえって50年ほど前のことを思い出す。今は大分市鶴崎だが、当時は鶴崎町、まだ市制もしいていなかったころ、私もまだ若かったが、頑張ってその鶴崎で伝道を開始したのであった。
 これは又、実に奇蹟的な開拓伝道で、まず会場を鶴崎の中心街のその真中に住む林正貴兄の家が備えられた。その斜め前に有力な洋品店を開いていた木南商店があった。
 その木南商店のやり手のおかみさんが木南真佐さんなのであった。この木南真佐さんが早速、聖書の講話を聞きにお出でになるようになり、後にこの教会の婦人三羽烏の一人になる。
 その木南商店に働いておられたのが、この度の中野高代さんである。もちろん高代さんも礼拝に出席されるようになり、その後、中野昭二兄と結婚された。
 ……さて、時がたち、かつての木南商店、今はスクール・ショップ木南。その社長さんの木南久和氏、
 すでにお母さんの木南真佐さんは天に召されていたのですが、そのお母さんの遺志を汲むかのように、木南久和氏がこの高代さんを牧師(私です)宅のお掃除に毎週、遣わしてくださったのです。私は本当に感謝していました。
 高代さんは木南氏の職場を退いた後も、自主的に我が家の掃除に週1回来てくれました。何年も、本当に喜んで忠実に来てくれていました。
 そんな中で、最近は気になることがありました。
 「先生、こうして先生の家のお掃除をする時には、元気でシャンシャン働いておれます。ところが家に帰るとどことなく調子が悪く、体がだるいんですよ」、と言うのです。
 私も気になりつつ、つい見逃してしまいました。それが悪かった。非常に責任を感じます。なんとかして然るべき医療処置の助言もすべきでした。いや、それよりも私の癒しの信仰力を働かせるべきだったのにと、今にして思うのです。返らぬことですが。
 ともあれ、そのうちに、某内科医に診断を乞うたわけですが、結果は膵臓癌だということでした。それもすでに手遅れで余命は3ケ月だと。
 大分赤十字病院に入院し、本人にも病気を知らせ抗がん剤の治療を始めた。見舞いの人々からは、とても明るく、却って励まされる、と声が聞かれるほど、元気な様子を見せた。しかし、
 病名の宣告からたったの1ケ月あまり。危篤のしらせで病院に行くと、目の前で彼女は召されたのでした。
 遺体を最早、自宅ではなく、霊のご自分の家ともいうべき教会に移して、みんなで囲み、その朝は日曜の礼拝を彼女とともに営んだのです。
 驚いたのは、教会の礼拝室に遺体を安置して、つくづく彼女の顔を拝見すると、今にも微笑みを漏らしそうなお顔ではないか。しかも、その頬のあたりをさわってみると若々しい柔らかさ、一同互いに返り見て驚いたことです。
           *
 葬儀の当日ともなると、遠近それぞれの知縁の方々が集ってくださる。もちろん、お姉さんや姪御さんがたもお出でになった。
 私も高代さんが、大分市鶴崎の下鶴崎の出身であることは前から聞き知っていた、それは鶴崎駅のすぐ裏にあたるが、ご実家は向(むかい)さんと言うことを知った、いや思い出した。木南商店にいるころは向高代さんだったから。
 向定(むかい・さだむ)さんと楠江(くすえ)さんの間に生まれ、愛されて育ったそうだ。だからこそ、あんなにおだやかな、素直な人に育ったのだなと、私は思った。
 それにしても、何事にも忠実な人だった。愚痴や不足を聞いたことがない、と家族や、近親者、友人の方々が、皆そう言われる。勿論、教会でもそうである。
 特に教会では、隠れてこっそりと、何事か、必要なものは持ちこんで準備する。もちろん、高代さんだけではない、そういう方は教会には多いけれども、それでも高代さんは傑出していた。
 先にも、家の掃除のことなどで触れたが、夕食のおかずなど、お口にあうかわかりませんと断りつつ私の家に持ってこられる心遣いには何時も感謝するばかりであった。
 ああ、今も遠慮しつつ、愛をもて、にこやかに近づいてくださる彼女の顔が目に浮かぶ。
 もう「高ちゃんは、この世に居ないのか。そうだね、イエス様のおそばだね」と私は一人つぶやくばかりである。
 イエス様は特に近くに高代さんをお呼びになり、おやさしく「善かつ忠なるしもべよ」とお言葉をくださり、御手を伸ばしては高代さんの手を取ってくださるであろう。高代さんは、この世にいた時の癖で、「手が汚れておりますから」、などと遠慮して手を引っ込めることでしょうか。
 いえいえ、高代さん、もう安心して、あなたのあの炊事や家事や労働に痛み疲れた手も足も体も、一切今は天国でイエス様のもとで、全く癒され、初々しい美しい天国の顔でイエス様の前にぬかづいて下さい。
 ハレルヤ、地上における疲れや悩みは一切脱ぎ捨てられ、高代さんは天使たちに迎えられ、天の恵みに浴しつつ、その歌声の中で喜びに満たされて、共に歌って居ることでしょう。
 私たちも地上にあって、声高く、父なる神様とイエス様を褒め称えます、「ハレルヤ!」と。
        *
 中野高代姉の天に召されたのは、この3月30日、ちょうど主日の朝、6時23分でした。前述のように、早速、なきがらは当教会に移送、翌々日、4月1日午後1時より葬儀を営みました。司式は牧師の小生、中野兄、急ぎ神奈川県川崎市より帰った長男の充男君一家、次男の権威君をはじめ、親族の方々、又その他、親しい方々、当教会の信徒一同も集うて会堂一杯の会衆に囲まれての葬儀でした。一般にお通夜と呼ばれる前夜式や、葬儀当日の式辞を述べるにも、私も言葉もままならず困り果てました。今や、天におられる高代姉のご祝福を切に祈りつつ。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-04-08 13:38 | 日岡だより

No.326 日本の全クリスチャンよ、結束して祈ろう 2008.3.30

日本の全クリスチャンよ、結束して祈ろう

 今、日本には「人を殺し、自分も自殺する」というような、ニヒリスティックな凶暴性がそこかしこに起こっていて、全国民に口には言い難い不安をもたらしています。
 不安を大きくする原因は、その事件が連鎖性を持って、思わぬところ、あちこちに似た殺人事件を起こす。しばしば日ごろは優しい真面目そうな、普通の青年が犯人であったりする。
 それだからこそ、いつそのようなことが自分の周辺に起こるかもしれない。気づかないでいることが起こってしまう、怖いことですが、
 実は、人間はそれほど、緊迫性をもってそうしたことを平素、気にしない。
 だからまあ、一応、平素のんびりと、安穏に暮らしていると言えますが、社会心理学的には、これは興味深い問題です。
 先日の縁もゆかりもない人を、JRのホームから突き落して年配の男性を殺した事件があったが、その十八歳の少年が、事件後に言わく、
 「誰でもよかったんだ、誰か人を刺してやろうと思ったんだ。人を殺せば刑務所に行けるさね」。
 この言葉は異常な興味を私に引き起こさせた。何で、この少年は「刑務所に行ける」と言うのか。刑務所に行けることが、そんなに嬉しいのか。何だかハワイかディズニーランドにでも行けるのかのように言っているが。
 こういう感覚は今の若い人たちには分かるのだろうか、私には見当がつかない。刑務所に行ってくれば、仲間内で格が上がるという、やくざ仲間のような格差意識でもあるのだろうか。いや、
 私はそれとは違ったものを感じる。「刑務所でも地獄でもよい。落ちるところへ落ちてやれ」というような気分でいるのではないか、と思う。
 捨て鉢と言ってもよいが、それ以上に「行ってきたい。行ってみたい。行ってやろう」と、怖いもの見たさの危険な好奇心であろうか。そうか。
 「人を殺せば刑務所に行ける」、そう言った18歳少年の心理状態を86歳の老人たる私は、そのように思い計るほかはない。
           *
 こうして暴走する少年というか、青年というか。いや老壮年でさえも今の人は、こうした捨て鉢な気分を持っているらしい。ここで、私は思う、「日本列島は狂っているのではないか」と。
 実は、先日の早朝のことである。来たばかりの新聞を掴んで教会に行った時のこと。私の自宅から道を隔てて、すぐそこが教会の会堂だ。私は教会の玄関にはいって、手に持ってきた新聞の第一面を見た時、目に入ったのが例の、
 「18歳の少年、ホームから男性を突き落す、男性は電車に接触して死亡」という大見出しだったのである。
 この記事に私は息を呑んだ。こうした慮外な行動横行が今日の日本の霊的現状である。このままでは日本は滅びる、と思った。かつて、内村鑑三や藤井武が「日本は亡びる」と言った、それである。
 これを読んで、私の体の中心から、この国を愛する愛国の心がドッと湧いて来た。この日本を救わねばならぬ、我々の責任は何か。どうすれば、良いか。全知全能の神に祈るほかは無いではないか。
 私は心を決めて、会堂の恵みの座に坐り込んだ。
 「主よ、この日本を救ってください。私の愛する
 この国を救ってください。日本人の心を変えてく
 ださい。」
 日本人の心を変えるとは、どういうことか。
 「そうです。真理を愛し、正義を愛し、弱い者を
 愛し、敵をも愛する。イエス様の心をもって、自
 分の心とする。つまり、イエス様を信じ、イエス
 様に自分の心の中に入ってもらう」ことである。
 しかし、私の祈りは途中から自信が崩れるのだ。一人では祈るエネルギーが足りなくなる。どうしても力不足である。沢山の人に祈って貰いたい。
 その時、私は手束先生の「日本民族総福音化運動」を思い出した。ああ、そうだ、私は先生のこの「総福音化運動」の働きの一端を背負っているはずだった。とかく、その責任を忘れやすいけれど、今こそ悔い改めよう。
 先生の裾にくっついて、日本民族の総変わりを期待し、信仰を持ち、熱意をもって、全知全能の神様に祈ろう。
           *
 ここで私は大きな夢を持つのである。日本には百万のクリスチャンがいる。この百万のクリスチャンが一斉に心を一つにして祈ったならば、「日本民族総福音化」は、簡単であろう。まず、この日本列島に住む百万のクリスチャンに訴えよう。
 「皆さん、この日本の全国民の魂が救われますように祈りましょう。そして、日本民族全体の心に、自分を捨て隣人のために命をも捨てる信仰を持ち、この国を神の国にしようとする願いを与えて下さるよう祈りましょう」と。
 この神の国という思いが私の心に浮かんだ時、私の脳裏に1枚の写真が思い出されました。今の別府中央公民館です。戦前は別府公会堂と言いました。大分県最初の鉄筋ビルです。かつては、前面に雄大な階段があって、前の広場を圧倒しました。
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 昭和初年の頃かと思いますが、賀川豊彦先生を迎えて、賀川先生提唱の「神の国運動」の大分県大会をやったのですが、その時の記念写真です。その会堂の前面の総階段に大分県各教会から集まったクリスチャンたちが、ぎっしり揃って立っています。
 賀川先生を真中に大分県の殆どすべての教会の牧師さんがたが揃っています。大分県の教職大先輩の森山角次郎先生や別府不老町教会の斎藤先生はじめ、他の先生がた、私の母もすみっこに写っています。
 賀川先生の一種の威力ではこういうことも出来たのです。今の教界にはこういう実力者はいません。私など物の数にはいりません。しかし、祈りましょう。日本を変えたいからです。一寸法師ではないが
「小さなからだに大きな望み」、祈ってできないことは無いはずと、祈りを始めようではありませんか。
 始めの一歩は小さな一歩です。そこから、万事は始まります。私が「ワッハッハハと笑おう」を提唱し始めたのは、10年前のことです。ご覧なさい、今、日本中、「笑いましょう、笑いましょう」です。その頃、中学校のPTAや、某団体の記念式や、そういう所で挨拶に招かれると、いきなり壇上から「ワッハッハハ」とやって会衆をびっくりさせ、また喜ばせたものです。
 今では昔語りですが、今でもそこまでやる人はないでしょうが、私の「ワッハッハハ運動」は次第に世間に受入れられて来ました。ただ、創唱者としての名が出ていないだけですが、それでよいのです。私には、無名のままに終わっていることは、まだまだほかに無きにしも非ず、です。《く》
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by hioka-wahaha | 2008-04-02 12:23 | 日岡だより