<   2008年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

No.317 マーラ・モウの話 2008.1.27

マーラ・モウの話

 マーラ・モウというのは1863年にノルウエーに生まれた女のひとです。
 マーラは小さい時、頭の良い子ではありませんでした。それに学校にもあまり行けませんでした。家が貧乏でしたし、それに第一その頃のノルウエーの田舎では、学校はすくなかったのです。
 マーラが15歳のとき、叔母さんがひどい病気になりました。お見舞いにいくと、叔母さんは
 「マーラ、お見舞いありがとう。私はもうすぐ天国にいきます。あなたも天国にきてくださいね」
 と言いました。この叔母さんは、はっきりしたイエス様への信仰を持っていて、形だけのクリスチャンではないようでした。(日本の仏教信者と同じように信仰とは形だけ知識だけというクリスチャンがヨーロッパには多いのです)。
 その同じ年、マーラのお父さんもなくなりました。なくなる時、お父さんは
 「いとしい子供たちよ、神様に心をささげなさい」と言いました。
 このようなことがあってから、マーラは一所懸命に神様をもとめました。ある日、彼女はたった一人になって心をしぼるようにして、
 「神様、どうか私の罪をゆるし、私に救いの喜びをあたえてください」
 と叫びました。その時、マーラの魂に聖書のお言葉がひびきました。
 「あなたの信仰があなたを救った」
           *
 マーラが19歳になったとき、お母さんも天に召されました。マーラは決心して12歳の妹と2人でアメリカに行き、妹を養いながらクリーニングの工場ではたらきました。
 その頃、アメリカにはムーディーという大変えらい伝道者がいました。マーラは喜んでムーディー先生の集会に行きました。ところで驚いたことにムーディー先生は説教(メッセージ)が半分終ると、
 「あとのお話は、まだイエス様を信じていない人たちのためにします。イエス様を信じている人たちは、外に出てもっと人を集めてきてください」
 と言いました。
 マーラはすぐさま外に出ました。道を歩いていると、喫茶店の窓から、その中で男の人が2人むきあって煙草をくゆらせているのが見えました。急に胸がドキドキしてきました。あの人たちに伝道せねばならぬのでしょうか。若い女の子が男の人に話かけるなど昔ではアメリカでもとうてい考えられないことでした。
 しかしマーラは今はじめねばならぬと決心しました。彼女はその喫茶店に入り、勇気をふるって、
 「あなたがたはここで、たばこをのんだりビールをのんだりしていてはいけません。ムーディー先生が説教しています。あの会場に行ってイエス様の救いを受けなさい」
 と言いました。そこにいた1人が立って
 「おじょうさん、あなたの言うとおりです。私は行きましょう」
 と言いました。マーラは一言も言えないで外にとびだしました。うれしくて涙がとまりませんでした。
           *
 このようにしてマーラはだんだん伝道が上手になっていきました。マーラは学校に行っていません。頭も悪いのでした。しかし「なんとしても、イエス様のことを人に知らせたい」と思う熱心さで知らず知らずのうちに、あかしが上手になっていました。
 その頃マーラの生まれたノルウエーの隣の国のスウェーデンの人で、フランソンという先生がきました。この人はマーラをひとめ見て、
 「神様はあなたがアフリカの宣教師になることを望んでおられます」
 と言いました。
 「とんでもない。私には妹があります。それに頭が悪いのでアフリカの言葉を決しておぼえられないでしょう」
 とマーラは答えました。
 その夜、フランソンはマーラのために眠らずに祈りました。マーラはその頃、ある友達の家に行っていましたが、その時、目に見えない力が彼女の肩に重くくわわりました。彼女はよろけて床(ゆか)の上にたおれました。
 「神様!」
 マーラは叫びました。
 「あなたは生きています。私は行きます。アフリカに行きます」
           *
 マーラ・モウは宣教師になってアフリカに行く決心をしました。そこでまず、マーラはフランソン先生の神学校に入りました。
 フランソン先生の学校は世界一の教育期間のみじかい学校でした。たった2週間(!)で卒業でした。フランソン先生は一度も学歴を聞きませんでした。フランソン先生が一番大事にしたことは、
 ・ご聖霊様に満たされること。
 ・神様を信頼すること。
 の2つでした。フランソン先生の最後の教えはこうでした。
 「断食して祈りなさい。病気になったら断食して祈りなさい。外国語がむつかしかったら断食して祈りなさい。だれもイエス様のことを聞いてくれない時は断食して祈りなさい。食べるものが無くなれば断食して祈りなさい」
 この言葉はマーラの心を強くうちました。そしてマーラの心にいつまでも残りました。
           *
 マーラ・モウは、喜びいさんでほかの宣教師たちといっしょに、アフリカに行きました。
 しかしアフリカについてみると、歓迎してくれるはずの酋長が機嫌がわるくてみんなを村に入れてくれないのでした。なかまの宣教師たちは1人去り、2人去りして心ぼそい限りでした。
 その上、マーラは言葉が覚えられませんでした。
 彼女はこらえきれなくなりました。ある日、まる1日断食して祈りました。そのときマーラはまぼろしを見ました。神様があらわれて
 「あなたを助ける人をおくります」
 と語られるのでした。
           *
 間もなく、マーラのもとに不思議な少年があらわれました。言うことを聞かない変りものの少年でした。マーラはこの少年にすこしの期待も持てませんでした。しかし神様は言われました。
 「この少年こそ、あなたの助け手です」
 この少年は、ヨハンと言います。ヨハンはなかなか字を覚えることができず、みんなの笑いものになっていました。
 ある夜、ヨハンは天使のすがたをみました。彼は急に山の中に消えて、まる1日じゅういませんでした。もう少しで太陽がしずむという時、ヨハンは教科書をかた手にもって走りながら帰ってきました。
 「先生、ぼく読めるようになったよ」
 「ウソおっしゃい。昨日まで、ぜんぜん読めなかったくせ」
 「でも今は、よめます。山にいって、読めるようにしてください、と神様にお祈りしたら、読めるようになったんだ」
 ヨハンは持っていた本をすらすら読んでみせました。
 ヨハンは部落の人たちに向かって大声で、
 「あなたがたは永遠に生きたくはありませんか」
 と叫んでさっそくイエス様の福音をつたえはじめました。彼は熱情にかりたてられていました。小さい子どもたちまでヨハンのはげしい変化に気づきました。
           *
 このようにして、マーラの伝道はだんだん大きくなりました。マーラはアメリカを立つときフランソン先生に言われたように、問題がおこるときには断食して祈りました。やがてマーラのまわりではつぎつぎに不思議なことがおこり、人々は
 「あの白い女の人には神様がついているよ」、
 と言うようになりました。
 ある夏、長いあいだ雨がふらないため畑の作物が枯れそうになってしまいました。マーラは雨のために祈ることを提案しました。しかし彼女自身はあまり確信をもてなかったそうです。
 でもあのヨハンはクリスチャンをあつめ、そして聖書をひらき、みことばを引いてみんなで祈りました。祈りが終ると空に黒い雲があらわれ、そして久しぶりに大雨となりました。
 マーラは生涯をアフリカにささげ、アフリカの人たちに愛されて1953年、アフリカで死にました。少女のとき、あの叔母さんに言われた言葉のとおり、よろこび勇んで天国にがいせんしました。
         *
 以上はかつてS・Hさんに書き送った手紙の一部です。彼女がまだ小学生の頃でした。たしか子供たちの遠足で、前の週にお天気になるように日曜学校でみんなで祈っていたのですが、当日になってみると雨でした。そのとき子供たちをなぐさめ、又信仰のつまづきを与えまいと思って書き始めた手紙が、どんどん横にそれてマーラ・モウの話になって了ったのでした。30年ほど前の「百万人の福音」に載っていたマーラ・モウの伝記を下敷きにして書いたと覚えています。
 こうしたマーラ・モウとか、リーズ・ハウウェルズなどという人もいますが、こういう隠れた人たちの伝記には感動します。こういう人たちの生涯は陽性で、あまりに奇跡的ですから、かえって出版社をへきえきさせるのでしょうか、その後絶版になってしまっているのですが、残念です。しかし信仰は本来、陽気であるべきです。これは、20年ほど前の原稿を掘り起こしました。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-01-29 12:11 | 日岡だより

No.316 改めて「謹賀新年」です 2008.1.20

改めて「謹賀新年」です

 1月6日の第314号の「日岡だより」の第一頁に「新年おめでとうございます」と入れたものの、内容は「太陽暦はどうの、我が家の商売では正月はどうだった」など、得手勝手な記事ばかりで失礼でした。改めて今年の一般にお送りした年賀状の文章を以下に載せて先生がたや、諸兄姉への新年のご挨拶とします。

 新年おめでとうございます。
 私も今年はいよいよ86歳になりますが、もうすぐです。1月14日が私の誕生日です。昨年は、ずっと「85歳、85歳」と言い暮らしてきましたが、お陰で悪い影響も出てきまして、自己暗示にかかったのか、少々老人じみて来たような感じがします。今年は自粛して「若さ」を演出したいです。
 さて、私は昨年の末頃から「今は不戦の時代だよ」と言い始めています。非戦論とか非戦主義というのは、かつての私のトレードマークですが、もう今は不戦の時代、戦争の時代は終ったという認識を深めているのです。世界の国々が戦争しようにも、戦争する気になれない。戦争をするのは子どもの喧嘩と同じで、辺境の小国家群の小競り合いだけだ、と言うことです。
 人類が格別、平和の性格を持ち始めた訳でもないけれど、世界の各民族、各国家、なべて戦争をおっぱじめる意志なんか持っていない時代が何時の間にか来ている。それが私の感じです。反論もありそうですね。お手紙ください。
 今年もよろしく。霊において、魂において、体において、豊かなご祝福を祈ります。ご平安を!
          2008・1・13
                                釘 宮 義 人 拝


不戦の時代とは何か

 私は現代の国際社会を、すでに戦争は無くなった時代と読んでいるのです。それを「不戦の時代」と呼称してみました。
 人類は古代から戦争ばかりしてきた。これは人類の原罪みたいなものだ。だから人類が地球に棲んでいるかぎり、戦争は地球から無くなることはないだろう。こう言うのが、学者や社会評論家でなくても、地上に棲む人々すべての人の通念かもしれません。
 しかし、私は言いたい。もう戦争する時代は地球から過ぎ去った。人類が戦争した時代、それは過去のことだと、学者の皆さんが言い、学校でもそのように教える時代が来つつあるのだと思うのです。
 こんなことを言うと、人は私が気が違ったかと思うだろうと思います。しかし、こんなことを言う人がぼつぼつ少数でも出てくると思います。
 私は学者ではありません。まったくのしろうとの一市井人であります。もっとも私は牧師でありますから、キリスト教の平和主義から、こういう極論を言い始めたのかと思う人もいるかはしれません。
 しかし私は、不戦論、不戦主義を説いているのではないのです。世界は不戦でなくてはならないとか、不戦であるべきだとか、論議や主義、主張を述べて居るのではないです。
 今はもう世界は不戦時代にはいっているのだと、私の見ているところを報告しているにすぎなのです。ちょうど今、世界は温暖化現象を来たしているよと言うように、今世界は不戦状態になっていますよと、私の見るところを報告しているに過ぎません。
 世界のどこかで新しい現象が発生した時、それを調査して大学の学者たちや報道機関が世界に発表するように、私は以上のことを世界に知らせたいと思わずにはおられないのですが、多くの人にはこれは突飛なニュースでしょう。そう簡単に信じてくれないと思うので、私は致しかたなく小さな教会の週報の中で、一人で喚き立てているということです。
           *
 先週も書きましたが、地球の人類のすべてが突然変異して平和主義者になったわけでもなく、各国の首長や軍人たちが、もうわが国は軍備を捨てるなどと、そんなことを言い出したわけでもありません。
 しかも、軍事予算は相変わらず残っており、軍備はちゃんと保存され、軍人も全員そのまま残っているにしても、戦争する気配はない、と言うのです。
 今後、戦争まがいのことをするのは、小国家群の国境あたりだけです。そうしたところでは小事件は起こるでしょう。しかし、アメリカ、ソ連、中国、欧州各国、南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、そういう国々で、今後戦争が起こる可能性はあるでしょうか、私は無いと思う。
 そういう無駄な戦費を使うバカバカしいことはやっておれないのです。資源の分割争いや、国境の小競り合い、それらは話し合い、つまり会議で結構片付きます。一々戦争行為で決着せねばならぬ事態にはなりません。いま、世界はそういう穏便な時代に何時しかなって来ているということです。
 かって日本列島では戦国時代がありました。うっかり油断していると、隣国から攻め込まれました。そういうことの起こらないように、戦争意識をしっかり持っておらねばなりませんでした。隣国と不戦条約を結んだり、あるいは要塞を築いたり、あるいは同一仮想敵国に対して同盟を結んだりして。
 しかし、西洋が外交を求めてやってくる時代になる。国内では産業が発達し、需要供給が国境を越え、物資や金の為替関係が国境を越える。そうなると、もう日本列島内での互いの戦争は自然止まります。
 同じように、地球上のまとまりも拡大して、各国々の境がラフになり、そして国民たちは互いに交通、移住しあって、他国に押し込むなどという野蛮なことはやりにくい時代になっているのです。
           *
 今、世界の事情は自然にそのように変化してきていることを、地球人たちはまだ自分で気づいていないのです。もしかしたら、国の大事な方々、大臣諸兄や、政府の上級官僚の人々もこの事に気づいていないのではないでしょうか。
 この地方の小さな教会の老牧師がこんなことを言っても、人は呆れるばかりで、そんなことは政府か政党の偉い人たちに任せておけばよいと言うかもしれません。
 今、私は思い出しました。昭和18年、私は大分の刑務所に収監されました。看守がやってきて、「お前はなんで、捕まったのか」と言いました。私は答えました。「私は今の日本の戦争は間違っている。この戦争は止めるべきだと言っているのです」こう答えると看守はウス笑いしながら、私に向かって怒って言いました。「そんな大事なことはなあ、政府や政治家の偉い人たちが決めるんだ。お前たち小物が考えることじゃない」。私は馬鹿らしくなって黙りこんでしまいましたね。
 私は、正直に言って、こんな大問題を論理正しく系統だった文章にして、多くの人たち特にインテリの人たちを納得させる文章を書く自信はありません。この辺でペンは収めて、誰かに代わってほしいところです。私の肩には荷が重すぎます。どなたか、肩代わりして下さることを願っています。もっと専門の語り部を必要とします。《く》

〔もしも戦争が起こった時を予想すると……〕
 無責任な想像を書きますが、もし今、北朝鮮にクーデターが起こったとします。金総書記さんは発狂気味になって、常に用意準備してある核弾頭のボタンを次々にたたくとします。核弾頭を次々に発射されて、太平洋、日本海、西支那海のイージス艦、東京、大阪、名古屋、北九州の日本の主要都市、また沖縄、それのみか可能距離であれば、ハワイ、アメリカ本国まで、核弾頭を送りこむでしょう。この時点で、もう日本列島は全滅です。
 ところで、アメリカはじっとしておりません。ただちに北朝鮮に報復攻撃です。十分か、1時間か知りませんが、アメリカは即刻、核弾頭を北朝鮮に送りこみます。北朝鮮は火だるまで、全土壊滅です。そのことは最初から金総書記さんは覚悟して気違い処理で核弾頭のボタンを叩くだろうと私は想像するのです。つまり、地球は気違い戦争の真っただなかに放り込まれるわけです。これが地球最後の戦争です。
 この戦争は僅かの時間で終結します。あとには荒涼たる地球の表面が残ります。もっとも、アフリカとか、オーストラリアとかは、まぬがれるでしょうか。それは私にも想像つきません。
 ともあれ、こうした地球の様子こそ、サタンにつけこまれ、地球が壊滅しかける、黙示録の場面でしょうか。そして、イエス様の地球の歴史への介入が始まります。人類を壊滅から救い、神の国を地上に建設される神様のご計画が成る時が来るのです。神様は宇宙を再創造することすら、お出来になるかたですから。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-01-23 11:11 | 日岡だより

No.315 この教会の会堂の出来るまで 2008.1.13

この教会の会堂の出来るまで

 この教会・キリストの福音大分教会は純粋に単立教会です。どこの団体にも属しておらず、どの組織にもつながっていないのです。但し、何かと永井明先生のお世話になり、先生の「福音の群れ」の親しいお交わりを頂いていることは大いなる感謝です。
 とは言え、この教会は本義的には神様の教会であり、人間的には釘宮という私、個人のお預かりものであると言えましょうか。単純に言えば、この会堂も土地も名義的には私個人のもの。この教会の創立も私の伝道から始まりました。
 当初の伝道は大分市の大手町、当時は米屋町という古い町並みの三軒長屋の真中の家の2階で5、6名の集会から始まった教会です。
 私自身、無教会主義の影響を受けていたので、一人で先生面をして聖書講義の集会を臆面もなくやっていたものです。
 そのうちに現在地の大分市日岡にやってくることになって、しばらく私は、印刷業に従事しました。これも不思議な神様の導きにより、資本金や、経営の手本や、慣れた従業員たちや、土地の取得、社屋の建築等、それぞれに奇蹟的な助けられました。
 それまでの私は伝道に夢中でした。無茶な話ですが、家族扶養の義務感など全くなかったのです。神様のご用として伝道の仕事に携わっている以上、私どもの生活は神様が見てくださるはずという論法でした。
 ところが、ある日、妻が私の前で涙を流して訴えます。「もうこれ以上、米も味噌も醤油も買いに行くところがありません。どこの店も掛け買いで限度いっぱいです」という訳。
 私は為すすべもなく、祈りました。すると、神様は私に語ったのです。
 「働きなさい」
 「えっ、何か仕事をするんですか」
 「そうだよ」
 私の思いではなく、神様のお声が耳朶に響き、私ははっきりと答えました。「ハイ」。
           *
 すぐ立って、自転車で大分市の市街地に出ました。なんとなく、旧知のあるタイプ印刷屋に行った。すると何も聞かれないのに、そこの主人が私に言う。
「最近、女の人がタイプライターで印刷用の打字紙に原稿を打って、いい内職になっていますよ。お宅の奥さんにどうですか。牧師さんの奥さんの内職としては、可笑しくはないですよ」
 私は「ふうん」とうなずいてはみたものの、本気ではなかった。
 ところが、次に訪ねた、旧知の企業相談士の先生も同じようなことを言う。私は2人の知人のいう言葉にちょっと気が向いた。そして、今でも覚えているが、大分川にかかっている舞鶴橋の上を通る時、私の背に語りかける天使の声を聞いた。
「すべて正しきことは二人の証人によって証しされる」(第二コリント13:1参照)。
 私は「そうかっ」と、奇声を発した。確かに2人の人が私にタイプライター印刷の有力さを教えてくれたのである。私は早速、家に帰ると大阪の友人に電話で相談した。彼こそ、大阪で、当時タイプライターで印字して、それをオフセット印刷で刷りあげる、いわゆる軽印刷と称する効率のいい新分野の事業を開拓しつつあったのである。
 その友人は「よっしゃ来た」と応答してくれた。整備ずみで倉庫に眠っていた中古の印刷器械、断栽機等を船便で大分港に送ってくれた。しかも、開拓専門の営業マンまで加勢に添えて。
 私は大分では正に後発のしろうと印刷屋だったが、トントン拍子で大分市内でも有力な軽印刷屋にのしあがって行ったのである。
 何か、事を起す時、次々と後押しする者が表れてくる。そういう快感を味わう経験をする人は幸いです。神様に導かれ、神様に加勢される時、物事は順調に進む。
 ただ、傲慢にならぬよう、謙遜に、慎重に、しかし大胆に、確実な段取りで、やって行かねばならぬ。危機もやってくるが、神様は不思議な手引で支えてくださるものである。
           *
 こんなことがあった。市内の機材店から、印刷機のかなり立派なものを買った。代金は当時の金で30万円程度だが、今の物価で言えば300万円ほどであろう。私はとっさに月末に払いますからと言った。
 まだ開店早々で、私は商売はしろうと、サラリーマンが脇机でも買うような呑気な気持ちで、契約したのである。ところで、その月末が来た。私はこの掛け買いの代金をどうして手に入れようと思って、気が滅入ってしまった。
 その時、ある農業団体から電話がかかった。すぐ来てくれという。あとで考えると、年度末の3月31日のことであった。その事務局の人がいう。
「あんたとこに、この秋に収穫展のポスターを刷って貰いたい。ところで、その金を今日、前払いで払っておきたいのだよ。金はうちの上部団体の会計から出る。その金をあんたに預けるから、その領収書を切ってくれ。その領収書で私たちは金を引き出してくるのだよ」
 と、なんとまあ、滅多にないことです。私はびっくりして承知しながら、領収書を書きました。その領収書と引替えに私は金を頂きました。私は夢を見るようでした。
 だって、それは先に約束してこの月末に払うべき金額とまったくピッタリの同一額だったのです。
 しかも、そのあたりは大分市の真中に位置する事業所街でして、その支払うべき相手の事務所が、そのすぐ前のビルの1階にあったのです。
 私は、その金額を貰って、すぐに前のビルにあった某事務所に払ってきて、自分の店に帰った時、ワクワクして足が地に着きませんでした。笑いが止まりません。
 「なんだい、たったこれだけの金で笑いが止まらぬなんて、情けないじゃないか」と自分のほっぺたを何度も叩くけれども、笑いが止まらない。「お前、小人物だなあ、これぽっちの金で笑いが止まらないなんて」と自嘲しながらも、笑いがとまらなかったのです。
           *
 この商売を始める時、神様から声がありました、「仕事は十年だよ」と言うのでした。私には神様の隠れたお心が胸中に分かりました、こう言うことです。「お前の本当の仕事は伝道である。しかし10年だけ、この世の仕事をしなさい。この世の仕事をよく体験しておきなさい」。
 そして最後発の私の店が、10年もするころには、どうにかトップグループに位置する店になっていました。「おれ、あんたの店をマークしてるんだ。あんたに食いついてやって行くよ」とかなりの先輩の経営者から言われて驚いたことがあります。神様は私に恥をおかかせになりませんでした。
 そして、その頃、中小企業庁のお役人さんが訪ねてきたのです。「どうです。ぼつぼつ、事業も大型化してよい時でしょう。株式組織か、協業組合という組織があるんですが、そういう組織を作って同業者の人たちを集めませんか。九州一の会社を造れますよ」。
 大法螺のようですが、それが次第に姿を見せ始めます。同業者何人かと大きな組織を造りかけました。しかも、それがようやく発足し始めた時、私に居て欲しくない人たちが現れました。そして700万円の手切れ金を持ってきて、私に仲間から出て行ってくれというのです。
 私も実はもう実業界に居たくなかったのです。その汐時に餞別の700万円を貰ったことになったので、私は内心大いに喜びました。即刻、今のこの会堂の建設資金に回したのです。
 兄弟姉妹がたにはある意味で気の毒でしたが、皆さんには一円も負担させず、牧師の私が全額の建設資金を負担して、この教会堂を建ててしまったのです。もっとも、その後日に、皆さんには備品資材などの負担をして頂きましたが。これは決して私の誇りではありません。ただただ神様お一人の御栄光の表れでありました。感謝! 《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-01-15 14:49 | 日岡だより

No.314 新年おめでとうございます 2008.1.6

新年おめでとうございます

 旧約聖書の時代には、イスラエルの人たちはお正月を2回持ったらしい。しかし、後には秋の収穫を終ったあとのチスリの月と呼ばれた月、今の9月か、10月の頃らしいが、そのころ新年祭を守ったらしい。
 日本でも昔は太陰暦で正月を営んだが、明治以降には太陽暦がはいってくる。こうなると、都会はよいけれど、農村では田畑の管理のためには、月齢にもとづく太陰暦のほうが便利である。お正月も旧暦、たいてい約1か月遅れ、一番寒い頃である。仕事を休んで正月篭もりにちょうどよい季節となる。
 学校は太陽暦なので、子どもは旧暦の正月には休めないが、それでも農村では適宜1日2日の休暇は与えたかと思う。
           *
 私の育った家は、肥料商をやっていたので、旧の正月の2日にも初売りをした。本当の初売りは正式には正月2日にするのだが、旧の正月2日にも初売りの2番手をせざるを得ない。初売りの日は、近在のお百姓さんがたが、朝早くから店にやってくる。その日には大概の店は酒を振る舞う。私のところはクリスチャンだから酒を出さない。
 慣れない客は「正月初売りに酒を出さんとは何事か」とふくれるが、慣れた客は「ここはキリストさんなんじゃ、我慢しろ」となだめている。
 「この店はキリストさんじゃから正直じゃ、駆け引きせん。子どもでも買いに来れる。どこも、こうすればよいのにのう」などと言っている。私はそういう商売を見て育った。
 その頃はもう父は天に召されて、忠実な番頭さんがいたが、その方がそういう商売の仕方を父から教えられたとおり、きちんと守っていたのである。《く》


ハウステンボスに行って来ました

 この正月には、3日と4日に長崎のハウステンボスに行ってきました。長崎県は南北に長い地形で、ハウステンボスはそのちょうど中ごろに位置しますかねえ。数年前から、正月の時期に、何度か訪ねて来ました。妻を慰めるのにちょうど良い土地柄だ、と思うからですが、最近では妻も周囲をちょっと理解しかねる様子に見え、来年はもう止めようかと思っていますが、私には諦めにくい感じもます。

 一度、触れたかと思いますが、この土地というか施設というか、信仰を抜きにして年に一度はぜひ訪ねたい私の好きな土地です。
 信仰を抜きにしてとは、信仰に反してという意味ではありません。特別に祈りの集会を持つためとか、信仰に参考になるキリシタン遺跡があるとか、そういう意味ではないということです。
 広大な土地で、何万坪あるか知りませんが、そのほとんどが自然の森というか、ちなみにハウステンボスとは「森の家」というオランダ語だそうですが、海あり、森あり、私たちの在泊した小じんまりとした瀟洒な家は、かなりひろい池のそばにあり、いつもベランダの前に白鳥は2、3羽、来ていました。
 一方、若い人たちや老夫婦の人たちにも向いている近代的なホテルも2、3あるようで、どなたにもお薦めできます。もちろん、これはハウステンボスの宣伝のための文章を頼まれているわけでありませんから、この位でやめます、呵々。

 この度もそうですが、私はこのハウステンボスに来る時は、必ず、やや大冊本を持ちこみます。どうかすると行く時の車の中で、もう読み始めています。私は目が強いのか、脳がのんびりなのか、車の運転中に客席で本を広げて読んでも酔いません。娘などは不思議がりますが、これこそ私の鈍感力でしょう。
 今回はジョン&ポーラ・サンフォード著「内なる人の変革」でした。マルコーシュ・パブリケーションの出版です。2001年発行なのに、今まで一頁も開いていませんでした。読書マンの私としては滅多にないことです。しかも、いつもの習慣の、扉に購入年月日や私のサインをいれること、それもしていない。不思議に思いました。

 読み始めてみて、ビックリしました。今回の旅の私にぴったりの本でした。序文に「これは系統的に書いてある本ではない。どこからでも、途中のどこでもよい、ピックアップして読んでくれ」とある。旅にもってこいです。
 私は気ままに読み始めたが、なるほど気に入る所があると、その辺りの2、3行をなんども繰り返して読む、瞑想する、また読む。先を読み進んで又、元の所に戻る。
 時には気移りがして、まだ読んでいない2センチほどの厚みの先を開いて読んでみる。そういう気まま勝手な読み方である。
 そして関連して思い出せる聖書個所を参照しながら、またこの本に戻る。そういう読み方を繰り返して、ドライブを続ける。やがてこのハウステンボスに到着、本をもちろん持って、先ほど紹介した予約してある池のほとりに白鳥の待っている一戸建ての家にはいる。贅沢ですね。

 このハウステンボス、道にチリ一つ落ちていないのは、わが大分市と同じだが、エコロジー的にも完璧に整えてある、美しい町です。商品の看板一つない。パチンコ屋や飲み屋もない。いわば上品な町です。
 それかと言って、気がつまるわけでなない。立派な美術館や、騙し絵的見せ物や、可笑しな競り市や、いろいろある。大掛かりの中国雑技団や、その他の出し物も、時に応じて招くようである。それ用の大きいステージも用意されている。
 昔の大分県人なら覚えているかしら、宝塚を小さくしたような鶴見園という遊園地と、今もあるがケーブルのラクテンチを一緒にしてもっとモダンに仕立てたような、このハウステンボスを、私は大変気に入っている。
 信仰人としても、ゆっくり体も心をも休めるために、私はちょうど、ここが良いのである。どこに出て遊ぶ訳でもなく、終日部屋に閉じこもっているが、家族は自由に外出して、時おり、おいしい食べ物など持ちこんでくる。外には相変わらず、例の白鳥が2、3羽いる。

 さて、一泊二日終って、妻が座ったままでシートが昇降する特別仕様のレンタカーだが、これを走らせて大分に帰る。まさに一瀉千里ならぬ一車三百キロ、実はその間も私は祈りと賛美を忘れない。
 病気で身動きできぬ妻を連れ、九州の東の果てから西の果ての往復、無事に出来て感謝である。
 私は特に先のジョン&ポーラ・サンフォード著の「内なる人の変革」を合間、合間を見ては読むことが出来た。特にこの方の書きぶりは、合間、合間にあちこち読むのが向いている。2、3行読んでは、よそ見しながら、じっくり考える、祈る、そしてハタと気がつく。じっと瞑想する。幸福である。
 大分に帰ると、もう辺りは暗くなっていた。さっそく豊寿苑という老病弱の人たちの受容施設に行く。この施設で妻はやっと入浴できるのである。妻を週に2回お世話をお願いする。今回はちょうどその約束の日だったので、それもあってこの日、大分に帰って来た。そこで、そのままこの豊寿苑さんにお願いすることになる。有り難い。
 何だか、新年早々の記事ですが、私の身辺そのままの恥ずかしい雑事報告になってしまって恐縮です。こんな筈ではなかったと今更のように思いますが、後に戻れません。この2008年、皆様の上に神様の豊かなご祝福がありますよう、お祈りします。如何なる困難、問題をも主は知って居られます。弱き私たちを守ってくださいますね。
 先生がたの上に、諸兄姉の皆さんがたの上に、神様、イエス様、聖霊様のご恩寵と御導き御支えを祈ります。《く》
[PR]
by hioka-wahaha | 2008-01-08 15:31 | 日岡だより