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No.304 アグネス・チャン、癌だそうだ 2007.10.28

アグネス・チャン、癌だそうだ

 一昨日の新聞で、アグネス・チャンさんの顔が出ていた。「癌を隠さない勇気」という、大きな活字の見出しがあった。
 おや、「癌を隠さない勇気」ということがあるのかと、私は驚いたのだが、かつて私の妻は癌を持っていながら、それを誰にも知らさず、快活に生きていた。あれも「勇気」だと思うのだが、どんなものだろう。
 妻は最初、30歳前後の頃だったか、乳癌だった。私の神癒伝道第一期のころで、絶対妥協しなかった。たとえ死ぬのなら、死んでくれ、と私は妻に宣言した。何時の間にか治ってしまった。
           *
 その後、今度は肺癌になった。人は先の乳癌の転移だと言った。私は承知せず、医者にも行かなかった。その後、東京・板橋の誠志会病院の岡田先生に見てもらう折があったが、その時、岡田先生言わく。
 「ああ、治っていますね。しかし、大分に帰った
 ら手術してもらってください」
 と言う。私と妻は浮き浮きして、三田線の蓮根駅まで歩んだことを覚えている。
 大分に帰り、県立病院に行って、手術を受けた。手術を終わると、医師が大きな塊を見せてくれた。妻の肺から摘出した肺の死んだ癌巣であった。
 こうして、妻は癌を2度経験したが、すべては快癒した。こうして、私の妻は癌を癒されたけれども、通常癌は必ず死ぬと言っても良い。
 だから、癌は人生を考えさせる。死に至るまでに、かなりの時間がある。人生にとって死は常に、そうである。メメント・モリ! 死を覚えつつ生きる。そこに人生がある。《く》


平和論を超える(二)

    三、サタンとの戦い
 人間の善意による、如何に広範で熱意ある平和・非戦主義、核反対等、そうした働きがあるにしても、世界の破滅は100パーセントの確実さでやってくるだろうと怯え、また諦めている人々を力づけ、平安を与え希望を与えるのはキリストだけです。
 たとえ世界が滅びるにしても、そのあとに必ずやってくる永遠の世界を知った者でなくては、万一無駄に終りそうな反核反戦の運動を続ける勇気と根気を持ち得ることはできません。
 それはつまりサタンとの戦いである。サタンによって誘惑されたエバとアダムの罪は、折角、神から頂いた「知恵」に、罪の仇花を咲かせ、しかもそれは一時は、20世紀初頭までは何とすばらしい文明の凱歌にさえ見えたのです。しかし今やそれは人類の命のとどめを刺すサタンの陰険な武器であり、サタンの長い忍耐に富んだ戦略であったことがはっきりして来ました。
 今われわれが戦う相手は国家でも軍部でも死の商人でもない、その背後にあって采配を振るうサタンそのものである。そしてサタンは何よりも核の恐怖をちらつかせて青少年を始めすべての民に気弱で怠惰で投げやりな刹那主義とニヒリズムに追いやることを目下の戦術としているように見える。
 このサタンの挑戦に対していわゆるヒューマニズムから出る反戦反核の諸活動は全く甘く無力なのではないかと私は絶望する。世間の目には、われわれ福音伝道の活動も又、甘くて世間ばなれのした力の無いものに思えよう。
 しかし私は言う。キリストの福音こそ物事の急所に迫る神の剣である。福音は回りくどいように見えようが、その実、物事の急所をつく本質的な訴求力があるものなのだ。
 かつての、日蓮宗日本山の藤井日達師たちがやっておられた太鼓を叩いて回る、あれは戦争の霊、悪魔の霊を追い出す反戦反核の根本行であったかも知れない。あるいは白宏真光会の「世界人類が平和でありますように」のスローガン貼り運動、これらはとにかく、些細な行為であっても実行的でその宗派なりに信仰的である。
 私たちクリスチャンにはどういう道があるか、ここ一番、私たちはあの人たちに負けないような真剣な祈りと実行が必要である。非常に簡単な方法がある。皆さんは笑うだろうが、私の旧友の一人は一軒一軒なにがしかの金銭を乞うて廻る托鉢行をしている。この托鉢行の内実は心の平和行である。これは案外最高の平和運動であるかもしれない。

    四、クリスチャンの道
 私達のしなくてはならぬこととして次のようなことを私は考える。
 (1)前回に書いた核ニヒリズム(私の造語だが)から来る前述の享楽主義、非行、残虐な殺人、親殺し、子殺し等、こうした蝕まれた道徳社会に対して、根本的な伝道がなされねばならぬ。福音の中核から彼らに打ち込む霊的救済が必要だ。そこで、単なる弱者を救う愛の宗教といった救済姿勢を超えて、悪魔の終末的掠奪戦法に対する福音戦線からの霊的奪還、対サタン戦争という角度から伝道するのである。
 (2)大臣、財界人、労組指導者、文化人、あらゆる団体結社の長と名のつく人、がんばり屋さん、おイソガシ氏、現代日本を築き上げ、支えてきた人たち、それら尊敬すべき方々すべての人に忠告せねばならない。あなたがたは働き病です。忙しいということも一種の罪であることが多い。家庭をほったらかして妻をPTA狂奔型かアル中にしてしまい、あるいは子供を肉体肥満、非行、暴力、親虐待にまで追い込んでしまう。
 それで、折角あなた方が築いた経済と文明は、今、既に方向性を失っているのです。あなた方はサタンの知恵に乗せられて地球を滅亡に追いやっている悪魔軍の手下になってしまっているのです。
 この世で偉いと言われているあなたがたは実はしばしば孤独である。そういう人々には真実を語る人は近づかない。利益を求め、おべんちゃらを言う連中が沢山集まる。それらの人々に私達は真実の言葉、水割りせぬ言葉をぜひ伝えねばならぬ。注意しなさい。文明も文化も屡々まやかしである。旧約聖書創世記を読むと産業も芸術もカインの子孫の所産であるとありますからね。
 (3)キリストの預言された世の終りは、まさに迫っているのだとの認識をはっきり持とう。「核の冬」がすなわち「終末」なのか、そこまでは私たちは断言しかねる。しかし現代はまさしく終末近しとの思いを深めざるを得ない。社会の症状、地球の症状は余りに多く、その証拠として露呈している。
 そして終末とは何よりもキリスト軍とサタン軍との決戦であることを覚えておこう。教会は今、終末的「現代」に即した神学と伝道牧会の実践学、いや実践家を必要としているのではなかろうか。
 クリスチャンは世界の終末を恐れない。だから、核による地球の生命の潰滅を恐れ、あるいは戦争の悲惨さを恐れて、平和論を唱え反核・反戦を戦おうとするのではない。
 クリスチャンは、世界の終末を恐れるどころか、期待して待ち望んでいるのだとも言える。それは主イエスが再び来たり給い、栄光の輝きをもって来たり給う新天新地が開けることを信じているからである。
 すべての信仰と希望の達成する日、大歓喜の日が開けるのであるから、歓呼してこれを待ち望もうではありませんか。《く》(前回を含め、1984年8月15日の旧稿を再掲載しました)

〔あとがき〕
本当は主要頁を用いて書きたいのですが、藤川ミツ姉の帰天のことです。後日に詳細をしたためます。
 藤川ミツ姉は10月21日、午後9時42分に天に召された。姉は1914(大正3)年10月26日、沖縄にお生まれ、今年93歳でした。あと5日でお誕生日でした。近親者と信徒諸兄姉の列席にもとに22日に前夜祭、23日に葬儀を当教会堂にて感謝と哀悼のもとに行われました。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-30 13:16 | 日岡だより

No.303 癒す力はキリストにある 2007.10.21

癒す力はキリストにある

 ある女性が群衆にまぎれこんでイエス様の衣(ころも)の裾にさわりました。「この方の衣の裾にでもさわりさえすれば私の病気はなおる」と自分に言い聞かせつづけていたのです。
 そうすると一瞬にその病気がなおりました。とたんに、イエス様が振り返りました。
 「誰がさわったのかね。私から力が出ていったよ」
 とおっしゃるのでした。イエス様は神様ですから、イエス様からは神の力が出て行くのです。
 イエス様が神様だということは、イエス様は人間の歴史上唯一無二の方だということです。お釈迦さんもマホメットさんも修業し、瞑想して偉大な人になりました。尊敬すべき人です。
 しかし人間の一人であることには間違いありません。その証拠には、このお二人にはちゃんと墓があります。イエス様には墓がありません。
 昔、子どもの遊ぶ自動車のおもちゃなど、ゼンマイがついていました。その内、電池をつける自動車が出てきました。奇蹟の力はこの電池に似ています。
 この奇蹟の力のことですが、もちろん、人間といえども熱心な修業でもすれば、相当の奇蹟は起こせます。しかし、私たちはイエス様という神様の力の源泉から電池をもらったり、電線を引いたりして、神癒のご奉仕をしているのです。
 この力の源泉は本当に強力なのです。その力をフルに働かせさえすれば、すばらしい奇蹟が起こるのは当然ですが、でも、お力を受ける側が、電気が流れやすい銅のような良導体でなくてはなりません。
 皆さん、私が銅のような良導体でありますように祈ってください。この教会に癒しの奇蹟が益々起りますように。《く》(1996年の「テレホン聖書」より)


平和論を超える(一)

     一、核戦争の恐怖
 もう20年ほど前のことだが、NHKのテレビで「核戦争とその後の世界」を特集していたことがある。私のノートに残しているのだが、次のようなことを言っていた。
 もし核戦争が起ったならば、その核爆発によって拡散したチリは放射能を持っているから、それは人類やすべての動物や植物に異常を来たらせる。核爆発により人類の一割が死んで九割が生き残るとしても、その生き残った9割の人類もやがて自らの原爆病と、そして食料とすべき動植物の異常衰亡でやがて死んで了うだろう。
 幸い、その試煉に奇跡的に耐えて生き残ったとしても次の死が待っている。大火災による煙は成層圏へ上昇しその結果全地球に6か月ないし3年の凍結期をもたらす。すべての植物、海中のプランクトンも熱帯の密林も遂に枯れ果てて、地球の表面は砂漠のごとくになってしまう。当然、酸素が地球上より消え失せる。
 その時生き残る可能性のあるのはゴキブリぐらいのものだという。アメリカの国会でだったと思うが、調査会に呼ばれた2人のアメリカの学者と、もう2人のソ連(!)の学者が特に地球凍結について語っているのが印象的であった。
 ちょっと気がついた一挿話がある。この時ソ連の学者の一人がこういった。「核を凍結しなければ地球が凍結されます」。レトリツクとしては秀逸である。しかしどうも政治臭い感じがする。僕らならこう言うだろう。「地球が凍結されれば地球上の生命は根絶やしになります。しかし核は凍結されても決して根絶やしにされません。核は廃絶するよりほかはないのです」と。
 この放送は是非ビデオにとっておきたかつた。平和教育・核反対の宣伝に絶好の視聴覚資料だったと思う。これを見て核戦争の行きつくところは、無惨、無意味、人類というよりも地球上の生命そのものへの反逆、犯罪なのだ、ということを考えない人は一人もあるまい。そしてこれを見た人は誰でも核絶滅の願いを抱くことであろうと、一度は思ったことである。しかし、

     二、核によるニヒリズム 
 あのような世界終末の恐怖をもろに見せつけられて、却ってまったく別の考えを抱く人も案外多いのだということについて、私はこれまで考えたことはなかった。そのことを教えてくれたのは大分合同新聞のN記者であった。それは若い人たちに特に多いのだというのであった。
 「つまり、こう考えているんですよ。『どうせ、この世界は核イッパツで終りじゃないか。明日か、今夜か、いや今この瞬間か、何もかも無くなってしまうかもしれない。金総書記かブッシュ大統領か、どいつか知らないが、そういう他人に俺の命が握られているなんてたまらないよ。しかし、これはどうしようも無いじゃないか。受験戦争がんばれ、人生がんばれ、成功せよ、積極思考を持て。
 冗談じゃないよ。どこに自分でがんばって自分の人生を勝ち取るゲームがあるんだ。どんなに絶対な勝ち札を持っていたとしてもテーブルの下には今か今かと水爆が待っているんだ。だからさ、今日生きている間、好きなことをして面白く可笑しくすごすさ。へへっ、これ以外どんな人生があるって言うんだい、えっ、おじさん』こんなふうにやられますよ」
 このN記者の教えてくれた言葉は私の心に深くつき刺さって残った。ここには大正時代にはやった芸術家達の一種ロマンチックなニヒリズムなどとは比べものにならない深刻で現実的なニヒリズムがある。誰がこれに説得し得るだろうか。
 現代の症候群、青少年の非行、中年にまで至る享楽主義、無気力、怠惰、麻薬中毒等々、これに逆対比してあくなき金儲け、多忙、働きすぎ等々、全てこのニヒリズムによるのか、あるいはこのニヒリズムを意識して無視する結果からくるのか、そのいずれかだと診断して誤りはあるまい。
 今、教会はこの現代の暗部を見る目を失っているように思う。罪を説いても祝福を説いても彼らは白けてしまう。彼らの問題点を突いていないわけだ。終末を説いてさえ彼らは白ける。「エホバの証人」式に最後の審判の恐怖を語っても、彼らにはその恐怖は多分無いのだ。
 あるのは明日への無価値感であって、期待するものは何も無い。恐ろしいのは現在を生きることであるが、その恐怖に埋没して神経症におちいるか、それを忘れようとして肉欲の渦中に溺れるか、これしかない。
 そのような人々にキリスト教は何を語り得るか。何を為し得るか。キリスト教にこそ、それらの人々に語ること、為すこと、与えるものがあった筈ではなかったか。それを今、われわれは忘れ果てているのではないか。
 私たちクリスチャンが平和問題などを考える時、それを信仰問題よりも一段次元の低い問題として考える傾向がありはしないか。(中には低次元のことと考えずに、両方を弁証法的緊張関係で捉える方もおられるだろうが)。そこに私達が平和問題に心底から真剣になり得ない理由がある。戦後すぐの時、赤岩牧師があらわれて「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という二分法を用いてキリスト教と共産主義の使い分けをしたことがあったが、その二分法を今でも我々は信仰と平和問題において用いているのではないだろうか。
 今わたしたちが直面している核爆発を抱え込んだこの平和問題は決して「カイザルのものはカイザルに」という二分法では片づかない事だと私は思う。これは窮極には政治家にも社会運動家にも手に負える問題では無いし、だから、彼らに任せておける問題でもない。(未完)《く》

〔あとがき〕
日出町大神に無教会的僧院を営む田口学法兄のトークライブに行ってきた。心理療法家の浮木さんとの放談会のようなものであるが、あっけらかんに「ワッハッハハ」である。私の笑いの学派を乗っ取ったような形であるが、私も楽しんで2時間を過ごした。「何も無くなった時、得るもの多し」との体験的悟りを語ってくれた。学法兄、いいなあ! 《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-23 16:43 | 日岡だより

No.302 日本に本当にリバイバルは来るのか? 2007.10.14

日本に本当にリバイバルは来るのか?

 今週のリバイバル新聞にややショッキングな記事がある。大記事ではない。どの新聞にもある第一頁の横帯欄だ。朝日で言えば「天声人語」だが。
 その欄の記者が、何年も前、ある人から「日本にリバイバルが来ると信じていますか」と問われたことがあるそうだ。その時、こう答えたと言う。「いやあ、それは分かりませんね」。
 質問者はひどく呆れた。それはそうだろう。「リバイバル新聞社」の代表者が言うのだから。しかし、その欄の記者、多分、代表者・谷口さんとしては正直な答えだったのだと書いている。クリスチャンとしてウソは言えないと言うわけだ。この逸話は私の心を深くえぐった。
           *
 私だったら、そんな時、なんと答えるだろう。かつて、手束先生の民族総福音化運動の機関紙にある先生が、「この民族総福音化ということ、そう簡単には達成できまい」と第一頁に書いておられた。その用語をはっきりは覚えてはいないので、ご勘弁願いたいが、要するに「民族総福音化ということは、あわてないで、ゆっくり待て」ということだったかも知れない。
 これは人間の正直な事態の見通しである。そのとおりだろうが、神様はこう言われる。
 「もしおそければ待っておれ。
  それは必ず臨む。滞りはしない。」
 その前文にこうある、「この幻は……、終わりをさして急いでいる」とも。民族総福音化の幻は単に手束先生の夢ではない。神様からの幻なのだ。神様は実現を期して急いで居られる。《く》


人類の栄化、宇宙の回復

 ローマ人への手紙第8章18節~20節をテキストとします。できれば「聖霊も万物も共に苦悶し待望する」というサブ・タイトルをつけたかったのでした。
 ローマ人への手紙に見る聖書の自然観は壮大です。すべての被造物、宏大なるこの宇宙と、地球と、そこにある鉱物、植物、動物のすべて、それらはすべて虚無に陥っています。
 彼らはその虚無的惨めさから解放されたい。そのために人類が完全に救われ、彼らが神の国の相続者となる日、その日を待っているのだと言うのです。
 この人類の救いを待つ彼らの心は、今、うめいているのだという、これがパウロの自然観です。「花鳥風月、山川草木」を愛でる日本人がおおよそ思ってもみない超絶的自然観です。
 これが本来の聖書が持っている自然観です。日本的自然観は、どこか閉じられた絶望の囲いの中で、「このままでいいのだ。わびしい自然だが、自然法爾の美しさがある。」と自己催眠をかけて続けているのだと考えることも出来ます。
 新共同訳でローマ8:20に、「被造物は……希望をもっています。」とありますが、その前後でパウロはすべての被造物を擬人化して、彼らに感覚があり、感情があり、意志もあるかのごとく見なしています。
 私はこれを無意味には読めません。最近のごく一部の、それも変り者かはしれませんが、とにかく第一線級を行く科学者たちが「ひょっとしたら、この宇宙は一つの生命体ではなかろうか」などと考え始めました。
 ヨーロッパ的キリスト教は自然を死者、劣等者とみなし、これを傷つけ、これを奪うことは、神様から与えられた人間の特権のように決め込む癖があったようですが、本来の聖書は違います。
 今、一部の科学者たちが叙上のように宇宙生命観に目覚めかけています。これはキリスト教にとっては歓迎すべきことでありましょう。
 宇宙は人類の完全な救いを待ち望んでいるのです。
            *
 さて自然以上に、人類は悲惨な状況にいるのです。文明は発達して、今や文明が人類を恐怖のどん底に落とし入れようとしている様相すら見え始めています。人類には自己救済能力は無いのでしょうか。
 然り、個人として見ても、そう見えますね。善い暗示よりも、悪い暗示を受けやすく、善い決心よりも、悪い決心のほうに乗りやすい。善い言葉よりも、悪い言葉を覚えやすく、精神的上昇機能は低いのですが、下降機能は強力です。この傾向はキリスト者といえども同様でして、霊性において救われていても(その事は確かなのですが)、心の持ちかた、身のこなし方等について、とかく出来が悪い人が多い。クリスチャンにあるまじき道徳的罪をさえ犯す人もある。そして、クリスチャンであるばかりに殊更に厳しく良心を責めさいなまれる、という矛盾の構図(ローマ7:7~24)が起るのです。
 もともとこの人類の罪こそ世界苦の元兇。万物はその巻き添えを食って、共に苦しみ痛み、うめいているというのが前述のローマ人への手紙の所論です。しかしまた万物はその回復の希望を人類の救いの上に期待しているとも聖書は告げます。故に私たちキリスト者は、単に人類の苦悩を歎くと言うだけでなく、被造物すべてに対する申し訳ないという謙虚さをも持ちつつ、未だ救われていない人類同胞に対する「うめき」とも言うべき救霊の祈りと伝道が必要であるのです。
           *
 さて「うめいて」いるのは被造物と人類だけではありません。ローマ8:26によれば、聖霊様は「切なるうめきをもって私たちのために執り成して下さる」とあります。
 聖霊様は神様の「精神」です。聖霊様は、人間の霊とチャンネル出来ますから、人間の心が分るのです。人間の最も深い情報も汲み取ることができます。そのゆえに万事を相働かせて信じる者のために益と成らしめる」ということが出来るのです。それのみか、神様はその全智全能の予知と計画によって一人一人をあらかじめ選び、召し、義とし、遂には栄光を与え給う、という日がくるのです。その宇宙万物の回復の日は意外に近いだろうと私は信じています。
 さて、万事を相働かせ万物を一つの目的のために動かせることの出来る全能のお方、このお方の一手に宇宙の保全と未来があるわけです。故に聖書の歴史観、人生観は運命論ではありません。摂理論です。神様のご意志が全てを決定するのです。そこで、その神様の子らであり、その御国を相続するキリスト者は、神様と共に自分を含めて万物に対する分権的権威をもっているのです。しかり、その故に私たちは私たちの現在と前途を取りまく一切の環境に対し、神様の御旨に沿う計画とその実施、変更と達成のために、命令することさえ出来るのだと思いませんか。
 そうです、ペテロはイエス様の真似をして「タビタ、クミ」と命じました。すると死んでいたタビタ、つまり訳せばカモシカ、このカモシカ女史が即座に生き返りました。ところで、先日のことです。A君の自動車がエンストしたそうです。そこでA君は、「エンジンよ、もう一度、動き始めよ」と命令したというのです。するとエンジンが動き始めたそうです。主を崇めましょう。天地回復の大奇蹟の前興行が今教会で起っているのですよ。(1988・9・11の週報再掲載)

〔終わりに〕
終わりに大事なことを書きたい。小さな字で書くけれど、大切である。「本当に赦すということ」という本を見せて貰った。「許す」という言葉と違い「赦す」という言葉には、心の奥の深い罪をも許すという意味合いがある。これは本当の意味では、人間には実行不可能なことだと気づきませんか。「主の祈り」で教えられるイエス様の言葉、「私に罪を犯した者を私が赦しましたから、私の罪をもお赦しください」のお言葉も、同じくこれは私たちには不可能にみえる。人は本当に100パーセント人を赦すことはできない。しかし、不可能なことをイエス様は私たちに命じられる筈は無い。そう言えば、マタイ5~7章のイエス様の教えも似たようなもので、実行不可能な教えではないか、これを実行しようと思って、かのトルストイは神経症に陥ってしまったように思える。しかし、貧乏な人は借金を払えないが、百万長者は幾らでも払える、いや、人の困っている借金さえ代払いしてやれる。しかし、貧乏人であっても、大金持ちから金を廻して貰えれば、どれだけでも自分の為にも、人の為にも金を使える。同様に、人の罪を赦してあげる心の財産を神様から廻して貰いなさい。それは「愛」です。赦すというより、愛するのです。この愛の力を神様に求めなさい。その力で敵をも愛するのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-16 19:03 | 日岡だより

No.301 次代牧師候補者、出でよ! 2007.10.7

次代牧師候補者、出でよ!

 古林三樹也先生から、毎日メールで通信が送られてくる。み言葉によってピシッと短いメッセージや、味わいの深い先生の黙想や、又もっと面白くてたまらない雑記事(失礼!)が満載です。
 一昨日(つまり10月5日)の記事の中の「今日の日」という欄、「この日、山口百恵ラストコンサート、1980年、武道館で『さよならの向こう側』を歌い終えると、足もとに静かにマイクを置き深々と一礼して、そのままカーテンの向こうへ」と書いてありました。
 よくもまあ、こんな事を、也先生、どこで調べてくるんですかねえ。
 ともあれ、だいぶ前のことですが、テレビで、世田谷あたりの住宅街を、主婦然として買物にでも歩いていた百恵さんの姿を見ましたが、綺麗さっぱり過去を捨て去った、彼女に感心させられたことでした。
           *
 ところで、私のことですが、常識的にはもう引退時期に来ています。「お元気ですなあ」と言ってくれる方もいますが、いえいえ、後継者が見つからず、困っているだけの話です。
 こういうことを、言うのは現在のこの教会の信徒諸君には無礼千万の話です。それは、「あなた方の中に、牧師後継者に相応しい人がいない」ということでもありますし、また、そのような人材に育てていなかったということでもあります。
 要するに、私が牧師失格者と自認すべきことなのです。リーダーは常に次代のリーダーを用意しておかなくてはなりません。ともあれ、小生の引退を待ち受ける次代牧師候補者歓迎です。《く》


霊的世界における対話について

 先々週、299号の記事の中で、神様との対話ということを書きました。今、天界にいる私の父や母や伯父との会話などについても書いたのでした。
 これは皆さんに誤解を与える恐れがあります。ある方々は私をいわゆる霊能者のように思ったかもしれません。私も時に霊界通信などを読むことがありますし、私はああいう書きものを一概には否定しません。あり得ることだと思います。
 しかし、本気になって受け入れる必要もありません。こうした種類の本の読み方は、その記事に真実なイエス・キリスト様の御心の香りがあるか、どうかということが、判定の基準です。私が一番愛読するのはスンダル・シングですね。それから、異論はかなり多いのですが、スエーデンボルグです。
 一時、多摩川の上流のほとりにあった、日本古来の天皇家にまつわる(と自称する)神道道場に、2か月ほど、書生風に居食させて頂いたことがあります。そこには組織者の大先生と、霊媒もなさる夫人とが居られた。もう50年も前のことです。どうかすると、私のキリスト信仰が侵されそうな気がして心配であったことを覚えている。事実、危険だから、こんなことを誰にも薦める気はありません。
 なぜか、私を気に入って、「釘宮さん、ここに家を建ててあげるから、奥さんも連れてきて一緒にやってくれないか」とさえ言われたことでした。祖述者として、側に居て欲しかったのだと思う。
           *
 ともあれ以上は、私には最近の流行語、スピリチュアルな傾向は殆ど無かったということを書きたかったのです。
 冒頭に書いた、天界の父たちとの会話の事ですが、あそこを注意して読んでくださると、私は心の中で遊戯のようなことをしていたのだと、分かってくださると思います。
 よく私は言う。私たちの心は2重構造になっている。私たちの心は対話的組織になっている、と。
 科学的研究者が、その研究をしている時も、作家が小説を書いている時も、夢中になっている時は別として、いや夢中になっている時ですら、「うん、今うまく行っている」とか、「いや、これは駄目だな」などと、自己称賛や自己批判の会話をやっているでしょう。まして困難にぶっつかっている時は、様々な低迷語で考え込むことでしょうね。
 あっさり、あの時の状況を白状すると、そうした私の心の内面構造の中では、一方の私が(申し訳ないですが)神様の代理をして、私と対話していたという訳です。つまり独り芝居。
 そんなことは「あんた、不謙虚だよ」と、叱られそうですが、しかし私としては意外に楽しかったのです。パウロは良心と呼びますが、人の意識の深いところ、いわゆる潜在意識よりももっと深く、私は深層意識と呼んでいるが、更にもっと深く神層意識と呼びたいのですが、
 その箇所で、私たちは少しでも、また小さくても、エリヤのように天来の「細き声」(列王記上19・12)を聞くことができるのだと思うのです。これが良心なのだ、と私は思うのです。いろいろ自分のことに気づかいをし、嫌疑をかけるような臆病な心を良心と思いやすいけれど、これは誤りです。
 以上のような次第で、神様代理の内なる第二の私と、第一の私が対話していたということです。大したことではありません。ただし、先にも書きましたが、非常に楽しかったのです。
           *
 実際的に言うと、まず手始めにニコニコ笑いながら、祈りの言葉を神様に申し上げるとよいのです。(私の小冊子に「笑いながら祈る祈りの方法」という薄い冊子がありますから、これを参考に読んでください。)
 そうすると、有り難いことに、いつでも神様第一、という生き方が始まります。神様を神経質なカミナリ親父のように恐れないで、遠慮なく心の中でいつも会話するような祈りをつづける事が出来るようになります。
 そうすると「絶えず祈る」という聖書の御旨が難なく可能になります。そうすると、「いつも喜んでいなさい」と「すべてのことに感謝しなさい」という2つの御言葉が、これで簡単に可能になります。
 この「常に喜んでおり、すべてのことを感謝する」というようなことは、並な決心では実行できません。多分、どんなに堅く決心しても不可能だと思います。しかし、これが「習慣」になると簡単です。
 ですから、聖書で「常に、絶えず、すべてのこと」と命令形で書いてはありますが、本当はこれが習慣になってしまっていなければ不可能であるということです。もっと説明しますと、
 「絶えず祈る」という事は、現実の問題として、口を動かし、声を出す祈りとしては、厳密には不可能です。しかし、心の中で言葉を繰り返して言っているという状態は、案外簡単です。
 自由にあなたの意志で、あなたの言葉で、遠慮なく、神様に、またイエス様に、時には聖霊様に、何時も語っているということは案外、簡単に出来ます。
 こうです、ニコニコ笑いながら、優しい神様に向かって、遠慮なく、気軽に、手が余って居れば手を叩いて、会話を始めるんです。目をあげて、天におられる神様とイエス様を見上げてください。
 神様もイエス様もニコニコ微笑んであなたを見ておられます。あなたは自信を持って、「お父さま、イエス様」と声をかけてください。喜んでイエス様はホイホイとあなたにお顔を向けて下さるよ、と言えば、敬虔な先生がたからは叱られそうな気もしますが、さあ遠慮なく天を見上げてください。
 そこで、あなたの心にイエス様が来て下さいますよ。あなたは自信をもってイエス様をお迎え下さい。
 信仰の向上のすべては、ここから始まります。皆さんの上に、ご祝福を祈ります。《く》

〔あとがき〕
台湾に宣教師として、おもむかれておられた松田敏子先生が一昨日、教会に見えられ、佳き楽しい時を持ちました。先生を由布院にお送りしましたが、宿泊など中尾はるな姉が行き届いたお世話を下さって、感謝でした。松田先生の台湾での宣教のご経験など素晴らしいお話をお聞き出来て感謝でした。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-10 00:12 | 日岡だより

No.300 誰も行かないところへ 2007.9.30

誰も行かないところへ

 ミャンマーの今回の政変のあおりを受けて、軍事政権がわの兵士の銃撃で亡くなられた長井健司さん、フリーの報道写真家のようであるが、この方がかねて口ぐせのように言っていたという言葉が、毎日新聞に紹介されていた。
 言わく、「誰も行かないところにも誰かが行かねばならない」。
 この夏、久留米聖会に高森先生から招かれて、1時間ほどのメッセージをさせていただいた。その時の私の主題は、「さらに地の果てまで福音を宣べ伝えよ」というのでありました。
 まさに、「誰も行かないところにも誰かが行かねばならない」ということでありましょうか。何も、地の果てまでもと言っても、アフリカの南の果てとか、アラスカの北の孤島というのではない、案外皆さんのそばに「地の果て」がありはしないか、と言ったつもりでありました。
           *
 この7月のことだった。S姉が気にしていた、ある家庭を訪ねた。主人が顔色を無くして、ぼんやりうずくまっている。そばに奥さんや娘さんも居るのだが、為すすべもなく、これもぼんやり座りこんで居るだけ。
 S姉がせきたてて、主人を病院に行かせたのだが、命も危ない瀬戸際だった。一時は臨終覚悟の特別病室に移されたくらいだ。
 この人も豊かな日本の社会の一隅で、あたかも死角に置かれて誰も訪ねる人がいない。S姉と私が訪問した時が、最後の命綱であったであろう。
 「地の果て」は、あなたの、すぐ近くにもあるかもしれない。細心に周辺を見回し、神様に「地の果て」を発見させて頂くよう祈りましょう。《く》


「仕事より神様、家族が大事」

 クリスチャン新聞9月30日号を見ました。そのトップに、この前、日本ハムを退団されたヒルマン監督の講演の概要が載せられていました。その見出しの言葉が、標記のタイトルです。
 ヒルマン氏は、日本ハムの監督に就任5年にして、日本一の栄冠を得、今年になって障碍も多かったのに拘(かかわ)らず首位をキープしてきていた。そうしたさなか、折角の好調の球団を捨ててアメリカに帰るのはどういう訳か。多くの人は首をかしげた。
 ヒルマン氏はこの疑問に答えて言う。「私には2人の子どもがいる。ちょうど多感な時期で、そばに居てやりたい。私は父親としての責務を全うしたい。野球の監督であっても、家庭の父親であっても、それぞれのリーダーとしての責任がある。私は子どもの教育のこと、子どもの環境を考えて、今はアメリカに帰って一緒に暮らすことが最善で、それが優先順位第一だと信じたからである」と。
 格別にまだ、アメリカにおける仕事が決まっている様子でもない。ヒルマン氏の決意は堅い。彼は言う、「仕事は大切です、しかし、最も大事なことは神様の御旨、そして次は家族です。この2つをさしおいて仕事に従う事は出来ません。」
 以上は前記のクリスチャン新聞9月30日号から、私の気軽に写し取ったもので、正確ではありませんが、大きな誤りは無いと思います。
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 何事もまず信仰において決める。そして家族を大事にする。アメリカ人らしい、簡潔で分かりやすい氏の判断の「正直」な説明です。ヒルマン氏は聖句を引用してまで、「正直に語っている」ことを強調していました。
 私はこのヒルマン氏の語ることや、その態度に非常に好感を持ちました。そしてあらためて、問題を考えたのですが、日本人としてはちょっと気になるところがあるのに気づきました。それはヒルマン氏の問題ではなくて、我々日本人の問題としてです。
 たとえば、原則的には仕事の事は後回し、まず家族の事情を考える。最初、仕事を選ぶ時、その職種の内容や職場の位置が、わが家の信仰、思想と背反しないか。また、その所在地にわが家の位置は遠過ぎはしないか、こうした事を考えるのは当然でしょう。家族の事情は仕事以上に重大なのです。
 しかし、既に仕事が決まってしまったら、仕事の事のほうが、家族以上に重要になることが多いのです。これは日本的な問題かもしれません。
 たとえば、職場の就業時間内に家族のことにかまけて居られません。尤も、女性社員が、家庭の料理の材料を勤務中に近所のストアーに買いに行くことがあります。その程度は大目に見て貰えるようです。それでも、それが頻繁になりますと非難がおこるし、上司から注意されますね。こうなると、仕事のほうが家族よりも大事なのです。
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 教会ではよくこういうことが起こります。ある初信の信徒のかたが、牧師のところに来て言います。
 「先生、来週の日曜日は、子どものPTAがありますので、休みます。」
 実に堂々としておっしゃる。子どもの教育に関する事だから、これが優先順位第一ということですよね。日曜の教会は第二です。そのように、はっきり決めている訳ではないが、事実はそういう結論になっていることに気がつかないのです。
 だんだん、教会生活に慣れ、信仰がすすみますと、こういうことになる。
 「先生、来週の日曜日は子どものPTAなんです。恐れいりますが、PTAの懇談会だけには出たいので、教会の午後の奉仕を休ませてください。」
 もちろん、牧師は「いいですよ」と言うでしょう。ひょっとしたら、「姉妹、その懇談会でよいチャンスがあったら、み言葉をうまく挟んでくださると嬉しいね」などと言い添えるかも知れません。
 ヒルマンさんは、重要度を第一神様、第二家庭、第三仕事、とはっきり線引きしていますが、日本社会では第二と第三の関係にはやや困難な関係がある。そのことを前項に書いてみました。
 日本の男性社会においては、家のことは後回しにしてでも、会社の仕事を遅くまで残業したりする。優秀なサラリーマンほどそうです。それを奥さんのほうがメソメソ不平言っていると、奥さんのほうが非難されます。
 だからと言って、旦那さんの我が侭、勝手を無制限に許す社会風俗はさすがにもう日本には無くなりました。歓迎すべきことでしょう。こうした中で、日本男性クリスチャン、心して日本風俗というか、その社会慣習のなかで、精錬された良き風格を造ってください。
 しかし、こうした生活規範的なことを万事几帳面に厳密に行い済ませなさい、と言っているのではありません。下手をすると、律法主義に陥ります。勿論、こうした一般生活を含め、教会生活をキチンと守ることは良いことです。
 しかし、そうした行為的な面だけに注意力が廻って、暖かい信仰の心の面が失われやすい危険があります。自分の完全主義を誇り、行き届かない他の信徒たちを心の底で批判している。律法主義の欠陥です。「神を畏れて律法を完全に守ろう」という思想は、旧約聖書にはよく出てきます。
 この「畏れる」という言葉は「かしこむ」という意味でして、恐怖の「おそれる」ではないのですね。しかるに、神を恐れ、聖書の「……するなかれ」等の言葉に違反する事を恐れて戦々恐々と御言を守る。
 悪いこととではないのですが、しかし愛の神様の目からみると、いじらしいやら、可哀そうやらでしょうね。そしてもっと楽に私の膝に来て遊びなさいと、おじおじしている子どもたちにおっしゃるのではないでしょうか。《く》

〔あとがき〕
この「日岡だより」、遂に300号。毎号の記事を書いている私自身には、やはり感慨深いです。日本語の伝統から言うと三百という言葉は実は蔑称です。三百代言と言う言葉がありますが、明治時代、無資格の弁護士を指す言葉でした。無資格と言えば、私の前半の生涯は全く無資格時代でした。事務補佐官やら助教諭やら、しかし信仰はイエス様から完全な資格を頂戴です。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-10-02 14:03