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No.299 「ヘンシーン!」 2007.9.23

「ヘンシーン!」

 かつて「ヘンシーン」と言うのがはやったが、最近の国井君がそれだと、もっぱらの評判である。
 彼の入院しているD病院に行ってみた。大きな口を顔一杯に開けて、「センセーイ」と声を上げて私を迎える。
 目をギョロンと開けてと言えば、形容としては拙い言葉だが、実際ギョロンと開けるのだ、そして歓迎の両手を広げて、「教会の先生だぞオ」と周辺の患者さんたちに言う。
 「道ばたで酒を喰らって寝ていた時に、この牧師先生に救われたんだ」と、紹介する。
 まさに、これがかつての呑んだくれの国井一男兄弟である。生まれは東京の足立区、川崎の工事現場から名古屋、姫路と流れ流れて、この大分に来た。
 金が少し入れば、すぐ無人販売機の前に立ってガチャンと酒缶に手を出す。その彼が、病院の中だから当然だろうけれど、しらふで気炎をあげていた。
 まさに一本召し上がったような勢いで、「ねえ、ねえ。聞いて、聞いて。あっしにはイエス様が染み込んでいるんだ。この信仰さえあれば、怖いもの無しさ」と皆を見廻す。
           *
 「あっしはまだ駄目だけどねえ。教会に行ったら皆に聖書のお話を教えてくれるよ。あっしは2年、毎朝、早天祈祷って言ってさ、朝早く教会に行って祈るんだ。この牧師先生と一緒に祈ったんだよ」。
 国井君は私との毎朝の早天祈祷がご自慢である。たしかに、そうだ。この3年、毎朝、この国井兄弟と私のたった2人の早天祈祷会だった。
 この祈りが、この呑んだくれのオッサンをこのような陽気で積極的で、信仰の証し(!)をする人物を造ったのか。私は愕然とせざるを得なかった。《く》


皆さんに訴えたい

 先週の祈祷会で、こんな文章を書いて、皆さんにお見せした。
           *
 びっくりするでしょうが一つ、創価学会の「聖教新聞」を読んでみませんか。
 聖教新聞に比べると、なんと、キリスト教の新聞や雑誌の言葉の弱いことか!
 残念だが池田大作氏の作る文章は良いですね。この方の「対話姿勢」は格別です。過激な撃破思向だが、その傍らに「対話」があります。
 有名人との「対話」の毎週(?)の記事は、これ又看板記事。カネも使ってはいるのだろうけれど……と、こう言えばケチなやっかみだが、とにかく、ああいう一流人物を連れてきて、よくもああしゃべるものですよ。
 あれには相当な教養がいります。そして池田さんご自身が言っていますが、対話のコツは「小異を残して大同につく……」、これはちょっと伺いがたい手の内ですよ。(小異を捨てて、ではない)。
 もうちょっと書きましょうか。お世辞めくけれども。池田大作氏の作らしい、青年向きの「詩」も良いですね。(もっともご自分で?、「桂冠詩人」と飾るのは少々、いただけないけれど)
 なるほど、伝道者は詩人であるべきなんです。
 詩を吐けない人に、人の心を打つ言葉が出る筈がない。
 それにしても池田大作氏の喝破する短句が胸を打ちますね。人の心を揺すぶるフレーズが一杯です。
           *
 そう言えば、イエス様のお言葉こそ、そうした短い名句が多いのですね。以下に思い切ってイエス様のそうしたお言葉をたくさん掲げてみましょう。
「我は道なり、真理なり、命なり」。
「我に来たれ、我なんじらを休ません」。
「我は世の光なり。我に従う者は暗きうちを歩まず。命の光を得べし」。
「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず」
「恐るな、なんじ今よりのち人を漁どらん」。
「なんじらの誤れるは、聖書をも神の能力をも知らぬ故ならずや」。
「おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我にふさわしからず。生命を得る者はこれを失い、我がために生命を失う者はこれを得べし」。
「信ずる者には、全てのことなし得らるるなり」。
「我が与うる水を飲む者は永遠に渇くことなし。我が与うる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいずべし」。
「天地は過ぎゆかん。されど我が言は過ぎゆくことなし」。
「われ新しき戒命を汝らに与う。なんじら相愛すべし、わが汝らを愛せしごとく汝らも相愛すべし」。
「われ父に請わん。父は他に助け主を与えて、永遠に汝らと偕に居らしめ給うべし」。
           *
 さて、ここで文脈を切って、もう一度、対話のことに戻りたい。
 対話にはいろいろの対話がある。まず自己との対話もある。これは宗教人にとって非常に必要。まして、最高の対話は神様との対話である。また、イエス様との対話である。聖霊様との対話である。
 更に、私のしばしば行っているのは、すでに天界に帰っている私の父や母や、また伯父との対話である。
 (まあ、あまり神秘的に考えないで、空想の中で楽しい夢物語りをやっているのだと、ご想像ください。はじめはお伽噺のように思えましょうが、繰り返し試みていると、次第に深みが分かってきます。馬鹿にしないで、皆さんも試みてください。
 また、内村先生や手島先生、先輩の先生がたと話してみましょう。また、預言者たちや使徒たちを招いて語り合ってみましょうか。
 空想懇話会とでも言いましょうか。アウグスチヌスや聖フランチェスコや隠れたインドの聖者スンダル・シングなど、どうでしょう。凄い座談会になりますよ。)《く》

〔推薦図書台〕
礼拝室左の廊下側に新旧の推薦図書を置いてあります。これだけ読めば良いというわけでもありませんし、よく言われるお詫び言葉に「独断と偏見によって選びました」というのがありますが、まさしく私(釘宮)の「独断と偏見」で適当に選んで、置いてあります。どうぞ、一応手に取ってお読みになってください。
 キリスト教は本の宗教だと言われることもあります。ちょうどルターの宗教改革とグーテンベルグの印刷術の発明が時代的に重なったということもあり、ルターの母国語による聖書の翻訳という努力が正に実を結ぶ時代的好機でもありました。
 作文家にとってはパソコン(ワープロ)という器械のお陰で、なかなかタイプライターになじめなかった日本語も、やっと文字書き器械にめぐり会えた訳です。カナ文字が無くて電報送信に苦労した中国もパソコンのおかげで今回やっと文明の利器にめぐり会えたということかもしれません。
 もっともキリスト教世界に達文家が少ないことは難点です。生長の家の発展は谷口雅春氏の文章生産力、今日では幸福の科学の大川隆法氏の文章力の凄さを計算に入れなければ、あの教勢発展の秘密は解けないでしょう。さすがのキリスト教界の達文家たちも、例の聖書解釈の厳しさか、アウグスチヌス以降のキリスト教神学の緻密さに足を取られてしまい、理屈に目まいがして一般の読者に喜んで読んで貰える闊達な文章が書けない。
 この隙間をピタリ埋めることが出来るのは、奥山先生だけでしょうか、当釘宮先生は少々へ理屈をこねる癖があってその点が難所です。良き次代のライターを期待すること切なるものがあります。《く》

〔リバイバル新聞から〕
9月23日のリバイバル新聞のトップに、草加神召教会の天野弘昌先生の奇蹟的癒しの記事が載っていました。先年、当教会にもお出でくださった天野先生を皆さんもご記憶のことと思います。あの時もずいぶん奇蹟的お証しが多くて驚いたものですが、今回も先生ご自身の難病退治の記事でした。▼病気は多発性骨髄腫、血液癌の一種ですが、大学病院の医師の診察では余命半年という厳しい診断。先生の教会では開拓以来16年にわたって癌患者が続々と癒されたが、今回のご自身の癌の病気について一時は「一粒の麦」としてリバイバルの基礎になるのではないかと思ったそうです。しかし「いや、これはサタンの偽りである」と悟って、これは「死の霊との戦いである」との示しを受けられ、故に「肉の命の戦い」ではなくリバイバルのため、救霊のために祈ろうと全教会一致して祈り始めた時、先生ご自身「死の霊の離れ去ってゆくこと」を感じ、また病院の精密検査でも、数値が驚くほどの低下を示し、医師も驚いたそうです。▼実は先生の牧会地、草加市は「他の地域以上に中絶を扱う病院が多く、中高生の中で親に内緒で処置できる病院の多い町と評判の町だという。ここに日本のリバイバルを妨げる死の霊の温床がある」と、実感されたという。近くには水子地蔵尊があり、全国でも有名な中絶経験者のお詣りする箇所だという。滝元順先生も来られ、この水子供養者の霊性奪還の取り成しの祈りを一緒にされた時、何よりも教会の出席者が増え出したという、私たちも大分周辺の霊的地図に目を光らせ祈りましょう。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-09-25 16:32 | 日岡だより

No.298 朝起きたら、体操しましょう 2007.9.16

朝起きたら、体操しましょう

 朝、起きたら、体操しましょう。(実は朝でなくても、いつでも良いですけれど)。この日の祝福を祈って、「イエス様あ、ハレルヤ! ワッハッハハ」と叫びましょう。
 さて、ベッドの上で、勝手体操をしてみる。筑田さんという人の赤本(と呼ばれている)本に載っているベネットの健康法が参考になります。面白いです。これは良いです。
 体をできる限り、縦横無尽に動かしてみる。ベッドの上だから、跳ねて踊って、ひっくり返りもできる。この我がまま体操の後、風呂があったら、入浴、あがって冷布摩擦、もちろん、タオルが乾いてくれば乾布摩擦。もっとも、できるかぎり自分の手のひらを使うのが良いと筑田さんは言う。
 この後、そうです。心の体操、魂の体操、霊の体操をしましょう。これは聖書の黙想に限る。御言の暗唱も勿論ですが、イグナチオ・ロヨラの「霊操」のような場面想像をすると良い。その場面の中に自分を当てはめてみて、演出家が俳優を優しく指導、あるいは叱咤激励するように、自分でイメージを作ってゆくのです。
 たとえば、「5つのパンの5千人給食」、私も弟子の一人になって、パンを配って回る。そのうちに私もパンを裂くと、そのパンが大きくなって、増えて行く。ワッハッハと大喜びで、パンを配って回る。これは伝道の喜びです。
 ラザロの疑似体験、墓の中にいるラザロ、体は死んでも、魂は生きている。道が険しい。どうも地獄へ向かっているのではないか、疑問がわく。そこへ懐かしいイエス様のお声、「ラザロよ、出て来い」。
 ハッとなって目を開く。起き上がって、目の前の石のふたを押しのける。前ににっこりのイエス様がおられる。「ワーイ、イエス様あ、ハレルヤ、バンザーイ」。
 墓を出て、イエス様の前を、皆が驚き。感嘆し、賛美する中を凱旋将軍のように闊歩する。これがあなたの世間を歩く姿である。勝ち得て余りあるクリスチャンの姿である。それがあなただ。
 神は言われる。「我は全能の神なり。汝、我が前に歩みて全かれよ」(創世記17:1)。
 アーメン! ハレルヤ!


心を改造せよ

 多くの方が読んでくださる私の2冊の小冊子があります。「笑えば必ず幸福になる」という冊子と「誰でもできる『心の強化法』」という冊子です。
 いずれも安易な実践的方法論としては世界で初めての本かも知れません、(エヘヘヘ、自己自慢!)
 これらの冊子では、人間の内面性の分析として「霊、魂(心)、肉」の3層図、あるいは「人の心の二重性、内なる会話」、一番肝心な「意志」、「意志で意志する」などの重要性等を強調しました。
 多くのクリスチャンの問題点は、霊においては、救を受けているにかかわらず、心の法則(ローマ7:23)において敗北しやすいということです。
 さて、関係する問題で、2つの参考書をご紹介します。第一は「根にふれる祈り」(ロブ・モリセット著、マルコーシュ発行)という本です。根とは私たちの心の深層意識をさしています。根は成長して私たちの心(表面意識)に影響を与えます。この本でいう根とは、ヘブル12:15の「苦い根」です。
 幼年期(あるいは青年期や壮年期)に、心に受けた傷です。憂欝な気分、自己否定、劣等感、不能感、そうしたものです。根というものは地下にはびこり、目に見えないです。そして、複雑です。特に雑草や、芝生、たんぽぽ類など、むしり取るだけでは根は残り、何の解決にもなりません。
 心の問題としては、その解決は、祈りにより、この根を切り取るしかありません。新しいイメージと、新しい良い明かる喜びのコトバを心の根っこに注ぐのです。
 第二の本は「要塞を取り壊しなさい」(ジョン・オスティーン著、エターナル・ライフ社発行)という小冊子です。多くの私たちの心はサタンから送り込まれたコトバが充満して「悪い強固な要塞」になっています。
 巨石で積み上げられた大阪城などの城壁を想像してみてください。それらの巨石は、挙げてみれば、憂欝、自己否定、劣等感、不能感、男性拒否、上司恐怖、明日が不安、死の恐怖、等々です。
 さあ、そこで、新しい「強固な要塞」を造り(改造し)ましょう。善い、明るい、健康なコトバを心に送りこみ、新しい心の要塞に変えます。強い、前向きな善意と愛の神様を信じる心に変えます。
 箴言23:7上のお言葉、英語の欽定訳ですと、 "As he thinketh in his heart, so is he." (人がその心で思っているとおりの、それが彼である)となっています。この聖書の言葉こそ、前世紀あたりからアメリカに生まれた自己実現法の基本テキストです。エマースンや谷口雅春さんが影響を受けた本など、また戦前のダイヤモンド社?から出たナポレオン・ヒルの本は、こうした類書の戦前では唯一の良書だと思います。その後、戦後キリスト教の牧師として名をあげたのがノーマン・ヴィンセント・ピールです。(ナポレオン・ヒルの本では、最近「思想を現実化する」という訳が出ています)。
 もう30年にもなりはしないか、当時の日本の牧師界に大影響を与えたのが、伊豆・天城山荘でされたあのチョウ・ヨンギ先生の、この新傾向に沿った一流の熱弁です。(私はチョウ・ヨンギ先生の、こうした自己啓発的メッセージに、今更のように驚く日本の牧師さんがたの後進性に驚いたものです)。
 ただし、私たちは自己啓発や自己実現ではない、「キリスト実現」を目ざすのだと(キリストの形が表れるまで、ガラテヤ4:19)言うべきだと思っています。
           *
 本稿の流れとしては、「キリスト実現」のためには、まず私たちの心にキリストのコトバを満たせよ、ということになります。クリスチャンとしての基礎としての回心、聖霊様を受ける、充満等の基本のことが、まず第一ですが。福音派の聖潔(ホーリネス)の勧めもおろそかにはできません、「キリスト者の完全」ですね。トマス・ア・ケンビスの「キリストのまねび」以降、これは全クリスチャンの渇望であります。
 一般的にいうと、自己形成の道具としては、コトバと両立する大事な道具はイメージであります。聖書的イメージ活用の祖は「霊操」のイグナチュース・ロヨラでしょうか。
 更に、もっと別に追及したい似た重要な問題があります。いわゆる「イメージ」と言いにくいような、私たちが心にいだくイメージです。大胆に提言しましょうか。あなたは「神様」を思うとき、心にどんなイメージをいだきますか。
 いきなり「神様」では、神様に申し訳ない不謹慎な感じもしますが、でもあなたが神様に向かって祈る時、どんな「神様」を想像していますか。実は、真理とか、平和とか、愛とか、こういう言葉も、たぶん各自、ある種のイメージを抱いているはずです、それはどういうイメージでしょう。
 具体像のイメージは考えやすいですが、抽象的な思想的な言葉を語る時にも、そこにイメージが無いとは言えません。イメージとも言いにくい、そういう、内面的イメージがあるはずです。信仰を語る時には、この種のイメージ力は非常に大切だという感じがします。いかがでしょう。《く》

〔あとがき〕
9月10日、鳥栖の永井先生のクロスロード・ゴスペル・チャーチの献堂式に招かれて出席してまいりました。私にはこの永井先生の教会は私の聖地だなあと感じました。3階のお部屋に泊めて頂くのですが、聖霊様のうながしに誘われ、祈りに導かれて、「ああ、ここは私のホーリー・ランドだ」と感じたことなのです。時ある毎に、ここに帰ってきたいなと思いました。尚、献堂式を終わり、翌日、大分に帰るのに、秋田キリスト教会の中野渡先生ご夫妻の車に乗せて下さり、楽しい素晴らしいドライブを堪能させて頂きました。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-09-18 15:52 | 日岡だより

No.297 「救い、癒し、解放のメッセージ」 2007.9.9

「救い、癒し、解放のメッセージ」

 先週は鳥栖の永井先生のクロスロード・ゴスペル・チャーチの入堂式に招かれて行ってまいりました。かねての先生のお目当てのビルが素晴らしい会堂に生まれ変わっていました。永井先生の造形ヴィジョン能力は凄いと思いました。その先生のヴィジョンを活かして立派に建築されたヴォーリズ事務所も素晴らしいと思いましたが、私は写真を撮る習慣がないので、画面でお見せできないのが残念。
 さて、この会堂のビルの前に立てた路傍の柱に教会の縦長の小さな看板を取り付けてあり、そこに市民への呼びかけの言葉がありました。
 「救いと、癒しと、解放のメッセージ」、
 と言うのです。これは勿論、永井先生の選んだ言葉でしょうが、この教会の建物全体の叫び声にも見えました。私はメッセージという言葉の威力をこんなに肚に響くように読んだことは初めてです。
 福音派の教会では、説教をよくメッセージと言います。私が初めてこれを聞いたのは、元神学校の校長で、大分県の宇佐郡に帰られて開拓伝道をされた某先生のお口からでしたが、なるほど普通使われる「説教」という言葉が、キリスト教には相応しくない言葉だなあ、と初めて気づきました。たぶん、これは仏教のお寺さんからの借用でしょうね。
 そう言えば、「教会」という言葉は、天理教や金光教からの借用でしょう。キリスト教には相応しい言葉とは思えません。ある先生は「召団」と変えてみたことがあります。私もその名称を使ってみましたが、なじめなくて長続きしませんでした。
 さて、この永井先生が使われた「メッセージ」という言葉ですが、これには永井先生の深い、大きなヴィジョンがあると思うのです。
 まず、先に引用しました、「救い、癒し、解放」ですが、「救い」という言葉でさえ、表立って使うには、一般市民向けとしては多くの牧師先生がたは躊躇されると思う。
 まして「癒し」は尚更です。キリスト教会で、世の中のご利益宗教なみに「病気直し」など、キャッチ・フレーズに使いたくない教会は多いと思います。尤もですが「神癒」の確信が無いからでもあります。
 教会はもっともっと、病いの癒しについて、我々こそ、世の並み居る諸宗教に比べて、本家であるぞよとの自信と誇りを持つべきなのです。それが、神癒伝道者の自信と誇りを持っているはずの私でさえ、教会前の看板に「癒し」のことは書きませんね。いわば、上品ぶっているわけです、いけませんねえ、これは。
 ともあれ、今回の鳥栖の教会での永井先生の宣言とも言うべき、「救いと、癒しと、解放のメッセージ」、これこそ颯爽とした感じで私に迫ってきました。私は一瞬、棒立ちになりましたね。
 特に「解放」という言葉の強烈さに打たれたのです。「解放」という言葉の意味を改めて深く味わったのでした。
           *
 「解放」という言葉は、戦後の日本人にとっては、左翼陣営のお得意の言葉であった。階級闘争の宣言文句には良い言葉であった、解放!
 キリスト教用語としては、神学用語としては古くよりあったかも知れない。私は神学にはしろうとなので、しかとは言えないが、罪の捕らわれ人である私たちを、その罪から解放する福音の力、イエス様の十字架の愛、かように人類をサタンの囚縛から解放してくださろうとする神のご計画。ここで、キリスト教の長い歴史で「解放」という意義は連綿として語り続けられてきたと思う。
 しかし、はっきり解放という用語を使った例はあまり多くはなかったと思う。
 ところで、普遍的な用語として、人類を罪の束縛から解き放ち、自由の身としてくださる意味で「解放」という言葉を使い始めたのは何時ごろからであろうか。
 ともあれ、これを個人の悪霊からの「解放」として使い始めたのは、ここ二、三十年のことでなかったか。顕著な例としては、私の記憶ではアナコンディアでなかったかと思う。
 アナコンディアはアルゼンチンの福音の闘士だ。あの時代、永井先生がアルゼンチンに行って来られて、「釘宮先生、アルゼンチンは凄いですよ」と仰有って、「今日にもアルゼンチンに行ってらっしゃい」というご様子だった。その当時、アナコンディアの名は天下に響いていたと言えば言い過ぎかも知れないが、そのアナコンディアが東京に来たのだ。
 会場は晴海の大きなホールだったと覚えているが、そこでアナコンディアの前に出て、倒れる人が続々出る。その人たちが次々スタッフに抱えられて次の部屋に運ばれて行く。そこで悪霊の解放が行われていたのである。この場合、悪霊をその人から追い出すことを解放と言うのであるらしく、悪霊を内に宿していた人を悪霊から解放するという言い方ではなかった。この辺の理解は私も曖昧です。
           *
 ところで今回、永井先生が鳥栖市の中央の路傍に「救い、癒し、解放のメッセージ」と打ち出されたご意図を、先生から直接お聞きしたわけではありませんが、私はお察しするのです。この度のクロスロード教会の面する道はかなりの重要幹線です。ここで、鳥栖市のすべての市民に訴えているという意気込みを感じます。
 そしてクロスロードという命名は「十字架の道」という意味でもありますが、また十字交差の道、つまり鳥栖市は九州の重要幹線、鹿児島と博多、北九州を結ぶ南北線と長崎と大分を結ぶ東西線との交差点なのです。このクロス点を押さえることは九州の急所を押さえることである、との先生のご意図もあることでしょう。
 そして福音の第一点は「救い」です。これを「平安」とか、「幸福」とか表現しないで、「救い」とぶち上げたところに、先生の勇気を感じます。
 そして「癒し」です。「癒し」という言葉は最近市民権を得てきて、逆に意味が軽くなって来ています。そこで教会では、はっきりと「病気の癒しなのだ」と伝えるべき時代になってきていると思います。救いと解放という言葉の間に「癒し」を挟んだことにより、道ゆく人の注意を引きますので、「これは良い」と私は手を打ちましたよ。少なくとも、「ただの癒しではないな」と疑問を抱かせます。
 特に「解放」という言葉はそうです。実は多くの人々にとって「解放」という言葉は意味が汲み取れないかもしれません。先に書いた階級闘争の用語しか思い出せないかもしれません。多くの人にとっては、この言葉はクイズのようなものでしょう。
 そして、この看板に引かれて教会にお出でになった方々も、罪や、心配や、不安や、世のあらゆる思いわずらい、病気、不和からの解放とまでは分かっても、更に大きな、広い「解放」については、分かりにくいかも知れません。(また、こうした力を神様がご自分の手から「解放されたのだ」という逆の語法もあるわけです)。
           *
 信徒の皆さん、ここで思い出してほしいことがあります。それは地域の解放、土地の解放です。リバイバル新聞9月9日号の第一面トップ記事を見て下さい。そこには「土地の癒し、パプアでも」とあります。トランスフォーメイションとも書いてあります。簡略してトランスといえば、普通、変圧器をさしますが、フィジーや、ウガンダ、今回はパプアでも、土地に霊的変圧が起こっていると見たいのです。南洋の島々で断食と悔い改めの祈りをもって、主のお取扱いを祈る時、大奇蹟が起こるのです。人々の姦淫は悔い改められ、麻薬やばくちの常習は止み、魚や、穀物、果物の成長、収穫が格段の変化増収、海で取れる魚が大型化してきた、等々。土地の性質が変わってしまうのですね。
 これこそ、土地の解放というべきです。人の心も、経済も、政治も、人が生き、人が住むための必要な環境すべてを神様が見てくださる、無くなったものを回復してくださる。回復どころか、以前の倍にも、倍々にも返してくださる。それがトランスフォーメイションです。皆さんのご祝福を祈ります、先生がたのご祝福を祈ります。《く》

〔あとがき〕
明日は、クロスロード・ゴスペル・チャーチの献堂式です。式辞に中野渡先生が招かれています。私も期待をもって参加させて頂きます。皆さんも祝福のご加祷をお寄せください。永井先生の鳥栖開拓の本格的第一歩です。▼ハーザー(HAZAH)10月号が来ています。今月号は特に読書に慣れない方々にも読み甲斐のある好記事が多い。巻頭言の「朝青龍をいじめるな」などハッと思いますね。手束先生の「東京裁判の欺瞞」在米のイシハラ氏の「日章旗・君が代」、田中菊太郎先生の「キリシタン殉教の道を辿る」等必読です。ハーザー社主ヨエル氏のご健康を祈る。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-09-11 14:08 | 日岡だより

No.296 神より賜る信仰 2007.9.2

神より賜る信仰

 石原兵永の「回心記」を読むと、彼は病気をしたわけでもなく、失恋したわけでもなく、経済的破綻に陥ったわけでもない。ただ、自分の内心の罪と悪の心に気づいて、それに七転八倒するほど苦しむ。禅宗風に言えば大疑団を生じ灼熱のごとく苦しむのである。(石原兵永は内村鑑三の即近の弟子)
 そして、ある瞬間、聖書の一句によって意識が逆転して自分がキリストにあって神様の赦しの領域にはいっていることに気づく。その一瞬の経験を石原兵永は一行の空欄で表わしてある。その次の行には歓喜乱舞して「罪の赦しと救い」を叫ぶ文章がつづく。私はその空欄の箇所の紙をやぶってその裏をのぞいて見たいほどであった。
 私の伝道の初期、私はまだ25、6の青年にすぎなかったが、私の信仰指導を受けた人は皆、この石原兵永の「回心記」を読まさせられたものである。そして諸君も同様に、その空欄の箇所を掻き裂きたいという切なる思いにかられたと聞いた。
 その一瞬を体験すると、それが如何に神様から来る実に一方的な恩寵であるかという感慨にとらわれる。そして、信仰とはまさしく神様よりの賜物であるということが実感できるのである。
 ビリー・グラハムの本を読むと、グラハム自身は上述の瞬間的回心であったが、彼の奥さんの回心は大廻りのゆっくりした回心であったらしい。瞬間的回心は「神様の恩寵のみによる信仰」という確信を持たせてくれる点ではモデル的である。
 しかし、大廻りの回心の人も、確信を得てしまうと決して瞬間的回心の証しを聞いても動揺しないし、嫉妬も起こらない、同じ信仰を頂いていることを共に喜ぶものである。これも素晴らしい。
           *
 神様より賜わる信仰、という言葉は聖書には多くはないが、ピリピ人への手紙第1章29節に分りにくい形で出てくるし、また使徒行伝第3章16節などである。ここには「イエスによる信仰」とある。なお、ガラテヤ2:16の「キリスト・イエスを信じる信仰」は原語では「キリスト・イエスの信仰」と属格で表されていることにも注意。
 しかし、聖書のほかの箇所で、神様の無茶なほどの一方的恩寵を示す言葉が出る。善も悪も成さぬ生まれぬ先から神はヤコブを愛しエサウを憎んだとある(ローマ9:13)。エレミヤに対して「私はお前を母の胎に造られぬ前から選んだ」とある。
 これらの事象を傍観的に見ると、神様のなさることはえこひいきもいいところで、いい加減やなあ、と思わせられる。しかし、あなたがもしヤコブ本人であったらどうであろう。感泣するはずだ、あなたがもしエレミヤだったらどうだろう。号泣して感謝するほかはない。
 聖書を読むとき、傍観者的態度で読むならば納得しにくいところがたくさんある。しかし、ヤコブやエレミヤをあなた自身のこととして味わってごらんなさい、神様が他をしりぞけてあなただけを愛してくれている、その愛に目覚め感動するわけだ。
 時間論でいうなら、孔子のように河のほとりに立って水の流れを見れば「逝くものはかくのごときか」と過去から未来へと流れ逝く時間を傍観するのみだ。しかし、ペテロは「主のみ前から休息の時が来る」(使徒行伝3:20)と言う、つまりペテロは神の前からやってくる休息の時間の中に自分が取り巻かれていることを体験しているのだ。この時、ペテロは傍観者ではなく、全身その只中にいるのである。
 自然や宇宙を傍観者として見れば、単に美しい、壮大だ、というだけだ。しかし聖フランチェスコのような人がこれを見るとき、「おおわが兄弟なる狼よ、おおわが姉妹なる小鳥よ。おおわが兄弟なる太陽よ、おおわが姉妹なる月よ」ということになる。聖フランチェスコは自然や宇宙の只中にいる。そして同じ命に生かされているものとして同胞感を持っているのである。これはまさしく、イエス様から来る自然観、宇宙感(!)だろうと思う。だから又、パウロは言う、「人の罪の故に自然は今に至るまで、共にうめき共に苦しんでいる」(ローマ8:22参照)のであると。パウロの自然観は自然との生命的意識的連帯感がある。(この連帯感がなくては本当の環境問題意識は湧いて来ないであろう)。
 つまり、今私が言いたいのは、私たちが一旦イエス様に罪を赦され、罪の世界から救われて、神の子としての身分を与えられたとき、私たちは神様を相対者として仰ぐのではなく、その中に入れられてふりかえって仰ぎ見るのである。
 イエス様が幹であり、私たちがその枝であると言われるイエス様ご自身の例え、またキリストを頭として私たちはその肢体であるというパウロの例え、これらの比喩のなかに、以上に書いてきた真理が語られている。私のうちにキリストが生きておられ、私は神のなかに生きているのである。
           *
 やや、いそがしいエッセイになりましたが、先を急ぎましょう。
 信仰は神様からの一方的な恩寵による贈り物であり、私はその恩寵により神様の命のなかに生かされているのである。そうすると、わたしの命の源は神様にあるのであり、私にあるのではない。
 脳死問題が時おり論ぜられるが、ある人はいう。脳が死んだら、もう意識はおろか、他の機能もすでに互いの連絡も閉ざされ、その人はすでに死んでいいるのであると。これには一応の説得力はある。これに反対するには現代人の論理ではむつかしいのかも知れない。
 しかし、脳が死んでも、体はまだ生きている。この現実は厳粛である。つまり細胞はまだ生きているでないか、ということである。そして、この死体が時には現実に蘇生することすらある。
 人間はその人全体が一体であって、頭脳だけが人間の中心である、他はどうでもいい、という存在ではない。
 それはともかく、旧約聖書では、墓に葬られた預言者エリシャの骨に触れたアマレク人は蘇生した。ペテロの影や、パウロのハンカチに触れた者の病気は癒された。エリシャの残した有機物やペテロやパウロの持ちものにさえ、彼らの霊的生命は溢れ出て及んでいた。
 こうした霊的生命は、先ほどの脳死問題に引き返すが、脳が死んでも尚、彼の当体には生きているのだと言えないだろうか。
 大正、昭和の作家にして思想家、倉田百三の痛烈な質問、「もしピストルの玉があなたの頭に打ち込まれ、あなたが意識をすっかり失ったとする。その時、あなたの信仰はどうなるのだろうか」。この問いに答えることのできる人は少ないだろと思う。
 もちろん現代人の論理でなっとくできるように解答することはむつかしい。しかし、いま現にイエス様を信じ、永遠の生命を信じている人が、これに答えてくれなければ、これは困る。
 しかし、私がひとたび聖霊様により「アバ父よ」と呼び、「イエスは主なり」と主を告白した以上、私の意識が消えた時も、私の永遠の生命は神様の支配下にあり、私の恣意、条件に関係なく、私の信仰とその生命は確実に主の御手の許に永続するのである。《く》
(1994.12.11 週報より「もしピストルの玉が脳に打ち込まれたら」(4)を修正再掲載)

〔あとがき〕
私はしばしば憂欝になります。私は若い時、すべて真実の人は悲哀の人だと思っていました、そして悲哀の人はたいてい憂欝なんだと思っていました。だってイエス様の絵を見ても、たいてい悲しそうな顔をして居られますのもの。それで、よく悲しそうな顔をして、道を歩く時もうつむいて歩いたものです。その習慣が今も残っていまして、時おり憂欝になっています。そのことに気がつくと私は自分の心に命令します、「愉快になるんですよ。そうです、憂欝の霊よ、出て行けっ」と叱るんです。そして、「ワッハッハハハハ」と笑うんですよ。大きな声で笑うんです。憂欝な気分は一返に吹っ飛びますよ。ハハハハハハ。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-09-04 22:52 | 日岡だより