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No.295 日本一周、祈りの運転で 2007.8.26

日本一周、祈りの運転で

 和歌山県の教会ですが、紀ノ川チャペルと言います。牧師が酒匂一己(さこうかずみ)先生、この先生とその一行3人、合わせて4人ですが、明日この教会に来ます。多分、夜になると思いますが、歓迎したいです。一泊します。
 明後日の朝、大分を立ち、別府、日出、杵築と北上します。国東半島を廻って、中津を抜け、福岡県に向かいます。
 車で来ます。ドライブです。日本一周です。もう半分廻っているそうです。今回は後半戦。
 和歌山を出て、京都から日本海側へ、そして山口、福岡、九州の西側を廻って、鹿児島、宮崎、大分とたどって来るわけです。
 今後は山口、広島、岡山を縫って、四国へ行く予定です。
           *
 「一体、何をするんですか」と聞きたいですね。祈りの旅だそうです。ドライブの間、祈り続けるのです。
 祈りのテーマは4つです。運転中、車中の4人が、「礼拝」→「戦い」→「悔い改め」→「祝福」の祈りを10分交代で祈るのだそうです。
 「戦い」は道々見かける偶像の背後に働く悪霊に対して、「悔い改め」は土地の人々の偶像礼拝の罪を代わって悔い改めて祈る。
 教会を見つけた時は、その教会の祝福を祈ります。この祈りの走行の中で霊的に研ぎ澄まされます、と語っています。
 特に神社や偶像地域にはいると、その土地に入っただけで敏感に感じるようになったそうです。地域に浸透する伝道の必要を痛感されるそうです。《く》


祖国愛と信仰

 私はよく言います。「私の祖国愛は信仰に密着しています」と。ちょっとひねった言葉だから分かりにくいかも知れませんが、要するに、「私は祖国日本を愛する。イエス様を愛すると同じように」ということです。つまり、内村先生の「2つのJ」を踏襲するということです。
 この私の思いを全く同じ思いで、同じ情熱で、同じ論想で、書かれた本が出ました。久保有政先生の「神に愛された国、日本」という題です。教会の推薦貸出し図書として置きましたので、手に取って読んでください。
 いえ、借りて読むだけではない。できればキリスト教書店に行って買って来て自分の本にして下さい。夜を徹して読んでください。たぶんあなたの両眼から熱涙が溢れ出ると思います。遠慮せずに両膝にハンカチを用意して、お読みになってください。
           *
 私は絶対非戦論者だから、かつての戦時下、日支事変、日中戦争を批判しました。特高警察に捕らえられても、その論旨を崩したことはありません。
「お前という奴は……」と、当時の特高の刑事も刑事部長も呆れていましたね。
 しかし日本の警察の名誉のために証言したいことは、警察の誰からも殴られたことも、蹴とばされたこともなく、冷たい目で見られたこともありません。
 共産党の党員の場合など、たぶんその仲間の情報を明かせという要求に党員は応じませんから、その仲間の名前や住所を吐けというわけで拷問めいた暴行を受けたであろうことは想像できます。
 さて私の場合ですと、この時とばかり私の日ごろの信念を残らずしゃべるからでしょう。「お宅の息子さんの取調べは非常に楽で助かった」と、取調べの刑事が私の母に漏らしたことがあるそうです。
 当時の私に対して、警察の刑事部長や刑事さんたちは、多少は畏敬の念を持ってくれたと思います。私の証拠品を捜しに我が家に私と同行して行く時にも、手錠などかけません。刑事と私は、一緒に談笑しながら歩いたものですから、近くの人たちは、驚いて見ていたと後で聞きました。
 ところで、これと違って、日本の日支事変、日中戦争における軍隊の責むべき点の一つは、従軍兵たちの中国人民蔑視から来る無自覚な暴行です。民族差別による軽蔑乱暴を受ける側の辛さや反感の酷さは与える側には分からないのです。
 「支那のチャンコロどもは人間の屑だ」というような日本兵の認識が、犬や猫をいじめるような乱暴をやっても「悪いことをしている」という認識は全然持っていなかったのです。
 私は大分県の農村部の素朴なおっちゃんが召集されて日支事変に参加、杭州湾上陸から南京に向かう行軍の途中、気ままに略奪やレイプを働く様を自慢げに語るのを、聞くだけで閉口したことがあります。
           *
 その点、当時、満州(現在の中国東北地方)や蒙古地方に使命を感じて、満蒙開拓団にはいっていた純真な青年たちの心情を私は忘れる事が出来ません。
 私は当時の日本政府の満蒙政策の欺瞞性を嗅ぎ付けているから、批判的でしたけれど、純真な気持ちで、無私の姿勢で満蒙開拓に従事している青年たちを批判することはどうして出来ませんでした。
 ある時、そうした組織の一人を話し合い、論争しつつも、別れる時は肩を抱き合って泣いたことがあります。日本を愛し、東洋を愛したからです。
 当時の歌謡曲風軍歌に「露営の歌」というのがありましたが、その一節に「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう」というのがあります。
 「東洋平和のため」というのは、いかがわしい飾り文句にも見えるけれど、それを本気で追及し、努力、実践した人たちもいたのです。
 島木健作の転向後の作品「生活の探求」の後に書いた、「人間の復活」という題だったか、満蒙開拓団を意義ありげに書いた作品を婦人公論に発表していたのを覚えています。健康な作品でした。
 戦前の「転向」というのは、共産主義者が、「共産主義を捨てます」ということです。
 良心的作家が、それまでの思想と主義を捨てて、あたらしく転向後の小説を書くということは容易なことではないです。少しで以前の主義主張、思想の痕跡が残っていれば、散々な批評を喰うからです。
 批評を喰うというより、もう一度、警察の取調べを受け、下手をすれば、刑務所入りです。こういうことは今の人には想像もつかないでしょうね。
 思想警察というものの怖さは、今では共産主義国家だけかも知れませんが、当時はドイツを初め、ファッショ政治の世界では常識的でした。
 日本もそういう嘆かわしい政治体制に落ち込んでいました。軍人に政治権力を握られ、至るところにスパイがいます。「壁に耳あり、障子に目あり」で思いもかけないところから、見はられているのです。
 社会の空気は、凍りついたように硬質化して、何も自由に話せなくなります。国民は声をひそめて生活します。本音を吐けません。
 そういう時代に私は「絶対戦争反対」を教会の青年会や、一部の友人、また聞いてくれる人たちに物おじもせず、しゃべりだしたのです。
 同年配の女性たちも、私の家まで来てくれて、私の話を聞いてくれた。いま思えば夢のような話です。
 私が警察に捕らえられた時、その女性たちも刑事室に閉じ込められて参考人として取調べられているのを、廊下を通りがかりにかいま見て、申し訳なくて思い悩んだことでした。
 ともあれ、今は、そういう時代ではありません。日本人には周辺を遠慮して真理を語ることを恐れる気質があります、もっと思い切って正直に語ってほしいと思いますね。《く》

〔目についた記事〕
8月24日の産経新聞。アメリカの福音派の大型教会で、信徒諸君に飽きが来たのか、ハウスチャーチが広がっているという記事が出ていた。ハウスチャーチとは直訳すれば、その侭「家の教会」である。聖書の初代教会の原形ではないか。又、内村流無教会と言ってもよかろう。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-08-28 15:11 | 日岡だより

No.294 意志を意志せよ 2007.8.19

意志を意志せよ

 青年時代、私が常時ポケットにいれて持ち歩いた本に「内村鑑三随筆集」がある。岩波文庫の一冊で、畔上賢造先生の編集である。
 内村先生らしいズバリ突っ込む、しかも武骨な言葉が魅力的である。私はこの本を愛した。
 表紙は剥げてしまったので、桜の花の咲いている雑誌か、何かの口絵であろう、その写真の用紙を表紙代わりに貼り付けて、今も愛読している。
 最近、私の胸を打ったのは、次の言葉であった。
「富も財産なり、知識も財産なり、健康も財産なり、才能も財産なり、而して意志も亦財産たるなり、而して意志の他の財産に優るの所以は、何人も之を有すると、之を己が欲する侭に使用し得るに存す。」
 昔の文章で、文字がやや難しいが、判読してください。
 ここに内村先生が挙げているのは、人間にとり、意志が大切だということである。
 そう言えば、かつて手島先生に師事していた時、手島先生が講義中、天を見上げるようにして、「うん、うん」と自分でうなずきながら、語った言葉があった。
「そうだ、意志だよ。我々人間の中心、我々自身、我々の魂の中心は意志だよ。」
 と今更に悟ったように言われた。その言葉を私は忘れられない。
 意志という言葉は名詞だが、これは愛という言葉と同様で、一般に名詞で語るが、その本来は動詞である。意志を目的に方向づけ、意志を貫こうとする魂の働きである。
 「私は意志する」と直訳的に表現すると、ぴったりする聖書の個所はマタイ第8章2節、3節である。
 イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、
 「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう。きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。
 このイエス様の当時、民衆の間で、らい病は日本風に言えば「天刑病」と思われていた。霊的に汚れた病気であって、人は近づいてはいけない。そういう人が、神秘の人イエス様のような方に近づくだけでも非礼なのである。
 そこを押してイエス様の前に出た。だから平伏するのである。イエス様の御前に出るだけでも申し訳ない。なぜ、そうまでしてイエス様の前に出て行くのか。イエス様になさってほしいことがある。そのらい病人の意志が彼を、ここに押し出してきたのである。
           *
 ここで、邦訳聖書の翻訳をチェックしますと、少し問題があります。まず「みこころでしたら」ではなくて、正確には「あなたが意志してくだされば」です。次に「清めて頂けるのですが」ではなくて、このらい病の男は、ちゃんと「私を清めることが出来ます」と信仰の告白をしているのです。これが正確な訳です。(「清めて頂けるのですが」という訳ですが、この「が」をつけ加えると、歯痒いほど気弱な訳文になってしまいます。)
 だからイエス様のご返事も「そうしてあげよう。きよくなれ」ではなくて、「私が意志するぞ。きよくなれ」とはっきりおっしゃられるのです。
 そうすると、らい病は「たちどころに」去ったとあります。「一瞬に」です。こうした感じは、神様の癒しを体験した人はよく分かります。
 そして「きよめられた」のです。これは「一掃された」と訳すとよく理解できますね。汚いらい病の症状が一瞬に払い清められるのです。
 こうしてイエス様の癒しの力は見事に発揮されます。神の独り子としての当然の力であります。
 このお力が発揮される直前のイエス様のお言葉ですが、「意志するぞ」ということです。このお言葉はイエス様の「意志」そのものです。
           *
 多くの、己れの弱さを意識して困っている方々を救う道は前項に書きました「意志」の活用にあります。
 「意志の活用?って、それができれば文句ないのですが、それが出来ないのが、悩みなんですよ。どうしたら、意志が使えるんですか。私の弱い意志は私の力ではどうにもなりません。意志は動いてくれないんですよ」。という人が多いでしょうね。
 ここでやってみてほしいことがあります。あなたの「意志」を起こすのです。あなたの意志のもう一つ手前にあなたのより自分のものとして使える「意志」があると、承知してください。
 はい、あなたのその中心意志を振るい動かして、あなたの前方の意志を動かすのです。つまり「意志」に意志の力をけしかけて、「もっと意志せよ、もっと意志せよ」と励ますのです。
 これを私は「意志で意志に命じる」と言います。自分の中心意志を使って、自分の前線意志を動かすのです。参謀本部が前進基地に命令を送るようなものです。こうして、私の意志本部の命令を、私の第二意志に送ります。つまり、意志に命令して、意志を動かすのです。
 多くの人が「私は意志が弱くて」と言って嘆くのは、この「意志を追い使う」、もう一つあなたの内側にある深層意志で表面意志を動かすコツを掴んでいないからです。
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 人の中心は「意志」です。この意志のもう一つ高次の意志を使って、あなたの意志に意志するのです。そうすると、あなたの意志はあなたの思うがままに動きます。
 まず、あなたの意志の手綱を握りなさい。そうして、その方向を決めるんです。何に向かって意志を働かせるか。
 人か、金か、問題か。心か。宇宙か。霊の世界か。運命か。自分の霊的水準か。罪の救か。友人の魂か。日本の前途か。世界の救か。
 いやいや、もっとこの世のことで、私の会社の経営、妻の病気、町並の掃除のこと、近くのお子さんの成績で相談受けている。こうした問題が一杯。そこにあなたの意志を向けなさい。そこに神様の光を当ててみましょう。
 あなたの意志を管にして、その管をとおして、神様の光と愛と力を放射します。そのあなたの心の働きを、日本語では「念」と言います。念じるのです。
 これが、「祈り」です。口で祈る祈りも、内側で「念」が働いていなければ、空虚な祈りになります。声も激しく、手足も振るって、転げ廻って祈ることもありますが、そこに心の「念」が強く伴うように気をつけましょう。そうでないと、転げ廻って祈ったんだというだけの自己満足に陥る恐れがあります。
 一般にプロテスタントの教会の信者さんは口で祈る祈り自由祈祷は得意(?)ですが、祈祷文に沿って祈る習慣のカトリックの方々など、自由祈祷は苦手かもしれません。しかし、カトリックでもはっきりと口祷と念祷と分けていまして、つまり口祷は口に声を出して祈る祈り、念祷は心の中で祈る祈り、そういう風に分けていますが、私の読んだ本では、口祷のときも念祷の心で祈るようにとの注意がありました。
 私の子どもの時に、父の残した「日毎の祈り」の本がありました。歴史上のすぐれた聖徒がたの祈りの数々を1年365日に振り分けて編集してある本でした。それを毎朝、母と一緒に読んで、朝の礼拝をしたものです。
 一般のプロテスタントの信者、自由に熱心に祈っている習慣はすばらしいのですが、同じような繰り言だけを毎日申し上げるだけで、一歩の進歩もないという欠点が無いとは言えないでしょう。そういう恐れがあるとすれば、なおさら念を込めて、神様に熱意ある祈りを毎日神様に献げたいものだと思います。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-08-21 14:00 | 日岡だより

No.293 あの終戦の時 2007.8.12

あの終戦の時

 いよいよ終戦記念日が近づく。実は敗戦記念日だ。これを終戦と言うのは日本人の性格だ。事実をまともに見ない。粉飾するのである。
 日本の家を見ると、たいてい門から玄関に至る路がどんなに短くても、斜めになっている。
 真っ直ぐに入るのは、なんだか妙味がない。単純すぎるではないか、という感覚であろう。
 そこで、終戦だが、なぜ、敗戦記念日と言わないのであろう。
 こういう言い替えは、可愛いと言えば可愛いが、自分で自分を騙して、事態を甘く解釈し、自己責任を逃れようとしている感じである。
 戦争を始めたのも、戦争を終わらせたのも、自然の成り行きで、朝が来て、夜が来たなあ、というようなもの。わしには、責任はないぞ、というそぶりなのである。
           *
 しかし、私にとっては、あの敗戦は一新紀元であった。あの日の、あの昼の12時から、私は日本の市民集団の中に戻されたような気がする。
 昭和20年8月15日、前日からこの日の正午に重大放送があるという。ラジオは東京はJOAKだが、大分放送局はJOIPである。ああ、当時はラヂオであって、ラジオでなかったよなあ。
 さて、この重大放送。「いよいよ大東亜戦争(太平洋戦争というのはアメリカの命名であって、日本では大東亜戦争である)も押し迫った。不朽の日本帝国は滅びることはない。今は最後の踏ん張り、本土決戦で、アメリカに勝つんだ。女だって竹槍訓練で鍛えている。そこで最後の決戦、日本国民がんばろう。一億一心、最後のご奉公だ」
 と言うのか思いきや、聞き慣れない上ずった声、天皇陛下ご自身の声で、漢文調の勅語。我々は初めて昭和天皇のジカの声を聞いたわけだ。堂々たる声ではなかったので、がっかりしたと言うべきだろうが、その時はがっかりする暇もない。
 どうも日本は負けるんだと言っているみたい。ポツダム宣言とか、なんとか言うものを受け入れるなどと言っている。何のことだか分かりゃしない。しばらくボンヤリしていた。
 頭のいい男がようやく気がついて、「おい、日本は負けたんじゃぞう」と大分弁で言って、「なんとん知れん。こんだけ、がんばっち来ち、今更負けたとは、なんちゅうこっちゃ」と頭の鉢巻きを机にぶっつけた。
 部屋中がやっと気がついて、騒然となった。実は、そこは大分駅前の日本通運大分支店の事務所である。私はその事務所のなかで経理部の一員であった。
           *
 昭和20年1月21日、私は兵役法違反、出版言論集会結社等に関する違反という長々しい罪名で福岡の刑務所に送られていたのだが、その日が満期で、母が迎えに来てくれて大分に帰った。
 私は真っ先に父親代わりのように世話になった従兄の内藤利兵衛さんに会いに行った。利兵衛さんはちょうど店の事務机に座っていたが、私が店に入って、「ご迷惑かけました。帰って参りました」と挨拶すると、「困った奴が来た」、というような顔をされるかと思いきや、柔和な顔で「体は元気やったか」と聞き、そして言った。
「お前の仕事を考えねばいかんなあ。今は、のろのろしているとすぐ徴用が来る。お前がまた徴用にひっぱられたら、あんたの母ちゃんは淋しかろう。そうだ。安藤の叔父さんの日通に入れて貰おう。あそこなら国策会社だから、徴用は来ないからな」。
 すぐ利兵衛さんは安藤の叔父さんに電話を掛けてくれた。日通とは、今でも名の通っている日本通運のことだ。
 翌日、私は履歴書を書いて、その日通の大分支店行った。安藤さんは、そこの支店長である。支店長といっても、もともとは大分通運という自分の作った大分県一の運送会社の社長であったが、戦争中の国策による合併勧奨により全国規模の日本通運の大分支店長に居座ったのである。
 安藤さんは、私の書いた履歴書を見ていて、「ウッ」と軽くうなった。私の履歴書の賞罰欄を見たのである。私は私の刑務所入りのことを正直に書いておいたのである。
「あんた、この賞罰欄は困るよ。しかし、あんたにも驚いたなあ。さすがに、徳さんの甥だよ」と、非戦論を自分の伝道雑誌に載せて発禁処分を受けていた徳太郎伯父のことにふれて、
「でもなあ、盗人や詐欺のような破廉恥罪じゃないから、いいよ、いいよ。……しかし、今はわしも日本通運の支店長じゃからな、この履歴書を門司の支社の人事課に送らねばならん。だから、この賞罰欄を除けた履歴書に書きなおしてくれんか」
「はい。そうおっしゃると思って、もう一通書いて来ました」と内ポケットから差しだした。安藤さんはニヤッと笑った。
 この安藤さんは無類の太っ腹の人、だからこそ、兵役法違反などという戦時下の日本にあるまじき罪名を負った私を、利兵衛さんは「会社に入れてくれ」などと紹介することもできたわけである。安藤さんは利兵衛さんの義理の兄にあたる人だったと思う。
 後に戦争も末期になって、「駅前の木造家屋など一斉に取り壊せ(疎開と言った)」という軍の命令にも従わなかった豪の人であった。私の罪名にも驚かない筈である。
          *
 いわゆる終戦、敗戦の8月15日に、私が日本通運の大分支店にいたのは以上のいきさつによる。その8月15日、「今日は正午に政府発表の重大発表がある」と言う、その朝、私の前にいた年上の女性従業員が「今日の重大発表ってなんだろうなあ」と言う。私は思わず「さあ、無条件降伏かなあ」と言ったら、「とんでもない。日本は神国やから、絶対に負けん」と目を怒らせて言う。当時はみんなそんなものだった。「さあ、無条件降伏かなあ」などと言う日本人は、私一人だったかもしれない。
 さて、その日、もちろん、みんな仕事に手がつかない。退社の定時を待たず、みんなそれぞれ力無く家に帰る。私はひとりつぶやいた。
「日本は神国なんかじゃないこと、日本人よ、よく分かったか。僕の非戦論は正しかった。しかし、心は晴れないなあ。戦争は負けた、今後の日本はどうなるだろう。自信を失って、そこへアメリカ軍がやってくる。日本の軍隊は支那で相当な乱暴を働いたそうだが、アメリカの軍人はどうだろう。そんな時代が来る。日本人、如何に生くべきか。それがこれからの問題だ。日本よ、滅びるな。天皇さんもどうなるかな。」心配は山ほど湧いてきた。
 しかし、私には解放感が溢れた。
           *
 ところで、戦争中のあの空気が凍りついたような、張り詰めた世の中の息苦しさ、それが一瞬にして、ほどける。いきなり、空間に放り出されたような感じである。
 あの戦時下、日本政府の治政に反抗して、刑務所生活を送り、戦時下に出所してきた時、私は自由になったとはいえ、周辺の人々から白眼視され、心理的自由感は全然無かった。月に1回は警察の刑事が私を監視と言おうか、会いに来ていた。
 そうした煩わしさは、もちろん去った。そして日本通運という鉄道貨物に関する仕事の会社だったから、駅は自分の庭のようなもので、出入りが自由だった。そこで、戦後の戦災孤児の諸君に会うことになる。私の戦後の仕事が始まる。《く》

〔あとがき〕
クリスチャン新聞8月19日号に私の名刺広告を出稿しました。牧師の肩書の前に、「戦時下兵役法違反、出版言論法違反で入獄」、また左肩に「憲法前文修正せよ」と載せて貰いました。こうした文案は自己宣伝じみて今まで致しませんでしたが、今回は思い切って書きました。▼私は日本国の現憲法を平和憲法と殊更に言いあげることに反対なのです。これまでも1、2度書いたことがありますが、現日本国憲法の前文を子細に調べると、世界の誰が何と言おうと、どこの国が日本の平和主張を支持してくれなくても、断固この一国で平和を護る、非武装平和を護るという意気込みがないのです。▼「日本が他国から責められた時、どこかの国が護ってくれるでしょう。(たぶんアメリカを期待しているのでしょうか)だから我々は武器を持ちません」、という実に甘ったれた平和主義です。だから、私はこの日本国憲法を偽装憲法と言うのです。《く》
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by hioka-wahaha | 2007-08-14 14:54 | 日岡だより

No.292 絶えざる主との交わり 2007.8.5

絶えざる主との交わり

 私がまだ大分県立聾学校に在職中で、その末期の1955年(昭和30年)の頃であっただろうと思う。(私は1956年に退職し、独立伝道に踏み切った)。
 その頃、突然、私は驚嘆すべき体験を恵まれた。前記の聾学校で午前中の授業を終わり、給食時間を終わって、保護者や寮の寮母さんへの毎日の連絡簿をつけていた時だったと思う。
 その朝、家で起床してから、学校で父兄連絡簿にペンを走らせている瞬間まで、ずっと私は神様を仰いで祈り続けていたという事実である。こんなことが生身の人間に起こり得る事であろうか。
 起床、朝食、自転車で通勤、職員会議、朝礼、午前中の授業、そして給食、こうした事の間、一瞬も絶え間なく神様を仰いで祈り続けていた自分を顧みて私は驚嘆した。
 私はすでに聾学校教員のかたわら、6年間の無教会風の集会を開いて伝道者として多少の働きをしてきた。T・L・オズボーンの本に触れて神癒伝道の恵みも頂いていた。
 そんなことで、少し傲慢な自惚れが生じつつあった時だったが、この一瞬一瞬、絶え間無く神様を仰ぎまつるという経験は、私から驕りの心を消えさせ、穏やかな落ち着いた性格を作って頂いたと思う(と言うのもおこがましいが)。
 あのまま過ごしたら私はどんな素晴らしい人物になっただろうと思うが、残念ながらこの経験は1年か、2年で終わった。
 その後、なんとかこの素晴らしい経験を回復しようと思って努力したけれども、こうした精神状態を自力で維持することはとても出来なかった。この努力をそのまま持続しようとすれば神経衰弱になる外はないと思って、諦めてしまった。
 その後、チョウ・ヨンギ先生の証しをお聞きしてビックリした。大阪での聖会だったか、先生は「いつも神様に祈りたいと思って努力した」という。そして、幾度も失敗したが、失敗するたびに、「神様、済みません。また、あなたにお祈りするのを忘れてしまいました」と、お詫びした。
 これを何度も何度も繰り返している内に、やっと常に祈ることが出来はじめました」とおっしゃるのだった。私は本当にびっくりしてしまった。
 聖霊様によって与えられた私の恵みの経験より、自分の努力で獲得した祈りによって獲得したチョウ・ヨンギ先生の経験のほうが、賜物として永続できたということに、私は驚いたのだ。そして又、神様に不足の一つも言いたかった(神様ゴメンナサイ)。
 この問題について、イギリス出身のアフリカ宣教師、リーズ・ハウェルズが言っている。
 「聖霊の賜物はポケットから取り出すように利用できるが、恵みはその一時期だけのもので、いつか無くなる可能性がある」と。
 なるほど、私にとり神癒の神様からの委託は小さくても賜物であったが、絶えざる祈りの恵みは一時の頂き物だったのだということらしい。(2005・5・9旧稿)
              *
 もう戦前のことだが、青木澄十郎という純福音の先生が居られた。この先生の本の中で、17世紀のフランスの修道者ブラザー・ローレンスという人のことを知ったのである。
 このブラザー・ローレンスという人は教育のない、何をさせても不器用な人だったらしい。彼はある時、冬枯れの木の枝に芽が芽吹いているのを見て、そこに神様の御手を感じ、信仰を抱いたという。
 この方が修道院にはいっても修道僧にはなれない、料理方の下働きになって、日々神様をあがめる生活をはじめたのである。如何なる時にも、瞬時も忘れることなく主を呼びまつる修練を自分に課したという。
 料理を失敗すれば、「ああ、神様、あなたが居られなければもっとひどい失敗をしたでしょう。あなたが助けてくださってこの程度に終わりました。感謝します」という具合です。
 かまどで火を燃やす時には、「主よ、地獄の火を避けさせてくださる主よ、感謝します」と心に念じるのであった。
 次第に台所に入ると、誰でも主の臨在を感じるようになった。上級の修道僧たちや修道院長さんなどが、彼のもとに来て、その臨在経験を聞くようになった。また当時のルイ3世もこの修道院に行啓されて、彼に面会を求めたという。
 彼は料理方であったから、ある時、船に乗って地中海岸のぶどう酒産地にぶどう酒を購入に行ったことがある。
 その荷を積んで帰りの航路についたとき、海が荒れてぶどう酒の樽が甲板上を転げまわる。それを追って彼も転げまわる始末。
 たしか彼はびっこであったのだろうか、ちょっと忘れた。ともあれ、そういう滑稽な様を水夫たちがあざけり笑っている時にも、彼の心は非常に平安であったという。
 それはあたかもミサ(聖餐式)に列している時と些かも心の状態が変わらなかったと、彼は追憶している。
 この私の小文は記憶によって書いているので、小さいところは誤りもあると思いますが、CLCから出ている「敬虔の生涯」をお読みください。カトリックのドン・ボスコ社から出ているのは「主の現存の体験」という題です。著者名はラウレンシオとなっているはず。これは彼の修士名のようです。なお、彼の実名はニコラス・ヘルマンです。
 この方の名は早くより私の記憶に残りました。そして、私もこのような恵みに浴したいものだと願って来ました。この小文の冒頭に書いた経験を恵まれた時、私は即座にこのブラザー・ローレンスを思い出して、神様に感謝したものです。(2005・5・11釘宮記)

〔ブラザー・ローレンスの本について〕
 ブラザー・ローレンスの本は、CLCの「敬虔の生涯」が読みやすいと思います。彼は1614年生れ、1691年にいつもと変わらぬ平安と静けさに満たされて召されたと記録にあります。
 ドン・ボスコ社の「主の現存の体験」のほうが、削除もなく、文章も正確だと思えますが、カトリック用語が多くて私たちには読みにくいのが難点です。「敬虔の生涯」のほうから、以下に要所、要所を抜粋します。
              *
 私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません。これは、少し努力することにより、直ちに神の愛がうちに働いて、何の困難もなくその習慣が身についてきます。
 私は自分の仕事が失敗した時には、その過失を神に告げて、「私一人でこのことを為すならば、失敗するほかはありません。私が失敗するのを防ぎ、よくないところを正してくださるのはあなたです」と申し上げて、それからはその失敗について思い煩いませんでした。
              *
 ある人について書かれた書簡から、多分のその人の夫人にあてた手紙。
 神が彼に与えた苦難が彼にとって良い薬となり、それによって彼が自分の内なる人に目を向けるようにと私は願っています。常に彼のそばにおられる方に、彼が全幅の信頼を寄せられるよう導かれる良い機会となるはずです。できるだけ彼が神を思うことができるように、そして危険な目に会った時こそ、彼が神を思う事が出来るようになって貰いたいものです。
              *
 神は私たちの魂の奥底にご自身を写し出しておられるのに、私たちはそのお姿を見ようとしないのです。私たちはくだらないことにかまけて神を忘れ、いつも私たちの内におられる王なる方との会話を続ける事を軽んじているのです。
 日頃、信仰によって神が自分の内に居られると、考えるだけでなく、目に写るもの、身の回りで起こる事柄のすべてに、神の存在を感じましょう。目に見える造られた物から目を離して、直ちにそれを造られた創造主に心を向けましょう。
              *
 神への愛のためには、一本のわらを拾いあげることでも充分です。神のみ心を愛する時、自分自身の意向に関する愛着がとって代わられるのです。心を高く上げて神を仰ぐことを妨げているのは、自己愛の名残にしか過ぎません。
 また「彼はひどい事件を聞いた時、呆れるよりは、罪人の犯し得る悪の限度を考えると、もっと悪いことにならなかったことに驚いていた」などと、ある人はその所見を書き残しています。
 (以上、小生の責任で抜粋し、時には適当に原意を損なわないかぎり多少の字句に変更を加えましたことをご了赦ください。2005・5・20、釘宮)

〔付 記〕
 私の反省。今日は2005年5月20日の朝だが、私の手抜かりがあったと思うことがあった。この「絶えざる主との交わり」の記事の最初に書いた私の初期の「神様との絶え間ない祈り」の体験は、滅多に聞かれない経験だから、私は多少とも誇らしく思ってきたが、この誇りが私を次の体験に進ませなかったようだという反省だ。
 今、あらためて気がついた。ブラザー・ローレンスや、他の神秘家たちを見て気がつくのだが、単に神様に心を向ける、祈るというだけでなく、神様と会話しているとしきりに言う。この神様との会について私はほとんど気をつけていなかった。私の落ち度である。
 そこで、ある朝、早天以降、神様と会話を交わしつつ、諸事万端を行うことを試みてみた。神様との対話と言っても、自分自身の意識内における自己対話のようなものだが、これが面白い。
 私の神層意識理論で、意識の深みから言葉を汲みあげて行くうちに、次第に神様からの声を聞き始めることに変わって行くというやり方だが、これが案外に良い。実行して続けると良い結果を生みそうな気がする。
 つまり祈りに於いて神様に向かって語りかけるというだけでなく、神様の声を聞いて、こちらからも又、言葉を返してゆく。こうして会話が続けられる。この一種の快感ははなはだ良い。このスタイルで、絶え間なく祈るという姿勢を完成させたい。
 自己内対話の中で、神様と会話を交わしている気になってしまうというのはインチキじみるが、修練としてはよいのではないかと思う。ここらあたりは、内心じくじたるものあり威張って公表しにくいが、遠慮せずに、今後も継続したい。(*最近、配布されて来ている「パワー・フォー・リビング」にも同様の事が書いてある。07・8・4、記)
 人間の意識を表面意識から、井戸を掘るようにボーリングしてゆくと、昔の温泉掘りではないが、はじめは泥が出たり、ガスが出たり、だんだん深くなって、思いもよらない深みにはいってゆくとする。表面の顕在意識からフロイトの潜在意識、更に深く深層意識、そして遂に神層意識と深まってゆくとする。
 深層意識というのが、ユングのいう共通無意識。これは、竹の地下茎のようなもので人類の万人にひそむ共通精神、村上教授の言われるグレート・サムシングだと言っても良い。
 神層意識は更に深い。仏教的に言えば、空か無の世界だ。全宇宙を抱えこむ創造者、支配者の神様の意識と、私たち人間の深層の極点とに接点があると推測する。その接点をとおして語りかけてくる神の声を聞き取る能力が人間にあるとする。その神層能力の端っぽをつついて想像力たくましく仮想現実の神との会話を飽きずに継続して行くときに、ホントウの神様に出会えそうな気がする。偉そうなことを言ってゴメンナサイ。《く》
 (2005年5月20日深夜記。回覧用旧稿)
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by hioka-wahaha | 2007-08-07 17:52 | 日岡だより